——平成十三年、孤独と哀愁が立ち込める杪秋の宵。時宜が及ばず俺以外に特級術師が存在しない現代の曙期、久方ぶりに難儀な特級呪霊が出現したとのことで京都高専からの要望で祓除に訪った。
奈良県と境を接した近郊部は大和国から時代が下るにつれての建築技術の変遷の面影がそこはかとなく見られ、年季の入った木材が用いられている民家や歴史的建造物に昔懐かしさを刺激された俺は帰路に着く前に現代の街並みを楽しむことにした。引き篭もり生活に我慢の限界を迎えていた頃合だ、千五百年ぶりにコンビニに立ち寄るのも一興だろうとやや上擦った足取りで街へと繰り出した時のこと。
「誰か…!」
人気のない市街地の一角で女が呪霊に襲われていた。
痛みに喘ぎながら助けを求める甲高い声も虚しく闇に溶けて消え、何が起きているのかも把握できずにスカートの捲れた太腿を噛み千切られそうになっている。一目で非術師の女と分かった。
「キャアっ、助け…!」
一蹴で帳を突き破って呪霊を祓えば、塀が凹まんばかりに押し付けられていた彼女は力無く崩れ落ちた。その身を受け止めれば平均的な女よりも肉付きの良い躰に即座に妊婦だと気付いた。
それにしても胸糞が悪い。認識阻害の効果が施された限定的な帳だったのでもしやと思い野守虫呪い返しの蹄刄で断ち切ってみれば、案の定工場から排泄される鉱毒もかくやの悪意がねっとりと刄の腹に纏わりつき、一振りすれば雲散した。今頃はこれを仕掛けた犯人に五倍返しが成されていることだろう。一級に時間をかけて嬲り殺しにさせるとは趣味の悪い奴め。
何にも増して腹立たしいのは他でもない術師が無辜の民を手に掛けたという事実だった。
「あの」
怒りを呑み込もうと嘆息を吐いて、戸惑いがちに呼びかけられる。そうだ、中傷者がいる手前でどこの馬の骨とも知れぬ輩に何を苛立っている。途方もない歳月を掛けて天元に彼程矯正されたというのにこれだから救いようがない。
傷の具合を確かめるべく見下ろして…俺は硬直した。
月明かりに反映して美麗な天使の輪をつくる黒髪、血の気を失い顔面蒼白になっても実りたての果実のように可憐さと貫目を兼ね備える目差し。引き締められた唇が震える。
間違えようもなかった。嘗て息を引き取る様を見守り、ある時は救済を諦め、また別な機会には俺が自ら手を下した…浅からぬ拘りを持った者達のなかでも両手で数えられる範囲に収まる、強い悔恨と自己嫌悪を催させた女。彼女は伏黒恵の母親だった。
「助けてくれてありが」
「伏黒甚爾はどうした。」
「えっ?えっともしかして彼の知り合いですか?」
「何故良人も連れずに彷徨いている?お前達にとって京の都がどれほど危険か教わらなかったのか。」
「…危ないところを救ってもらったのは本当にありがたいけど、その言い方!ちょっと京都旅行に来ただけです!そういえば甚爾君もやめとけって言ってたけど…い゛ッ」
相手が誰であろうと物怖じせず毅然とした態度を貫くのはいつの世界でも変わらない。
直ぐに反転術式を掛けてやれば抉れた太腿も折れた右腕もすっかり元通りとなった。念の為にお腹の子の状態も診てやろうとして、こんな肌寒い屋外で服が一部開けた妊婦を留まらせる方が良くないと思い留まる。
傷が綺麗さっぱりなくなったことに豆鉄砲を喰らった鳩のような面相をする彼女に滞在場所を尋ねる。返答を聞くや否や騰蛇を召喚した俺は其処から然程離れていない旅館へと飛んだ。
………。
「伏黒朝陽です!改めて、先程は助けてくれてありがとうございました。」
千回は耳にした名乗りを受けて無音の深呼吸をせずにはいられなかった。合わせる顔もなく送り届けて早々に去ろうとした俺を引き止めたのは一切の含意のない笑顔だった。生きているときは毎度のことこうして罪悪感から目を背けさせてくれないのだから、ある意味罰には相応しいかもしれない。
縺れ合い様々な負の感情を振り払うように手にした茶は熱かった。仮面を外して口に付けてみる。薨星宮で奉公する従者の淹れる煎茶とは比べるまでもなく水っぽいが客室の備え付けにしては悪くないんじゃないだろうか。
茶菓子には手を付けずに茶を啜っていれば、不意に視線を感じた。目を上げてみれば鈴を張ったような双眸をかち合った。種も仕掛けもあったかの呆けた表情だ。
…慌てて逸らされる。
「そ、それにしても凄かったですね、さっきの瞬間移動!それと蛇?みたいなのも」
「俺の術式だ。」
「じゅ、じゅちゅ…つしき?」
「何も知らないのだな。」
当然といえば当然だ。息をするだけでも窒息しそうな劣悪な環境で育った男が知らない方が幸せでいられるグロテスクな現実を教えてやる方が想像できない。
揶揄われたと思い頬を膨らませる朝陽に、知らない方が良いこともあると告げて席を立つ。矢張り、俺のような不謹慎極まる存在がこの場に居るのは憚られた。
「私は行く。」
「もう!?まだ全然話してないじゃない!」
「津美紀は無事だ。きっと安産になる。」
「ッどうして知って!」
——制止を無視して扉に手を伸ばした瞬間、入口が吹き飛んだ。
水楢でできた重厚な扉が弾丸の如く対向の窓硝子を突き破り消えていった。
咄嗟に彼女を抱き寄せ追撃してくる気配に抜刀した刄で応戦する。
カキン!荒々しい殺意を受けた刃先が悲鳴を上げる。朝陽の絶叫も入り混じると愈々殺気はそれだけで部屋を爆発させられそうなほどに密度を増した。
いけないと思い強く振り上げた腕に相手の体幹が僅かばかり崩れる。その小隙を逃さず右脚を軸に足を回す。襲撃者は流星と見紛うほどの速さで外に吹き飛んだ扉の後を追った。
しかしこの程度で負傷する柔な男でないのは十二分に承知していた。
蛇姿の清姫に朝陽を守るよう命じたところで、そいつは音もなくバルコニーに濡縁に着地した。
瞳孔の開いた猛獣がこちらを睥睨している。人間がして良い眼じゃなかった。
「今度は誰を寄越してきたかと思ったら…呪術界の帝サマじゃねェか。」
「感心しないな。下手をすればお前の妻を巻き込んでいたぞ。」
「どの口がほざきやがる、とっとと朝陽を離しやがれ…!」
おまけに話も通じないときた。よくもまあこんな猛獣を飼い慣らせたものだと蛇に守らせている彼女を尻目に見遣れば困惑と慄きに百面相をしていた。
大方去り際に朝陽が出した素の大声を良からぬ窮地と勘違いしたのだろうが完全に血が昇っている。愛する者の一大事となると理性を失い諸々を台風に巻き込む悪癖は治ってないらしい。いや、今回はこれが初対面か。いやはや心象が悪いな。
そして悶着の元凶はまるで状況を理解していない。
はてさてどうしたものかと脳漿を絞って、一先ず頭冷やさせることにした。
「八の太郎大蛇」
囁きかければ出現した亜空間から室内をそれだけで室内を覆い尽くせそうなほどの頭が出てくる。遮るもののなくなった開放的な壁枠から告げずとも獲物を見定めた大蛇は涎を滴らせている。
ある昔、八戸十日町の勇ましい若者八の太郎が水汲みに出た先で岩魚を三匹焼いて食べた。すると立ち所に喉が乾き小川を飲み干しているうちに大蛇に変容し周囲を堀崩してしまい、後に吐き出した水は十和田湖を形成したという逸話がある。偶然その場に居合わせた俺は彼が後世土地の守り主として在ることを約束して契約を交わした。
元々は岩を噛み砕ける程度の体躯だったのだが定期的に催している蛇達のバトルロワイヤル的鍛錬でいつの間にか道祖神並の霊力も持ち合わせてしまったのだ。
呪力を持たない相手には丁度良いと喚び出したのだが...
「美味そうな蛇だな」
どうやら驕っていたようだ。悲しいかな、八の太郎は甘噛みしようとした甚爾ではなく壁を頬張って、右顎を三回蹴られると涙目に退場してしまった。というより大切な契約者を食われては堪らないと俺が還した。
余計に損壊の拡大した客室にあるまじき塵埃が充満する。
転瞬、眼前で鋒が煌めいた。
「なッ!」
間一髪で手首を掴み取った俺にフィジカルギフテッドは驚き入った。単身で宿儺を封印した経験もある悲劇の猛者を舐めて貰っては困る。
相手が二の手に転じる前に足払いを掛け、肘落としを食らわせる。床に亀裂が走った。
「クッ、コノヤロウ化け物かよ」
まともに脳天に直撃したにもかかわらず水に上がったばかりの魚のように跳ね起きる様は活力漲っている。並の一級術師ならば即刻気絶し、運が悪ければ死んでいただろうに...天与呪縛の底力は侮れないものだ。
後退り距離を取ったとうじが取り落とした短刀を拾おうとした時だった。
「待ちなさいって、言ってるでしょ!」
茶が弾けた。華麗な躍動をもって湯呑みから噴出した煎茶が彼の顔面に当たって。
敵意も呪力もなく、あるのは力を持たぬ女の怒気のみだった。しかし効果は抜群だ。
「待てだなんて聞いてねェよ」
あまりの横槍に闘志が削がれたのは幸いだった。突然の茶掛けに気抜けしたのは俺もだったが。
「そうだった?えへへ…じゃなくて!こんなに部屋壊して弁償どうするつもり!?」
「金なら増やしてきただろ」
「アナタ夢視てるんじゃないでしょうね!寝惚けてなきゃそんな戯言言えないわよ!」
ぎゃーぎゃー、わーわー。忽ち賑わいを見せ始める半壊した部屋の只中で部外者の俺だけが取り残されていた。
すっかり良人の熱を冷ました朝陽の手腕に舌を巻きつつ、その場を視覚的にも丸く収めようとテュルク系民族の伝説ユハを召喚する。一時間以内であれば生命体以外の万物を巻き戻すことができる。
「大体またパチンコに…」
「…なんだってんだ。つーかお前、俺があれだけ」
瞬く間に元通りになった部屋を見渡して二人に向き直ると、おしどり夫婦は相も変わらず云い争っていた。仲が良いのか悪いのか果たして判らない夫婦だが、少なくともこの義強で移り気な男を侍らせているのだから朝陽は唯一無二の魅力的な恐妻に相違ない。
第三者の存在も忘れて犬の喧嘩の如く戯れ合う二人を見守っていると舌に蘇ってくるのは塗炭の苦味だった。只平穏を享受するだけでも幾多もの困難を克服しなければならなかった運命の男女が噛み締め合う幸甚を、俺などが眼差すことは決して許されないという悔恨の念だ。
彼等の幸せを利己的に踏み躙ってきた負目が同じ空間にいるだけでも蘇ってくる。絶対に真実を知り得ない二人ならば俺に笑い掛けてくれるかもしれない、そういう高慢な心理が働いてどうしようもなく己が嘆かわしくなった。
居ても立ってもいられなくなった俺は逃げるようにして去った。
…………。
「ぐぅわぁああ」
「とても十五億歳とは思えない子供っぽさ…」
「なんか言ったか?」
「まるで成長していない餓鬼だと言ったんだよ。」
「せめて悪口は小声にしろよ。」
我が家に帰って早々、喧しい廃人さながらに地面に額を打ちつける俺に友の白眼視が突き刺さった。貝殻みたいに閉じ籠ってた所為で涙腺が寿命の近い老人並みに緩い。
原作通りに進める為に重々留意していた筈が思いがけず改変してしまったことなどはもはや取るに足りないと思えるくらいに内心は荒れていた。本当に、二人の顔を見るのはおよそ二万年ぶりだったのだ。
最後の最後で図らずも救済してしまったことへの慶び、しかし素直に受け入れられない往生際の悪さ。どうせ救うなら毎度救ってやれば良かったという罪の意識に押し潰されそうだった。
「まったく、逸は成長しないね。」
「言ってくれるな。」
こうして老いた彼女の膝の上で落ち込むのも何度目か。見上げた天元の面輪は詮無い幼児でも見るかのよう。母のような、姉のような包容力のある頬笑を向けられるだけで壮大な疲弊感に苛まれた心は自然と和むのだ。弱気になる度に温かい抱擁をくれた温もりに、結局は堪えていたものを決壊させてしまうのだ。
全盛期から幾星霜が過ぎ去り、すっかり廃れた薨星宮の底で俺達は困憊した魂を癒し合ってきた。
「そんなに未練を溜め込んでいるなら綺麗さっぱり解消すれば良いじゃないか。」
「簡単に言うなよ。そんならなんだって今まで犠牲に見て見ぬふりをしてきたんだって話だろ…」
「うわ、面倒臭」
「聞いてるかんな?」
俺の仮面を片手で弄りながら、瑞々しさを失った老婆は嘆息した。「逸、聞きなさい。」だなんて今更年嵩を誇示した口調で。二千歳しか違わないくせに。
天元は云った。全員を救って渋谷事変まで事が運んだ事例だってあると。
「君だって言ったじゃないか。泣いても笑ってもこれが最期だって。なら心の赴くままに行動すれば良い。逸の隣には私がいるのだから。」
胸に響く台詞だった。ただ一つ、真剣な眼差しの奥底に秘められた諦観さえチラつかなければ。
「…その心は?」
「九十九万回失敗してるんだから今更成功なんて期待するんじゃないよ。」
「羂索脳味噌野郎めっ、海の藻屑にしてくれるわ!」