強制的に意識が覚醒する。
手入れのされていない神殿内に俺は居た。身を起こすと同時に己の異変に気付く。心臓を掠めて深々と刺さっていた天逆鉾はどこにもなく、回収し忘れたまま諦めていた左腕は綺麗さっぱり元の場所に収まっていた。それだけではなく、何か、根本的に俺という存在が魂まるごと造り替えられたかの神妙な感覚がした。不快ではなく、寧ろ清水を棲家にしている小魚さながらに快適だ。
ツチノコもおらず表に出てみても天元すら見当たらなかった。空には太陽が昇っている。結氷を素足で踏むような凍てつく冷風が吹いているのは分かるものの、それを素肌が実際に感じ取ることはなかった。二本足で立って初めて己の目線が覚醒前よりも高くなっていることに気付いた。
今日は何年何月何日なのだろうか。答えてくれそうな人は山頂の何処にもいない。
混迷のままに改めて見る社は最後の記憶とは異なり山茶花や蓮など、季節の混交した花々が今が盛り時とばかりに咲き誇っている。
朱、白、撫子、複色…千紫万紅の美景に目を奪われているとついと確かな気配を感じた。俺は鳥居を出て気配を辿ってみる。山腰の傾斜に器用に聳え連なる杉木の合間、ガレ場の中途で佇む姿を発見した。
「天元!」
怪我がなくなったお陰で身軽になった体はたった一度の跳躍で木々を乗り越え彼女の横に着地できた。
「なあ、何が起こったんだ?今は何年だ。若しかしてまた回帰したのか…天元?」
一向に答えない彼女を訝しんで顔を覗いてみる。ウロボロスによって永久に若々しさを保っている容貌はある一点を向いていた。その視線の先を辿ってみても何の特色もない岩場が広がっているだけだった。
漸く天元はこちらを見た。この顔を知っている。決まって碌でもない話を突きつける時にする人の顔を摘む狐みたいな表情だ。何だか嫌な予感がした。
「どうして私が逸の回帰の理由に思い当たったと思う?」
「なんでだ?」
「教えてもらったのさ。百五十億年前、梔子逸になる以前の君は此処で死んだ。」
「は」
何を云っているのかさっぱりだった。見た目だけは若々しい老耄も遂に呆けたのだろうか。なんて眇めて見れば「真面目に聞きなさい」と額を小突かれる。随分と昔に似たような場面を体験した気がした。
「少しくらいは疑問に思っただろう。逸の因果とは実質何の関係もなかった私が初期段階で記憶を継承することを選んだのは。」
言い得て妙な問いかけだ。あの頃はまだ己の記憶すら辿々しく、路頭に迷うかたちで行き着いた五歳の天元はいつも微苦笑を浮かべていた。…まるで、今度はどんな失敗をしたのかとでも云いたげに。
「お前、若しかして最初から記憶を繋いでいたのか?」
思わず尋ねても天元は肯定も否定もしない。けれどもいつかの微笑とも苦笑ともつかぬ面持ちを差し向けてきた。それが答えだった。
「今更回りくどい言い方をせず、はっきりと言ってくれ。」
「ならそうするよ。百万回の回帰、逸は一から指折り数えていたけれど、私は百万から引いていたんだよ。逸の魂が満を期して昇華するまでの重大な岐路を見届ける役目を請け負っていたんだ。」
「誰に…?」
天元は山頂を仰いだ。とっくに雑林が景色を覆い土地勘のない迷子では決して辿り着くことができないであろう山岳の頂点を。
「この聖山は七大弁財天の失われた信仰の場だ。」
「待て、七大弁財天?おかしいだろう。俺の知っているのは綱引弁天、尾先弁天、首途弁天、丸山弁天、湯屋谷弁天、祓川弁天の六大だ。」
「本来はそこに嶽弁財天を加えての七大弁財天なんだよ。けれども今日をもって長らく不在だった座に新たな神が降臨した。」
「待て、まさか…」
彼女はその名に相応しい燦爛と輝く日輪を背負っていた。
——就任おめでとう、弁財天。
…息を引き切った。天元が紡いだ突拍子もない言葉は一点の曇りもなく耳を透き通ってきた。
起こり得ないと思えない己が不思議でならなかった。起きたときに感じた確かな変異、そして今名を聞いた途端に魂に馴染んだ感覚。それはまやかしなどではないから。
言葉を失う俺が懐疑を抱いていると思ったのか天元は決定的な原拠を突きつけた。
「前世の世界には呪術がなかったそうだね。前任が教えてくれたよ。それなのにツチノコが社に居たのは何故だろうか。…簡単さ。君が迷い込んだお社はこちらの世界の弁財天社だったのだよ。」
たとえ呪術がなくとも神秘は万物に宿っている。俺が唱えたある言葉によって、神殿で眠っていた神が目覚めた。
「
回帰の最後に思い出せた俺の領域展開名。それは弁財天の御真言だった。
前世でも盗掘団や考古学者、GHQといった数多の人類がいくら探求しても終ぞ見つかることはなかった嶽弁財天の在処。神代の宝が眠っていると謂れる伝説の神社。その実態は後継者を望みながらも隠遁する弁財天の休憩所だった。険しい山岳に時折迷い込む者達を山頂に案内して社を視ることができるか否かで素質を試していたのだ。何千年もの間ずっと。
「ある日、遂に彼の神の社を目視できる青年が現れた。
弁舌、財福、知恵を司る神は是非とも己の後任に俺を据えたくなった。しかし人間が神格化するのは精霊や英魂が神格化するのとは訳が違う。そこで同教の神々に意見を聴取しにいったところ万場一致で生の百万授受という結論に至った。
光明真言という密教の真言がある。簡潔に説明すれば大日如来への心願成就の呪文を百万回唱えることによって凡ゆる神秘的な願いが叶うという万能の祈りだ。神が特定の人間に対して唱えた場合、その者の魂は変質するという仕組みを持つ。
そこで弁財天は、前世の死は計上に入れず梔子逸として転生した魂の最初の死をゼロの起点として百万の祈りを捧げた。天元は逸とへみの君という同一人物の旅路を見守ってほしいという弁財天の頼みを聞き入れた。
百万回の回帰はツチノコの特性などではなく、彼は弁財天の使者として俺の魂が奈落を属性とする邪悪な存在に掠め取られないようにする為に守護していたのだ。そして真言の力が効果を得る十五億年後の八月三十一日まで俺は真実を知ってはならなかった。
「羂索は途中から君の魂が本質的に変じていることを勘付いていた。だから一層君を抹消しようと執着したんだよ。」
最期に全ての始まりの地で俺が真言を唱えて終わらせたことで永遠の儀式は完了した。この世界の弁財天となったのだ。
「ほら、弁財天って福の象徴だけどそれと同時に戦いと呪いの女神でもあるだろう?だから若い頃の君、怒りっぽかったんだよ。」
「それ関係あるか?」
「ぼちぼちあると思うけどなあ。」
「じゃあ梔子逸としての俺はどうなったんだ。」
日本の美麗も俗悪も眼差してきた賢者の眸が俺を捉えた。
「さあ、私は神じゃないからね。けど、きっと人間としての梔子逸と神のとしての君とに分たれた別の世界がこの世のどこかにある筈だよ。何方も渋谷事変も離反も起こらず、逸が最も望んだ世界で。」
全ては神のまにまにということさ。
そう締め括った天元は大きく伸びをした。神でないというわりには性別を超越した衰えぬ容色に日光をうんと浴びて、徐に曲げられた腕が色素の薄い長髪を持ち上げる。無為無聊な姿態だけれども指先から睫毛の微動、何度注意しても正しく着ない着物の袖の捲れ方一つにですら形容し難い日本への愛情を感じた。俺と共に百万回渡り歩き、守り育んできた列島への愛着を。
彼女の精悍な横顔に惹きつけられているうちに自然と甘い期待が
「どうしてお前は弁財天の頼みを聞き入れたんだ?断ったって罰は当たらなかったはずだろう。」
天元は屡叩いた。くすりと口許を緩ませて、泣き笑いのような笑みをつくった。
「そりゃ最初の頃は何度も離脱しようとしたよ。だってほぼ二千年が百万回!普通の感覚じゃ耐えられないね。」
「じゃあ尚更じゃないか」
「だけど、だけどね」
随分と昔懐かしい女性らしい口調で天元は遮った。
「回帰を終わらせる為って口では言いつつ、いつも誰かの為に命を賭す逸に気付けば落ちてたんだ。前の弁財天と同じように。」
胸の奥底から何かが迸った。
麗らかな小春日和に微睡むような温もり、水天一碧の限りなく透明に近い純愛。忽ち脳裏に蘇る二人の軌跡。
『今回も失敗か。心配いらないよ逸、時間はたっぷりあるんだ。』
『逸、落ち込んでいる暇があるなら作戦を練り直そう。』
『ほーら泣かない泣かない。良い歳した大人だろう。逸は怒るか泣くか落ち込むかだね。』
『なんで付き合ってくれるって?そりゃあ逸だからだよ。』
逸、逸……逸。
幸運の拍子木が耳裡で打ち鳴らされた。暗澹とした馬鹿げた紙芝居だと思っていたそれは、他でもなく俺自身の陰に絶えず暁光を遮られていた最良の神芝居だったのだ…!
「天元。好きだ。愛してる。」
喜びに打ち震える唇が勝手に想いを告げた。一瞬、祝福が呪いに転じはせぬかと思ったが一度横溢した感情を抑えることはできなかった。
天元は見開き俺を見上げている。
頬は紅潮していないか、眉毛は変に顰められていないか、確りと凛々しい佇まいで見据えられているか。相手の反応よりも年頃の男みたいに心臓をばたつかせる己が不細工に感じてならなかった。そうすると彼程激しい衝動で表白した赤心が曖昧な否定で返される様を思い浮かべて恐ろしくなってくる。
恥らいに伏目になって見下ろした足元に不意に華奢な裸足が映じた。また下駄も履かずに彷徨いて、などという的外れな諦観を片隅に追いやったのは彼女だった。
…微かな力が己の唇に加わった。
乱れた輪郭が視界一面に広がる。純白の山茶花の淡く優しい香りが鼻腔を撫でる。
気付いた時には天元の後頭部に左手を添えていた。余った右手で握り締めた彼女の掌は何度も繋いできたはずなのに今までで一番温かく感じられた。
馬鹿っ、気付くの遅すぎ!待たせて悪かった、ありがとう。
どちらのとも知れぬ甘塩っぱい涙が触れ合う唇から入り込んできて、それすらも角砂糖の一粒が溶け出すように窮まりない幸福を慥かめさせた。本当に自分が縁結びも司っているのかが疑わしくなるくらいに。
「今ならもう百万回死んでも良い。」
「ふふっ良いとも。この世の果てまで付き合ってあげる。」
「ああ、どこまでも永遠に。」
「奈落の底でも。」
再び二人の影が重なった。
二〇一八年十一月一日。百万回の苦難を乗り越えて、無窮の幸せが訪れた。