『そうか…。』
「まずは逸に事情を聞く。どうするかはその後でもいいでしょ。」
『ああ…悟。』
「何。」
『最悪を覚悟しておけ。』
「………。」
通話が切れた。
「クソッ!」
勢いよく投げ捨てればみしりと本体を軋ませて携帯は潰れた。
ベッドで深く眠りにつく逸を見つめる。こうして近くで改めれば彼の葛藤の跡が見て取れた。酷く翳りを帯びた目元、幽霊のように青白い肌。体格だって以前よりは筋肉量は増したようだが華奢になった。碌にご飯も食べれていないのだろう。
よくよく思い返せば前兆はあったはずだ。度々傑と姿形が重なってしまうのも...最初から心の何処かで理会していたはずだ。理会したうえで現実から目を背けていた。逸は親友とは違うと、きっと気の所為だと信じていたかった。その結果がこれだ。
先程、恵から事情を聞いた棘がやってきて温泉旅行での顛末を教えてくれた。
休憩所に向かう最中、逸が非術師の旅行客に対して術式を発動しようとしていたこと。危機一髪のところで棘が阻止しなければ今頃その非術師たちは逸の蛇の餌食になっていたかもしれない。何かに酷く怒りを募らせているようで、咎めてもさして反省した様子もないことから不審に感じたと。
無理もないことだ。一年前の百鬼夜行で傑と相対したことのある棘にとって、逸の言動の変化はあの日を思い起こしてしまうほど衝撃的だったのだろう。逸は大丈夫かと何度も不安げに問うてくる棘を宥めて一先ず自室に帰らせた。
「..............。」
逸の非術師に対する攻撃意思、明確な殺意が露わになったのはこれで三回目。異変のきっかけと思しき最初の出来事は伊地知が報告した××村での任務。傑も同様にとある村での任務を転機に高専を離脱した。...否、まだ逸は離反してない。何かの間違いという可能性だってあるし、先ずは本人から直接事情を聞いて...。
この後に及んで自分に都合の良い解釈しかしようとしない己に、嫌悪混じりの失笑が溢れた。
そんな時、逸が呻き声をあげた。
「ん…ぅ…ぃゃ…」
悪夢に魘されているのか壊れたようにぼそぼそと囁きを繰り返す逸。次第に胸を抑え始め、汗が滲みだすと思わず肩を揺さぶる。
「助け...」
何かから逃げるように魘されていたのが、救いを求める声に変わった瞬間、肩を一層強く揺さぶり名前を呼んだ。
「逸っ!」
「ッ!?」
瞼を開いた逸は徐々に彷徨っていた焦点を合わせると僕を認識した。上体を起こそうとする背を支えてやると、額の汗を拭きながら逸は部屋を見渡す。
「あの、いつの間に高専に...」
「僕が連れて帰ってきたんだ。」
そう云うと路地裏での出来事を思い出したのか逸はこれでもかと目を瞠り...涙が頬を伝った。窓から差し込んだ月光の一筋に当てられたそれはいうなれば奥深い真珠の煌めきのように清らかで。止まるところを知らず零れ落ちる水滴を必死に擦って止めようとする逸。その不均一に歪められた表情の隅々から悔恨と恐怖を感じ取れると、学長が云うような最悪がスッと波のように引いていって僕は吐息を洩らした。
「逸。」
逸が昂った感情を沈めるのを見守ってから程なくして名を呼ぶと、彼は強引に目元を拭って僕に向き直った。
「電話でのこと、すみませんでした。…本当に思っていたわけじゃなくて…。」
まだ僅かに震える声で事が起こる前の電話での悶着を謝ってくる逸。謝罪ができる素直さはアイツと違って更生の余地があると思わせてくれた。
「いや、逸の言ったことは正しいよ。…あの日もそうだった、僕はいつも、肝心な時に限って間に合わない。」
「先生?」
二人が言ったことは何も間違っちゃいない。最強だのなんだのと持て囃されて育ってきた僕には真に他人の痛みを理解して、その苦しみに寄り添うことなどできないのかもしれない。傑が理由も告げずに離反したのも、逸が伊地知に僕に何も伝えるなと言ったのも全て、僕が頼るに値しない人間だからだ。
それでも…こんな頼りない教師でも衷心から逸のことを想っている。使い古されたぼろ雑巾みたく心が傷付いているなら、たとえ修復できなくとも傍にいてやりたい。それで一寸でも気が楽になるのなら俺は...
「
一縷の願いを込めて翡翠色の瞳を見つめると、逸はまた嗚咽を漏らした。隣に座って背中を摩ってやる。先ほどよりも早く涙を引かせた逸は、「先生…俺ッ!」と冷めやらぬ激情を吐き出す。それに一つ返事で先を促せば、深呼吸をしてから僕に向き直った。
「先生、非術師が猿に見えて仕方ないんです。」
判っていたはいえ、絞り出すように言い放たれた言葉に矢張り言葉を失ってしまった。
「村に任務に行ってから非術師が猿に見えるようになりました。その後も、猿に関わる度に吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えて…さっき先生と恵が止めてくれなかったら俺は人殺しを…!」
「…その任務で何があったか教えて。」
そうして語られたのはあまりにも理不尽で嘔吐を催すような話。村人たちは禁忌に触れて特級呪霊を呼び出した。全ては自業自得だったのだ。
「俺が蛇を使役しているのを村人に見られました。そしたら取り囲まれて…一連の失踪事件、不審死が村人達が行った儀式によるものだって指摘したら襲いかかってきて…。」
事のあらましを打ち明けた逸は血が滲むほど唇を噛み締めた。その傍で僕は拳を握り込む。想像以上の仕打ちだ。優しい青年が修羅と化し殺人を犯しても仕方のない程の出来事に、己の裡にも煮えたぎるような憤りが湧き上がってくる。非術師とはいえ僕の大事な生徒によくも...。
「そういう経緯なら逸に非はないじゃん。確かにどれだけ苛ついたとしても非術師に対する攻撃は許されるものじゃないけど。」
慰めの言葉で逸の感情を肯定してやるも彼は否定するようにかぶりを振った。
「あの日から非術師を見るたびにあの憎い猿どもと重なってしまって…自分でも感情を抑えられなくなるんです。」
許せないと付け足した逸の面様は本当に憎悪に満ちていて、他人が介入したところでどうしようもないのだと出悟る。ならば、
「…分かった。思考はそう簡単に変えられるものじゃない。なら暫くは非術師に関わらないようにしよう。任務先も非術師の少ない場所を選ぶ。...それでいいかな。」
「皆には、」
「隠してる方が逸にとっても辛いだけだと思うよ。皆もきっと分かってくれる。僕から上手く説明するけど勿論、逸が嫌なら言わない。」
そう云えば逸は思案するように目を閉じる。
「…分かりました。けど真希さんには俺から言います...お願いします。」
消え入りそうな声音で頭を下げた逸の頭に手を乗せるといつもみたく笑いかけた。
「大丈夫!僕に任せて、どんな時でも逸の味方だから。これから何かあったらどんな些細なことでもいいから報告して。」
「はい。」
五条先生、と呼ばれる。面を上げた逸は憑き物が落ちたように晴れやかだった。「ありがとうございます。」数ヶ月前と変わらない雑念のない無垢な笑顔が送られると、今度こそやり直せるのだと長期に渡り肩にのしかかっていた荷がようやっと降ろされた気がした。
これが最後の胸襟を開く機会であったことを、終幕の始まりに過ぎなかったことを、穏やかな空気に包まれて微笑み合っていた僕達は知る由もなかった。
*
一週間が経った。
逸の心情を知った次の日に、早速僕は真希を除いた一、二年に事情を説明した。村での任務についても大約を伝えた。皆は最初こそ驚いていたものの、非術師に拒否反応を起こすほどでの任務だったと伝えれば少なからず心当たりのある殆どは納得したようで今では普段と同じように逸と接してくれている。
それに真希も、どうやら逸が上手く伝えられたようで特に縺れた様子はない。残る問題は腐った蜜柑どもだが、これに関しては学長と話し合いを重ねた結果報告はしないことに決定した。
「ささ、入って入って。」
「…先生、この先は地下室ですよね。まさか俺を監禁するつもりですか?」
「しないよ、どんだけ信用ないの!?」
今逸を伴い向かっているのは悠仁のいる地下室。近頃はすっかり都会に出なくなった逸、任務や授業を除いて極端に対人が減ったことが無意識のうちにストレスになる可能性があるという学長の提案で逸と悠仁を会わせることにしたのだ。
悠仁には先に教えてあるので今頃映画鑑賞で散らかったポップコーンでも掃除してるんじゃないだろうか。
扉の前に着くと、大袈裟に戦隊戦士みたいなポーズを取る。
「じゃあ逸。今から強烈な驚きが待ってるけど腰抜かさないでね。じゃ、いっきまーす!」
「はぁ。」
存外そっけない返事に若干挫けそうになりながらも、ここで白けては男が廃ると貫く。気を取り直して扉を開くと、僕と共鳴してくれたのかヒゲメガネを装着してこれまた奇怪なポーズでソファに仁王立ちする悠仁が待ち構えていた。
「梔子っ、久しぶり!」
悠仁の姿に僅かばかり見開いた逸は、長い沈黙の後に一言溢した。
「...なんでヒゲメガネ?いや、久しぶりだけど。」
「そこぉ!?」
.............。
「へえ、じゃあ虎杖はうんたらかんたらっていう経緯で死亡したことになったんだ。」
「ねぇ、俺の話ちゃんと聞いてた?」
「つまり俺は皆に虎杖が生きてること言っちゃダメなんだろ?」
「そそ、そーいうこと!」
なんだ分かってるじゃん!まあね。ソファに隣り合って座り食べかけのポップコーンを摘みながら会話に花を咲かせる二人。何が気になるのか、逸は悠仁の掛けていたヒゲメガネをしきりに触っている。
「なあ、もうメガネ触るのやめねえ?なんか黒歴史になりそうなんだけど。」
「虎杖に黒歴史なんてあったんだな。」
「お前俺のこと何だと思ってんの?」
「虎杖っていう生物。」
「酷っ!」
「ははっ、二人共楽しそうで何より。」
悠仁と逸を会わせたのは正解だった。久々に表情を明らめて楽しそうに会話を弾ませる二人は、共に心和んでいるのが感じられた。可愛い教え子達の様子を後方から微笑ましく眺めていると、ついと逸が視線を彷徨わせた。
「それで、虎杖は俺のこと五条先生から聞いたんだよな。」
「うん。その、非術師が駄目になっちまったんだろ。」
僕の位置からは項垂れる逸の表情は窺えないが大体の想像はつく。大方、幻滅されたのではないかと不安を抱いているのだろう。翳りを雰囲気に滲ませる逸に何か気の利いた言葉でも掛けてやろうとして、先に悠仁が言葉を発した。
「誰だって好き嫌いくらいあるっしょ!寧ろ嫌いになってからの数週間、よく街に付いて来てくれてたよな。それも俺らのこと気遣ってだろ?やっぱ逸は優しいよ。」
ーだからそんな顔すんなよ。
そう云って逸の肩に優しく手を添える悠仁。意表を突かれたように顔を上げる逸。この腐った呪術界では滅多に目の当たりにできない晴れやかな夏空のような人情味溢れる光景。
若しあの時、悠仁のように影を包み込むような心遣いの一言でも掛けられたなら...俺は、傑は今でも親友でいられたのだろうか。胸の奥がじわりと締め付けられて、詮無いことを考えても詮無いのだと頭を振ることで思考を払拭した。こんな時に感傷に浸るなんて、三十手前にして既に老け始めているのかもしれない。
悠仁の言葉に顔を上げた逸は少し恥ずかしそうに歯に噛んだ。
「虎杖、生きててくれてありがと。」
「おう!」
幸せを噛み締める二人に僕も充足感に浸った。
呪術師である以上幸せな余生を送れるとは限らない。寧ろ普通の生活など泡沫の夢だと語る人間の方が多い。けれどせめて皆が卒業するまでは...。
彼等の世代ならばきっと、波瀾万丈ながらも満ち足りた毎日を送っていける。この時まではそう信じていた。