麻の茂みがさやさやと風に揺れている。陽光は満遍なく清らかなエネルギーを地上に降り注いでおり、鼻腔を通る空気は感じたこともない新鮮さを含んでいた。正真正銘の神秘が漂っているのではないかと感嘆が溢れるほどの情景だった。
霊験あらたかな檜が用いられた豪壮な木造建築が眼前に何軒も屹立している。中でも真正面に明晰な気配を漂わせる重層母屋神殿造は圧巻の一言に尽きる。離れた位置に聳える緩やかな屋根の勾配が特徴的な三重塔にはそこはかとない既視感があり、笹叢や木立てに箱庭の如く囲われるようにして建つ幾つもの寺院のような建築物は足を踏み入ることすら憚られる素晴らしい眺めだった。
此処が何処かを俺は知らない。
二〇一八年十月三十一日、偽夏油に殺されて地獄へ堕ちるとばかり思っていた俺が次に覚醒した時にはこの禁足地もかくやの敷地の、人気のない参道で茫然と佇立っていた。しかも十六歳よりも五六年成熟した風貌で。
ほんの数分前の出来事だ。何事が起きているのかすら呑み込めずに只々嘘みたいな光景を漫然と眺望するしか出来ずにいた。
俺は死んだのだろうか。これは肉体を離れた魂が視ている束の間の幻か。そうでなければこんな極楽浄土さながらの居心地に浸れるわけがない。或いは奈落の一歩手前で不動明王の審査を受ける前に最後の晩餐とばかりに見せられる幸せな夢だったり。
若しかして死んでない可能性も…ないな。呪霊に腸を食い千切られて偽夏油に胸を貫かれた感覚は疑いの余地もなく本物だった。五感が失われてゆく異様に長く感じられた時間も、最期に肉体がふっと軽くなった瞬間も偽物だったとは思えない。よしんばあの場での死が嘘だったとして、検討もつかないこの場所にいる理由に説明が付かないじゃないか。
ならなんだ、夢オチとか?んなわけあるか。
頭を捻らせば捻らせるほど増大する混乱に腕を組み唸っていると、不意に気配がした。
背後を顧みる。…京染とは少し異なる鮮やかな櫨染色を下地とした長服を着た男が立っていた。肌の隠れた両手を胸元で合わせて、叮嚀なお辞儀をして。
「お待ちしておりました。」
「え?」
「彼の方が貴方様のご帰還を察知され私めを迎えに寄越されたのです。さあ、参りましょう。」
「え?え?あの」
時代劇の衣装にしては大時代的な身なりをした男はこっちの困惑なんぞ知ったこっちゃない、というよりかは微塵も気付いていない様子で背中を向ける。優雅な雰囲気のわりに脇目もふらずに速い歩調で進んでいく彼に、漸く我に返った俺は慌ただしく追いかけた。
………。
向かった先は参道の先にある古代中国を彷彿とさせる反りのない高欄と装飾が特徴的な飛鳥様式の木造建築。威容な外観に相応しく内観も美事で調和の取れた意匠は仏堂といった印象を抱かせる。
男に連れられて回廊を渡って中に案内されると、鮮やかな天蓋に囲われた内装の中心、仏様が安置されているべき蘇芳色の台座で少女が胡座をかいていた。これまた癖の強い七五三かと思うような礼服を纏った姿に呆気に取られる俺を他所に、案内人は「只今お茶をお持ち致します。」と席を外してしまう。
入口で立ち尽くすしかない俺に少女は声掛けた。
「おかえり、久遠の地獄に挑戦する者よ。まあ座りなさい。」
年端もいかない子供の鈴が鳴るような音色が紡ぐ大人びた挨拶に小首を傾げたのは当然の反応だった。
「えっと、俺と君って知り合い?悪いんだけど此処が何処かも分からなくて」
「そうだね。だから説明してあげよう。」
つと彼女は立ち上がった。その背丈は大人姿の俺の腰ほどもなく、思ったよりも少女が幼いことを知った。
銀色に珠玉を散りばめられた宝髻が自然光に薄く煌めく。一歩、また一歩とすり足で進むたびに装束の裙が波のように揺れる。老いなんて微塵も知らない姿容なのにどうしてだか俺の眼には彼女が何千年も生きながらえている妖の類か神様のように捉えられた。
少女との距離が目の鼻の先に縮み、そして…
「まぁた失敗しやがったなこの野郎!」
「ギャァアア!」
突如般若を背負った少女に俺はボディスラムを掛けられた。
——背景、お母さん
五歳児に一発KOされて意識を失った無様な俺ですが元気にやってます。ここが死後の世界かも分からないけど取り敢えず五歳児に一発KOされて意識を失ったこと以外は無事なので安心してください。また連絡します。
「すまない。つい我を忘れてしまった。」
「良いよ別に。とばっちり受けるのは慣れてるから…」
暫くして、物理的にも精神的にもなんとか立ち直った俺は彼女の台座にお邪魔していた。
出されたお茶に口を付ければ頭を打った拍子に切れた口内が沁みた。沁みたのは情けない心だったかもしれない。
「で、君は誰なの。ボディスラム掛けるくらいなら知り合いってことだよね。そうだと言って。」
じゃないと唯でさえ五歳児にプロレス技掛けられて気絶した自分が恥ずかしくて死にそうだ。ところが彼女が無情にも「初対面だよ。」と返したので俺は自発的に頭を床にめり込ませた。
「まあ初対面といえば語弊があるね。」
「あー日本語弱い感じ?」
「聞きなさい。」
「いて」
額に下りてきた手刀はしっかりと痛かった。いい加減彼女の両親に物申したいところである。暴力は駄目だぞ。
心中で愚痴りだす俺にまたもや振り翳されそうになった腕に直ちに姿勢を正した。
「じゃあ答えられるの?此処がどこなのか。それと君は誰なわけ?」
至極当然の問いを口にした瞬間、世界が制止した。
宇宙空間に放り出されたかの粛然たる沈黙が俺達を包む。境内に生茂るあらゆる植物が仏堂内の変化を感じ取ったように騒めき、小鳥たちの聞いたこともない生命力溢れる囀りが室内に流れ込んでくる。
ほんの数秒のことだった。真正面に見据える少女は天女もかくやの微妙を湛えている。
俺は固唾を呑む。
存分に間を開けて、少女は告げた。
「此処は飛鳥の時世の斑鳩寺。そして私は天元、君との初対面はこれで百万回目となる……へみの君。」