少し歴史の話をしよう。
今から四五〇万年ほど前、人類は類人猿と共通の先祖から分かれて出てきたとされている。アフリカのアウストラロピテクスのような華奢型な猿人である。次いで五〇万年ほど前の第一氷河期にジャワ原人や北京原人、第二氷河期にハイデルベルク人、第三氷河期に旧人、ネアンデルタール人が出現した。この時点でこれらの人類は原生人と呼ばれ、宗教観を持ち、機能に応じた形態の石器を使用していたのが判明している。
「…そして八万年ほど前に現れたクロマニョン人は新人と謂れ、現在の我々原生人類とほとんど変わったところはないといえる。ちゃんとノート取ってるかー。」
「ふぁ、ぁ」
「おい梔子、寝るな。」
「もう書きました。」
教科書の文章を丸読みするだけの退屈な授業に欠伸をする瞬間を捉えられて叱られる。ていうか前回と内容同じだし。
五条先生が出張任務の為、日下部先生が代理で俺達一年の担当をすることになったのだ。
覇気のない俺の返事に日下部先生は半ば呆れを滲ませながらも、諦めたように黒板に向き直った。
「じゃあ次。クロマニョン人はヨーロッパ、北アフリカに分布して…」
延々と続く先生の朗読を左から右に聞き流し、授業終了の合図を待ち侘びながら俺は最近の日々を振り返りはじめた。
約二週間前、五条先生に悩みの全てを曝け出した俺は話し合いの末に高専の皆に事情を明かすことにした。
伏黒と釘崎も、二年の先輩方も五条先生の説明を経て受け入れてくれし、真希先輩には俺が自ら説明した。そりゃあ酷く驚いていたけど、呪術関係者の真希先輩が猿に見えることはないしこれからも良い関係を築いていたいという旨を誠意を込めて伝えると先輩も同意してくれた。
その後一週間は特に今までと変わりなく忙しなくも充実した日々を過ごした。
それから今週の初めに五条先生に虎杖の元に案内された。地下室に向かった時点でなんとなく察していたけれど、まさか変てこなヒゲメガネを考える人のブロンズ像の格好を再現してソファで待ち構えているなんて思わなくて別の意味で魂消たわ。
非術師が猿に見える天与呪縛なんてつくづく荒唐無稽な話に羞恥心で俯いた俺を屈託のない笑顔で慰めてくれた虎杖はやっぱり大天使だった。天使じゃなくて大天使な。
俺と虎杖を遭わせた先生の意図は判らないけれど、久々に虎杖と会えたのが嬉しくてあの日からほぼ毎晩地下室に顔を見せている。
他に際立って変わったことといえば、せいぜい任務以外は高専から出なくなったことくらいか。唯、あまりにも対人関係がなくなると自然と塞ぎ込む傾向があるから、皆が配慮して頻繁に高専内で映画鑑賞とかを開いてもらってる。完全に個人的な都合で申し訳なく思いつつも、皆の優しさに救われていた。最初は本当に有り難く思っていたのだ。...最初こそは。
というのも、高専内でできる遊びなんて限られている。二週間、五条先生の伝手で全国上映前の映画を観れるようになったことで学校では空前絶後の映画鑑賞ブームが起こっていた。特に釘崎と狗巻先輩が熱中している。皆との映画鑑賞が終われば今度は虎杖のいる地下室で別な映画鑑賞。言わずともわかるだろう。気を遣って貰ってる身分で偉そうなことはいえないが…流石に毎日映画鑑賞は厳しすぎた。
いや、俺も盲点だったのだ。映画の女優俳優が非術師だから猿に見えるだなんて、いくらなんでも残酷すぎやしないだろうか神様。クオリティの高すぎる猿の惑星を観せられて興奮する人間がこの世界に何人いるのだろうか。皆がこの女優綺麗だとか、あのキスシーンが最高だったとか、最後のシーンが泣けたとか熱く語り合っていても何一つ共感できる話題がない。俺には物語が一貫して、猿が人類の営みを真似ているようにしか見えないのだから。
何度も言うが俺は猿が嫌いだ。毎日画面越しに猿の映画を観るくらいなら、偶に街に出る方がずっと楽だった。正直猿フィラキシーショックを起こしそうなくらいには。
何より、皆と同じものを観て同じ時間を共有してるのに彼等の喜怒哀楽の何一つも共感できないのが耐え難かった。自分でも気付かぬうちに精神を擦り減らしていた。
だが、限界を迎えていた俺に救いの手が差し伸べられた。
ーーそれは昨日のことだった。
天与呪縛で伝説上の蛇も使役できるようになってから、俺は蛇達と馴れ合う為にも日替わりで蛇を一匹召喚していた。連れ歩きポケモンならぬ連れ歩き蛇である。
「どうしたツッチー。」
一日の授業を終えて自室で休んでいると、常時使役しているツッチーことツチノコが窓からやって来てチーチーと鳴きながら擦り寄ってくる。頭を撫でてやれば気持ち良さそうに目を細めるツッチーはこの世界で一番愛らしい、俺の自慢の家族だ。
授業中は寮の自室で待機させてるのだが…やはり伝説の蛇は扱いづらく任務以外では俺の話を聞かずに自由行動をする傾向がある。ツッチーも腕白組のうちの一匹だ。
どうせいつもみたく山を徘徊して鼠狩りでもしてきたのだろう。辺鄙な山中が立地の高専は恰好の餌場だ。と思っていたのだが、この日は普段と異なっていた。
ベッドで寝転ぶ俺の枕元に寄ってきたツチノコが前触れもなく嘔吐したのだ。
「うわ、汚な!」
過食して俺の部屋で吐くやつは割りかし一定数いるので今回もその口かと食べ過ぎを叱ろうとして、ツッチーが吐き出したあるものに気付く。
ツッチーの粘ついた胃液がべっとりと被った一枚の紙。読み難い行書には驚愕の文字が綴られていた。
「非術師が…猿に見えなくなる、呪い?」
『非術師が猿に見えなくなる呪い
呪いの発動に成功した者×猿にまつわる天与呪縛をなかったことにできる。
考案者:
一級術師×××
天与呪縛で非術師が猿に見えるように××たことから考案。
後世××同×天与×縛を持っ×者の為にここに記す。
用意:
〆特級呪具黒宝玉
〆儀式を行う者の血 参滴
〆猿の内臓 ××伍個
〆白檀線香 八拾×本
〆清水
方法:
××××を××××××む。
×××××た効果は一時的。
半永××××××は×××××××××。
要×意、××××××のため×××××××××。』
紙はそこで千切れてしまっていた。更にはツチノコの胃の中に入っていたからか要所要所文字が滲んで読めなくなっている。
「ツッチー、これ何処で見つけた!?」
犬のように尻尾と耳を振り回す勢いで体をくねくねと揺さぶるツッチーに訊いてみるが当然蛇が物言うはずもなく。けれど窓の外を細長い舌で指し続けるものだから先を辿れば、遠方の道場と東塔に至る。確か東塔は図書館だった気が…。
「もしかして図書館から持ってきたのか?」
疑惑混じりに問いかければ、尻尾を縦にぶんぶん振るツッチー。肯定の仕草だ。
東塔の広い図書館は高専に入学した際に先輩方の校内案内で一度訪れただけ。どの階にどんな本があるかすら知らないが、ツッチーを連れていけばきっと教えてくれるだろう。そう思うや否や、俺はツッチーを抱き抱えて寮を出た。
だが、いざ意気揚々と向かうと図書館は休館日。仕方なしに窓からの侵入も考えたのだが、肝心のツッチーが抱擁が心地良かったのか眠ってしまい、どの道本の発見は叶わなかった。だから別の日に改めようとその時は諦めたのだ。
「…はぁ。」
日下部先生と野薔薇達の耳朶に触れないように無音の息を吐く。
問題は黒宝玉とかいう特級呪具だった。寮の小さな読書スペースの本棚にあった特級呪具図鑑を調べたのだが、どうやら黒宝玉は明治時代に行方知れずとなってしまったようだ。折角俺の天与呪縛をどうにかする方法が見つかったと思ったのに、希望を挫かれた失意で任務の意欲も湧かない。
よりにもよって、無気力な日に限って歴史の授業は類人猿の話…とことん運に恵まれてない。挙げ句の果てには今夜も皆で映画三本観た後に虎杖と映画鑑賞する予定だった。
頭痛さえしてきてこのまま仮病で自室に篭っていようかと目論んでいると、ふいと胸ポケットから振動が伝わる。日下部先生が黒板に文字を書き込んでいるのを確かめてこっそりと携帯を取り出す。
非通知からのメールが一件。迷惑メールかと疑ったが、宛先に俺の名前が記されている。退屈な授業に嫌気がさしていた俺は暇つぶしとメールを開いた。
「…は?」
『宛先:梔子逸 二級術師
件名:信じられないかも知れませんが、私はチンパンジーです。
はじめまして。早苗といいます。
キーボード越しで、こうしてメールとしてメッセージを伝えているだけでは分からないかも知れませんが、私はチンパンジーです。
オスのチンパンジーです。 二年に渡る知能訓練を受けて、自分の思考をこうして文章としてアウトプットできるようになりました。
(中略)
さて、本題に入りましょう。
梔子逸二級術師。
私はあなたがしようとしていることを知っています。
私はあなたと同じです。
チンパンジーな私ですが、必ずやあなたの力になりましょう。
ここで、私とチャットをする事ができます。
私があなたの味方であることを証明できます。
ライブカメラで証明できます。
けど、もっと効率のよい、方法があります。
今夜九時十五分に、高専の裏門に、
来てください。
本当にあなたの味方であるのを、証明できます。
待っています。
あなたと、会える時を
待っています。』
ただの迷惑メールで片付けられる内容ではなかった。奇怪文書は中盤までは意味不明な内容を連ねて迷惑メールに偽造して、後半から俺宛にメッセージを残しているのだ。このメールの送り主は間違いなく高専関係者だと悟った。しかも内容から推察するに俺の天与呪縛を承知する近しい人間。
何故こんなふざけたメールを送ってきたのか、何が目的なのか、一体誰なのか、何故俺がツッチーから貰った術式を試そうと計画を立てているのを知っているのか。次々と浮かび上がる疑問に文字の羅列が映し出された画面から明確な答えなど返ってくるはずもなく。
携帯を手に硬直して思考に浸っていたから日下部先生が近づいてきたことに気付けなかった。
「梔子!」
「っすみません、」
耳元で凄まじい剣幕で怒鳴られて竦み上がる。思わず手放した携帯を先生に奪われてしまった。既に画面は閉ざされている。
「ったく、携帯は今日一日預かる。明日取りに来い。」
「…はい。」
「ぷっ、ふふ...」
「梔子...。」
情けなく項垂れる俺に堪えられずに失笑する釘崎と、呆れ果てたとばかりの視線を投げかけてくる伏黒。二人を片手で遇らうと机に突っ伏した。
訳が分からないがメールの送り主は俺の味方だと繰り返し強調していた。それにもしかすると特級呪具がなくても非術師が猿に見えなくなる呪いを発動する方法を知っているのかもしれない。ならば一度信じてみるのも悪くない。
幸い今夜は任務もない。映画鑑賞会は断って指示通り裏門に向かおう。
タイミング良く三限目終了を知らせるチャイムが鳴った。
俺は夜の準備をする為に足早に教室を出たのだった。