天与呪縛はつらいよ   作:れいめい よる

29 / 34
へみを司りし者

 

 

「黒井!」

「理子様!面目御座いません...」

「そんなことっ、黒井が無事で良かった!」

 

脅迫メールの受信から五分足らずで帰還した黒井は五条を押し退け弾丸のように飛び込んできた天内を受け止めた。熱い抱擁で無事を確かめ合う二人を面前に、呆気ない誘拐事件の帰結に五条達は拍子抜けしていた。 

 

一本下駄で軽やかに降り立った男を夏油はまじまじと観察する。

狩衣と羅刹の口仮面という旧時代的和装は勿論のこと、些かばかり見える目元は千歳を超える長老とは思えぬほどに若々しい。頭頂の白から徐々に黒を練り込んで色変わりする綺麗な長髪は大垂髪のように髪先で緩く纏められており、子供でも羨むくらいの艶を放っている。呪術界の頂点に君臨し天元の保護者兼心友として中世まで摂政政治を行なってきたと思えぬ風貌だ。 

しかし同時にその者には一度見詰めれば渦潮に吸い込まれる船の如く魅入らせてしまう不可思議な魔力もあった。 

 

この御仁が悟が傍若無人な悟が最強と仰ぎ、総監部の決定を一言で覆らせてしまう帝様なのだろうか。夏油は思った。目線を親友に流す。 

朝方は「マジパネェ」、つい数十秒前は「ヒキニー」だのと悪たれ口を叩いた本人とは思えぬ畏りようだ。形の良い桜色の唇を横一文字に引き締め夜蛾の前でもお目に掛かることのなかった内弁慶っぷりである。或いは恋文を渡そうとして渡せずにいる思春期の男子高生並みの恥じらい方だ。 

 

もう一度男を見る。視線に気付いて彼は夏油を見遣った。悪戯がばれた学生のように肩が跳ね上がった。 

 

「この方がお助け下さったんです。私を乗せて空港に向かおうとしていたヘリコプターを…その、例の龍?に呑み込ませて」

「え゛?」

「あっ勿論呑み込まれる前に私だけはお助け下さいました。」 

 

少女と付人が男を見上げる。下駄の歯が一尺もあるので身長差が小人と巨人である。 

 

「遅れてすまない。」 

 

小春凪のような声遣が耳朶を撫でる。隠居生活の弊害か、その顔貌を知らぬうえにもう一人の随伴者についてを報されていない二人は小首を傾げた。若しや彼等の同級生かと五条達を窺い見る。そして男の謝罪に慌てふためき小腰を曲げる様に目を丸くした。 

 

「いや、あのなんてゆーか、本当に来ると」

「お見えになる」

「お見えになると思わなかったんで…」 

——帝様。 

 

舌を引き攣らせる音が聞こえた。

へみの君?へみの君?己らが天元と同等の数だけ有難く口にしてきた尊い美称が、何度反芻しようとも脳味噌に浸透しない。強張る二人の傍で却って落ち着いた五条達は伸びやかな姿勢を保っていた。 

 

「夜蛾にお前達を守ると約束したからな。」

「俺達も?」

「ああ。」

「へへへ、へへ…へみっ」 

 

壊れた機械のように笑いか奇声が分からぬ言葉が天内の口から溢れる。やや心配そうに眉根を動かしたへみの君だったが、まるで推しを眼前にしたファンの様相に自得すると五条と夏油に向き直った。 

 

「これからどうするんですか?」

「如何なさいますか」

「いかがなさいますか」

「そう畏る必要はない。」 

 

無駄に神経を擦り減らしたと密かに非難を送る五条に、日頃の驕傲の自業自得だとの目線が返される。端から見れば愉快でしかないやり取りを前に、へみの君は須臾の間考える仕種をした。未だに筋肉という筋肉を硬直させる天内を見詰めて、やがて静かに云った。 

 

「まだ時間がある。気晴らしに沖縄にでも行こう。」

「はあ」

「だがその前に…天内。」

「ひゃい!」 

 

噛んだ。だが空想の中の偉人を現実で目の当たりにしてまともに返事をしただけでも花丸だった。頬を真っ赤にする天内に黒井は内心であらん限りの拍手を送った。 

 

乙女らしい反応に微かに眼許を緩ませたへみの君は「少し話がある。」というと手を差し伸べる。恐る恐る取った掌は百戦錬磨と称するに相応しい武骨な感触だった。 

次の瞬間には彼女は強い力に支えられて蛇の首元に横乗りしていた。バオバブの木を三本連ねても足りない横幅の、男のごつごつとした手の何十倍も硬質な鎧さながらの鱗の上に。果たしてこれを蛇と認識して良いのか思い悩んでいる天内をへみの君は見下ろした。 

 

へみの君が不思議な言語で何事かを呟くと、殆どの振動も出さずに蛇は静音に飛翔した。あっという間に夏油達は豆粒程の小ささに遠ざかった。 

 

「明後日、お前は天元と同化する。」

「は、はい!確りと務めを果たします!」

「知っている。だからこそお前達星漿体の覚悟に天元も私も応えなければならない。」

「と言いますと?」

「天内。お前は同化を何と心得ている?」 

 

返答する前に言葉に詰まった。これ迄にそのような質問をされたことがなかった。 

 

同化は同化で、星漿体は星漿体。それ以上でもそれ以下でもないことは自明の摂理であり、謂う慣れば一足す一が二であることを曲解して答えるようなものである。生まれた時から与えられた世界と植え付けられた常識に今更どうして疑問が浮かんでこよう。 

 

「高次元化された天元様が自制を失われ人類の敵とならないように私達が存在します。」

「では同化後のお前はどうなる。」

「はい。私達星奬体は同化後は天元様となり、光栄極まりないことに天元様も私達と一体化します。意思は生き続け、列島の繁栄する限り日本の礎となります。」

「違う。それは星奬体の精神を和らげる為に呪術界が積み重ねてきた嘘に過ぎない。」

「え?」 

 

戸惑いつつも慇懃に話した回答を一刀両断されれば益々の困惑を漏らすほかなくなった。 

 

晴朗な蒼穹に座す華々しい日輪をへみの君は背負っている。冴え切った光背とちらちらと煌めく陽炎が平等に烏有を照らしており、大空が沈黙の代わりに語っているかのようだった。己がか細い首を傾け見上げる御仁は真正の明神だと天内は畏敬に鳥肌立った。それ故に長閑な音色で示された否定が恰も終末予言を聞き届ける巫女の心地にさせられて不穏でならなかった。 

 

「同化すればお前の意思は大部分が消失する。」

「それは、一体、どういうことでしょうか…」

「永久不変の眠りに就くのだ。肉体の制御権はなく、時折浮上する意識の残滓で呼び掛けようともお前の声を聞く者はこの世の何処にもいない。死よりも残酷な生を送ることになる。」 

 

天が震えた。…否、震えているのは天内自身だった。 

 

索漠とした眼差しが天内に注がれる。迂遠に生贄だと真実を突き付けた男の面輪の大半が読み取れなかった。二人の間を通り抜ける微風にいつしか北風が紛れ込んでいると彼女は感じた。或いは歴史という道筋を確固とした足取りで踏みしめてきた神にとっては、もはや同情の余地もない告白だったのやも。

純真な忠節に報いるべき恩寵は殊現人神にとっては凍てつくような澆薄を用いる以外に思いつかぬほどに取るに足りないことだったのかもしれない。

神は愛情深く、そしてときに残忍だ。 

 

「何故、何故そう仰られるのですか…今になって」

「せめて事前に伝えておくべきだと思った。」 

 

つまるところ、何も知らぬ無垢な子供が生贄としての役割を全うできるように総監部は真相を隠蔽してきたのだ。星奬体であることを如何にも救世主の美辞麗句で飾り立て、その実家畜も同然の心持ちで教育を黒井家に押し付けてきたのだ。そう捉えられても仕方のない発言を男はした。 

 

「質問があります。」

「言ってみなさい。」

「今までの…これまでの星漿体はどうしたんですか…」

「知っての通り、彼等は皆天元との同化を選んだ。」 

 

気付けば天内の視界に映る凡てが霞んでいた。頬に伝う温もりを何度拭っても袖の染みが広がってゆくばかり。

遂に啜り泣きはじめた彼女の頭をへみの君は撫でてやった。黒井とは異なる不器用な慰撫は温もりを与える一方で、無知蒙昧な子供に送る最初で最後の憐憫のようにも思われて何もかもが無様だった。 

 

「まだ時間はある。」 

 

へみの君は同じ言葉を繰り返した。 

 

「それまでによく考えておきなさい。」 

 

…天内の頸に衝撃が走った。転瞬、彼女の意識は暗闇に引き摺り込まれた。 

 

星漿体であること以外に呪術の資質を何一つ持たぬ華奢な躰を抱き止めると、へみの君は地上に声掛けた。呪霊に乗った夏油と黒井を連れた五条が直ぐに昇ってくる。三人が乗り移るとペルーダは東シナ海の本島へと出発した。 

 

* 

 

碧い。どこまでも澄み渡った渺茫たる水平線が天空を支え、その抜けるような碧に染まっていた。

威厳と煌めきをもって曝け出された水光がオゾンに満ちた大気と融合して新鮮な塩の香りを浅瀬に運んでくる。ゆらゆらと揺蕩い自分の紺碧と葉緑と共鳴するパノラマを見ていると、五条は自分の体が気体となり溶け込んでゆく感覚に陥った。 

 

烈日を浴びてジュワと香ばしい幻聴が聞こえる前に、ざぶんと躍動感溢れる音が近くで立てられる。音の正体を確かめる前にひんやりと冷たい感触が顔面を覆った。 

 

「ワハハ!ずぶ濡れなのじゃ!」

「やったな?」

「きゃあっ!」 

 

悍馬さながらに海を駆け回る青年少女の周囲には時折薄らと虹が掛かっていた。 

 

「理子様ー!あまり遠くへ行かないで下さいー!」

「わかっておるのじゃ!」

「俺がいんだから問題ねぇよー」 

 

銀色の飛沫が一層烈しく飛び交う。晴々しい情景に好適な漣と無数の弾んだ大声を聞きながら二人の男は浜辺の椅子に掛けて見守っていた。 

まるで幼児、又は陸に揚がりたての魚のように生命力を漲らせる同世代の若者を遠目に夏油は眩しそうに目を細めた。 

 

「ほい、買うてきたで。」 

 

カンッ、テーブルに置かれた飲み物の容器が軽快な音を奏でる。任務地から馳せ参じた直哉は当然の表情で二人の間に座った。 

 

「分っとりますよ。帝様は人前では仮面外されへんのやろ?一応持ってきただけなんて気にせんといて下さい。」 

 

湯気立つ緑茶に対するへみの君の物言いたげな視線に、直哉は先んじて飄々と云った。剃髪を試みるだけある忠誠心である。犬のような忠節さでいえば三河武士らのそれと比肩できるのではないだろうかと思えてならない。 

夏油の内心など露知らず直哉は思い出したように携帯を取り出した。 

 

「もしもし津美紀?俺や俺。…今日晩飯いらん言うん忘れとったわ。……そそ、恵と朝陽さん連れて旨い寿司でも行き、金出すから。え?甚爾君?知らんけどパチンコでも行っとんのとちゃうん。」

「甚爾が居ないのか。」

「あーはい。いつものことでしょ。……いやこっちの話。…うん、任せたで。ほな。」 

 

手元のグラスを伝って冷たい水滴が肌に触れる。ストローに口をつければ細長い空洞が忽ち海色を反映するように変色して、甘美な喉越しが夏油の裡側に広がった。パイナップルの甘酸っぱさとブルーハワイシロップの南国を聯想させる風味が絶妙なノンアルコールのブルーハワイだ。直哉は甘酒を一気飲みしていた。 

夏油は二席隣の男を窺い見る。 

 

へみの君は熱気をものともせず涼しげな眼差しを前方に送っていた。こんなにもパラソルと和装の組み合わせが似合う男がこの世にいるだろうかと、彼は馬鹿馬鹿しい感嘆を漏らした。 

 

ふいと、沖縄に到着してから暫くは空元気だった天内を思い起こして何気なく問うてみた。 

返答までに随分の間があった。 

 

「天内に残された時間は少ない。」

「はい。」

「………。」

「………。」

「え?それだけ?」 

 

薄々勘付いてはいたがこの男、極端に口数が少ない。それもこれも口を開けば誤解を招く逸を天元が案じて寡黙と口調の変更を提案したのだが、如何せん物事を素直に受け取りすぎるきらいがある彼が落ち着いた人物像は余計に誤認識される朴訥な君主となった。皮肉なことだ。 

五条が見れば指を指して爆笑するであろう困り顔を晒す夏油に、直哉が小声で耳打ちした。 

 

「阿保やな傑。帝様の御言葉は一聞いて万汲み取れるようにならなあかんで。」

「そういう先生はどうなんですか?」

「…阿保やな傑。帝様の御言葉の真意を俺ら人間如きが慮るのは不敬やぞ。」

「どっちなんですか…」 

 

普段は最高の師匠として尊敬する男の顔に夏油は一発打ち込みたくなった。結局は直哉にでさえへみの君の心中は推察できぬのである。 

珍妙な空気が流れはじめたところでへみの君が遅れて発した。

 

「お前達はどうなんだ。」

「すみません。質問の意図が理解できません。」

「明日になって矢張り拐かしてでも救ってやれば良かったと後悔はしないか。」 

 

筆で「天」と記された木製の耳飾りが揺らめいた。 

息を呑む夏油をへみの君は見詰めている。澄明な双眸が神経の細やかな微動ですら見透かそうとしている。息苦しさを感じて逃れるように目線を逸らす。 

 

踊る海面に取り巻かれて、天内と五条は水浴びをする鳥さながらに水を掛け合っている。顔一面に漲る喜色はそこらで海遊する子供にも負けまい。あの屈託のない笑顔が明日には二度と見られなくなるということが夏油にはいまいち想像できなかった。

 

級友がいて恩師がいて大切な先輩、後輩がいる。休暇に家に帰れば家族だっている。己が庇護すべき非術師は日本のみならず世界中に存在している。そのうち十六万人が多種多様な理由で毎日死んでいく。だが彼はまだ身近な喪失というものを知らない。 

ふぅっと蝋燭の灯が消えるように目の前で誰かが息を引き取る光景も、己の声掛けが届かず相手の眸から生命が失われたと直観する瞬間も、我知らぬ場所で激しく燃え盛り陽炎の如く儚く散っていく死を実際に目にしたことがないのだ。 

 

なにも天元との同化は前述したような生々しい訣別ではない。しかしながら天元となった天内は永久に日の目を浴びることなく地下最深部にて列島の守護機構の基盤となるのだ。それを死と言わずして何と言おう。 

斯様な人情と罪悪感を抱かせるべく同化ではなく抹消と云った自身の担任を夏油は恨んだ。 

 

絆されていないといえば嘘になる。だが優しさは厳正で過酷な呪術の世界には最もそぐわしくない美徳である。そしてこの現人神は精確に夏油の、硬貨の裏表の如き長所と欠点を看破した。 

 

「この世界に居たいのなら傷付けない善を誇るな。それはいつの日かお前自身を殺すだろう。」

「は、い…」 

 

俯きすっかり消沈する教え子を直哉は静かに見守っていた。

夏油のみならず古今東西、へみの君にとっては刹那に等しい時間を共有した者達はもれなく心の核に触れられてきた。横暴で無遠慮な指弾ではなく柔和に月桂を浴びせるような自己知誘導で、されど決して個別的命題に彼自身からは解を齎さず、へみの君は一人一人の起承転結をひたすらに傍観するのだ。清流であろうと濁流であろうと一度相手の魂を覗き込んだ後は呪術界に大きな変遷が惹起されようが決して介入しない。 

 

気まぐれな神そのものの特性を何度も目の当たりにし、又自身も彼の挑戦に品評を受けた直哉は無意識に溜息を吐いた。 

へみの君と関わるようになって彼此三十年、彼の為ならば命でさえ惜しくないと敬仰する己を帝様は慈しんで下さる、けれどもそれ以上に魂を寄せることは許して下さらないのだ…。それが直哉を何よりも嘆かせた。 

動揺を大いに抱く夏油に次いでへみの君に目線を流す。 

 

己の発言も忘れたかの渋面で、彼は何処からか卓上に現れた手乗りの蛇を凝視していた。蛇がシャーシャーと鳴き、へみの君が呪文もかくやの音を発する。それが彼と爬虫類との会話方法であることを直哉は知っていた。 

 

「すまない、火急の用だ。直哉。」

「了解です。俺が確り面倒見るんで心配せんといて下さい。」

「頼んだぞ。」 

 

颯と露先を翻すとへみの君は何処かへと消えてしまった。 

パラソルの下、取り残された師弟を包む空流は酷く生温い。クゥークゥー、かもめの鳴き声に慰められたのか将又嘲笑されたのかは判らないが、一先ず直哉は笑いかけた。 

 

「あー、俺らも泳ごか。」 

 

 

ビー!ビー! 

不審者の侵入を知らせる警鐘がけたたましく喚き立てていた。絶えず耳を聾する爆音が鬱屈とした蒸し暑さと泰平であるべき大自然の領域を侵し、ナノスケールで不吉な予感が急速に伝播していった。

 

蝉噪も加わると東京高専は空襲もかくやの騒々しさに動揺させられていた。束の間の沖縄旅行の翌日、五人を待ち受けていたのは通常通りの郊外の学舎ではなく筵山を急襲する無登録の大量の呪霊達だった。 

 

直哉に事前に指定された薨星宮への入口へと誘う鳥居の道の手前で待ち伏せしていた呪霊の集団を一掃すべく直哉が能う限りの式神を召喚。急ぎ加勢しようとした五条達だったが、他でもない直哉に発破を掛けられ四人は一足先に鳥居を潜った。一行に直哉を随伴させたへみの君の采配は正しかった。彼が中腹で大軍を押し留めているお陰で五条達は何者にも妨害されることなく急斜面を駆け抜け玄関口に至ることができた。 

 

鳥居を抜けた先に広がる御影石の石張の最奥、腰を折り曲げて潜る程度の鳥居があり、その向こうには昨日まではなかった観音扉が佇んでいる。天元が直々に今朝方に仮設した薨星宮に繋がる扉であり、現世との隠世の境界でもある。 

 

南南東に昇る旭光にはまだ赤みはなく、斜めから高嶺を通過して降り注ぐ日差しは夏というよりは立春の香りを孕んでいた。早朝の清々しさが充満し、結界内でしか感じ取れない豊かないのちの恵が其処彼処に漂うている。空気を吸って吐くだけで社などないのに、神前で正座をしているような心地になった。

自然と気の緩みが生じる場で夏油と五条だけは緊張に神経を研ぎ澄ませていた。己らがこれから行う、呪術界延いては天元とへみの君への裏切りにも等しい大罪を想像して。 

 

「理子ちゃん、黒井さん。引き返して一緒に逃げないかい?」

「…え?」 

 

大変な当惑が二人の口から溢れた。後少しで目玉が転び出そうなほどに見開く天内と黒井を五条達は正視した。 

 

『星漿体の餓鬼が同化を拒んだ時ぃ?…そん時はなし!取り止め!』

『クック、良いのかい?天元様達と戦うことになるかもしれないよ。』

『そんときゃそん時。なんとかなるっしょ。』 

 

一晩中夏油は悩んだ。考えて悩んで考えて、己の心と通じ合った。未練を取るか大義を取るか。そして結論は出た。 

長考するまでもなく五条は夏油の決断を後押しした。 

 

「へみの君や直哉先生にはまだ届かないが私達もまた、最強なんだ。」 

 

揶揄いも冗談の余地もなく、摯実な調子で紡がれた台詞の数々は狂言にも等しかった。されども見交わした黒と蒼は実際に放たれた言葉よりも更なる真意を語っていて、確かに強い若者の気焔に充てられた天内の脳裡には目紛しく走馬灯が流れ始めた。 

 

彼女に親の記憶はない。事故が引き起こした悲嘆も哀愁もなければ爾後の前半生を彩った如何なる交友関係も…付人の黒井との尊い思い出すらいつかは薄れ霞んでくれるものだと思っていた。 

 

「けど違った。同化の日が近付いてこうやって皆と沢山笑い合えば笑い合うほど切なくなった。苦しくなった。もっと、もっと皆と普通を味わっていたいって…!」

「理子様…!」

「まだっ、死にたぐなかっだよぉ!」 

 

堪えきれず抱き付いた黒井と天内は崩れ落ちた。

本心とともに噛み砕いた酸いの味が日焼けひとつない白面をこれでもかと歪ませる。嘗て経験したことのない激情に動かされて辛い、寂しいと互いの存在を縋り付いて確かめ合う二人を五条は眩しいものを見るように口許を綻ばせていた。人生の思い出の抹消としての同化を紛うことなき死と明言した天内に引っ掛かりを覚えたのは夏油だけだった。 

 

「待ってくれ。どうしてまるで死にに行くみたいな言い方を…」

「……へみ゛の君が言っだの」

「帝様が?何つったの?」 

 

涙を拭いもせず困惑顔の黒井を間近に天内は消え入る声で云った。 

 

「同化したら私の意識は残滓くらいしか残らないって。そしたら私の声は誰にも聞こえなくなるって。」

「なん、だって」 

 

顔色を変えた夏油達に反して天内の澄んだ紺瑠璃は先日の一幕を遠く眼差した。同化の前日に己に真実を打ち明けたへみの君の温度のない眸を。 

 

あの時、死よりも残酷な生を送ることになると告げた男の眸子には本当に一切の情も秘められていなかったのだろうか。振り返れば振り返るほど自身の拙い識別眼に疑いが泛び上がった。 

そうして短くもたっぷりと顧みるだけの時間が流れ、神の御言葉を恨めしく思った己を否定した。 

 

違う。分け隔てなく倭の民を愛する君主が星漿体を家畜も同然などと斯様に惨たらしい思考を巡らせるわけがない。尠くともへみの君は両親もおらず付人と二人きりで孤独に育ってきた天内を冷遇したわけではなく、寧ろだからこそ同化までの数限られた時間を尊んでほしいと願っていたのだ。その証左に彼はただの一度も天内個人を星漿体と呼んだことはなかった。

 

「逃げられるかもしれないのに本当のことを教えて下さったへみの君は私よりもずっと深い覚悟だったんじゃないかって。……皆と一緒に居たい、心の底から!だけど、今はそれ以上にあの方を、天元様を裏切りたくない。」

「理子様ぁ!」

「ごめんっ、ごめん黒井!皆!」 

 

衝撃に打ち拉がれるのは夏油だった。天内の言葉は意想外にもするりと理解に行き届き、さすれば昨日へみの君が彼に寄越した忠告に一層の重みが増したのだ。 

 

残酷な真相を知ってしまっては天内をこのまま見送るわけにはいかなくなった。そうすることは術師としての夏油の志を、未熟な純粋さを穢すことになる。しかし彼よりもずっと威厳のある決意を表明した天内の意思を反故にすることは夏油という人格以前に人としての道理を踏み外すにも等しい。 

 

——どうすれば良い。私は何をすれば理子ちゃんの気持を変えることができる。全てを正常に戻せる?一体何が、誰が間違っているんだ… 

この世界か、己の良識か。一度(ひとたび)純一無雑な白雪が溶解し始めれば、天頂で超然的に俯瞰する太陽ですら腐っているのではないかと訝らずにはいられなかった。 

 

…六眼で見通す夏油の呪力が明らかに変容したことに五条は愕いた。遍く負の力を、苦味を煎じた御三家という俗悪な換気扇の空気を吸ってきた彼にとっては天内の話はそういうこともあろう程度の一驚だった。

無論、美の反面に隠れた醜をみすみす許容するわけにはゆかぬが五条が最も尊重すべきは犠牲者本人の意志だからだ。それ故に今にも高専に反旗を翻しそうな夏油の気配には度肝を抜かずにはいられなかった。 

 

五条は他人の内内の感情に疎い。暗鬱の度合いを濃くする級友に、天内の衝撃的な告白も失念して類稀なる才覚を微塵も発揮することができずに彼の様子を伺うしかできずにいた。けれども同時に、事が収まれば一度膝を突き合わせて話す機会を設けるべきだという不思議な気持も湧き上がっていた。

ともあれ、この場で最も行間を読むのに長けた青年が平常心を失っている様が却って五条に平静な感情を波及させ恰も年長者の心持で対処しようという心意気を与えた。 

 

「ならしゃあねぇか。傑、天内がこう言ってるんだからさ」 

 

言葉は途中で遮られた。突として巨きな影が掛かったのだ。一同は頭を擡げる。 

…晴々しい空には昨朝を思い出させる景色が広がっていた。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。