俺が使役する蛇の中に蛇精という妖怪がいる。
『山海鏡』といった中国の古典に登場し、美男美女に化けて人間の精気を吸うとされている。これは蛇が長寿であるという特性から、年の経過につれ天と地のエネルギーを吸収し神通力を身につけて精霊化するという古来の言い伝えに依るものである。
俺の術式を介して契約した蛇精はこの神話に基づいた力を行使することができる。彼女は精気を吸う代わりに呪いを吸うことで半精霊化し、体内で生成された神力で病人を治療することができるのだ。
既述したが、天与呪縛で可能性が格段に広がった九地勿倭投術は消費する呪力量も半端じゃない。だから伝説級の蛇は数振りを除いて喚び出さなようにしている。
「はい、これで治った。」
「ありがとう!」
「有り難うございます、有り難うございます…教祖様。」
いつになっても聞き慣れない教祖呼びに引き攣りそうになる頬を上手く吊り上げて笑顔を作った。
「これからも蛇神様のご加護があらんことを。」
アーメン、ポクポク。え、違うって?何だって良いだろ。こういう厳かな場は雰囲気で成り立ってんだから。
悪性腫瘍をさっぱり取り除かれ見違えるように顔色の明るくなった少女は母親と一緒に頭を垂れながら去っていった。
信者が帰ると一人取り残された御座の間は忽ち静穏に凪いだ。
蛇の透彫りの欄間と上下段合わせて三百七十畳もある間取りの、俺の為に造られたと錯覚してしまいそうなくらいに座敷飾りやら障壁画やらに象徴としての
「当主様、御入用ですか。」
「喉が渇いた。」
「失礼致しました。只今お持ちします。」
一方的に襖が閉められた。多少の年季が見て取れる上品な風合いの淡黄色が眼前を塗り替えた。なんでも最高級の新鳥の子という和紙が使われた高価な襖らしい。これ、若しくは上級織物の練り込まれた織物襖紙が至る所に採用されているというので建設時の費用が如何程だったのか、気になって夜も眠れない。そんな至極どうでも良いことに思考を逃避させるくらいに俺は参っていた。心境はこうである。
あれ、俺天与呪縛を解決する為に家出したのになんで教祖騙ってお医者さんごっこしてんの?しかもあんなど派手な継承の儀を執り行っちゃった所為で革命という巧言にちゃっかり騙されてる有志の若者以外、皆俺のこと化け物みたいな眼で敬遠してるんだけど。今更後に引けないからキャラ貫いてるけど、これまじで大丈夫なの?
「俺の審美眼に狂いはなかったようだな。」
付書院の障子に凭れ掛かって他人事に喉を鳴らした一番の元凶を俺は睨んだ。公衆の面前で俺に始末された後、強引に彼の後釜としての資格を獲得した新たな当主を案じてこうして呪術師達の目を掻い潜って様子見に来てくれるのは有難いけど、俺が偽善者と糞独裁者の仮面を忙しなく交換するのに心労しているのを面白半分で見守っているのが分かるので素直に喜べない。
俺は敢えて皮肉を突き返した。
「そんなに笑って下さるなら演者冥利に尽きます。」
「おうおう、もっとやれ!」
この人、偶に本気か冗談か判別つかない音色で背中押してくるから対応に困るんだよな。
「失礼致します。」
再び襖が開けられた。楚々とした所作でお付きの上女中ウズメが入室すると、二人分の煎茶と茶菓子を給仕する。実のところ彼女は彼で、作浪さんがまだ学生の頃に非術師に虐げられていたところを救って爾来彼に忠誠を誓っているのだそう。
座敷童を彷彿とさせる小柄な体躯と中性的な顔立ち、全世界の黒髪女子がハンカチを噛んで嫉視しそうな濡れ羽色のおかっぱ頭はそこはかとなく裏梅を重ねさせるが、彼の家柄は元々作浪さんの一族を代々支えてきた実力派家系だ。可憐な見た目に反して戦闘時は白天狗般若面を被り、簪を手裏剣の如く振るい容赦無く敵を惨殺する修羅と化すという。常日頃は司令塔として下層工程へと細かく指導して全体の運営を図るという傑出した仕事ぶりを発揮してくれている。正直彼がワンマン当主で良かったんじゃないかと何度思ったことか。
「ウズメ、今日の仕事は?」
「一刻後に十組の養子縁組があります。」
養子縁組とは教団入り入会の面接のこと指す。勿論誰彼構わず御座の間に通してるわけではなく、今後作浪さんの組織に社会的にも経済的にも援助してくれる厳選された権力者との面会なわけだから独裁者の演技が試される。…吐きそう、やってらんねぇ。
「猿との個人面談なんて、どこのなんちゃって宗教だよ。」
胸中で呟いた言葉が軽率に転び出ると、矢ッ張り作浪さんの大笑が響き渡った。次の台詞は聞かずとも想像できた。
「くくっ!それや、お前のそれこそが有象無象を凌駕する絶対的な君主としての器や。」
だからこそぽっと出の俺を彼の家臣達は受け入れざるを得ないのだと。ちら、とウズメを見遣りながら。
彼が当主を継げなかった理由、それはきっと天与呪縛がないからに違いない。俺や作浪さん、その他大勢の術師のように天与呪縛という責苦に喘いだ経験のない彼は天与呪縛がない故に作浪さんの懊悩に寄り添う資格がないと辞退したのだろうと俺は推し量っている。
作浪さんや他の人達の生来の縛りの内容を俺は知らない。訊く気もない。非人情な寒海を漂流して漸く辿り着いた安息の孤島なのに、態々辛く険しい航路を思い出させる必要があるだろうか。互いの不運を確かめ合わなくたって、夜陰に乗じて俺と作浪さん一派が初対面を果たした小屋で眴せのみで心を分かち合ったように、継承の儀を得て俺達は深く通じ合ったのだから。
まあ、作浪さんが良いならそれで良いか。やってやるよ、俺がジャポンのロベスピエールになってやるんだ…!
「んじゃ、俺は行くわ。今日もご苦労さん。」
「いえ、いつもご足労様です。」
雑談を終えて満足した作浪さんが去れば、また俺は独りぼっちの空間に取り残された。
無音の世界に己の息遣いがよく聞こえる。とはいえ、ふとした瞬間に脳裏を過ぎるのは俺の敬愛する高専教師だった。
いくら俺の家出が相互理解の欠如の結果だとはいえ、五条先生は俺よりも壮大な大義を密かに掲げて最強故に孤独に戦う男だ。呪術界の変革という聡い目標の間には俺の天与呪縛の問題なんかドロップスに混入したフリスクの粒の如き些事でしかない。振り返れば振り返るほど餓鬼みたいに意固地になって反骨精神もかくやの自己主張を繰り返してきた俺が情けなくてならなかった。
問題を解決してから戻ると己に誓った手前、手ぶらで高専に姿を見せる気はない。しかし身内には甘い五条先生が——退学宣告をしに来たとはいえ…そうだ、俺帰る部屋ないんだった——あっさりと俺を放逐するわけがないのだ。たとえ教え子との関係が過去に流れたとして、宿儺の指を食った虎杖でさえも救済しようとする人情味のある人間がまだ絶交を言い渡してない俺の存在を忘れるはずがない。これに関しては偏に転生して彼に見出されてから二人で培ってきた絆が保証してくれている。だからこそ、先生が今頃俺の身を按じてはいないかと時折気が気でない思いにさせられるのだ。
時計の長針が一回転する程の吐息が溢れた。
まだ俺に怒ってはいないか、次に顔を見せた時にどんな表情でどんな感情を投げ掛けられるのか、想像を膨らませるだけで圧力が低下したタイヤみたいに破裂してしまいそうだ。そして毎度のことパンクした頭に乗り込んでくるのは他責の念だった。
五条先生も先生だ。俺を夏油傑と同一視して、折角打ち明けた天与呪縛についても真面目に取り合ってくれなかったんだから。殊更呪術にも財、家運に関しても天稟に恵まれてる人には凡人の苦労なんて分かりっこない。理屈を捏ね回し往時の輝きばかりに固執して己の地位にしがみつくことしか頭にない総監部、奴等に追従する御三家その他術師も同罪だ。皆呪術師である前に一人の人間なのだから裃を脱いで負担を分かち合えば良いのに、伏黒の親父を実質追放したように毛色が違うだけで隔てを置くのは間違ってる。
「なんでこうなったのかなあ」
「貴様は本当に阿呆だな。」
脳味噌を直接揺さぶられるような低音が俺を見下げた。俯き加減な面を上げれば案の定遠慮して部屋を覆い尽くさない程度には巨体を縮めた大きな黒蛇が、俺を囲むようにとぐろを巻いていた。
蝙蝠のような翼を長い胴体に生やし、鰐さながらの硬度を持つ鱗からは触れただけで切れてしまいそうな棘が突き出、広角を捉える為の竜眼は血の月を思わせる深緋だ。嘗て中世の西欧人が永遠と不滅、或いは計り得ない宇宙の神秘への畏敬を辛うじて目に見えるものに具現化し、崇拝してきた概念としてのこの生き物はウロボロスと謂う。
実所、彼と契約した覚えはない。それなのにいつの間にか顕現しては居座り隙あらば俺下げをする蛇を、だからといって蛇神様をぞんざいに遇らうわけにもゆかず反論しつつも放逐しているのが現状である。というかそもそもツッチーとも契約した覚えがないのだから術式の契約条件に疑問を呈さずにはいられない。
「無視をするな人間、俺様に答えろ。」
この通り俺様口調の唯我独尊っぷり、宿儺と比しても遜色ない驕傲蛇なので何らかの手段で強引に降りてきたのだと当たりをつけている。此程の大物の実体を維持するには尋常でない呪力を消費する筈なのだが、実情俺の中のエネルギーが減っている感じはしないので当分放置することにしている。
「別にぃ?」
「少しは年寄を慕わんか!まったく何故俺様が餓鬼の挑戦者の面倒見なぞせにゃならんのだ。」
「俺頼んだ覚えないし」
「貴様に決まっとろう。嗚呼、あの時気を抜いたばかりにこんな地獄に巻き込まれて…俺様可哀想。」
「知らんけど可哀想なの多分俺。」
口を開けば妄言三昧のウロボロスに一々構っていてはこちらが宇宙猫になってしまうので扱い方を模索して漸く慣れてきたところだ。貴様だの挑戦者だのと意味不明な呼び捨てをされるのにも反応すまい。
ところで彼に限らず上位の蛇の中には明確な意思疎通が可能な個体がいる。蛇の言葉は術者の俺にしか通じないし、他人から見れば蛇と会話している時の俺も聞き取れない喃語めいた言語を喋ってるようなので密かにマホウトコロの選ばれし者とか自称してる。
唯一、放浪癖のあるツッチーだけが言葉が通じなかった。向こうは俺の言わんとしていることを理解出来るようので、その度に居合わせた別の蛇が通訳してくれる。
「して、今度は何で愚図っておるのだ。どれ、このウロボロス様があやしてやろう。言ってみろ。」
「愚図ってねェよ、なんでいっつも自称真摯な親戚目線なんだ…」
正月の集いで何をしてるか分からないのにやたら面倒見が良いけど有難迷惑でしかない叔父さん並みのうざ絡みである。
ともあれ、早朝から信者の治療に専念して草臥れていた俺の口は軽々しかった。
天与呪縛にはもう一つ欠点がある。領域展開ができないのだ。実力の問題じゃない。蛇神様との契約を可能にするという本来ならば有り得ない技を実現する為の代償の一つだと俺は踏んでいる。別段領域展開できないことに不満はないが、この先の展開で不都合が生じるのではないかとそれだけか心配でならない。
「非術師が猿に見えるくらいなら伝説の蛇との契約なんかじゃなくて初見殺しの領域展開とかが良かった。」
「それはこの俺様の前で貴様が言っていい台詞ではない。」
「ごめんなさい叔父さん。」
「誰が叔父さんだ!」
ふん、と噴飯ものとばかりの嘲笑が頭上に落とされる。緩慢な動作で俺の上半身よりも大きな顔が間近に迫る。いつしか深緋は千里眼発動時の黄金色に変じていた。
「貴様、それが天与呪縛だと思っておるのか。」
言葉の意味を理解するのに数秒掛かった。
「なに、言ってんの」
「その通りだ、それは天与呪縛だ。」
「何だよ!思わせぶりな言い方すんなよ!」
とんだ揶揄いだ、舐め腐ってやがる…!下手に出てればどこまでもつけあがりやがって…!
殴ってやろうと振り上げた拳は鼻頭に掠めるだけでヒビが入りそうだった。ウロボロスは精々した見透かし顔でまた鼻息を荒げた。
「だがそれは挑戦者が望んだ結果でもある。最適な未来の為にな。」
「冗談も程々にしてよ。俺が天与呪縛を望むわけないじゃん。」
「今の貴様はな。」
もう騙されないぞ、意気込んだときに廊下から声が掛かった。
ウロボロスが消える。襖が開けられると、ときがら茶色の艶髪の女と頭にバンダナを巻いた男が佇んでいた。
菅田真奈美と祢木利久、約一年前に夏油派の一味として百鬼夜行を強行した元呪詛師だ。元、というのは組織の目的を公言している俺に付いているので呪詛師を辞めたのだろうという勝手な憶測だ。日常の会話のなかで常識人を逸しない感性を受け取れたからこそ、天与呪縛の所為で捻くれた偏物が多い回遊組で心の拠り所となってくれている。姐さん兄さんと呼ぶのが常だ。
「どうしたの?」
「客人が来たが、通すか?」
言い淀む調子に即座に客人の正体を悟った俺は一つ返事で通した。…通そうとした二人を押し退けて彼は飛び込んできた。
「梔子君!母さんを助けて!」
等身大の血塗れのショウガラゴを抱えて必死の形相で吉野は叫んだ。
………。
吉野との出会いは偶然だった。
当主になってからは寝ても覚めても誰かしらが付き添っている状態で自室を除いて寛げる場所がなかった。息が詰まって真夜中に警備の眼を掻い潜って抜け出した先の公園のベンチ。俺の気苦労を優に通り越した辛気臭い顔つきの男子高生に話しかけてから打ち解けるのにそう時間は要さなかった。
怪我の功名か、虎杖や真希さん達と鑑賞してきた数知れない映画の知識が活かされ、マイナー映画の話題から話を深めた俺達は頻繁に会うようになった。俺がおいそれと呼び出しに応じられない立場なので吉野が屋敷にゲームや春本を持ち込んでくれたり——余談だが初めて我が家に来た吉野の仰天っぷりは今思い出しても腹を抱えて笑える——、偶にウズメか姐さん兄さんを連れて吉野のお母さんの招きに応じたりと、たった二週間なのに俺達は幼馴染みたいな間柄だ。
何にも増して感慨深いのは俺達が此程密接に関係しているにも関わらず虎杖と真人と接触させる原作の修正力。いや、修正力と謂うのが正解かは判らないが俺の預かり知らぬところで何者かが強制的に物語を進行させているような良い知れない感覚が胸に常駐していた。
『なぁ、ずっと年上の人と喧嘩したら吉野はどうする?』
『うーん、どっちが悪いかによると思うけど』
『まだまだお子様ねー。責任の所在を確かめ合ってたら振り出しに戻るだけだよ』
『じゃあ母さんはどうすんの?』
『そりゃあ、余計な言葉なしに仲直りのハグでしょ。』
とまれ、原作キャラというのを抜きにしても俺は吉野一家を好ましく思っている。だからこそ制限された自由の中で二人を救おうと蛇を付けて保護観察していた。
「——学校から帰ってきたら母さんが倒れてた…逸に預かってた蛇が巨大化してて母さんを庇ってて、腕が、腕が」
「心配すんな、ちゃんと治せるから。」
周章狼狽ながらも呪霊に噛み千切られた両腕を持参したのは英断だった。蛇精の治療で徐々に傷口が治りつつあるお母さんを見守っていたつぶらな双眸に緩和した緊張がどっと溢れ出した。
「ありがとうっ、逸がいなかったら母さんは今頃」
「よせよ、不吉な言葉は呪いになっちまう。」
「うん」
矢張り身内に手を出された事実が強いる動揺は並々ならないのだろう。今日の吉野は感情のジェットコースターを急降下していた。一転して、今度はこれでもかと相貌に殺意を漲らせた。
「母さんのこと、頼んだ。」
「えっ?おい!吉野!」
俺の制止を黙殺して、鬼の形相の吉野は足早に出て行ってしまった。何処に向かったかなんて考えるまでもない。
瞼を閉じれば暗闇に泛ぶのは今し方両の拳を握り締め、荒々しい足取りで遠ざかる吉野の背中。鳥肌が立つほどに横溢する憎しみの衷心に蝋燭の炎の如く慥かに揺らぐ悲嘆。
俺は自問自答する。
良いのかこれで?彼奴のお母さんを助けるだけ助けて、吉野の復讐を見過ごして。次に目を醒ました彼のお母さんに息子が人殺しになりましたと堂々正視して伝えられるのか?
…そんな筈がないじゃないか。駄目だ。無理だ。友の堕落を定めだからと、抗えない死だと受け入れられるわけがない。気が短くてせせこましいところがあるとは自覚してる。だけど一度笑い合った相手が運命に翻弄されているのを目近で見てそんなこともあるだろうと自得できる程人間出来ちゃいない。それは天与呪縛に苦しむ俺自身を見捨てるのと同じことだ。
端から成すべきことは決まっていた。
「ああクソ!」
十分後、元通りになったお母さんに異常がないのを確かめてから、俺は彼女を姐さん達に預けて屋敷を飛び出た。