呪詛師御三家は呪術史の黎明期に来るべき未来の為に俺が蒔いた種が実らせた白妙菊のようなものだ。天元と共に呪術界を統帥する身としてまさか根底を覆す真似はすまいという羂索の監視の眼をすり抜ける為に。梔子逸としての俺を離反させることは回帰を終わらす為に欠かせない通過点だが、それを敢えて悪用され計画が頓挫した回数は数知れない。そこで梔子逸については誰よりも通暁している俺が巧みに手引きしてハロウィンに挑ませることにしたのだ。
既知の通りへみの君と梔子逸は同時に存在できても相見えることは世界が許してくれない。だからツチノコとウロボロスを恰も無契約の興味本位の付添を装わせて梔子逸を誘導させた。
十月三十一日の今晩、俺が成すべきことは二つ。歪んだ世界の理を修正するべく強化したバジリスクの牙で五条に偽梔子を殺させること。最後の条件を達成すること。
二つ目に関しては天元が渋谷事変が重大な局面を打開したと判断してから最終段階に移行するとのこと。前回、高専でのへみの君としての俺の死因が釈然としないことから大事をとって天元は一時的に東京から避難する手筈になっている。避難先は天元が自ら定め、俺を含めて誰にも告げないことで凡ゆる危機を回避する。詩的な話ではなく、俺と天元は強固な縁の結び付きがあるのでこの世界の何処にいようと居場所が分かるので合流に心配はいらない。
必ずまた会おうと約束して午後七時前に俺達は別れた。
渋谷事変には直接的に介入せず梔子逸としての俺と現代術師達に呪術界の未来は託してある。
甚爾、朝陽、天内、夏油、灰原…此度の回帰では目の届く範囲の犠牲者達を救ってきた。心に従った救済が因果の歯車に善悪の何れとしてさし響いたのかはウロボロスの千里眼を使いこなせていない俺には判然としない。けれども俺は信じている。吐き気を催すほど残虐な現実を突き付けられても立ち上がってきた呪術師達を。天元と俺が愛でてきた人心を。見せてほしいとも思っている。物理的精神的な鉾盾もなしに燦然と輝く勇姿を。だから俺は時機が巡って五条が解放されるまで薨星宮で待機している予定だった。
しかしそれは大きな過ちだったのかもしれない。俺が育んできた希望の分だけ底流する闇も栄えること、期待だけでは現実化できる夢にも限界があることを十二分に知悉している筈なのに失念していたのだ。
——ぼとり。耳障りな音がして疼痛が走った。
斬り落とされたそれを確かめる前に目睫の間で何かが風を切り裂く。咄嗟に腰を逸らせば仮面が弾き飛ばされた。間断なく進路を変え眼球を狙ってくる尻尾を避け、小隙を狙った突きを手首ごと蹴り上げる。
距離を取り加減なく羽団扇を振り翳した。
霹靂さながらの爆音が炸裂し、一秒に何千と発生した鎌鼬が宮内を無差別に裁断する。化蛇が絶命した。残念なことに最も引き裂いてやりたかった相手は曲芸師のような身のこなしで全ての攻撃を逃れた。
彼程頑強だった枝を悉く失ったユグドラシルの如き大樹の、突き出た幹の足場に立つ。見下ろす御殿の屋根に着地した奴は甚だしく不快な笑みを湛えていた。
「貴様の土性骨を圧し折っておくべきだったな。」
「不倒翁なのはお互い様じゃないか。」
奴が緩慢に片手を挙げると俺の相柳が現れて宮の内周を何重にも覆った。銀色の十八の眼光は鋭く俺を射抜いている。理性を失った獣のように牙から涎を垂らして俺への敵意を肌で感じると五臓六腑が煮えくり返りそうだった。
駆け巡る憤りを緊緊と目付きに表現すれば、おお怖いなどと何処ぞの馬の骨とも知れぬ肉体を奪った羂索は怯みもせず肩を竦めた。
「伏黒甚爾を生存させ、禪院直哉に魔虚羅を調伏させ、夏油傑を高専に留める。いやはや、最後の大盤振る舞いといったとこかな。私への殺意、執念には恐れ入ったよ。だけどへみの君…矢っ張り君は甘いね。」
その甘さが毎度命取りとなっているのに学習しない。宿敵は嘲笑した。即座に言い返せない時点で俺の負けだ。
まさか最後の最後に及んでまだ隠し球を懐に隠していたとは。毎度数秒分も漏らさず記憶が受け継がれるとは限らない。前回の梔子逸としての俺に死因が明かされなかったのが仇となったか。
(一)術師が結んだ契約に干渉し、(二)人外生物の制御権を奪い、(三)対手の式神を一時的に召喚させない術式。肉体を乗り換えても術式を継承できる羂索ならではの奥義とも謂える。五条が打倒するには経験値の優っている奴の脳味噌を少しでも削いでやろうと宮内に招いたのが失策だった。
蛇を喚び出せない今、俺に与えられた対抗手段は天狗式近接戦と権能卸のみ。蛇精を卸して奪われた利腕を治したかったが奴が抜かりなく回収したのでそれは叶わない。
よって現状は俺が圧倒的に不利である。だが試合に負けたとしても勝負に勝てば良いだけの話。
他人事のように俺を嘲笑った男を俺は嘲笑い返した。
「貴様も千回余りは戦意喪失していただろう。富士山に突き落としてやったこともあるのに懲りない奴だ。」
「馬鹿だなぁ。作戦を練り直していただけだよ。確かに初期はずっと無量空処食らってた感が否めないけどね。」
云い終えるや否や、話の継ぎ穂などないとでもいいたげに羂索は押し黙った。潰してやった右眼の空洞から滴るアカを煩わしげに拭って。
左腕と右眼、割に合わないな。失笑すれば「何がおかしい」と目差しが尖った。
「健全な五体なんぞ欠落者の貴様には過分だと思ってな。」
瞬間、下駄の歯が羂索の手首を骨肉諸共切断した。苦痛に勝る焦燥が表面化したのを見留めて口角が上がれば、醜い顔面が益々顰められる。
相柳の大口が間近に迫る。躰を捻るには遅い。
俺は敢えて突進を受け止めると、前歯を掴み…引っこ抜いた。
大切な家族の悲鳴が鼓膜を揺さぶる。胸が抉られそうだった。
「許せ…」
掴み取った牙を両手に握って真下の男に振り下ろす。風圧が横髪を攫う。目玉から脳髄を貫いてやろうと込めた殺意は悔しくも寸前で弾かれた。
「百万…百万回だッ!前回で勝負はおあいこだ!私を殺して、君にその先があると思っているのか!?」
「それはこちらの台詞だ!いつしか梔子逸を、俺を抹消することだけを生き甲斐にしてきた貴様が今更何を成し遂げられる!」
「君さえっお前さえいなければ十四億年前には理想世界が実現していた!お前がもう少し柔軟な思考で歩み寄っていれば互いに共存できていたかもしれない!お前がこの地獄を始めたんだ!」
「ほざけぇえ!」
呪力が激突する。まるで鏡の自分と戦っているみたいだった。
夥しい血を滝のように流す相柳が急接近する。滑りそうな手で牙を持ち帰ると屋根を足場に跳躍して、相柳の胴回りに回り込んで鱗ごと細断した。
ぼこ、ぼこりと矢庭に巨体が隆起する。次の瞬間、相柳の体を引き裂いて黒い影が突進してきた。
禍々しい呪いの靄が周囲を漂い視界を奪う。扇を持ち上げる仕種をして懐に飛び込んできたソレを卸したペルーダの火焔で消し炭にした。疾病はお焚き上げに限る。
疱瘡神を瞬殺された羂索は苦々しい面をつくった。
「捕まえ直すのに苦労したのに」
「回帰毎に術式を受け継ぐのだって反則だろう」
「じゃあお互い様だね」
壊滅寸前の薨星宮に残る僅かな高台の足場に舞い降りる。宿敵は真反対の出入口付近に距離を置いた。
…宮内の温度が上昇した。
いつか奴が穿った大気圏が原因で太陽光線に消滅した滅亡の日のように、或いは別な世界線で奴が契約した漏瑚の術式によって列島が隕石に鎮められた日のように。息を吸い込むだけで喉頭から肺までもが火傷しそうなほどに加熱される。何が起こっているかは明白だった。
伝説級の蛇との契約を増やして戦力を増強させてきた俺に対して、羂索は己の生得術式を用いて渡り歩いてきた世界線の分だけ術式を引き継いできた。それに天元が気付いたのは十億年前。その時には既に奴は俺が斃した宿儺の肉体を奪ってしまっていた。
火で火は消えねど邪を禁ずるには邪を以てする以外にあるまい。対抗すべくは死者の血を啜りし北欧神獣。
——権能卸 ニーズヘッグ・術式模倣 両面宿儺
溶けそうだった肉体が忽ち高熱に順応する。同時に空漠な宮内の気温が不可能な領域に達する。まだ地面がチーズのように溶け落ちてこないのは偏に天元の結界術のお陰だった。
今日の決闘の為に彼女が最も安全な薨星宮から単独で離れることを縛りに一度だけ如何なる攻撃も宮内で完結させられる強固な守護の膜。天逆鉾でもない限り破れはしない。前回も前々回もそれ以前もそうだったから羂索もそのつもりで手加減はしないだろう。
「覚悟は良いかい?へみの君」
「貴様を倒すのは私ではない。五条悟だ。」
「くだらないことを」
彼は知らない。この結界の無敵状態は俺には二度付与されていることを。最後の最後まで取っておいた奥の手。即ち、次の衝突が終わってからが大詰めだ。
渋谷の漏瑚戦とは異なり、指先から真っ直ぐに伸びる炎軸を胴体として鳳凰の如き両翼が生じる。鏡合わせに弓を引き分け、会の射形をとれば万死の炎の翼は大きく広げられた。回避を見越して互いの心の臓を狙って。
「最大出力」
「開フーガ」
——眼球を焼き尽くさんばかりの白光が世界を消した。
爆風どころではない風圧が濁流さながらに縦横無尽に暴れる。熱気そのものが深淵の獣の咆哮を轟かせ、閃光に取って代わった火煙が無限に炸裂する。天元の結界に守られる俺と内壁を除いて万物が融解する。
これで薨星宮と俺の保護は解かれた。あと一回。
微かな赤線が煙霧の彼方で棚引いた。
来る…!
思考が捕捉する前に刃が交差した。半径半径七〇〇立方キロ圏内の対手を損傷させるまで斬撃が止まらない草薙剣。対して何の特性も持たない鉾。勝利も同然だ。
剣と鉾が剣戟を交わす。疾風が疾風を呼び熱気が竜巻を生み出す。
先端が皮膚を掠め、肉が抉れ、骨が裂ける。
果たして草薙剣を相手にここまで耐久できる鉾があるのだろうか。でもそんなことはどうだって良い。
右眼の死角を利用して斬撃を仕掛ける。照準の固定された刺突が繰り返される。受けて、流して、弾いて。羂索が五分五分で避けてそれ以上の駆け引きが両者の脳内で展開されていた。
生き物のように蠢く竜巻の合間を縫って俺は直進する。対抗して極薄の内壁を蹴り上げた羂索は柳の構えで真っ向から襲い来る。
瞬きで目睫の間に迫る。
喉仏か?…いや、心臓だ!避けるか?…否!
……不意に相手の鉾が蜃気楼のように揺らめく。何の変哲もない鉾が真の姿を現す。それは亀裂の走った天逆鉾だった。
黒宝玉?有り得ない。加茂憲倫としてのお前から取り上げた筈だ。ならどうやって透過術式を…まさか!
「羂索ッ!」
「言っただろう?詰めが甘いと」
突如平衡感覚を失い浮遊感の中に別な浮遊感が湧き起こる。地面に叩きつけようとする圧迫感…反重力機構だ。避けられない。そう思った時には翼が消失していた。
天逆鉾が胸を貫いた。
「カッ、ハ!」
心臓を掠めて砕けた小片が中で暴れた。声にならない声が喉元から溢れる。
地面まであと十メートル。強制的に遮断された呪力の代わり怨念を掻き集めて男を睥め上げた。
腕を掴む。ずっと懐に取り置いていた物を羂索の着物の帯に引っ掛けて。呪いもへったくれもない、栓の抜かれた破片手榴弾を見て大層愕く間抜け面を見れただけでも満足だ。
「言っただろう?貴様の手足をくれと」
「蛇蝎がァッ!」
憤激が漲る。引き剥がそうと必死な宿敵に中指を立てて、俺は最高の笑顔を贈ってやった。
………。
這いずって薨星宮を出た頃には千五百年ぶりの二つの満月が天原に在った。散りばめられた星屑が煌めき俺というちっぽけな存在に想いを馳せてくれているようだ。
孟冬の透き通る冷気は熱傷した呼吸器官に酷く染みて肺が軋む。今となっては貴重な染織家に染めさせた狩衣はすっかり鉄臭い深蘇芳色の襤褸切れに変じてしまった。実物大の象の真鍮台にでも伸し掛られているみたいに躯が重い。けれども魂を脱ぎ落としてしまえばこれが最後だと分かっているので無理を押して起き上がり歩み始めた。
羂索はあの程度でくたばるような化け物じゃない。不本意だが俺が殺しては元も子もないからと手加減をしてやったから。それでも脳が焼き切れる程度には魂を尽くしたつもりだ。事実、奴は常時全力を挙げて俺に攻め掛かってきた。
午後八時から体感で彼此三時間が経過したと思われる。全身全霊の三時間、最終戦は望んだ引き分けで終わった。今頃ウロボロスに導かれて梔子逸が高専に到着しただろう。真っ新な肉体を手に入れてほくそ笑む羂索の姿が容易に思い浮かぶ。だが俺との戦闘で余裕を無くした奴が——現に俺が梔子逸だった頃、奴は自分に反転術式も掛けずに俺を殺した——全力の五条に勝てる筈がない。今回は夏油もいるんだ、先程俺を抹殺できなかった時点でどう足掻いても奴の敗北は確定している。
「ははっ」
生きてる。死にかけでも鼓動を感じられる。それだけで満ち足りた気分になった。
心が弛んでしまったからか、足元で小石如きに躓きその場に崩れ落ちた。左腕がない所為で支えにしたい手摺に手を伸ばせない。此処は高専の敷地から外れたばかりの山腹、鳥居を抜けた先の石段。渋谷には物遠い。
天逆鉾が石畳に押し込まれるのだけは避けたくて根性で仰向けになった。もう一度四肢に力を込めようとして、指先にすら力が入らなかった。挙句の果てに眠気にまで襲われる。嗚呼、まだ眠ったら駄目だというのに…頭の中で鞭を打つだけで躯が一向に動いてくれない。
何かに誘われるように瞼を閉ざす。少し、少し休むだけだと自分に云い聞かせながら。けれどもどうしてか死ぬ予感はしなかった。
…意識が宵闇に引き摺り込まれた。