天与呪縛はつらいよ   作:れいめい よる

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北へ 後

 

 

けたたましく鳴り響く警報に耳朶ばかりか氣を脅かされながら、甚爾は林道を駆け抜けていた。事変も佳境に差し掛かり、突如として呪詛師の軍勢を捨て置き行方を晦ました反乱者梔子逸を渋谷中を駆けずり回って捜索したのが三十分前のこと。漏瑚を安易と斃した直哉が獄門疆を発見したことにより、夏油が海外任務で出会った呪術師ミゲルから拝借した黒縄により大した手応えもなく優劣は逆転した。

 

前回の反省を活かしてのへみの君の裏工作により逸の誤解は依然として解けておらず、解放された五条が渋谷料金所にて体力と気力を回復する為に腰を下ろした頃合い。二週間程前に逸が宣戦布告に高専に現れた際に事変に一切の介入をしないと明言したへみの君に恥を偲んで意見を仰ぐことにしたのだ。敵の大将の姿が渋谷の何処にも見当たらないのは勿論、午後十時三十分に東京高専の方角へと黒雨を泳ぐ蛇の目撃情報があった為に杞憂だと思いつつも人員を送らぬわけにはいかなかった。戦況は分刻みで呪術師側に傾いているが多勢な呪詛師達を成敗するには人手は大いに越したことはなかった。 

 

半ば責付かれるかたちでやおら赴いた甚爾が異変に気付いたのは十五分前のこと。視野に山々が収まる範囲の地点で優れた聴覚が拾った不穏な音色に彼は即座に走り出したのだった。 

 

万が一にもへみの君が殺られるなどというのは有り得ない。しかし両面宿儺が若者の肉体に寄生して現代に蘇ったように、日本を支える礎石と中心に聳える柱が果てしない日本史を生き存え現存しているように、「有り得ない」はその時代の人間の価値観によって生み出される概念で容易く覆される。

孔が愚痴っていた不吉な満月が、十二年前の星漿体任務でへみの君がちらつかせた憂愁を何故か思い出させた。あの日の出来事は鏡面に付着する汚れの如く今も甚爾と直哉の心の片隅に糊着して離れないのだ。 

 

登山口に至れば半刻前から色なき風に乗って耳に流れ込んできた不穏な音色が高専から発せられる警報であることは確実となった。遂に甚爾は脚力に全力を込めた。

傾斜が上がるにつれて向い風が運んでくる、濃厚になる猟奇的な事態が起きたことを示す臭いに不快感がねっとりと纏わりつく。非術師ならば残像しか映らぬ速度で長い階段を駆け上って、遠目に見留めた存在に心を凍りつかせた。 

 

段々と下ってゆく血の行方を追うように仰向けに身を横たえていたのはへみの君だった。 

 

「おいッ!しっかりしろ!…帝サマ!」 

 

己の眼が腐っていなければ彼の胸元に突き刺さるそれは自身が十二年前に使うことなく放り捨てた筈の天逆鉾だった。ところがへみの君を瀕死へ追いやった原因は特級呪具のみならず、左肩で途切れる衣が侘しげに揺れているのが、絶対的存在が見るも無惨な状態になっていることが甚爾には信じ難かった。それでも眼前にある光景が現実である限り目を背けるわけにもいくまい。

 

一先ず脱がせた狩衣の一部を引き千切って止血帯を作り、肌けた上半身の特に出血が酷い箇所と肩をきつく結び合わせる。剣は抜かずに移動の最中に決してそれ以上の傷を拡げぬようにと固定すると、細心の注意を払ってへみの君を抱き上げ一目散に来た道を引き返した。 

 

………。 

 

常夏の栄光が金色の大海原に、光彩放つ天空に、青春の撒き散らされた砂浜に充足していた瑞々しい季節。甘ったるく濃厚な生気と酸味をほろ苦さを滲ませた翠緑の早朝。

あの日、永遠が崩れ去る幻は本物だったと直哉は絶望した。海鳴に紛れ込んだ破滅が遂に自身の聴覚と直接的に結ばれてしまったと。 

 

「誰かッ!反転術式の女!」

「みかど…さま?」 

 

口から発せられた声は彼のものとは思えぬほどに幼体化していた。治療室への入口を塞ぐ直哉を足蹴にして駆け込んだ甚爾に、幾つもの区画に間切られた屋内の入口で羽を休ませていた術師達は一斉に注目した。そして右腕を力無く下ろし彼に抱かれる血塗れの人物に、有様に震撼した。直哉は呆然と佇むしかできずにいた。 

 

「家子!」

「伏黒さん、私は家入だって……っ!」 

 

怒鳴り声のような甚爾の呼び掛けに気怠げに紗幕の向こうから顔を覗かせた家入が絶句する。彼女の動揺を背中で感じ取った五条、夏油、夜蛾は会議を中断して表に現れ…同様の反応に陥った。 

 

「へみの君ッ!伏黒、何があった!?」

「知らねェよ!警報が聞こえて駆けつけた時には山腹で倒れてた」

「早くここに寝かせて!」 

 

甚爾の胸元に隠れて判らなかった左半身の影が無くなった左腕から滲んだものだと気付いた面々は気絶しそうになった。今になってふらりふらりと覚束無い足取りで歩み寄る直哉に発狂しないだけましかと却って冷静になった家入がへみの君の状態を改める。即座に甚爾が刺さっている物の厄介さを伝えるとただでさえ濃い隈に一層影が差した。 

 

「硝子、どう?」

「直ぐに手術しないと危ない。」

「何故?反転術式を使えば良いじゃないか。」

「破片があっちこっちに埋まってるの。この状態で剣だけ取っても術式を弾かれるから出血死しちゃう。だからへみの君は抜かなかった。」 

 

ならば即刻手術をと懇願しようとした直哉は、はたと止まった。直哉に釣られて夜蛾達も寝台で臥す男を注視する。

 

…不意に睫毛が動いた。白皙を通り越して死人のような顔色の幽かな翳りはそのままに。ゆっくりと瞼が持ち上げられる。口仮面のない男の素顔は死の淵に挑んでいればこそえも言われぬ美しさがあった。 

覚醒と同時に一瞬だけ忘れかけた苦痛が蘇ってくると身動ぐだけで顰蹙するへみの君を家入が支えた。 

 

「蛇神様、動いては駄目です。今直ぐ破片を取り出しますから」

「良い」

「良いって、そんなこと…」 

 

上体を起こそうとするへみの君を家入は押し留める。けれどもやんわりと払われた手に強固な拒絶が宿っているのを感じると、彼女は一先ず思いのまま身を起こさせてやるのを手伝った。 

 

「私よりも優先すべきことがある」

「馬鹿なこと言わんといて下さいよッ!」 

 

聞いたこともない怒号が響き渡った。直哉は感情を抑えきれない幼児のように思わず掴み掛かりたい衝動を抑え込むのに必死の形相をしていた。安静にさせるべき急患に面と向かって哮けた直哉を咎める者はその場にはいなかった。

呪術界において最も尊い存在が自らの命を放棄しようとしているのだ。それは千五百年彼が守護し続けた日出る国の総ての民を見捨てるも同然の断念である。よりにもよって最悪の呪術師が呪詛師を率いて数百年ぶりの戦争を仕掛けた夜に。絶対君主以上に心血を注いで拘うべき事物があろうか。 

 

今この場で全員が生命を捧げることで救われるのならば躊躇なく実行できる程度の存在、それがへみの君と天元なのである。動乱の日に頭と心臓を失って、どうして末端までを動かせというのか。 

代替できぬ宝に亀裂が入るのを見ていることしかできないでいる悔しさは直哉だけのものではなかった。黄泉に半身を浸している当の本人は激昂する直哉を見上げて微かに微笑した。

和らげられた目許のみを見てきた彼等は、普段の仮面の下でどれ程の愛情が横溢していたのかを思い知って息を呑んだ。 

 

「甚爾、私の狩衣の中に牙がある。それを五条に渡してくれ。」 

 

甚爾が弄るとそれは直ぐに見つかった。黒光りするバジリスクの牙は五条の手にしかと握られた。 

 

「説明している時間はない。五条、夏油、今からお前達に詔命を下す。高専に行き、梔子逸と戦いその牙で彼の脳を貫け。」

「ぇ?」

「薄々おかしいと思っていただろう。…あの子はとっくに死んでいる。」 

 

魂の抜けかけのように相好を崩す一同を見詰める眼には静寂で、されど抗えぬ迫力があった。 

教え子を殺す二人の罪悪感を最小限に抑えられるようにへみの君は嘘を吐いた。恰も離反の以前から逸の身体が乗っ取られていたと確信させる為に誤解が解消されていないこと、この世界では縫い目の有無に纏わる真実を誰も知らないことを利用して。 

 

「奪われた肉体に元の持ち主の魂はない。奴は…羂索はこの千五百年間そうして生き汚いハイエナの如く術師の体を渡り歩いてきた。」

「し、しかし貴方も天元様も倒せなかったなんてそんなこと」

「できたさ。ただ私でも天元でも駄目だったのだ。」

「どういう意味ですか」 

 

へみの君は噤んだ。薄らと震える唇が五条の問いが禁忌に触れたことを悟らせた。 

 

「この因果を断ち切れるのは五条悟以外にあり得ないからだ。全てはこの晩に始まり、そして終わる。それが定めなのだ。」 

 

へみの君は嘯く。天元と彼を殺す為に払われてきた数多の犠牲の末に、遂に羂索は決定的な鍵を発見したのだと。それこそが九地勿倭投術の使用者、梔子逸であった。 

 

「これ迄もそうであったように、きっと奴は梔子逸の魂が戻ってきたかのように見せかけて隙を狙うだろう。惑わされるな。乗っ取られた人間に救いはない。」 

 

一度言葉を止めた。 

 

激しく咳き込み口元を覆った手から夥しい鮮血が溢れてくると、おおわらわな手が幾つも伸びてくるのをへみの君は苦笑気味に断った。膨大な呪力の流れを心臓付近で堰き止められ、剰え片腕を失くしているにもかかわらず、僅かばかり回復した体力を振り絞り端座する。

すらりと伸びた背筋と凛々しく明晰な相貌が一同を見据えると、嗚呼、この御仁こそが呪術界が十五世紀もの間奉ってきた神秘なのだと胸に落ちる心地がした。 

 

皆が眼を奪われている隙に、崇拝されるべき男は全く不自然でない動作で頭を下げた。 

 

「ぇえっ?ちょっと何して…」

「すまない。どうかお願いだ。梔子逸()を解放してくれ。」

——この悠久の物語に結末を齎してくれ。 

 

濃密な静けさが辺りを包んだ。屋外で冠水する地面が水を浸透させるじんわりとした音色までもが聞こえてきそうだった。顔を上げさせようと伸ばした甚爾の腕は宙で留められている。 

へみの君の髪先から滴る血は恰も彼の心が泣いているようで、こちらが萎縮してしまいそうな謝辞は音叉さながらに澄み切っており、瀞峡の幽水美が人の形をとったかのよう。

 

帝様、五条の声調は自分でも驚くほどに柔らかだった。へみの君は面を上げる。観音を思わせる夏油の微笑が彼を癒した。 

 

「本当はもっと早く言うべきだった。理子ちゃんを助けてくれて有難うございます。」

「夏油」

「必ず大御心に従います。」

「…有難う」

「だから帝様も約束して下さい。いつもみたいに健やかな佇まいで出迎え下さるって」

「ああ。約束しよう。」 

 

片方が必ず破られると誰もが覚っていた。それでも男の並々ならぬ決断の深さを前にしては、まだ墓を拝んでいるわけでもないのに己らを空漠とした思いにさせられてお気持ち程度の誓いを交わさずにはいられなかった。 

 

……五条と夏油は最終決戦に向かった。

二人の背中が見えなくなるまで見送るとへみの君は家入と夜蛾の助けを借りて寝台から降りた。あとは天元と合流するのみだった。 

 

「直哉。」

「いやです。」

「…まだ何も言ってないじゃないか。」

「どうせ最期にどこそこ連れてけとか、山に捨ててこいとか言いはるんでしょう。」

「お前の手を煩わせたりはしない。それに姥捨山はもうないぞ。」

「マジレス要りませんて」 

 

本当に幼児化したかのむずかり様に、子のあやし方に疎い父親さながらの弱り顔を晒すへみの君に幾分か空気が和んだ。 

 

「鵺を貸してくれないか。最期に天元に会わねばならない。」

「俺がお送りします、させて下さい。」

「待て、俺も行く。帝サマを狙う輩が他にもいるかもしんねェだろ。」 

 

そんくらい良いだろ、帝サマ? 

一歩も譲歩すまいという野良犬もかくやの瞳孔がへみの君を射抜くと点頭するしかなくなった。

肩を借りようとした彼をまたもや抱き上げた甚爾に、へみの君は無作法で悪いと謝りながら家入と夜蛾、診療所に集っていた事情を知らぬ術師らにも別れを告げて大空へと飛び立っていった。

 

 

和歌山県伊都郡弁天岳。何故そう名付けられたかは誰も知らない不可思議な山で天元は俺を待ってくれていた。初めて訪う筈なのにどこか既視感のある…いや既視感どころではなく懐かしさが込み上げる寂れた神社の小さな小さな境内で、ツチノコを抱いて笑顔で出迎えてくれた。 

 

時刻は二十三時五十分、日付が変わるまであと十分。運命が精算されるまであと少し。 

 

「送ってくれて有難う。もう帰りなさい。」

「帝様」

「そんな顔をしても駄目だ。」 

 

名残惜しさに後ろ髪を引かれる面相をつくって直哉は俺の手を握り込む。流石に物分かりが良いと思っていた甚爾までもが躊躇いがちに境内に居座るものだから殆困り果ててしまって天元に助けを求める。

彼女は面白可笑げに肩を竦めるだけだった。戸惑いつつも俯く頭を撫でてやれば切長の目を大きく見開かせて、感情が決壊するのを捉えた。 

 

何百何千と見守ってきた畢生の帰結がここにある…。今度は俺が見届けられる側になって。孤独な空の下で己の過ちを顧みながら次の回帰を待ち侘びた計り知れない屈辱と悲歎が、何億歳も年下の子供の涙によって綺麗さっぱり祓い清められて。 

 

いつからか俺は回帰よりも人々との関わり合いを尊ぶようになっていたのだと今になって自覚した。

純真に幸せが溢れ出た。これで魂が消滅しようがしまいがもう満足だと胸を張って思えた。 

 

「さあ、生きなさい。」 

 

抱擁を交わして送り出せば益々留まろうとする直哉は甚爾に引き摺られるようにしてネオンが煌めく夜の彼方へと遠ざかっていった。 

 

自然の囁き声が其処彼処から聞こえてくる。どこからか熟れた柑橘の咆哮が鼻先を掠めた。そのか細い女体のどこにそんな力があるのか、天元は俄かに賽銭箱に凭れ掛かる俺を持ち上げると神殿を開けて寝かせた。野暮な指摘はすまい。 

 

「お前に感謝をしなくてはな。」 

 

彼女の肩から降りたツチノコが擦り寄ってきた。仁愛に満ちた眼差しが俺を見透かす。

 

「最後の最後で心に従うことができたのはお前が背中を押してくれたからだ。有難う、天元。」

「…逸、これまでに君が見てきたものを聞かせてほしい。君の言葉で。」 

「難しいことを訊く。そうさなあ…」

 

呪いという本能と人間という理性の狭間で分断ではなく協調を培ってきた十五億年分の人間の物語を俺は識っている。人の心に愛し愛され、呪い呪われ続ける因果の小車の中心で、脆弱で孤独で最低で、勇敢で熱くて美しい者達の、或いは呪霊達が織り成す瑠璃色の軌跡。 

嗚呼、そうだ。呪いもまた愛の数あるうちの一つ、排他的な側面に過ぎないのかもしれない。

 

「少なくとも、どうしようもない世界だと嘆く人間達に貰ったものは呪いなどではなく有り余る愛だったよ。」 

 

ツチノコが同意するように鳴いた。曇りなく綻ぶ天元もまたこの結末に満足しているのだろう。 

 

「無条件に人を愛する。まさに神の境地だね。」

「はは、そうかもしれないな。なんせ百万回だ。」

「ああ。もう十五億年だね。」 

 

不意に忘れかけていた領域展開の名が脳裡に蘇った。胸中で誦じればふっと眠気に襲われる。酒を呑みすぎ頬が曙に染まったときのような酩酊感だ。

 

おやすみ、また明日。触れる天元の指先がとても心地良い。ツチノコを抱いて横たわると瞼は完全に閉じられた。 

 

 

 

今、零になった。

 

 

 

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