天与呪縛はつらいよ   作:れいめい よる

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南へ

 

 

局所的な巨大台風に見舞われる渋谷とは一転して、高専は不気味なほどに静まり返っていた。

乙夜の東京の郊外、今晩の総力戦の為に虚な廃村のようになった山中を一層奇奇怪怪に染めていたのは夜満天に居坐る不吉な二つの満月だった。相も変わらず警報の鳴らない正面から入って早々に、俺はウロボロスが彼程までに責っ付いた所以を察した。 

 

全滅だった。警備として居残った僅かな術師と補助監督が皆殺しにされていたのだ。如何いうわけか門戸に出現している薨星宮への扉には大きな獣の爪痕が刻まれている。

心胆寒からしめる感覚を堪えて俺は東塔に歩を進めた。千里眼を持つウロボロスが図書館へ行けと云ったのには必ず意図がある筈だから。 

 

そうして急足で赴いた図書館は拍子抜けするくらいに普通だった。そう云ってしまえば語弊があるけど、通りがけに目の当たりにしてきた惨状と比すればましだった。 

 

警戒を緩めずに鍵が壊され開け放たれた入口から中を覗いてみる。特に物が破壊された形跡はない。代わりに夥しい血の跡が暁闇の先へと続いていた。騰蛇を還して巴蛇を召喚し一階から各階を検分しながら血痕を辿ってゆく。何ら異常を見つけられず、首を捻りながら最上階に到達した俺をツッチーが出迎えた。 

 

「ツッチー!今日はあれだけ一緒に居ろって言ったのに何処ほっつき歩いてんだ!」 

 

魚を鷲掴みする青鷺の要領で放浪蛇を確保すれば、「ツチツチ」と抗議の声をあげるので小突いてやれば目を三角にして拗ねた。やっぱ育て方間違えたな。

どう説教してやろうかと青筋を立てていると、器用に腕から逃れたツッチーが脚に噛み付いてくる。というよりかは引っ張るような感覚だ。一応伝説級だが通常の蛇よりも戦闘力もなく会話能力もないツッチーとの意思疎通方法は、通訳者のいない時にはこいつの自己主張の癖に懸かっていた。

今回もその口だと催促されるがままに着いていって、辿り着いた先は最奥の禁書区画だった。三ヶ月前に天与呪縛の対処法を求めて行き当たったのとまったく同じ、禁じられた棚に。

 

ツッチーが戻した巻物は最初に見た時とは少し違う場所に納められていた。不可解なことに、一階から続く血の足跡もここでぱたりと途絶えていた。 

俺は巻物を手に取ってみる。 

冷めた感触が肌に触れて見てみれば掌が赤く染まっていた。慌てて巻物を広げてみる。 

 

「…これはッ!」 

 

驚くべきことにツッチーが破って接合し直した天与呪縛の箇所は一部を除いて塗り潰されていた。しかしそれ以上に俺を震駭させたのは確認する機会もなかった直後の本紙に残された、ボールペンの書き遺しだった。それも俺宛の。 

 

『梔子逸 

 

時間がないので簡潔に記す。一切の疑念を捨ておき指示に従ってくれ。 

先ず、お前の持っているバジリスクの牙と黒宝玉を用意しろ。それから… 

 

(中略) 

 

最後にもう一つ。天元に会ったら私が、へみの君が殺されたと伝えてくれ。お前にとってこれが最後の——となる。兎にも角にも急げ。ぐずぐずするな。』 

 

意味が分からなかった。

文末に記された固有名詞がこの書物がへみの君によって託された遺書であること以外に、何の疑問も解消されなかった。呪詛師に内通している筈のへみの君がよりにもよってこの書物を遺書に選んだ訳、俺が此処に来ることを見越していたかの筆運び、文中で明かされたこの巻物に書かれていた天与呪縛の解呪方法が出鱈目であったこと、とどのつまり事態が深刻化する前からへみの君は俺を取り巻く変化に勘づいていたこと、その理由等…。冒頭に注意書きされていた通り、情緒もへったくれもない遺書には何一つ納得のいく説明が成されていなかった。 

 

本来なら質の悪い悪戯だと破り捨てたいところだったが、達筆ながらも荒々しい文字の崩れ方がこの書き置きが紛れもなく冗談などではないと訴えていた。所々血が滲んで読めない箇所もあるが、締めくくりに何度も描き殴られる催促の言葉がどうしようもなく早鐘を打たせる。

そこに加えてツッチーの急かすような鳴き声が耳朶に届くと、俺は弾けるようにして行動に移った。 

 

………。 

 

指示は簡潔で、幸いにも必要物が手元に揃っていた為に作業に時間は掛からなかった。へみの君が塗り潰さなかった天与呪縛の項目に記されていた「用意:」こそが今夜俺が此処で準備すべき物だったらしく黒宝玉は俺の手元に、その他はツッチーの腹中に収納していた。 

 

二階の自習室から拝借してきた模造紙を雑に繋げて陰陽道に似通った術陣を描き、急遽巴蛇狩りに行かせた猿の内臓と白檀線香、自販機をこじ開けて取った清水を規則に則って並べる。あとは己の血を中央に滴らせてバジリスクの牙を置き、黒宝玉に保管されているらしいある術式を発動する為の呪文を唱えれば良いだけだった。

謎の儀式を終えて出来上がったのは白から黒光りに変色したバジリスクの牙。これをツッチーに呑み込ませて出来るだけ遠くへ逃すようにとのこと。 

 

「ツッチー、よく分かんねぇけど頼んだぞ。」

「ツッチ!」 

 

未だに混乱から抜け出せない俺に反して心得ているとばかりの強い目付きが俺を見上げた。まだ心許なくてもう一度騰蛇を呼び出して守るように命じると二匹は瞬きの間に視界から消えた。 

これで良いのだろうかと、読み残しがないかを確かめようとして…

 

目線を落とすが早いか、最上階が丸ごと消し飛ばされた。 

 

空と地面を同時に感じた。突如として窓外に現れた気配が俺を仕留めるためだけに呪力玉を放ったのだ。九十九さんには劣るが痛手を負っている俺には十二分すぎる威力だ。本能的に身を投げ出していなければ下半身が成仏していたかもしれない。 

 

だが弾みが付きすぎた所為で終始傷口を塞いでくれていたインランドタイパンが離れてしまい、塞いでいたものがどっと溢れ出す感じがした。  

襲撃者を目視する間もなく耳横で何かが空気を掠める。即座に躰を捻ろうとして… 

 

「グぁアあァア!」 

 

急激に喉に迫り上がった悲鳴が響き渡った。

腹が裂けた。鰐に噛まれるとしたらこんな痛みだろうというのを優に超える激痛だった。焼け火箸を何本も突き刺されるかの苦痛が腹部を中心に頭から足先まで迸る。 

 

俺を食らう呪霊の牙が抜ける時はもっと辛かった。 

空中での浮遊を支えていたものがなくなった俺は地面と激突した。 

 

う゛だのと情けない呻きが勝手に溢れる。指先も動けない状態で、真横を向く視野に映り込んだ人物に驚愕した。 

視界が真っ赤になった。宿敵ともいうべき相手がすぐそこにいるってのに、どうしてこんな時に限って躰は役立たずなんだ…!

動け、動け、動け動け動け! 

 

——心臓が絶叫した。 

口内に血生臭さが広がる。急所から数ミリを逸らした冷え冷えとした触りが、お前は負けたのだと無情に告げている。もはや悶絶すら音にならなかった。 

 

「すまないね。抵抗されたら困るんだ。こっちも結構な手負なもので。」 

 

言葉のわりにまるで躊躇いのない声調で、利き腕を無くした偽物は云った。いつもの飄々とした微笑はどこへいったのか、額には冷や汗が滲んでいる。獣か呪霊に噛み千切られたような肩と膝下を見て思い至った。

ああ、こいつがへみの君を殺したんだ。

「はッ…」 

 

とんだ無理ゲーじゃないか。可笑しくって笑えてきた。特級を超越する特級と謂れる人を片腕と片足を払っただけで斃せるなんて、端から俺の相手じゃなかったんだ。 

 

「おまえ゛、だけは…ぜってぇ…コロ、してや゛る…!」

「勘弁してくれ。私も君も、終わらせたいのは一緒じゃないか。」

「クソ、やろう」

「怖いな」 

 

目が見えない。四肢の末端から感覚が失われてゆく。 

 

もう助からないと悟った途端に朧げな瞼を染めたのは幻の碧だった。

いっそ神性すら感じる蒼穹と、畏怖を抱かせる精強な千代木のような人。俺の宙、俺の太陽。一歩足を踏み出せば急崖に堕ちる場所にいても尚、前だけを向き続ける勇気を与えてくれた恩師を今一度見たかった。 

 

「なかなおり…した、かったなぁ」 

 

終ぞ最期の言葉を己で聞くことなく、到頭最後の五感も失われた。完全に鼓動が止まる直前、ツッチーの泣き声が聞こえた気がした。 

 

* 

 

煌びやかなネオンが織り成す渋谷の夜景は二十一時を超える頃にはすっかり変貌していた。空襲を受けずして倒壊した建築物、制御を失った悪意が暴虐無人に荒ぶった爪痕、火の海の代わりに家々の残骸を呑み込む冠水。嘘のように台風が過ぎ去り事変の灼熱が緩やかに収まりつつある都会は惨憺たる有様だった。 

 

血と雨と無尽蔵の怨嗟、絶望、恐怖の混じりあった腐臭が其処彼処に充満している。原型を留めない肉の塊が障害物として転がる地上には道路と敷地の境を無くしていた。 

 

「見つけたぞ、宿儺の器!」 

 

鎖と繋いだ錨が飛来してきた。力走中の奇襲をものともせず、虎杖は跳躍することでそれを避けた。彼に並走する菅田と祢木が反撃する。 

 

「しつこいわね!」

「うおっ?」

「虎杖悠仁、お前は後ろを気にせず走り続けろ。」

「うっす!」 

 

上空から一行を見守っていたウロボロスが新たに現れた刺客を纏めて噛み殺した。

魁偉な蛇、片や呪詛師に上背後を守られながら虎杖は云われた通りに両脚を動かす。隼の如き速度で瓦礫の道を一目散に進む彼の手には確りと獄門疆が握り締められていた。 

 

…遡及すること半時間前、逸の頼みにより最大の修羅場へと赴いた九十九達は二体の特級呪霊と一人の特級呪術師が創造する混沌を目の当たりにした。

 

十種影法術師最強の式神とされる八握剣異戒神将魔虚羅、偽夏油一派の中で最も練度の高い大地の特級呪霊漏瑚、宿主の肉体の制御権を奪い現界した人類最強の呪術師宿儺。天を穿つ大噴火と大地の下層に達する打撃、大気をも切り裂く斬撃が一処に激突しては甚大な衝撃波を拡げてゆく。邪を極めた悪鬼らの激闘は留まるところを知らず、遅かれ早かれ渋谷は完膚なきまでに文明を失うだろうと思われた。 

そこで、特級たる九十九が先陣切って魔虚羅へと挑みかかった。混乱を分散する試みであった。

他方で見る見るうちに遠ざかっていった九十九と魔虚羅を見送る間に、祢木達の存在に気付いた宿儺が方向転換した。 

 

——また貴様か、ウロボロスめ!今日こそは蛇鍋にしてくれるわ! 

何やら面識のある素振りを見せた宿儺の豹変ぶりは凄まじく、突如交戦を切り上げられた漏瑚が思わず目を丸くしたほどだった。 

 

…驚嘆すべきことにウロボロスは超越的な実力で同時に二体の特級呪霊を相手取った。覚醒前とはいえ術師最強、宿儺に劣るとはいえ数多の上級術師を屠ってきた特級呪霊。それが揃って一大捕鯨の如く巨大な蛇に挑みかかっているのだ。如何いうからくりか都合の良い小隙に直下する稲妻と連携して、九十九の意向に沿うべく被害を最小限に留めんとする計らいも看取できた。 

菅田と祢木は出る幕もなく目前で繰り広げられる非現実的な闘いを見守るしかできずにいた。 

 

最初に漏瑚がウロボロスの呪力の砲撃に敗れた。次に遠方で頻発する爆発音もが静まった。

尚も宿儺とウロボロスは殺意を交わしている。その隙に菅田が漏瑚の遺した獄門疆を獲得した。

その後暫くはウロボロスが遇らうかの姿態で対手していたが、やがて宿儺が限界を迎えた。彼は意識が切り替わる寸前に口にするのも憚られる憎悪を吐き出し制御権を完全に失った。

 

虎杖の帰還である。勿論、深層へ潜伏中だった彼は自身の躰を奪った男が何をしでかしたのかを鮮明に記憶していた。 

 

何もかもを破壊し、剰え人々の死を嘉した己を呪った。眼も耳も唾も臓物も言葉も、己の凡てが忌避すべき毒と化し存在そのものが許されざるものとなった。

深傷を負った呪霊のように蹲り、今にもくたばりそうな青年を叱咤激励したのは意外にも二人の呪詛師だった。断じて宿儺の器の為ではなく、度々柳眉を顰めては先見の明があるかのようにこの事態を憂いた、己らが弟と認めた若者の為に。 

 

獄門疆を返された虎杖は、呪詛師である彼等が自身の前に現れた経緯を聞き五条の封印を解くべく立上ったのだった。 

 

——夜蛾が待機する渋谷料金所に到着した虎杖は丁度時を同じくして帰還した日下部達と鉢合わせた。 

 

「いやあ、さっきは危なかった。」

「先輩、味の素みたいになっちまってるけど大丈夫っ?」

「平気平気。あと一ミリで子供に綿引き出されたパンダ状態になるとこだったけどなんとか生きてるぜ。」

「それ全然平気じゃなくない!?」 

 

日下部が血染めの菜々子と菜々子をパンダから預かると、楽々肩に担いで診療所に連れて行った。なんでも逸が事前に用意した獄門疆を解除できる呪具、天逆鉾を預けられた二人を探す為に尋常でない苦難を乗り越えねばならぬ羽目になったらしい。逸が呪詛師を利用したことが明らかになったことで、多くの呪詛師が血眼になって彼と関係者を惨殺すべく捜索していたのだ。

肝心の少女二人を発見したものの追手の数が予想以上で、あわやというところで街中を泳いでいたリヴァイアサンが救援に現れた。

扶ける筈が扶けられたと、立つ瀬なさげな面持ちでパンダは語った。因みにリヴァイアサン、虹蛇は五条が高専側の掌中に収まったのを確認するや否やあるべき所へと還った。 

 

三着目の帰還者は魔虚羅と対峙し勝利を収めた九十九とまだ命脈を保っている非術師と術師を治療して回った蛇精だった。

女体化を解き正真の精霊としての姿をとる蛇精が胴体を存分に痙攣させて吐き出したのは擦り傷一つないものの瞼を固く閉ざしている七海、真希、それから他者への反転術式を使えぬ九十九に預けられた伏黒。蛇の唾液を浴びてねっとりと粘つく体を誰が支えてやるかという押し付け合いが暫しの間長引いた。 

 

ともあれ、こうして九地勿倭投術によって召喚された蛇達が渋谷中で誉を取るに値する目覚ましい活躍をしてみせたことで、初めは半信半疑であった逸の真実を疑うものはいなくなった。残るは本人に盛大に焚附けられ、容量を超える憎しみを植え付けられた五条のみであった。 

 

………。 

 

機運は十分に熟していた。二千年という気が遠くなるような歳月を経て鑿井された変革の井戸はたった一晩で満杯になり、悲願は水と油の如く分離しこの世に横溢した。唸る天と猛る大地と瀆神の心意気がそのように在るように、静謐な秩序に耐えかねたあらゆる想念が戦慄していた。武者震いともいう。 

 

争いという不可視の変容を魂で精確に感じ取り、まだ露わになっていない異様な予感の為に誰もが総毛立ち各々の防衛機制を稼働させていた。 

そして愈々物事は起こった。 

 

但し唯一の誤算は、満を持したのが逸だけではなかったということだ。 

戦禍の中心的存在が解放されたとき、初めて地上の人々は夜空に佇まう二つの月を仰いだ。 

 

………。 

 

封印から僅か三時間足らずで解放された五条に突きつけられたのは紛糾の迷宮だった。

 

逸が法ばかりか倫理を踏み躙り黄昏れてゆく様を手を拱いているしかなかった三ヶ月は実に長かった。来日早々彼と対面した九十九の不芳な報告に、呪術界の君主に無慈悲に跳ね除けられようとも己だけは見放したりしないと誓っていた。

見捨てないというのは罪を憎んで人を憎まずということではない。彼は頑なに再現のない善人ではないのだ。自身の不在中に高専に侵入し戦争宣言をしたと聞いた時には潔く腹を括った。自覚なくして敗残の人生を送らせるくらいならば自分が引導を渡してやろうと。 

 

教え子が離反してから日を指折り数えた棒を折るためだけの期間は、大時化の海原を漂うかの烈しい葛藤と覚悟と悔恨の連続だった。逸がどれほど見る影もなく零落しようとも彼への仁愛が廃れることはない、それだけだ五条の理性を保つ命綱だったのだ。 

…それを本人によって穢されるまでは。 

 

不本意の殺戮に尽力した渋谷の地下鉄で久方ぶりに対面した逸は昔を思い出させる屈託のない笑顔を湛えていた。

やや上擦った冗舌で冒涜を吐き出す彼に猛然とした怒りが五条の心身を襲い掛かった。必要以上に神経を使った己こそが、腫れ物と化していたのだ。強固であれと志したはずの精神の防壁はたった二、三言の故人への侮辱の矢によって呆気なく瓦解した。 

 

次に目覚めた時は真っ先に無下限の祟りで始末をつけようと固く誓った。 

斯様な心の変遷が性懲りもなく掻きむしろうとするとは夢想だにしなかったのだ。 

 

「はっ…なにそれ。悪い冗談だろ」 

 

五条は疲れてしまった。いっそのこと何もかもが悪夢だと云われた方が救いがあった。 

 

非術師殺害未遂から始まった数々の悪しき巡り合わせは悉く五条の「すぐる」を取り巻く純粋心情に仇で返してきた。しかし一つの世界が崩壊すると別な現実が結晶し始めて、その世界像を紐解く間もなく新たな闇をもたら齎してくる。もはやこれは完結していない悲劇の作品であり、逸は自身の名と魂に纏わる二世代に跨った死に物語を利用してみせたのだ。誰にも悟られることなく、非術師嫌いという最適な悪役を演じて。 

 

真実を告げてからも吐息をつくだけの五条に耐えかねたのは、逸の兄姉だった。 

 

「いつまでも愚図ってんじゃないわよ。…あの子がどうして自分の本心を無視してまでこっちに来たか、わからないわけ?」 

 

日頃の他者への慇懃を取り払った菅田の苛立ちを隠しきれない声色が、粛とした空間に波及した。

 

東京都郊外の森で無防備な姿で赤心を吐露し頭を下げた青年の、混じり気のない優しさが心を突き動かした。爾後、彼女達は作戦会議の度に惚け顔で高専での多幸を聞いていたからだ。二度と戻らぬ過去、死んだ栄光に涙を堪え自分以外の平穏を切望する不器用な若者の誠を。 

 

何故彼が一呼吸するだけで肺腑どころか精魂までもが腐り果ててしまいそうな世界に身を堕としたのか、三ヶ月足らずしか行動を共にしていない祢木ですら分かることを五条が理解できない筈がなかった。現実を拒む五条を二人が許容するわけにはいかなかった。 

 

「高専を、頭から腐った組織を見限ったから?…違う。五条派の人間ですら頼るには心許なかったから?…違う。あんたに親友を二度も殺させたくなかったからだ!」

「ッ!」

「皆が笑って平和を享受できる未来の為にって憎まれ役を買って出て、苗字まで捨てた逸の覚悟をあんたが否定したら、あの子は何の為に戦ってきたのよ!?」 

 

静寂が流れた。 

涙ぐんで五条に詰め寄った夏油派の呪詛師にその場にいた術師たちは誰もが胸を打たれて注目していた。

 

いつしか嵐一過の渋谷の空気は澄み切っており、宵闇に広がる料金所はまるで朝を待ちあぐむ境内のようにも感じられた。 

嘆息の一つも禁じられたかの沈黙が続いて、やがて伏せられた六眼がゆっくりと開かれる。美しい碧を秘めた五条の相好には、もう一寸の迷いもなかった。 

 

「逸は何処にいるの」

「最後に別れた時は高専に用があると言った。だがどうにも帰りが遅い」 

 

云い終えるよりも早く皆の視界から五条が消えた。何処に向かったかは明白だった。 

即刻後を追おうとして、二人の前に開かったのはウロボロスだった。 

 

「もう時間がないが送り届けてやるくらいならできる。乗れ。」 

 

獣の唸り声のような、精霊の囁き声のようなそれが何を語っているかは判らない。しかし祢木達を見下ろす深紅が肯定的な意を含んでいるのは容易に察せられた。

先んじて虎杖が飛び乗ると、慌てて祢木達もウロボロスの背に跨りあっという間に地上が遠ざかってゆく。そして転瞬、三人は高専の敷地にいた。 

 

「梔子!」 

 

虎杖が叫んだ。東塔区域の立派な柳の木に逸は凭れ掛かっている。渋谷ほどではなくとも争乱の蹄を残した高専の壊滅的な入母屋造りは閑寂を被っており、耳を澄ませることは容易かった。

満身創痍の様相で腹を抑えて力無く座り込む逸と、焦燥を滲ませ傷口の具合を確認する五条を三人は固唾を飲んで見守っていた。

到着と同時に光の粒子となり雲散したウロボロスには気付かずに。 

 

「せんせ、もう、俺のこときらいでしょ」 

 

もう二度と目通りできぬと思っていた教師の顔を呆然と見詰めていた逸が、我に返って尋ねる。何もかもを観念した声遣だった。 

五条は手を止める。指先だけが器用に痙攣した。 

 

「…ないだろ……嫌うわけ、ないじゃん。逸は俺の大事な生徒なのに。」 

 

眸子が見開かれる。現か夢を疑っているようだった。 

 

腹に回る手の動きが再開されて痛みに呻くと、自身の目の前にいる存在が幻ではないことを知った逸は泣きそうに笑った。じんわりと日輪の光を吸収したヒヤシンスがほろりと月夜に散るように。癒しきれない悲哀と漸く叶った細やかな幸せに感に堪えないといった面輪で。 

震える腕が五条に伸ばされる。五条は力強く逸を抱き締めた。 

 

「仲直りのハグ…ずっと、したかった…!」 

 

ごめん。ごめん。壊れた機械さながらに何度も謝罪を口にする逸と応えもせずに只々背中に回す腕に力を込める五条。まるで七転び八起きの果てにハッピーエンドを迎えた超大作を目の当たりにした心地に、虎杖も菅田も落涙せずにはいられなかった。逸の悲願が果たされたのだと…。 

 

雀躍する足取りで駆け寄った虎杖が抱擁に加わって、思わず逸に声掛けんとした菅田の手首を祢木が掴み止める。見返って、愕然と色を失う祢木に小首を傾げた。

彼の視線を辿って三人を見遣る。 

 

——一陣の微風が虎杖達の間をすり抜けた。ひらりと前髪が拐われる。 

一瞬、その一刹那に菅田は祢木が絶望した理由を理会した。  

 

 

 

 

『若しも俺が偽物に負けるようなことがあれば、その時は任せた。』

 

 

 

 

 

逸の額を見覚えのある縫い目が一周していた。 

 

 

前篇(完)

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