群青に澄んだ朝空に一筋の飛行機雲が横切っていた。眇夏の名残のある綿雲、まだ肌に張り付く湿度、遠方に望める水平線と手前に拓ける空翠。秋日和と称するに相応しい朝旦の都会は、だがしかしこれから街の一角で起きる悲劇を予期して息を潜めているようだった。
生温い空気を切り裂いて進む騰蛇に跨って辿り着いた里桜高校は上空から俯瞰する限りでは何の変哲もない眺望だ。一つ、帳が下ろされているのを除いては。
「もう真人が唆したのか!」
急ぎ地上に着地して近場の扉に蹴破れば凄惨な光景を目の当たりにした。凄惨、というのは何も血生臭い暴力を指すわけじゃない。
平均的な広さの体育館に夥しい毛むくじゃらが転がっている。ショウガラゴ、スマトラオラウータン、ボリビアリスザル、マンドリル、ワオキツネザル、ベニガオザル、チンパンジー。その他多種多様な猿達がおのがじし脱力した状態で天井を見上げ、床と濃密なキスを交わし、或いは失敗した組体操みたいに積み上がっている。ここが地獄だろうか…
「猿のパークヨガなんて初めて見た。」
強烈な有様が視覚を殴りにくる所為で到頭動物園の幻臭までしてきた。とはいえ一般人であることに変わりないので呪術師として彼等をこのまま放り捨てるわけにもいかない。だけど一刻も早く吉野に寄り添ってやりたい。どうすべきか考え倦ねているうちに、ついと聴覚が誰かの怒声を拾い上げた。
耳馴染みのある友人達の腹の底から湧き上がる懸声を。ぶつかり合う絶望と仁心の訴えが、階下にいる俺の胸に真っ直ぐに。
吉野と虎杖の呪力の衝突を感じて、気付けば俺の両脚は全力で地面を蹴っていた。
…パトランプよりも盛大に警鐘を鳴らす悪寒に従って駆け上がった西階段の廊下の最奥に二人は居た。散々激情をぶつけ合った末に和解に移った虎杖と吉野だ。けれど遠目の俺には見えてしまった。へたり込み虎杖の抱擁を受けようとする吉野の背後に迫る魔の手を。
瞬時に召喚した騰蛇に高速で運んでもらって、あと一寸で触れそうな腕に全体重を掛けて飛び蹴りした。
折れた両腕、失速した躰。すかさず床に手を付き左足を振り回す。
階段を瓦礫に変えて真人は吹っ飛んでいった。
「えっ梔子君?」
「梔子!」
突然の第三者、それも呪霊と俺の登場に二人は目を丸くしていた。
「よお、虎杖。」
「梔子…」
俺の馬鹿、なんでこっちから喧嘩腰なんだよ!気不味いからって無愛想も程々にってさっき改めたばかりだろうが。
懲りない根性曲がりでひん曲がった唇を笑顔に戻すには遅過ぎた。内内で後悔する俺に反して確りと悪意を感じ取ってしまったらしい虎杖は厳しい目尻と拳をつくった。そこに、新たに拍手が加わる。
「いや、今のは効いたよ。やっぱ逸って不思議だなあ。」
言葉のわりにけろりと愉悦を滲ませる真人に、俺は気取られぬように二人の前に立ちはだかった。俺の名前を知られてるとか、攻撃が効いた理由だとかそんなものはこの際どうだって良い。大事なのは吉野を生かして真人の興味を虎杖から逸らすことだ。
「コイツらは俺のモンだ。余計な手出しすんならぶっ殺すぞ、真人。」
「へぇ、君のオモチャってわけ?そっかそっか!悪いことしたなあ」
——けどそれって俺に関係ある?
転瞬、目睫の間に手先の変形したドリルが迫っていた。
即座にバジリスクの牙で防御する。
カンッ!甲高い音が鳴り真人の手が切り落とされた。バジリスクの牙には呪力のあるものは生物無生物に関わらずに断ち切ることができる性質がある。防御の術がないレーザーカッターさながらの切断力だ。
「アッハハ!超楽しー!」
もはや自室でオナりすぎた男子高生レベルの顔面崩壊っぷりで真人の腕が修復されていく。ゴキブリみたいにし太い呪霊だと内心で悪態吐いて、互いに構え直したときのこと。
不意に真人が注意を逸らした。
ん?だなんて間の抜けた声を漏らして窓外の帳に視線を寄越して。対手に意識を注いだまま視線の先を辿ってみるも誰もいない。いつの間にか吉野と虎杖もいなくなっていた。
真人が戦闘態勢を解除する。
「面白い気配が来た。残念だけど遊びはまた今度にしよう。」
「は?あっ、おい!」
呼び止める間もなく窓を割った呪霊の背中は遠ざかっていく。慌てて追おうとして、背筋を迸った怖気に俺は横に飛び退いた。
「ぅぁあぁ」
「ちっ、改造人間か。」
あの痩身のどこにストックしているのか、無為転変により原型を失った犠牲者達がいつの間にか階段と廊下を埋め尽くしていた。真人の呪力で完全に塗り替えられた為か非術師でありながら猿には見えない。つまり無惨な姿と成り果てた人間が助けて欲しい、苦しいと喘いで彷徨っているのだ。
「気分が悪い」
よっぽど性根の腐った人間でなければ誰だって遣る瀬無い思いを抱くだろう。
殺したくはない。たとえこの人達に人生のやり直しが認められなくても、かけがえのない命を奪うことなんてしたくない。猿に見えようが、胸糞悪い屑だろうが自らの手を血で染めたくはない。それでも…
「虎杖達に人殺しをさせるくらいなら」
あいつらの為なら俺は喜んで罪を被ろう。蛇に押し付けもせず、この手で。
俺は牙の持ち手を握り込んだ。出来るだけ安らかに逝けるように、そう願って腕を振りかぶった。
………。
改造人間を片付けてから体育館に戻ると、意識を取り戻した二百キロ級のボルネオオランウータンが横たわる猿達を必死に起こそうとしていた。パニックになり掛けているソイツを前にしても一抹の同情心も湧かないのは何故だろうか。
「揺らさない方が良いですよ。吉野がどんな毒を使ったのか分かんないけど、回ったら大変だ。」
矢庭に現れた俺に魂消て後ずさったオラウータンは、瞬時に息巻いて詰め寄ってきた。
「お前だな、吉野と悪巧みした奴は!こんなことをして許されると思ってるのか!」
嗚呼、判った。コイツ、前世でまだ五歳の餓鬼の俺が同族にタコ殴りされてるのに見て見ぬふりしてたヤツとおんなじ臭いがする。卑怯者の悪臭が。人間にも猿にも劣る塵だ。
「伊藤を元に戻っぐぅ!」
「黙れよ塵屑。犯罪者のくせに教師ぶってんじゃねぇ。てめぇがいるべき場所は豚箱だろうが。」
殺しはしない。己の罪を自覚していないなら、一生背負って苦み続けるように血を蓄えた蚊ほどの重みもない良心に目覚めさせてやる。
「ぐぁあ!…や、やめろ!」
オオアナコンダにオラウータンを宙吊りに締め上げさせ、左腕を抱えて蹲ってるチンパンジーにマムシを近付ける。オラウータンの剛毛が懸命に騒めいた。
期待通りの反応だ。片親で気弱な生徒の大きな悲鳴には耳を貸さず、有閑階級で人気者の苛めっ子の小さな呻き一つにはキャリア終了とばかりの欺瞞の正義を叫ぶ。
別に自己保身は悪くはない。そもそも虐めの傍観者の割合は六割だし、何もコイツだけが見て見ぬふりを糾弾される謂れもない。だが運悪く因果応報を受けたとして赦免を求める権利も詫びる権利もない。所詮こういう質の人間が寛恕を乞うのは被害者じゃなく天の神様かどこの誰とも知れない世間様なのだ。
「じゃあお前が身代わりになる?」
「それは…」
ほら。生徒が聞いてる手前だってのに我が身可愛さを捨てきれ…
「分かった!」
「…は?」
「お、俺が引き受ける」
視界が真っ赤になった。
歯を食いしばらなければ強烈なむかつきが喉元をせり上がってきそうだった。
教師への憤懣、吉野への憐憫が俺自身への慚愧に取って代わりそうで馬乗りになったチンパンジーからふらりと立ち退いた。
なんでこんなにも心が苦しいのかが判らない。吉野に代わって成敗してやろうと張り切ったはずの数分前が、気付けば己への嫌悪感で腹の底から込み上げてくる不快感に打ちのめされそうだった。
俺は俺を点検してみる。
吉野の無念を晴らせてないのにどうして止める?まだ誰も傷付いてないだろう。罪を償ってないだろう。俺がやらなくて一体誰が復讐を成し遂げるというんだ。
…違う。違う、違う…違う。とんだ間違いだ。これは吉野の為じゃない。俺の為だ。
あの日、保護者の留守を狙って家宅侵入したバブーンに前歯が折れて口が獣と鉄の臭いで満たされるまで暴力を振るわれた昼下がり。流石に子供を相手に過剰暴力だと遠巻きに見ながらも、自分が標的になるのを恐れて止めに入らなかった猿達への怨恨。呆気なく家中を漁ることを許したばかりか五日間の入院で負担をかけた母親に「無事で良かった」と返された無力な俺自身への憤り。
俺は猿を呪った。それ以上に己を、運命を呪った。呪い続けた。
転生しても猿に纏わる呪縛から解き放たれることはなかった。五条先生を煩わせ、真希先輩に不快な思いをさせ、挙句一方的に家出をし、それでも自分自身とのけじめを付けきれてない俺がどうしようも無力で情けない。五歳のときと何にも成長しちゃいない。そんな忸怩たる思いが猿の姿をした虐めっ子と教師の図を前に猛烈に蘇ったのだ。
屑なのは俺だった。吉野の為と称して自分の復讐を別人に果たそうとしている俺だ。