天与呪縛はつらいよ   作:れいめい よる

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蓋然祈願

 

 

まだ空は白みきっていなかった。電気石を透かしてみせた斜脚が点々と狭霧を穿っていた。

しかし密度が高く幽谷を冒す灰色は濃い。旭光に恵まれて瑞々しい色彩が織り成す秘境であるべき京都郊外の峡谷はずっしりとした霞に支配されていた。光を失った深山幽谷、一寸先も見えぬ岩端の底で叢を掻き分ける跫があった——。 

 

「急げ茜!もっと走れ!死に物狂いで!」

「は、はい!」 

 

自身と同等の背丈の若者を背負った青年が振り向きざまに叫ぶ。半身を捻る動作すら無駄な体力の消費に繋がった。懸命に脚を交互に動かす同年代の少女を尻目に、青年は若者を抱え直して彼女を置き去りにせぬ程度の速度で走り続ける。狩り場の狼の如く素早く、取り巻く木立ては疾駆の速度で派生する突風で騒めいた。尤も、狩られる側としての狼達の速度はそれでも逃げ果せるには不足していた。 

 

肺が辛い。墨絵の如く広がる静謐な無数の水滴さえも毒を孕んでいるようだと、青年は思った。 

 

轟々とどこからか瀑声が聞こえる。田子蛙の欠伸に首螽蟖の合唱も、遥か上空を飛ぶ鳥達の囀りも。谷は正体の分からぬ自然の音で溢れている。そしてそれらを掻き消す巨大な振動音が継続的に大気を揺らし、筆舌に尽くし難い恐怖を募らせた。 

 

大したことはない廃村での一級呪霊の祓除任務、それが特級呪霊との未知数の鬼ごとに転じたのは何故だったか。どれだけ己らの行動を顧みようとも解せない。二人の一級術師と三級術師での祓除は当初の予測通り呆気なく終わった。京都高専近傍の峰にある廃村、二年生らは任務の為に休校となった時間を如何に有意義に使うかを笑言していた。 

 

——なんだ…あれ? 

こちらに向かってくる巨大な影に気付いたのは視ることに長けた一人だった。凹みと厚みのない瓢箪のような形状で大しめ縄の稲藁を貼り付けたかの、片方だけでも村落を覆ってしまいそうなそれは紛れもなく足だった。全体像を仰げぬ動く何かの正体に心付いた最初の一人が全力で駆け足の号令を掛けた。 

 

だが対手の一歩はあまりに大きくたった六歩のうちに三人は山崖に追い詰められた。一か八かで飛び降りた峡谷は予想以上の深さで、全滅を逃れる為に全呪力を解放した青年が戦わずして戦闘不能になった。四肢の動かぬ彼を、班で唯一術式以外にも反転術式を扱える少女が治癒しようとしたが巨大な足はそれを許さなかった。最も体力のある青年が己の躰を支える力を失った友を担ぎ上げ、二人は路の分からぬ霧の中をひたすらに走り続けた。

道中、悲鳴に誘われた呪霊の急襲に遭いながらもよく頑張った。弘大な高専の敷地にさえ踏み入れれば予め張り巡らされていた警報が脅威を探知し、何れは誰かが駆けつけてくれると。 

しかし現実は酷だった。

 

「きゃあ!」

「茜!」 

 

少女が露根に躓いた。青年が立ち止まる。抱えられた彼も半目ながらに眼前の危機を無力に捉える。 

ドン…ドン! 

あれがやって来た。止まり木で憩うていた鳥達が一斉に飛び立つ。ありとあらゆる野生動物と昆虫が隕石の落下を察知した恐竜もかくやの勢いで猛然と逃げ去る。 

巨大な足が森を踏み潰し、また持ち上がり急降下するまでに救出も逃亡も間に合わぬことを悟った青年は… 

 

「こ、来い化け物!この梔子壱成(いっせい)が相手をしてやる!」

「壱成さん!」

「茜!お前は恭介(きょうすけ)連れて逃げろ!」

「で、でも」

「早く!」 

 

躊躇う許嫁を一喝して青年は刀を握った。二人が逃げたかなど視認する間もない。草鞋を履いた大きな蹠が近付いてくる。

一、二…三!で彼は横に跳躍した。足止めの機会は一度きり。 

 

一歩の度に発生する地震で手頃な障害物が倒壊する前に巨木を足場に更に相手の膝小僧へと飛び上がって呪力の込めた切先を差し込む。 

 

「うぁああああ!」 

 

柄をしかと握り締め、食い込んだそれを振り下ろす。蚊を潰したような血飛沫がびしゃりと跳ね返り全身を汚す。力は緩めない。 

 

「おぉおおお!くたばれぇええ!」 

 

瞬く間に急落し、地面まであと五メートルの位置で彼は引き抜いた刀を一文字に振り捌いた。相手の踵骨腱目掛けて。 

 

…運命とは非情なものだ。 

青年はやれることはやった。彼の全てをもって訳のわからぬ敵に果敢に立ち向かった。しかし相手が悪かった。 

特級の中の特級、ダイダラボッチと対峙してまともに武器を握れる術師がこの世に何人いようか。仲間を守る為に我が身を犠牲にしただけでも誉である。 

 

攻撃が浅く大した痛手を負わなかったダイダラボッチは、それこそ蚊にでも噛まれたような手付きで青年を振り払った。それだけで彼は五百メートル先の断層岩に叩きつけられた。 

 

「壱成さん!どうしようっ、どうしよう!二人とも…」 

 

少女は錯乱して動けない。彼女に喝を飛ばせる者ももういない。自身より四級も上の実力者二人が揃って戦闘不能になったことに完全に我を失ってしまった。戦闘向きでない術式を切迫の一手として用いることすら念頭に浮かばない。辛うじて覚束無い仕種で近場の青年に反転術式を掛けるも状態は一向に改善しない。完全に詰みだった。 

 

「ぁぁ、ぁあ」 

 

今度は大きな掌が天から降りてくる。 

どう足掻いても勝つどころか逃げ切れる気がしない。こんなにもあえない終わりを迎えるのか。自身らが日頃から何の躊躇も感知もなく踏み潰す虫けらの如く殺されるのか。 

受け入れたくない。だけど受け入れるしかない。死の間際に走馬灯すら泛ばない。ただ言葉にできぬ虚しさだけが少女の胸を締め付けた。 

 

——どうせ死ぬのなら舞い散る桜のように、人魚姫が最期に吐いた気泡のように逝きたかった。 

仲間の為に命を賭して敢闘した大切な友人と、育ててくれた家族のことを想って、愈々降りかかる不幸を受け入れるべく少女は瞼を閉ざした。 

 

…烈しい音が轟いた。

台風の唸りのような、或いは戦時中の壊れた音響装置のような低く長引く音響が。

瞼裏を益々曇らせていた影がすっと消えたかの気配に恐る恐る目を開けた。

 

「ひっ!」 

 

喉が引き攣った。声にならない悲鳴が上がる。 

少女の頭上では古代の対魔を表した絵巻物もかくやの光景が広がっていた。 

 

途方もなく大きな顎がダイダラボッチの両足を咀嚼している。滝を二つ縦に繋げても届かぬほどの屈強な牙が、体当たりでも脛を切れなかった極太の足を生菓子でも含むように簡単に。首を曲げて漸く見留められる堅牢な鱗でできた口端から全方位に吹き出る息吹が霧を晴らしてゆく。一回、二回、三回…六回もそれが呼吸をするうちに不良だった視界は完全に明瞭になった。 

谷も野山も焼くほどの日照りを受けて、少女は初めてダイダラボッチを食ったものの正体を知った。 

 

胴体に生える蝙蝠さながらの翼、頑強な巌の如き鱗、伝説の龍を彷彿とさせる深緋の眼。自身が噛潰す特級仮想怨霊を牛肉だと思って牙を剥けば誤ってゴムを食べていたとでもいうような眼差しで全貌の見えない蛇——そう称して良いのか分からないが——はダイダラボッチを吐き捨てた。足元に噛み跡の残った小岩ほどの大きさの小指が転がる。 

己の意識が悪夢にあるのか現実にあるのか判別がつかず腰を抜かした少女はじりじりと退く。 

 

…一筋の微風が頬を撫でた。

転瞬、顔に影が掛かった。視界に入った特徴的な一本下駄に彼女は瞠若する。その足元と山の如き迫力の蛇の掛け合わせには仄聞だが心当たりがあった。少女は面を上げる。 

 

「無事か?」

「ッへみの君!」 

 

彼を捉えた途端、先程までのへっぴり腰が嘘のように、漲る安堵に起き上がった彼女は縋りついた。希臘(ギリシャ)彫刻さながらの厚く逞しい胸が衣越しにそれを抱き止めた。 

 

「うぅっ」

「遅れてすまない。よく持ち堪えてくれた」

「どんでもないでずぅ!」 

 

へみの君は抱擁も程々に彼女を横抱きすると跳躍し、部分的に棘の生えていない蛇の背に乗せた。少女を包む温もりが離れると、己の肉体に擦り傷一つないことに気付いた。この一瞬で、反転術式が施されたのだ。次いで瀕死の青年二人を丁重に抱えてへみの君も跨ると、亭亭たる蛇の胴体は然程の揺れもなく持ち上がった。 

 

…心地よい風が髪を拐っていた。蛇の両翼が大気を勘気する威勢で上へ下へと浮き沈みする度に竜巻さながらの疾風が後ろで起こっていた。彼程切望した高専の校内はすぐそこにあった。 

 

ふと少女は自身を支えてくれる背後の男を盗み見る。先祖代々、呪術師達が現人神として敬う偉大な人物を。白と黒の混ざり合った長髪を靡かせて彼は少女を見詰めていた。 

 

「お前は梔子茜だな。」

「えっ?…い、いえ。壱成さんとは婚約しておりますが、その、まだ婚儀も挙げておりません。」

「そうか。」 

 

へみの君は緘黙した。少女と、すっかり傷の癒えた青年達を見遣り何やら思案しているようだった。しかしながら、神の考えを思い描くことはそれだけで畏れ多いことである。少女は只々彼の返答を待った。 

 

大きな羽音が三回して、遂に下降するというところで、へみの君は口仮面の下で発声した。 

 

「一つ、頼みがある。」

「わ、私にできることなら何でも!」

「では、お前の孫息子…梔子逸に予言をしてやってくれ。」 

 

 

 

これは昭和××年の話である。

 

 

 

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