今から総計十五億年前、俺は今回と同じように高専を離脱した。天与呪縛とは異なり五条先生との些細な口喧嘩が原因だった。まだ前世を思い出せていなかったあの時の俺は失意のどん底で現れ手を差し伸べた縫い目のある夏油にまんまと騙され、呪詛師勢力を率いてハロウィンの渋谷事変を決行した。
…思い出した時には凡てが遅かったのだ。原作は筋書き通りに進行し五条は封印されてしまった。己の悪行の数々に鬱する暇もなく挑みかかった黒幕との戦いは案の定惨敗。二つの月を背景に不気味に片笑む偽夏油…羂索を見上げて、ツッチーに見守られながら。
俺は俺自身を呪った。それが地獄の始まりだとも知らずに。
次に目を覚ました時、俺は奈良時代の平城宮に佇んでいた。何かの祭儀中にどこからともなく現れた俺を物怪と早まった認識をした連中に攻撃されて訳もわからず応戦していた俺を助けてくれたのがまだ五歳の天元だった。藁にも縋る思いで事の次第を打ち明けたものの彼女からの返事も芳しくない。
俺は勝手に納得した。きっとこれは俺が自分の始末をつける為に神様が與てくださった機会なのだと。そこが俺の求める世界線であるかも定かではない状況で俺は力を付け始めた。けれど現実は思いも寄らぬ方向へと進んだ。
俺は不老不死になっていた。それも途方もない長期間に渡って暫定的に。というのも、呪術全盛平安時代に邂逅した俺と羂索は物理的に死ぬことができなかったのだ。互いに相手が誰であろうと、どれ程肉体が欠損しようとも必ず躯は再生された。宿儺に細切れにされても事切れないのだから愈々ややこしいことになったと苦悶する日々。同様に事態を呑み込めていない天元と暮らしながら、時折羂索と対戦しては不完全燃焼で帰ってくる毎日。いつしか俺はへみの君と術師達に仰がれる存在になっていた。
時代は下り現代になった。千云百年の歳月を生き永らえた俺にとっては人間の半生なんて一瞬で、待ち望んでいた梔子逸の誕生を見届けると愈々己の存在意義が分からなくなった。そんな俺に喝を入れて送り出してくれたのは天元なんだから、彼女には感謝してもしきれない。
来る二度目のハロウィンの夜、俺は夏油の肉体に収まる羂索と対峙した。もはや何回戦目かも覚えていない。精進を重ねた肉体は接戦に持ち込んだが、しかしながら唯の蛇を召喚する凡庸な術式では決め手にかけており決定的な主導権を獲得したのは奴の方だった。
涙さえ流れず、肉体が再生される前に意識を手放した俺が次に目覚めたのは千三百年前の東大寺転害門だった。俺を取り囲む兵達と困惑しつつも庇ってくれる天元。記憶のない彼女に事の次第を説明した俺は再び保護者として呪術界の基盤を創り上げることに。
幸いというべきか、不幸というべきか羂索は俺を覚えていた。俺達は前回と同じく幾度とない決闘を繰り返してハロウィンに至り、そして死んだ。
流石に三度目ともなれば検討がつく。俺は二〇一八年十月三十一日に殺されるたびに回帰しているのだ。
それからはある時は記憶がすっぽ抜けたまま戻ってきたり途中で思い出したりと、忙しのない回帰を繰り返す毎に少しずつ己に降りかかっている災難についての情報を収集し、千回を超えたあたりで遂に天元が——試行錯誤の末に彼女は自ら記憶を継承できるようになった——原因を発見した。
——逸、君は面白い
十六歳での死はほかでもない俺が俺自身を呪った結果だった。前世、猿に殺された日の人生への未練を思い出したのを契機に。だがこれだけなら惨めな最期を遂げるだけの筈だった。
九地勿倭投術師は稀ではないが御三家の相伝よりも発現者は少ない。というのも、この術式には規則性がなく術師によって可能性は千差万別なのだ。血縁や呪力量に関係なく、時には先天的に呪力を持たない人間が術式を使えるようになることもある。まったく謎めいた術式だが、実は発現には絶対条件があったのだ。
輪廻転生如何なる一生を問わず生死に関わる出来事に蛇が関与していること、これのみ。そしてその蛇の特性が術者の能力を大きく左右する。たとえばオオアナコンダに噛まれて死んだ人は凄まじい締結力を持っていたり、ヤマカガシで三途の川を渡りかけた人は己の体液から窒死毒を分泌できたり…元々
なんでも俺が前世で救ったツチノコにはたった一度だけ彼が望んだ権能を術者に附与する能力があったそうだ。人生のやり直しを望んだ俺の最期の瞬間に二度居合わせたツッチーは強く願った。俺が今際の際に思い描いた幸せな世界が実現されますように、その為に余りある時間が許されますようにと。
そうして「二〇一八年十月三十一日に俺が羂索を斃して皆で平和な十一月一日を迎える」為の百万回の回帰が始まった。
「そんなこと、あって良いのかよ。だって、いくらツッチーだからって神様でもない蛇が実現できることに限りくらいあるだろ…」
「ささやかな祝福が天変地異にも匹敵する呪いに転じることもある。未来で乙骨憂太が想い人を特級過呪怨霊にしてしまったように。」
残念ながらツッチーの願いは乙骨を優に凌ぐ弊害を生み出してしまった。そしてそれらが俺だけでなく羂索と天元をも巻き込み救いのない死と絶望のループを繰り返させているのだと。
解呪するには運命の日に羂索に、五条先生に、天元との同化によって三度死ななければならない。勿論、それぞれに重大な機能がある。
最初に十六歳の何も知らない俺が羂索に殺されること。これにより俺が俺自身に掛けたハロウィンの夜の絶対死の呪いが解ける。
次に羂索に躯を奪われた俺が五条先生に殺されること。回帰の所為で俺を中心に理から外れてしまった世界を支障なくその後通常の時空間に適応させる為の措置だ。細かな手段があるがそれは後述する。
最後に天元との同化。これも後に詳細を説明するが、回帰の繰り返しの末に生じさせることとなった天与呪縛をさっぱり取り払う取り除く為の手段だ。
以上三つの試みが成功することで初めて改変されすぎた過去と現在に辻褄が合い、未来へと繋がる。適切な時期、適切な時系列上で実行されることで歯車が噛み合い、あるべき正常な歴史を刻み始めるのだ。だが先述したように唯殺されたら良いわけではなく、厳密な条件が定められている。それらを模索する為に気が遠くなるような時間を費やし時には絶望を超えて発狂して、最後には悟りを開いて誤差の発見に至った。
先ず、羂索に殺められるには獄門疆を未来で破壊しなければならない。そうしなければこの地獄の法則を知らない奴は何度だって平成以前の過去で三つの条件を達成しようとしてしまうから。前にも五条家が存在しない世界観だってあった。
「けど天逆鉾は天内理子の星漿体任務で五条先生が壊したはずじゃ」
「不都合なんて捩じ伏せれば良いじゃない。」
「物理で解決するタイプの日本版マリーアントワネット?天元のキャラどこいった?」
「百万回だよ。君の回帰に付き合わされて。羂索も私も気が狂わないほうがおかしいだろう。」
「なんかごめんなさい。」
「素直に謝る君も何千年ぶりかな。」
どうやらあの糞脳味噌野郎も俺を百万回惨殺しても足りないくらいに恨んでいるらしい。俺の所為じゃないのに、だなんていえば目の前の少女からボディスラムを掛けられること間違いなしなので黙っておく。雉も鳴かずば撃たれまい。
話を戻そう。前回の回帰で俺は消極的な介入を択んだ。世間では現人神だのと信仰されている存在が縦横無尽に活躍してしまえば羂索が感知して不要な障害が生まれかねないからだ。だから奈良時代から歴史の針を進ませて奴から黒宝玉を奪ったのを最後に薨星宮に引き篭もり、あとは平成の星漿体任務で天逆鉾を秘密裏に獲得してツッチーに預けるのみで以降の原作の導きは彼に委任した。梔子逸の離反の決定的な出来事ですら誤ればハロウィンに至ることができずに終わってしまう。あのまま図書館で五条先生に殺されたり、数日後に別な呪詛師や術師に殺されたりと何千回と経験した末の最適解だ。
運命の日の偽梔子の殺害だが、これは俺が呪術廻戦の世界に転生したことで付随して発生した呪いの一部…五条悟と「すぐる」に纏わる因果を断ち切る為でもある。理を修復すること、五条先生との縁を刷新すること、これらを成し遂げるにはバジリスクの牙と黒宝玉が必要不可欠だ。というのも、俺が鎌倉時代に黒宝玉に保管した呪具高度化の術式をバジリスクの牙に使用することで強化された牙は法則を覆すことができる能力が附与されるのだ。本来ならば五条先生がこれを用いて俺の心臓を貫かなければならないところを届ける前にへみの君…回帰済みの俺が先にリタイアしてしまったことで九十九万回目の試みは失敗した。
今回、百万回目に至るまで一度として成功した試しがないのが俺の地頭の悪さを如実に物語っているが、泣こうが笑おうがこれで本当に本当の最後となる。つまり、失敗は許されない。
「知っての通り、唯の死では回帰を繰り返すだけになる…いや、君にはもう後がないんだったね。」
「ちょっと刺さる言い方やめて。」
「そこでだ。漸く万物の理の修正方法に行き当たったのは十万回前、そして一万回前に私達は五条悟が確実に君を殺害する為の方法を思いついた。」
「羂索に俺を乗っ取らせる…けどどうやってそんなことを?あいつが夏油の体を乗り捨てるとは思えない。」
白皙の美少女は妖しげに微笑んだ。
「おかしいと思わなかったかい?後天的に天与呪縛が顕れるなんて。」
「待って、何が言いたいわけ」
「それはへみの君としての君が梔子茜に実現させたことだよ。」
「まさか…」
「ああ、そのまさかだ。」
祖母の術式は蓋然祈願。簡単に謂えば予言を成就させるというものだ。健常であるほど、最後の予言から期間が空いていれば空いているほど成就しやすい。戦闘には不向きで実際に行使したのも数度しかないが、若しも彼女が俺に天与呪縛を与える為に長らく控えていたのだとしたら。
そも、天与呪縛関係なしに練度がある段階にまで仕上がったら伝説上の蛇も使役することができるようになっていたという。領域展開ができないのは天与呪縛の所為ではなく、未来で習熟することで必然的に獲得できた伝説、神話級蛇類との契約を祖母の預言で強制的に早めたことに対する代償だそうだ。物理的に非術師が猿に見える問題に関しては明日にでも解決できる些事らしく、すると領域展開も名前さえ思い出せれば可能になるとのこと。
絶句する俺に天元は「苦労なく君を離反させることもできて一石二鳥だ」と附言した。
「もう一つ、逸とは別な因果に手を加えて梔子逸の価値を格上げさせた。」
星漿体について重大な設定がある。
天元、六眼、星漿体これら三つは因果で繋がっており、同化の時期に決まって揃う。しかしこれは偏頗な繋がりに過ぎない。天元の肉体を護る為の星漿体、二人を守護する為の六眼。常に中心にいる天元ならば端から運命の範疇外にいる俺を組み込むことが出来る。
二〇〇六年の星漿体任務、天内を伏黒の親父に暗殺させようが彼女が生き長らえようがへみの君としての俺が因果を破壊する。そうすることで俺と天元のみが直結して作用し合う。換言すれば、星漿体化するのだ。
…というのは羂索を騙す為の嘘である。何故なら天元の老化問題はウロボロスのお陰でとうの昔に解決しているから。
彼は回帰が完結するまでを条件に一時的にへみの君の俺と契約をしたらしく、千里眼は別として永遠と不滅の権能を用いて回帰の度に天元の肉体を恒久的に若いまま維持してくれたのだ。だから星漿体は必要なく、因果も破壊されているので六眼との恒例任務は目眩しの為の形式的なものに過ぎない。だが羂索の眼には天元の器として、又進化次第では六眼や宿儺に対抗できる天与呪縛持ちとして夏油傑を見放してもお釣りが出るポテンシャル持ちの宝に映じるのだ。
ということで三つ目の天元との同化は修正される。ついでながら前回は原作通りに進行させる為に必要のない同化を敢えてしたのだそう。
「最後は例の三十一日に君が…ああいやこれはまだ止そう。」
「ここまできて出し惜しみすんなよ。」
ところでツッチーとウロボロスは特性と輪廻転生を司る共通の能力故に回帰しても記憶を継承することができたらしい。後者は俺が三百四十回目の回帰の時に海外で強引に契約を結んだ相手で協力を余儀なくされているとか。道理で俺に当たりが強いわけだ。
因みにツッチーの体内空間は時間の影響を受けない。だから回帰の度に持って帰りたい物——黒宝玉の行方といった頭には入りきらない膨大な情報を記した資料等——は彼に呑み込ませていた。ある場所にあったものが二回目も同じ場所にあるとは限らず、ある手段で乗り越えた壁が同じ難易度で成功するとは限らない。回帰は時に原作軸を除いてまったく真新しい世界を展開することもあるのだ。だからこそ俺達は終局に至るまでに百万回という途方もない数字を体験しなくてはならなかった。クソゲーである。
…未来の自分と協力すれば良いって?試したに決まってるじゃないか。一つの世界に二人の梔子逸が相見えたらへみの君の方がハロウィンを迎えるまで植物状態になってしまう。作戦どころではなく、天元は世界の修正力が働いたのだと踏んでいる。
「次に失敗したら君の魂はやり直しが叶わず消滅するわけだが…いやあまさか百万回も消費するとはね。ここまでくると感慨に耽らずにはいられないよ。」
「何か物申したいところだけど返す言葉が見つかりません。」
「うん、その回答も聞き飽きたよ。で、今回はどうする?」
コンビニの店員が割り箸が要るかと尋ねるようなノリで可愛らしく首を捻る天元に返答に倦ねた俺はこう云い放った。
「取り敢えず、記憶取り戻すの協力して…」
*
奈良時代に天元と再会した時、原作改変に関する方針は前回と同様にすると定めたはずだった。祖母に梔子逸が天与呪縛を発現させるように蓋然祈願をしてくれるように頼んで、羂索が黒宝玉を二度と悪用できないように奴が加茂憲倫であるうちにもう一度奪った。是迄と異なりやり直しが効かないということが俺の神経を擦り減らし、是が非でも来るべき日までの干渉を避けたいという慎重すぎる隠遁生活を強いた。無反省に繰り返された数多の失敗が記憶を取り戻した所為で蘇り臆病になっていたともいう。約千五百年もの間へみの君という殻に閉じこもった結果、いつしか本来の自分すら霞んでしまった。
だってそうだろう。十五億年の永いだなんて言葉では表し尽くせない地獄の積み重ねを思い出してどうして人為的な天与呪縛による恩師との諍いを、意図的な離反と高専側との和解諸々を、転生者梔子逸としての自我を、あらゆる未練を引き摺って生きていけるだろうか。殆ど代わり映えのない十六年なんて俺が取ってきた睡眠時間にも劣る印象の薄さだ。勿論、あの日々が薄っぺらい思い出だとは決して云わないがそれ以上に心に抱える負担が大き過ぎたのは確かだ。
次第に起伏のなくなった感情のお陰でいつ何時も冷静沈着に事に当たれたのだから皮肉なものだ。瞬間湯沸し器みたいに誤解と衝突を頻発させていた自分なんて太古の昔の話である。
度々述べたが今回は負けたら終わりの一発勝負となる。黒星を重ね続けてきた俺だけでなく、天元でさえルビコン川に片足を浸しているようなものだ。梔子逸が消滅すれば物語は原作通りに進み俺達の呪縛とは無関係の人々も結局は世紀末を迎えることとなるだろう。永年呪術界、延いては列島を見守ってきた身としてこの地に住まう凡ての民から笑顔が消えるのだけは我慢ならなかった。
だからこそ、如何なる弊害が起ころうとも鉄の意思で運命の日へと突き進む所存だった。時機が訪れるまでは韜晦し、断固として既知の犠牲には目を瞑る。
是迄だって幾度となく行ってきた現実逃避が、此の期に及んでもまだ揺動く余地があっただなんて思ってもみなかったのだ。