二週間が経った。学校に通い、学生らしく授業を受けて任務に出る。そんな当たり前の日常を送っていた俺には一つの変化が起きていた。
廃れゆく村で密かに発生した呪霊事件日以来、前世のトラウマと天与呪縛発覚の精神的衝撃で俺は人混みに出れなくなった。...人混みといえば語弊があり、正確には非術師が彷徨く都会に出掛けられなくなった。
人語を話す
「梔子ー、原宿行くぞー。」
いつの間にか教室の外で俺を待ち詫びる釘崎と虎杖。
「悪い、俺今から任務だから今回もパス。」
八の字に寄せた眉で申し訳なさげに謝ると、釘崎は怪訝げに、虎杖は残念そうに頬を膨らませる。
「お前この間からずっとそれだろ。任務増やしすぎな。」
「ごめん。」
「…別に責めてるわけじゃないし、少しは休めよって話。」
例え非番ができたとしても今後も釘崎達の誘いは断るだろう。それだけは譲れない。それでも気遣って労いの言葉をかけてくれる二人に罪悪感を感じずにはいられなかった。
「…ありがとう。」
絞り出すように呟けば、二人は満足げに両腕を振って去っていった。
あの日以来、俺は進化した術式に適応するべく任務の数を増やしていった。天与呪縛による現実を受け止められない反面、使役できる特級相当の蛇達の強さに狂喜乱舞もする心身ともに忙しない毎日。いつしか等級は一級に昇格していた。
バジリスクに八岐大蛇、ヒュドラに修陀。具体的に想像さえできれば如何なる伝説上の蛇でも召喚できるようになったのだ。倒して調伏する必要がないという点では呪霊操術よりも便利な代物だ。加えて、十種影法術のように破壊されたら永遠に戻ってこないという弱点もなく、形代と呪力さえあれば何度だって再召喚できる。幸いにも呪力がずば抜けて多い俺は喚びだしに苦労したことはない。今のところ同時召喚数は最大二十匹、つまるところ向かうところ敵なしである。
勿論乙骨先輩や五条先生には劣るが、学生時代の夏油傑並ではないかと自負している。
それから俺の天与呪縛についてだが...新たに判明したことがある。それは視覚的に猿に変換されるのは非術師のみであること。即ち、真希さんのように呪力が極僅かでも呪術師もしくは関係者であれば人間に見えるということだ。真希さんに会って猿に見えたらどうしようかと冷や冷やしていた俺にとってはこの上ない朗報だった。
任務と授業を掛け持ちする日々は大変でも、任務を達成する度に確かな充実感を得ることができる。だからつい任務を増やしてしまうのが最近の悩みである。いわば自己管理がなってないのだ。
帰る支度を終えて教室から廊下に出ると、正面から見慣れた人物が長脚と腕を存分に振りながらやって来た。
「やっほー逸。あれ、今日は野薔薇達と遊びに行くんじゃなかったっけ?」
「任務があるから断ったんです。」
近頃多い質問にいつも通りに答えれば、目隠しで綺麗な眼を隠した五条先生は首を傾げた。
「急に任務詰め込み出したよね。どうしたの?」
「ほら、俺もっと強くなりたくて。」
当たり障りのない返事。
ふーんと呟く五条先生は顎に手を当て数秒考え込むような仕草をして、不意に俺の肩にそっと手を置いた。
「逸の気持ちも分かるけど少しは休まないとダメだよ。息抜きも大切なんだから。…ということで!明後日の土曜は皆で温泉に行きまーす!」
ーイェーイ、ドンドンパフパフ!あ、二年も一緒だよ。
お茶目な仕草でそう云った五条先生に一瞬呆気に取られる。正直一般人の訪れる場所は控えたいんだけど...温泉か。それならこの時期なら比較的少ないし大丈夫かな。釘崎達の分の埋め合わせもできるかもしれない。そう思い至ると、俺は一つ頷いた。
「良いですね、それ。楽しみにしてます。」
「もっちろん!夜は僕の奢りだから沢山食べるんだよ。」
二年の先輩も一緒だと絶対食費半端ないだろうに、笑顔で大判振る舞いを宣言する五条先生の財力最強たるやを思い知った。俺も特級とはいかずとも一級くらいには上り詰めて引退後の余生は金に困らない生活をしたい。
「はは、そんなこと言ったら釘崎達に搾り取られますよ。」
なんて冗談めかして言えば五条先生は満足そうに頷いて、横を通り過ぎていく…
「若し...若しもさ、何かあるならいつでもこのグッドルッキングガイ五条先生に言ってね。ちょちょいのちょいって助けてあげるから。」
不思議な一言を囁いて。普段の軽薄さを潜めて、やけに真剣な音色で言い残した担任を振り返るが既に先生は遠ざかっていた。
一体何だったのだろうかと引っ掛かりを覚えるが、そもそもあの変人の五条先生だからと納得しておく。それよりも、土曜の温泉宿泊会という久々の娯楽に胸を高鳴らせて...今日の任務が終わったら早速準備しようと意気込んだのだった。
そうして迎えた土曜日。
満点の星空を仰いで俺達は露天風呂で寛いでいた。
「温泉サイコー!」
「いいねー、やっぱ心が温まるって感じ。」
「ていうかパンダ先輩、どうやって乾かすの?」
「ドライヤー。」
「え。」
「ツナマヨ。」
「………。」
釘崎と真希先輩は女風呂に、男子勢は男用露天風呂に。自然に湧き出る清冽な温泉水は全身の凝り固まった筋肉を緩和してくれる。ぶくぶくと泡立つ水面、柵の向こうで折り重なるように合唱する虫の声、地方ならではの澄み切った空気に夜空。それらが相乗効果をなして最高峰の寛ぎを生み出していて、いつまでも至福のひとときを堪能していたいと思った。
こうして皆の何気ない瞬間を共に過ごせることが何よりの幸せだった。それもそのはず、虎杖が現れたことにより始動した原作の、長くは続く悲劇を知っているから。
高専に入学した当初は我が身が一番で登場人物と接点を持たないように心掛けた。それでも強制力というものが働いているのか、何かと関わりを持たざるを得なくなると切に卒業を待ち侘びる日々だった。
けれど今は違う。この世界に生きてキャラクターとしてではなく、一人の感情を持った人間として彼等が存在していることを痛感してしまうには、誰もが俺の人生に欠かせないかけがえのない存在となった。だからこそこの命に換えても守りたい。
それに俺の術式だって強化されたんだ、臆せずに完全救済を目指して奔走すればいい。努力した分だけ結果はついてくる...最後に笑うのは俺たちだと自分自身を奮い立たせて。
楽しそうに湯をかけあう同級生や先輩達を見ながら固く誓っていると、不意に隣から声が掛かった。
「…逸、」
どうやら考え事に没頭しすぎていたらしく、険しい面相で泡立つ水面の一点を見つめる俺を五条先生が覗き込んできた。流石に入浴の為に目隠しは外されていて、澄んだ青空をそのまま反映したような双眸が憂いを滲ませていた。そこで、いつの間にか静まり返った浴場で他の皆も俺を凝視しているのに気付く。
「俺、のぼせてきたからそろそろ出るわ。」
「え、もう!?」
「お前らが丈夫すぎるんだよ。牛乳でも飲んでくる。」
立ち上がった拍子に腰に巻いたタオルがずれ落ちる虎杖。絹を裂いたような声をあげて慌てて引き上げようとする乙女っぷりにどっと笑いが溢れた。主人公らしい天真爛漫さに俺も笑みを溢して温泉を出る。床石に足をつければ程度良く温まった身体から湯気がホクホクと放出されていく。
梔子、と未だに名前を呼んでくる伏黒にいつかの五条先生みたく手を振って中に戻っていった。
そんな矢先だった。
更衣室で旅館の浴衣に着替えてから休憩所に高揚した気分で歩いていると、和の雰囲気を徹底した心地良い板造りの廊下の先に奴らが現れた。
全身を覆う剛毛は憎たらしいまでにふさふさだ。等身大であることから非術師、つまり人間なのは一目で判った。けれども寸法以外での区別が危ういのが難点だ。
休憩所は彼等の一歩手前にあるのでこのまま他人事を貫いて進んでも良かったのだが、彼等の様子に違和感を感じた俺はその場で足を止めた。
チンパンジーとオラウータンが牙を剥き出しにして威嚇態勢に入っている。奴らの正面には肩を震わせて怯える小柄なニホンザルが。
「…金…」
「…ごめ…さ…」
奴らの会話を遠巻きに盗み聞いて大体のあらましを察する。気性の荒いチンパンジーとオラウータンが金と喚き、必死に謝罪するニホンザル。考えるまでもなく喝上げだ。
猿は抹殺したいくらい大っ嫌いだが人間なら話は別だ。例え非術師で人に見えなくとも俺達呪術師の庇護対象であることに変わりない。
そうと決まれば俺が取るべき行動は一つ。あの可哀想なニホンザル…人を助けてあげる。
「おい、お前ら!」
「あ゛あ?」
「なんだてめえ。」
そこらのヤンキーでもまだ良い方だと呆れるほどの底辺な煽り文句を放つ類人猿。新たな鴨でも発見したかのような低俗な目つきで睨め付けてくる。遂に堪えきれなくなった涙を滲ませるニホンザルに安心させるべく微笑みかけ、背後に庇う。
「こんな所で喝上げか?やめとけよ、最高に格好悪いぞ。」
自然と塵に対するような眼差しになっていたのだろう。相対して注意を促した途端、二匹は猿らしく喚きだした。
「なんだとテメェ!」
「調子こいてんじゃねぇぞ!」
この反応は前世の婆ちゃん家に頻繁に侵入してきたオラウータンと同然だ。悪戯心にしたり顔で拳を避ければ逆上して顔を茹蛸のように真っ赤にさせた。
「お前らみたいな品のない客がいると旅館の評判が落ちる。黙っててやるから女将さんに迷惑がかかる前に帰れ。」
ー俺がボコす前にな。
そう付け加えて牽制すると、一瞬呆気に取られたように黙り込んだ彼等はしかし次の瞬間には何故か腹を抱えて笑い出した。大方、男子高校生一人だと高を括ってるんだろう。もはや馬鹿を相手取る必要なしと、背後のニホンザルを伴い休息室に行こうとして、それよりも先にチンパンジーが口を開いた。
「はあー!くそ笑ったわ!...ガキの癖に生意気なんじゃねェの?」
「つーかその程度の仲裁、猿でもできるしィ?」
「ぎゃはははははは!」
その程度の仲裁、猿でもできるしぃ?
猿...猿…猿…。カラオケのエコーみたいにオラウータンの台詞が脳内で反響する。
全身の血液が逆流したような感覚だった。今でも鮮明に思い出せる婆ちゃん家での悲劇。寝起きの俺に熱湯をぶっかけて笑い転げたオラウータンどもと、目前の猿どもの姿が重なる。
その瞬間、躊躇いなど消し飛んでいた。胸を支配するのは一刻も早く害獣を駆逐すること、ただそれだけ。
俺は拳を強く握り込み、懐手を外そうとした。
「っおかか!」
直後、背後から慌てたような叫びが耳に届いて我に返る。特徴的な単語を放った誰かに見返ろうとすると、先に接近してきた狗巻先輩が俺の腕を力強く掴んだ。
「っ先輩…?」
「おかか!こんぶ、高菜!?」
何をしているのかと問うてくる先輩に頭に上っていた血と憤りがすっと波引いていくのを感じた。
「なんだこいつ?変な喋り方しやがって。」
その言葉に再び怒りが湧いてくるのを感じたが、隣に立つ狗巻先輩の視線にふぅと息を吐き出すことで感情を抑える。
「失せろ。」
「ひっ!」
「すみませんしたぁあ!」
忌々しい存在に殺気を込めて吐き捨てると、猿どもは尻尾を巻いて逃げていった。この程度の威圧で逃げるなんて猿の風上にも置けない奴らだ。
「…猿以下の分際で。」
不完全燃焼で舌打ちを溢しても胸の悪さは治らなかった。
漸く身を翻らせて、己が庇い立っていたニホンザル姿の哀れな被害者に声掛けようとして、いないことに気付く。恐らく狗巻先輩が逃がしてくれたのだろう。
奴らの姿が完全に角の先に消えるまで、どういう訳か懐手を掴んだまま放そうとしなかった先輩に話しかける。
「先輩、ご迷惑おかけしました。」
素直に謝罪すると、先輩は咎めるような、けれども何処か憂慮の篭った眼差しを送ってくる。
「こんぶ、明太子。…ツナマヨ、おかか。」
「やだな、先輩。ちょっとお灸を据えてやろうとしただけですよ。」
俺が術式を使おうとしたことに対して、非術師への一方的な蹂躙は駄目だと釘を刺してくる先輩に誤魔化して答える。あの程度の奴らは蛇を呼び出すまでもなかった。婆ちゃん家の猿は俺がどれ程凄みを効かせても血の気を引かせるどころか寧ろ手を叩いて喜んでいた。だから今さっきの奴らは猿以下なのだ。
「ツナ、明太子。」
「俺?俺は大丈夫です。…そろそろ皆も風呂から上がった頃だろうし戻りましょう。」
それでも尚俺を案じてくれる狗巻先輩の服の裾を引いて、来た道を戻っていく。
牛乳が飲めなかったのは残念だったけれど、チンパンジーとオラウータンの悪辣さを改めて認識できたのは良い収穫だった。呑気にそんなことを考えながら足早に歩いていた俺は、後ろをついてくる狗巻先輩がどんな表情をしていたのかなど知らなかった。