呪詛師との戦闘を終え同志の救援に向かう最中、その報告を耳朶に接した日下部班は耳を疑わずにはいられなかった。
「今、なんつった?」
『嘘ではなイ。渋川が殺した筈の前代が現れて言っていタ。元々渋川五十浪と組んだ偽物の夏油が呪霊を率いていたが渋川が取って代わったのだト。本人は否定しなかっタ。』
轟々と猛る街中で、危うい足場を突き進んでいた三人分の足が地面に縫い付けられた。太腿にまで
この一寸先も見えぬ悪天候下を通った虎杖の叫びにより五条が封印されたことが渋谷中に知れ渡ってから呪詛師の威勢は俄然増した。呪詛師は正義の仇なれど決して猫も杓子も僻心に狂っているわけではなく、術師らが胸に秘める一本の花の強かに光る蕊のような志を抱く者もあった。それは黴臭い部屋でじめじめとした湿気と共存する焔の如き信念とも謂えよう。敵勢の一人一人が如何なる標榜で呪詛師御三家の会戦に挑んだかは知れぬが、尠くとも現代最強の呪術師の封印に伴い捨身の特攻で魂を味方に繋げんと息巻くほどの代え難い何かがあったのやも…。
かくも強固な殺戮の意思に迫られては——況してや自身らの切り手が序盤で呆気なく戦線離脱した——多くの術師の闘争心が凋落するのも宜なることである。
特級術師九十九が出撃待機から参戦へと転じたこと、特級呪物の所持者が明確なことから再奮起したのは五条派、京都高専や呪術御三家の面々のみ。今宵の為に全国から招集された大半の術師は既に負戦の心行きだった。
五条の一敗というのは軽々と看做すことはできない事態に加え、敵方に特級呪詛師が一人と特級呪霊が二体に受胎九相図が一人、まだ斥候を成し遂げられていない段階で確実であるという事実がどう転ぼうとも思考を勝利に直結させてはくれなかった。命惜しさに逃亡する腰抜けは現段階いないものの、この先どうなるか判らない。糅てて加えて現場での最高指揮官たる夜蛾を介さずに各々の所属へと指示を仰がんとする輩も見られ、統制も芳しくない。これでは折角特級術師の保険があるにしても足の引っ張り合いで泥仕合を演じる未来も否定できやしない。
しかしたとえそうであっても五条の奪還を諦めない果敢な者達は各々のできることを成し遂げる為に常時不安定な渋谷の街を駆けていた。そんな時、各班に配布された無線機を介して虎杖に付く小型メカ丸が仰天すべき情報を持ち込んだのだ。
離反した渋川逸の真意。自身の恩師を地下鉄に誘き寄せ封印し、剰え獄門疆を漏瑚という特級呪霊に託した。数日前には高専に乗り込み堂々宣戦布告した忘恩の徒が、実際には忸怩たる思いで呪詛師の統率者となり一世一代の戦争を経て、五条の誕生以降パワーバランスを崩した呪詛師及び呪霊の勢威を完全に削がんとしていた…。
未曾有の大災害の中、巨大な蛇に救助される非術師や負傷した術師の報告が上がっている状況はメカ丸の言葉の信憑性を増加させた。
逸の離反は他でもない彼の自由意志によるものだ。それは幾度となく説得と譲歩を試みた結果、消沈する羽目になった仲間達の翳った面輪を見ても覆うべくもない真実だ。
だが真実が一つとは限らない。
「あの、僕は知ってました。」
「なんだって?」
「ヒッ…す、すみません!けど梔子君が敵を騙すには味方からだって、高専側の協力者は僕一人で十分だって!言ってたから、その…」
吉野はしどろもどろに続ける。
里桜高校での事件を惹起する以前から虎杖と会っていた己に彼が、延いては高専が信頼に足る吉野にとっての味方だと再三告げたのは逸だったと。彼の言葉がなければ、若しかすると全く異なる未来を歩んでいた可能性もあると。
片腕を失った非術師の母親を蛇に治療させる逸の眼差しは、虎杖達が云っているような呪力を持たざる者に対する嫌悪に満ちた色合いではなかった。
特級呪詛師の再来、最悪の裏切り者、それは高専視点の真実だ。しかし高専生でありながら吉野が見据えていた世界は逸と同じ目線だった。唯、どこかの段階で腹を括った青年は種明かしを好まず茨道を独りで歩むことを決めただけで…
『マジのマジなんだな?』
機械的な音声に真希の声が混じった。メカ丸は『マジのマジダ。』と応えた。吉野も再度肯定した。
真実が塗り変えられてゆく。
『んじゃ六発殴る。』
『結局殺すんですか…』
「俺の分も取っとけよ。」
別班の伏黒が通信に加わり、パンダが乗じる。何処かで虎杖がこの場にいない友に合掌した。
戯けつつも、逸の帰還を切に希望し続け悉く期待を裏切られた者達の結束は固かった。相談も助力の手も拒んで修羅の道を選択した詮無い同胞に全力を尽くした拳を打ち込み、満面の笑顔で迎え入れてやる心積りが。思いがけぬ急展開を各々が安易と受け入れられたのは偏に彼等が培ってきた逸との歳月を信じたかったからだ。メカ丸に実際の記録を流させるよりも、彼と吉野の言葉を信と確定する方を択んだ。
「チッ、餓鬼のくせに面倒臭ェことしやがって…」
その舌打ちは、他でもない日下部自身に向けられたものだった。彼の教え子がどれ程蒼然たる気持ちで離反の決断をしたのか、必要不可欠だったのやもしれぬ針山を登るが如き苦難の路を進む逸の心はどれ程傷ついたのか。それを考えるだけで酷く澱んだ沼底に沈んでいくような心地がした。
まだ十六歳の子供に斯様に過酷な覚悟を決めさせた責任は我々大人にある。別の場所で通信に参加している七海であれ夜蛾であれ、健全な術師達はおのがじし過去の言動を顧みては己を呪いたくなった。
しかし如何してこれは吉報である。逸の二重の裏切りは勿論のこと、最も戦況を左右し得る人物がこちら側であったことが明らめられたのだから。即ち、彼等のうち誰かが成すべきことは渋谷において最大数の情報を保有する逸に真相の是非を問い、良好な返答が聞ければ盤上を俯瞰できる彼に能う限り助太刀すること。
『逸は今何をしている?』
『渋川五十浪と戦闘中ダ。出だしに毒が塗られた短刀で腎臓を貫かれた所為で動きが鈍イ。先方も左腕を欠損しているが渋川の方がスタミナに欠けル。我慢比べとなれば何れ助けが必要になるだろウ。』
「場所は」
『神宮通公園あたりダ。』
「ここから近い。俺達が行く。吉野、お前は一旦戻れ。」
「わ、わかりました。」
夜蛾曰く、九十九が現在厄介な白天狗と交戦中で始末してから向かうとのことだが、如何にも心許ないなどという迂遠な云い回しで日下部班も助太刀権を獲得した。
禪院班、京都校東堂班の一級術師東堂葵と補助監督新田新は七海と合流しており獄門疆を所有しているとされる漏瑚という特級呪霊の目撃情報を辿って井の頭線渋谷駅、アベニュー口に到着。これより階下に降りて探索を開始するとのこと。
元七海班の伏黒と準一級術師猪野琢真、単独行動中の京都校準一級術師加茂憲紀は虎杖と合流。嘱託式の帳の解除に努めるべくセルリアンタワーへと方向転換した。
釘崎、京都校三級術師三輪霞と同級禪院真依三名は呪詛師複数名と交戦中。天候改善の見込みのないことから、取り残された非術師、負傷して動けなくなった術師を京都校二級術師西宮桃が捜索している。
開戦前の活気を取り戻したのは五条と九十九の存在に賭け、逸の再復帰の見込みに喜悦した彼等のみだったが、それでもあと数時間もすればこの欝欝と礫を打ち降参を迫るような雨もからっきし止み是迄の不首尾も嘘のようになかったことになるのではと思えてならなかった。
事変は新たな局面へと入っていた。
*
腎臓を貫いた短刀にはスローロリスの毒が仕込まれていた。猿の仲間の毒性哺乳類で上腕腺から分泌される分泌液と唾液を混ぜ合わせることによって激痛、呼吸困難、アナフィラキシーショックといった症状を引き起こす毒を精製する。スローロリスの体に触れるだけでも危険性があるのにそれを直に内臓に食らった俺がその後どうなったかは態々述べるまでもないだろう。どこぞの水を浴びたアンパンのヒーロのように次第に毒が回って機敏さが鈍重になった俺は孫悟空擬きの一つ一つが馬鹿みたいに強い重撃を受け続けた。
蛇に対する毒の耐性があった為にまだ二本足で立てているけど、それも時間の問題だ。更には流石に俺を特級呪詛師に育て上げただけあり、こちらの近接戦は手に取るように覚られていて避けられるので伝説級の蛇を喚び出すのを余儀なくされた。
機動力がピカイチの騰蛇で上空から決着をつけようと思った俺に、作浪さんが繰り出したのは意想外の手札だった。
フライングモンキーを知ってるだろうか。アメリカで頻繁に目撃されているUMAで、曰く悪魔もかくやの漆黒の翼を持ち、弾力と伸長性を誇る強靭な肉体で鋼の如き硬質な尻尾を鞭のようにしならせて人を攻撃すると謂う。孫悟空からのメタモルフォーゼを果たしたフライングモンキーは騰蛇ほど素早くはないものの異聞通り、尾の攻撃が当たれば地面にクレーターを生み出すほどの威力があった。
ここまでくれば高確率で彼の術式が俺の術式の猿版の憑依形態と考えて善いんじゃないだろうか。甚だしく遺憾である。
「クソ、猿のくせに生意気な!」
躰さえ満足に動けば浸水を利用して追い込むことが出来たのに。
忌々しさを隠しもせずに吐き捨てると、フライングモンキーは嗤った。ウロボロスの嘲笑より癪に触る顔面だ。
「この程度で終わりか?」
「ハッ、冗談も程々にしろよ。速いのは認めてやるけど、この俺が猿に負けるなんて有り得ないから。」
「コイツは自慢の被りもんやからな。雷でもなけりゃあお前の陰気な蛇でも反撃には足らん。」
「都合の良い部分だけ拾ってんじゃねェよ老害。ムカつくんだよ。」
「半端者が言いよる」
ざあざあ降りの暴風雨の膜に遮られそうになる視界を凝らす。吹き曝しの中で彼此三十分も闘い続ける俺達はずぶ濡れだった。烈しく動き回っているので芯からじわりと広がる熱に体温が上昇する感覚がするのに、邪魔な前髪を払うべく額に触れた手は氷を握っているように冷たかった。
熱いのに寒い。どこもかしこも鈍痛がするし、本当は身動きすら辛い。それでも終始治らない戦慄が戦闘続行への執念を起こして眼前の難敵を睥睨させていた。
ここでくたばれば是迄の努力が無に帰すという恐怖だ。偽夏油の勝利、それは単に俺の敗北を意味するわけじゃない。奴を完膚なきまでに斃す為に俺が犠牲にした時間、人々の命、——中には原作登場人物のメカ丸も含まれる——彼等の信念ですら悪戯に翻弄されたことになる。五条先生だって謂れのない罵倒を教え子に掛けられて魂から傷付いた。
虎杖や伏黒に釘崎、二年の先輩に日下部先生達だって幻滅では済まない絶望を与えてしまった。それらが全部全部無駄になるのだ。それだけは許すわけにはいかなかった。
偽夏油は差し違えてでも殺す。先に躰が朽ちようとも怨念で祟ってやる。だから作浪さん程度の輩に負けるわけにはいかないのだ…!
正直これ以上体力も呪力も消費したくない。何か、何か苦境を抜ける妙案はないのか。
「キィェアア!」
「一々叫ばねぇと攻撃できねぇのかよ!唐揚げにしてやんぞ!」
…その時、眩いほどの鋭敏な光が脳裡に煌めいた。真夏の湖畔に注ぐ太陽の偉大な輝きのあまり、空を漂う雲と同化して世界を純白にしてしまうくらいに光る水面を眼差しているような、鮮明な煌めきだ。
同時に体内で響き渡る法螺貝の合図。魔法に掛けられたように沸き起こる力を振るって、傷口から血が吹き出すのも構わずに俺は怪力の尻尾を薙ぎ払った。
作浪さんは高層ビルに激突する寸前で空中停止した。それで十分だ。俺が欲しかったのは距離だから。
突然捨て身を疑うほどに威力を増した反撃に訝しんだ作浪さんは俺を見据えて…眉根を顰めた。
「何がおかしい?」
「いんや、ただ自滅してくれてありがとなって」
「何やと?」
相手がこちらの思惑を察する前に俺は天に向かって叫んだ。
「虹蛇!一億ボルトだ!」
——転瞬、世界が白んだ。
瞬きにも満たない白光だったが、それを間近で見た眼球が危うく失明するかと思ったほどの圧巻だった。
三十万キロメートル毎秒の電磁波に続けて三百四十メートル毎秒の雷鳴が時差で鳴り響く。鼓膜を潰さんばかりの轟音が耳を聾した。威力のわりに器用な落雷は作浪さんのみに命中して、地面を覆う雨水には些かも影響を及ぼさなかった。
…次に瞼を開けた時、作浪さんは跡形もなくなっていた。
「勝った…」
『おイ、気を確り持テ!』
メカ丸が焦燥の滲んだ声を張り上げる。一体どうしたのだと尋ねようとして、何故か騰蛇までもが同様の面付きでこちらを見下ろしているのを見留めて察した。俺、落ちてる。
どうにか手を伸ばそうとするも腕はぴくりとも動かない。空は益々遠ざかってゆく。
完全に電池切れだった。メカ丸と騰蛇の焦り様が面白くて、却って冷静になった俺は落下を受け入れつつあった。
下はクッション代わりになる程度には水が溜まっている。少し怖いけど死ぬことはないだろうと、呑気に考えながら。
背中に均等に衝撃が分散されますようにと運に任せようとした躰に、不意に浮遊感が訪れた。何が起きたかを理解する間に抱き上げられた俺は近くの近くの建物の屋上に移っていた。
助かったことよりも、間一髪で俺を救い出して顔を覗き込んでくる二人に俺は魂消た。疲弊した心が生み出した幻覚などではなく、四つの眸に映っている慄く俺の酷い顔色がこれが現実であると主張していた。
「パンダ、先輩?」
「おう。」
「ッ!」
日下部先生とパンダ先輩はどこか寂寥を湛えて佇んでいる。二人の存在をはっきりと眼前にして、遅れて現実が戻ってきた。殊に今夜は何があっても忘れてはならない、俺は正真正銘の呪詛師だ。
パンダ先輩の手を急いで振り払って退くと、作浪さんが遺した抜き身の短刀を握る。しかし構えた俺の背後から伸ばされた腕が手首を掴んだ。見返ろうとして咳き込んだ背中を摩られるとどうしてだか抵抗心が失われてしまう。尻目に映った骸骨みたいなそれは絶対に緊張を緩和させてはいけないのに…。
背水の陣だからって情けでも掛けてるつもりなのか。そうならば不愉快だ。
「いやあ凄かったね!思ったよりヘルプ要らなそうじゃん、落雷はドン引いたなぁ。」
…九十九さんが呪詛師を褒めるなんて、変なもんでも食ったのだろうか。それとも流石の疲労で最後の螺子が外れたか?
「揃いも揃って間抜け面でも晒しにきたんですか?言っとくけど俺は」
「もう良い、梔子。止めろ。」
「何のことですか。」
「メカ丸から洗いざらい聞いた。」
沈黙。先生の言葉を理解するのに随分と秒数を要した。そして血の気が引いた。彼等が洗いざらい聞いた何事かは、手負の呪詛師が地面に激突して自滅するのを引き留めるほどのことなのか。一時は彼程の形相を仕向けていた相手に、憐憫の籠った眼差しを注ぐほどに。
ある憶測に行き当たって違いますようにと願った心は、パンダ先輩の「吉野の証言も取れた。」との附言によって一瞬で裏切られた。宙に浮かぶ騰蛇の隣で浮遊するメカ丸に睨み殺す勢いで非難を送った。
「お前!余計なことを!」
『口止めされなかっタ。』
「あんな状況でできるか!俺がこの日の為にどれだけ」
「つまりお前は俺達に一杯食わしたことを認めるんだな?」
メカ丸と俺の諍いに割って入った先生を冷たく突き返した。
「そんな単純な問題じゃないんです」
「単純だよ。物事をややこしくしているのは君だけだ。敵か味方か、難しい質問じゃないでしょ。」
呪術の世界に白黒はっきり付けられないものはないよ。
態とらしく内面に探りを入れては来ず、されど能動的に胸筋を打ち明けるのを待ち侘びている音色だった。
今はまだ、凡てを明かすには早い。下手な立ち回りを繰り返してこれ以上の反作用を起こすわけにはいかなかった。だからといって、前後を塞ぐ三人が安易と見逃してくれるとは思わない。
一先ずここは誤魔化そうとして、滑稽とでも言いたげな調子が後ろから掛けられるとカッとならずにはいられなかった。
「私は寧ろ聡い君がたかが一人を殺す為にここまで非生産的な所業を強行したことが信じられないよ。」
「たかが一人…?冗談止して下さい。そのたかが一人がこの先数え切れない犠牲を、地獄を生み出すんだ!」
「なら是非とも聞きたいね。」
勢いよく翻って、己の失言を理解した。
九十九さんは嘲ってなんかいない。人間理性を体現しているかの黄金色の双眸は、水を一杯張った盥の中で微動だにしない蓮のようだった。誘導されたと自覚した時には遅かった。
名を呼ばれる。彼女と同様に日下部先生の峻厳な黒眼が俺を射抜く。
まだ高専入学前の俺が悪戯をしでかした時、或いは密かに呪霊を祓除しに行って死にかけた時に助けに来てくれた篤実な眼差しだ。恰も燻る鬼火のようなそれは静かな憤りと労りを孕んだそれに抗えたためしはなかった。
「…起こっていることの全ては千年以上もの歳月を生き永らえてきた黒幕の仕業です」
その場にへたりこんだ俺の口から転び出た語勢は笑えるくらい軟弱だった。
「奴を殺せるとしたらそれは今夜だ。五条先生が封印された時、最も気が緩むその瞬間に脳味噌を滅多切りにしてやる。そのつもりだったのに…」
「どうして相談しなかった。俺達じゃなくても悟とかなら何とかなったかもしんないだろ。」
「五条先生にだって限界があるよ、先輩。加茂家も総監部もとっくに奴の駒と化してるんだ。下手に探りを入れてバレたら都合の良い立場が水の泡だ。」
「総監部と加茂家が?」
「はい。きっと補助監督とか術師とかにも俺の把握できてない内通者はいる。」
呪詛師御三家が一角に位するというのにこれなのだから、離反以前に物事を成し遂げようとすれば尋常でない試行錯誤が求められるだろう。こうして振り返ってみると、俺の誤解から始まった高専とのいざこざは神の計らいだったのかもしれない。
当然といえば当然というべきか、高専側の上層部が闇に肩まで浸かり込んでいるという事実にパンダ先輩と日下部先生は顎が外れるほど絶句していた。対して九十九さんは自身が高専を嫌う正式な名分ができたとでもいう風な清々した面差しをしていた。
両手を握りしめては開いてみる。全身に回っていた麻痺毒は僅かばかり抜けたようだ。もう行かなきゃならない。
作浪さんは呪詛師に俺の裏切りを通達したと云っていた。そのうち獣の如く眼をぎらつかせた連中が俺の首を狙いに来るだろう。即ち、俺が組織に招き入れたことになっている美々子と菜々子が危ない。
「逸!」
蛇達に支えてもらいながら立ち上がったところで、収まることをしらない雨脚に逆らって大声が地上から昇ってきた。
耳馴染みのある声に慌てて見下ろそうとパラペットに駆け寄った時には、姉さんと兄さんは屋上に着地していた。即座に戦闘態勢に入る両者に慌てて止めに入る。
「待って!二人は味方なんだ!俺が偽夏油を殺すまで一時的に協力してくれてるんだ。」
「逸、何があったの!?さっき妙な報せが...」
「こっちの目論みがバレたんだ。急がないと美々子と菜々子が拙い!」
「おい梔子!ちゃんと説明しろ!」
今にも騰蛇に乗って飛び去ろうとした俺を呼び止めたのは日下部先生だった。何か出来ることはないかと訴えてくる目線に逡巡する。もう取り返しのつかないくらいに巻き込んでしまってるけど深入りだけはさせたくなかった。だけど今更心身からの言葉を口にしたって彼等は納得しないだろう。何れにせよ考えてる場合じゃなかった。
「俺は先に獄門疆を取り戻しに行きます。このままだと特級呪霊と七海さん達がぶつかる。出来れば呪力を温存したいから九十九さんが着いて来てもらえると助かります。」
「構わないよ。けどその前に確認だけさせて欲しい。」
——君は非術師をどう思ってる?
…雨が止んだ。風も、音も、時間も止んだ。
この場にいるのは五人だけなのに、見えない無数の人々が俺に注目しているような心地がした。
九十九さんは機微に通じた目顔を向けていた。ここで回答を誤れば、周囲の制止も振り切って俺が作浪さんにしたように跡形もなく消す所存だと物語っている。嘘を吐くなんて以ての外だ。
「非術師を嫌ったことは一度だってありません。だって、母さんを否定することは俺を大切にしてくれた全ての人達を侮辱するのと同じことだから。」
そうでなくても、たとえ非術師が猿に見えようとも俺にとっては護るべき尊い命で、呪力を持っていようがいまいがそこに大した差はない。一般人だからといって差別したことはないしこれからも有り得ない。
…随分と長い時間が過ぎた気がする。不動の沈黙の只中で彼女だけじゃなく、森羅万象が俺の発言を吟味しているように思われた。
須臾の間があって、漸く石像状態から解けた九十九さんは何ら感想を述べることなく目線を逸らした。それだけで合格を貰えたことが伝わって緊張に強張っていた躰は忽ち緩和した。
「…日下部先生とパンダ先輩は美々子と菜々子を探して下さい。獄門疆の封印を解除できる呪具を預けてある。」
呪詛師からの目眩しになると二人に任せたのが仇となった。容姿を尋ねられたので具体的に答えると、二人の手が伸ばされる。
殴られると思って咄嗟に瞼を閉ざしたのに、いつまで経っても痛みは襲ってこない。おずおずと眼を開けて、その顔つきに瞠目した。雨に濡れていても温かな二人の手が頭に乗っている。この世界の不吉さを表すような悪天なのに、俺を見詰める先生と先輩の面差しはいつか松風にそよぐ丘の上にピクニックをしに行った日を思い出させる感傷が込められていた。
「そうだ、真希が六発殴るって言ってたぞ。」
「え゛」
「俺もあとで殴る。」
「殺す気!?」
「自業自得だぜ。」
「うっ、何も言えねぇ…」
善は急げと早速踵を返した先生と先輩を見送って、最後に兄さんと姉さんに向き合った。…否、向き合った途端に強烈な爆音が轟いたのだ。
瞬間、街中からありとあらゆる光が消え失せる。
落雷の所為でもない停電と地響き、嫌な予感がして音のした方角を遠望すれば真暗闇に天高く噴き上げる禍々しい焔色があった。肌を泡立たせるほどの呪力の膨張を感じて血の気が引いていく。あれは間違いなく宿儺と漏瑚と魔虚羅だ。
「なんで…なんだって虎杖が…伏黒が!」
美々子と菜々子から宿儺の指を預かっただけじゃなく、漏瑚達が回収する筈だった指も数本ばかりだが手に入れた。蛇達に虎杖を見張らせて特級呪霊に合わないようにと命じていたし報告もないのでてっきり万事順調だと思い込んでいた。帳だって嘱託式の杭を回収しにきた伏黒達がその後の惨劇を繰り広げないようにとオガミ婆を予め殺しておいたってのに、一体全体如何して最悪が出揃っているんだ…!頻発する噴火と斬撃の嵐だって、虹蛇に発生させた台風が気休め程度にしかなっていない。
「行かないと…」
この眼で何が起きているのかを確かめなければ。騰蛇に飛び乗った俺をまたもや止めたのは帰ってきたウロボロスだった。
「挑戦者よ、此処は捨ておけ。ツチノコが図書館で待っている。」
「何言ってんだこんな時に!」
「聞けい!」
逸話ほどではないが巨大化した体躯から発せられた怒号が烈風となり飛び掛かってきた。窒息しそうな牽制だ。頑強な顎から覗ける逞しい牙には言語化できない神の威厳があった。
こんなにも真剣なウロボロスを見たことがない俺は即座に唯ならぬ事態が生じたのを察した。三ヶ月もの間切実な願いを伝え聞かせていたウロボロスがそれでも渋谷を引き上げさせようとする程の何かが起こったに違いない。
俺は三人を見遣った。
「すみません、どうしても外せない用事が出来ました。ちょっと高専に行ってきます。九十九さん、虎杖のところへ向かって下さい。伏黒が魔虚羅を喚び出した。早く止めないと被害は拡大する。…兄さんと姉さんも一緒に行って。宿儺が肉体の制御権を失う頃には漏瑚は負けてると思うから、その隙を狙って獄門疆を回収して夜蛾学長のところに持っていって欲しい。それから、後は分かるよな。」
含意のある眴せをすれば、二人は目を見張って深く頷いてくれた。九十九さんも了承してくれたのを見届けると、俺は早急にその場を離れた。