二〇〇六年。
森羅万象の芽吹きと衰退の繋ぎ目を担う爽やかな季節。容赦なく陽射しを浴びせる太陽に抱かれて、行きつ戻りつする旺盛な意欲。海と空と大地を飛び交う風に乗って忘れじの光を心に灯した、烈しく儚い花火のような夏。
これは、飛翔の日々を巡る青の記憶——。
一組三人しか存在しない高専二年の教室にて、五条と夏油は夜蛾から任務の説明を受けていた。
星漿体の適合者の護衛と抹消。老化の限界を迎え術式が天元の肉体を作り変えてより高次の存在となり、列島の脅威となるのを回避すべく彼女の肉体の情報を書き換える為の血漿の母体、悪く謂えば生贄。しかしながら天元との適合を目論む輩が存在している。
「呪詛師集団Q、盤星教時の器の会。」
Qは天元の暴走によって呪術界の転覆を目論む叛乱者、片やへみの君と純粋な天元を信仰し星漿体という不純物を忌避する過激宗教団体。その他不穏分子が蠕動しているやもしれぬ状況下で星漿体の所在が漏洩したことにより天元たっての希望で無下限術式と六眼の奇跡と呪霊操術の秀才が護衛に択ばれた。
「だが必要以上に気負う必要はない。何と言っても今回の任務にはへみの君もお力添え下さる。秘密裏にだがな。」
喫驚が二人の丸くなった目に顕著に表れた。更にも増して夏油を驚かせたのは続く五条の言葉だった。
「いや帝様いて俺達いる?」
「帝様?」
「御三家はそう呼んでんの。」
「へみの君ってそんなに強いのかい?」
「強い。俺達が最強なら帝様は異次元の最強。最強オブ最強。やべえしマジパネェ最強。」
「最後らへん適当だろう。」
「わかっちった?」
二人で最強と自称してきた級友が、己らの上位に位置する存在を素直に認めたこと自体が夏油にとっては天変地異を危ぶむほどに意想外であった。敢えて任務は二人きりで良いのではと提案してみた夏油を五条は一蹴した。
「前の前くらいかな。星漿体の護衛任務を俺と同じ六眼と無下限の抱き合わせのご先祖様が担当したんだよ。そん時、ご先祖様が変な呪詛師に唆されてうっかり星漿体を殺し掛けてしかも天元様を誘拐しちまったんだって。」
「なんだって?けど天元様は今までご無事だったんだろう?」
「うん。だって帝様がご先祖様ボコしたんだもん。」
もうぼこぼこのぼこ。まるで己が無下限を突き破って平手打ちされたかの渋面で五条は云った。耳を疑った夏油は夜蛾を見遣る。しかし同じような顰蹙顔が返ってくるだけだった。
現時点で無双とされる術式が二千歳超えの術師とはいえ術式も定かでない者に敗北するという絵面が夏油には想像できなかった。しかも散々自身らは最強だと肩に風を切ってきた浅慮極まる青春の二年目にして。
完全に毒気を抜かれた夏油の傍らで更に五条は「赫もできない俺じゃ一吹きでブラジル行きじゃね?知らねぇけどさ。」とぼやくものだから思わず「巨人かな?」と脳内でのへみの君像を脚色せずにはいられなかった。
「それと今回は直哉も参加する。今は任務中だから現地集合になるだろう。」
思い出したように告げた夜蛾に五条がうげと心底嫌そうに舌打ちする一方で、夏油は顕著に表情を期待感に彩らせた。
禪院(伏黒)直哉。禪院家の相伝を継承し、史上初魔虚羅を調伏した特級術師であり高専両校にて使役系術式の生徒専門講師として二重勤務している。幼少期にへみの君に認められたことにより京都高専卒業と同時に直毘人に禪院家当主に任じられた。
以上の略歴は位人臣を極めたといっても過言ではないが、如何せん彼は偏屈人だった。
というのも直哉はへみの君を熱狂的に信奉しており、学生時代には成人すれば出家、剃髪し薨星宮にて仕えると壮言し直毘人を三日三晩寝込ませた過去や、へみの君を貶した呪詛師を肉塊にして高専の鳥居に吊るした等々、取り上げだしたら枚挙に暇がない怪談話を本人は武勇伝の如く語るのである。余談だが出家については薨星宮は神社仏閣ではないと拒否したへみの君により事なきを得た。
又、五歳の頃よりへみの君の勅令で平日は伏黒家で、休日は実家で暮らし倫理教育と英才教育を受けている為に禪院の者にしては非術師への理解は深いものの争えぬ血筋故に誰に対しても権高な態度を取るので——というよりかは彼が崇拝するのはへみの君のみであり、伏黒家や実父、教え子など極一部を除いて術師だろうが非術師だろうが人間は部屋隅の塵も同然なのだ——爪弾きにされがちである。
昨年中秋の季節、六眼と無下限術式の抱き合わせとして蝶よ花よと愛でられ傲慢不遜な若者に育った五条は軽率な心意気で歳が然程離れていないにも拘らず教師となった直哉に挑み、そして完膚なきまでに打ちのめされた。彼は初めて血腥い敗北と強さの無窮をその身で思い知った。爾来、彼の術式は直哉の指導対象ではないものの度々夏油と共に扱かれている。二年目に突入した今日この頃になっても直哉の煽り文句に耐性を付けられていないが、強者には一定の敬意を払うので密かに一目置いているのが現状である。
無論、二人の戦闘——魔虚羅による一方的な蹂躙——を鑑賞した夏油は式神と呪霊では対象は異なるとはいえ使役系術師である直哉の胸を是非とも借りたいと強く願った。彼は五条とは違い師匠には常日頃より敬意の念を抱いている。
「これ絶対俺ら要らないじゃん。」
「うん、私もそう思えてきたよ。」
「喧しい。これは既に決定事項だ。良いか、心して懸かれよ。」
氣強い御方と助っ人がいるに越したことはないという夜蛾の締めくくりでその場は纏まった。
………。
同日、廉直女学院から遠からず近からずの住宅街。星漿体基天内理子とその付人黒井美里と合流した五条達は五月雨式に襲い来る問題に紛紜に拘っていた。仔細な経緯を割愛して、天内の殺害を目論む輩から彼女を守るべく五条と夏油が駆け付けた隙に、黒井が人質に取られたのだ。実行犯も首謀者も釈然としていない。しかし先方から五条の携帯宛に拘束される黒井の写真を添付した匿名メールが届いたことから、じきに人質交換等の要求がされると予測された。
「天内がいる限り交渉の主導権はこっちにある。こいつはこのまま高専に連れていって、硝子に影武者やらせりゃ良いだろ。」
「ま、待て!助けられたとしても!同化までに黒井が帰って来なかったら?」
懸命な声が二人を引き留めた。美麗な水槽を映し出したかの紺碧からは今にも水が溢れ出しそうだ。
四歳の時に家族を失い、あらゆる自由が制限された環境下で育ってきた。黒井は彼女が物心つく頃から世話係として長く努めてきた。学校の友人よりも、たとえ天元と同化しようとも彼女の魂に水魚の如く結びつくかけがえのない存在。
「まだ、お別れも言ってないのに…!」
「………。」
同化ではなく、抹消と夜蛾は云った。何れ天元として高専の最下層で結界の下となる、はっきり云ってしまえば未来を奪われる若者に心を寄り添わせられるように。天内に残された時間、意思を尊重してやるのが夏油と五条の役目である。
誰の説得がなくとも葛藤は乗り越えられた。
「お前を連れて行くことで黒井さんの生存率が下がるようならやっぱ置いてく。逆にいえば途中でビビって帰りたくなってもシカトするからな。覚悟しとけ。」
「っそれで良い!」
意を決した眼差しが交差し合うと、気詰まりな空気を振り払うように夏油が溜息を吐いた。
「それにしてもへみの君が付いて下さるんじゃなかったのか。」
「しーらね。ヒキニーでもしてんじゃねェの?」
「悟…」
…突として、影が差した。雲にしては大きく長い影が。どんどん近付いてくる。
「あ、あ、あれ…あれ…!」
「ん?」
天内が顎を外さんばかりの面相で指を指す。二人は天を仰ぐ。広大な影を作っていたものの正体を。
「空飛ぶ、蛇?」
瞬間、蛇が屋上に降下した。
五条と夏油は思わず構える。音のない着地にもかかわらずそれは不可視の大津波もかくやの突風を巻き起こした。あわや飛ばされそうになった夏油が呪霊に踏ん張らせ、五条が無下限を張って天内を確りと掴む。
そうして露わになった蛇に騎乗する人物を見上げた五条が先に術式を解除した。
まるで敵意を自ら削ぎ落とすような破天荒な最強らしからぬ態度に夏油は訝りつつも同様に呪霊を納める。そして今一度その者を…否、その者達を見て慄いた。
「へみの君?」
自身の敬称を呼ばれたへみの君は、その両腕に黒井を抱いて五条達を見下ろしていた。