ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ 作:ladybug
混乱はおさまりつつある。だが、何かが噛み合わない。
そして、“ジョーカー”が動き出す
残雪と炎
少女はぼんやりと雪を見つめていた。
先程まで震えていた身体は動かず、内臓や脳への損傷のため夢現を彷徨っている。
少女をかき抱く姉の腕は既に熱を失い、白く凍りついてしまった。か細く途切れかけた彼女の吐息が少女の髪にかかり、また霜を下ろす。
姉妹はつい数時間前まで非加盟国の富豪に飼われる奴隷だった。しかし、彼女達姉妹の身分を示していた首輪は既にない。
その日、正義の真似事をした者が奴隷解放と称して屋敷を荒らしまわった。ヒーローごっこの過程で枷を外された姉妹は、しかし、動かず檻の中で主人の帰りを待っていた。
逃げた奴隷がどうなるかを、目の前で見たことがあったから。
戻った主人は逃げずに留まった姉妹を褒めた後、檻の前で解放者を殺し、そして、彼女達を雪原へと放り出した。
下賤の血で汚れたから、と。
あの時、逃げれば良かった。あなただけでも逃せば良かった。私が前にいたらあなただけでも残してもらえたかもしれないのに、それすらできずにごめんなさい。間違ってごめんなさい。駄目な姉でごめんなさい。ごめんなさい。
謝り続けていた姉の声が聞こえない。それは少女の感覚器官が壊れたからか、それとも。
ぼんやりと雪を見つめる。
雪の中だというのに何故か暑いような気がして、少女は姉の腕を解こうとした。しかし、宝物を抱くように固く閉じられた手はびくともしない。
姉から聞こえる音の全てが、雪の降り積もる静寂に塗りつぶされていく。
唐突にこわくなった。
泣き叫びたい、走って逃げたい。だが、少女の身体は動かない。
震えではなく痙攣が身体を襲い、微かに残る意識をかき消そうと猛烈な睡魔が手を伸ばしてくる。
ああ、もう、どうにもならないんだ。
そう理解して、力が抜けた。
猛吹雪の中、二人の姉妹が静かに埋もれていく。
それは、この世界にありふれた、ごく当たり前の結末だった。
ピーカ軍の鉄壁の守りによって難を逃れた王宮。その離れの一室。
部屋の小物数点が消え、代わりに現れるのは男三人。銃撃を受けたドンキホーテ・ドフラミンゴ。彼の治療に専念し離反者を取り逃したトラファルガー・ロー。そして、ルフィの叫びを聞いて駆けつけ、重力によりオモチャを無力化したイッショウ。
内一名は現在意識がなく、移動と共にベッドへ横たえられた。
トラファルガーがクロークから服を取り出し手早く着替える。背中が外気に晒されるが、そこに残る引き攣れや傷痕を見る者はない。
衣擦れの音に気付き、イッショウは顔を背けた。
「客人の前ですまねェな。手違いで服を燃やしちまったんだ」
「かまいやせん。こちらは旦那の部屋ですかい? 随分と入り込みなすったようで」
「全くだ。王族ともあろうものが海賊をここまで重用するとは、不用心にすぎる」
「なに、あんたァ王下七武海だ。他の海賊とは違う」
「心にもないことを」
イッショウが声もなく笑えば、トラファルガーは真顔で流す。そして、最後にグローブを替え、ベッドに横たわる人物の様子を窺った。
どうやらバイタルに問題はないようだ。元より身体能力に恵まれた若者。暫くすれば意識も戻り、動けるようになるだろう。
トラファルガーが一つ息を吐き、ベッド脇の椅子に腰掛ける。
「言っておくが“藤虎”。今こいつに手を出せば、おれはお前を海上に放り投げるぞ」
「同盟の件は一時保留でさ。今、海軍が為すべきは市民の皆さんの被害を抑えること。全ては四皇の魔手を退けてからでいい」
「物分かりが良くて助かる」
「ですが、死の旦那。これ以上の妨害は控えていただかなけりゃあ困りやす」
投げかけられたのは剣呑な色を含んだ言葉。
しかし、トラファルガーは意に介した様子もなく首を傾げる。
「困る? むしろ良い口実だろうに」
「ああ、あんたァよく視えなさる。さぞ生きづれェことでしょう」
「お前がそうだったようにな」
一呼吸の後、大太刀を引き寄せたトラファルガーは目を閉じた。両脚を投げ出し、天井を仰ぐ。喉元を晒した隙だらけの姿だが、イッショウをしてみても一撃で斬り捨てることは難しい。
「四皇と海軍、王下七武海。世界政府は三大勢力の均衡とやらを重要視しているな。お前はどう思う?」
「さァ、あっしにゃ今の状況がどうなどとは……崩してみねェとわからねェもんで」
「奇遇だな。おれも同意見だ」
「違いやしょう。あんたが崩したいのは均衡なんてちんけなもんじゃあねェ」
再び開いた金の双眸は翳りを帯びて熱を失う。瞬きのたびに霜が降りる、そんな錯覚を齎す冬の気配。
その冷気が彼の根幹から漏れいずるものと知るのはごく一部だけだ。
男は肩からずり落ちる外套を引き上げ、刀を手に立ち上がった。重い衣擦れの音に眉を顰めたイッショウを見やり、彼は小さく笑う。
「来たのがお前で助かった。大将“藤虎”、お前の願いが叶う事を祈っている。今回の件、せいぜい上手く使うといい」
今年は“世界会議”、否が応でも世界は動く。イッショウ、否、海軍大将“藤虎”が狙うは王下七武海制度の完全撤廃。
それを知ってなお、トラファルガーは願いを肯定した。嘘偽りのない、それでいて謎めいた言葉を残し、部屋を去っていく。
「祈る、ですかい。旦那ァそんなことできそうにもねェ御仁だ」
呟きは男へ届かず、扉は音を立てず静かに閉じた。
この部屋に来て数分。黒衣の男が能力を使った回数は実に数十回に及ぶ。
広域の能力場を維持し、覇気により全域を把握して人々を護り続けるその姿。ともすれば、それは神のような有り様だ。
真に神が座すとして、翳す手に護られぬ者は山といる。己が信仰に裏切られた者も、果てに命を落とす者すらいた。
信ずるに値しない神に代わり、何者かに成ろうとする怪物。はたまた、下す天罰そのもの。
トラファルガー・ロー。
その在り方は、祈る側ではなく祈られる側のものではないか。
だがしかし、イッショウもまた、世界政府が世に翳す指先の一つでしかない。
「あァ、全く。儘ならねェもんだ」
盲目の武人は苦い笑みを浮かべ、独りごちた。
こつこつと床を叩き、道を進む。それ以外に、人に出来ることないのだから。
森の町カルタ、町に隣接する港では激しい攻防が繰り広げられていた。
押し寄せるビッグ・マム海賊団の船団。それを押し留めるのは鋼鉄の男フランキー。空を飛び火を噴くその様は頼もしく、その反面奇天烈である。
呆然と空を見上げていた海賊の背後、突如壁から突き出た腕がその頚動脈を締め上げた。確実で迷いのない攻撃に一瞬で意識を刈り取られた海賊がそっと横たえられる。
市民から飛ぶ黄色い悲鳴。地に沈む間際声援に応える腕、その袖口にのぞくは愛らしい意匠のカフスボタン。全体的に決めすぎる傾向のある伊達男へ贈られたそれは、離れて暮らす家族の愛の形に他ならない。
地下道へと続く道には金髪の大男が陣取り、時に浮き上がり、時に地割れを起こすほどに沈み込み、侵入者共の合流を防いでいる。しかし、防衛の要である彼への攻撃は苛烈を極めた。堪らず膝をつく彼を挟んで鉄人と伊達男が並び立ち、全ての攻撃を受け切る。
「今日の空は一段と荒れやがる」
「全くだ。おちおち泳いでもいられねェ」
全身から煙を上げ、互いの背を預け合うように立つ男二人。鉄人は腕を組んで敵を睥睨し、伊達男はタイを締めてニヒルに笑む。姿形は似通わぬ二者の背と魂、それを一本貫くは輝く信念と信条。
これ即ち、ハードボイルドである。
ところは変わってコリーダコロシアム。混戦を制し決勝へ進んだ闘士達、そして闘技場の主であるディアマンテの前に、長躯の美女が立ち塞がった。
名をシャーロット・スムージー。ビッグ・マム海賊団の最高戦力と謳われる“スイート三将星”が一人、美貌の女剣士だ。
物理的に萎れた闘士を投げ捨て剣を振るえば水の波濤が観客席へと向かう。攻撃自体はバリアや鉄吹雪によって防がれるも観客はパニックを起こした。
上がる悲鳴に顔を顰め、ディアマンテが前へと進み出る。
「おいおい、他人様の興行を邪魔するたァ剣士の風上にもおけねェ女だな」
「許せ、任務だ。だが、こちらも鬼ではない。悪魔の実を差し出せばすぐにでも帰ろう。蹂躙か服従、そなたの判断に任せるぞ」
「服従か。生憎とおれの主は昔から一人きりでな。分かったらさっさと家へ帰りな、お嬢ちゃん」
「────ふむ。そなたの返答で観客の死が決定したわけだが、悔いはないか?」
「何と言われようが本大会は飛び入り禁止。ましてや神聖なコロシアムでの人死は御法度だ。お前みたいな闖入者でも殺しちゃいけねェなんざ、おれほどの人格者でもなけりゃ守れねェルールだな」
スムージーを見下ろし口の端を引き上げるディアマンテ。
迷いなき即答に目を眇めた女剣士が再び構える。
放たれる突きを外套で絡め取り、蛇の如くうねる剣で足払いをかけるディアマンテの額には汗が浮かんでいた。
実力差は未知数。しかし、それ以上に問題なのは己がすべきは攻撃ではなく防衛だということ。侵入したビッグ・マム海賊団の団員達が観客の逃走を阻止するべく出入口を封鎖している。つまり、観客を人質を取られている状況なのだ。
また、勝ち上がった闘士も得体が知れない。黒ひげ海賊団のバージェス、脅威の速度で新世界に進出した億越えルーキーのバルトロメオ、そして麦わらのルフィ。蓋を開けてみれば外様どころか明確な闖入者ばかりである。
主に招待されたはずの麦わらは何故か偽名を名乗っているが賞金稼共への対策だろうか。大体、混戦を制したルーシーと現在闘技場に立つ男は明らかに別人なのだが、反則負けと判定すべきでは?
いや、興行的にルーシー(仮)を退場させるのはまずい。今回の大会はなかなかにはり込んでいるのだ。
それでなくとも、四皇幹部が数名いる中、味方となりそうな戦力を捨てるのは惜しいではないか。
スムージーの攻撃を捌きつつ、逸れた思考を引き戻していく。
しかし、この状況で戦闘を続行しているバージェスとルーシー(仮)、なかなかに図太い。
平時であれば興行主としてありがたく思う所だが、今、客はそれどころではないため意味はなかった。
ディアマンテは観客席に目を向ける。
混戦Cブロックを勝ち抜いたファミリーの一員、デリンジャー。彼は大会を放棄し、観客席の防衛に回っている。
小柄な身体から放たれる蹴りは正に必殺。だが、いかんせん闘技場は円形で範囲が広い。カバーにも限界があるだろう。
水撃を刻み相殺するディアマンテの耳元、防御網を斬り払い飛び込んできたスムージーが嗤う。
「よそ見をするとはつれないことだ」
間髪入れずに腰の銃を引き抜き女剣士の腹へと銃弾を撃ち込んだ。当然覇気を貫くほどの効果はなく、生まれた隙に大きく後退する。追撃の突きを回転して弾き、勢いを利用しバリアの内側へ滑り込んだ。
利用されたバルトロメオが何か文句を言うが、現状、ディアマンテが囮となって観客席への被弾を減らす必要があるのだ。バルトロメオもそれを分かっているのだろう。ディアマンテの動きに合わせて背後にバリアを構築するなど、やけに協力的だ。
とはいえ、バリアにも限度があるようで、同時かつ別方向に二枚は出現させられないらしい。
おかまいなしに決勝戦を続けるルーシー(仮)が時折バージェスの方向をコントロールして水撃を相殺しているが、それにしても手が足りない。
四皇最高幹部。他国とは言え民間人への犠牲を躊躇わない姿勢に加え、実力と判断能力の高さは流石と言えよう。
突きに斬撃、水撃。多種多様な攻撃を凡ゆる方向へ飛ばすスムージーに対し、防衛陣営の疲弊が高まっていく。
実況者が客を誘導し少しでも安全を確保しようと働きかけている観客席。
転んだ少年へと駆け寄るレベッカとスカーレットの背後、ビッグ・マム海賊団員の魔手が伸びる。しかし、鋭い靴に包まれた脚が割り込んで狼藉者を蹴り飛ばし、壁へと叩きつけた。
振り返ったレベッカが声を上げる。
「デリンジャー!」
「ごめん、今あんたに構ってる余裕ない」
「そうじゃなくて、剣! 剣貸して! 私も戦うよ」
「はァ? あんた、実戦初めてでしょ? 死ぬよ」
「ただ逃げるだけじゃ駄目だよ。こんな時のために、私は剣を習ってきたんだ!」
「ダメ! あんたも客も全員ぼくが守らないと、若様に顔向けできない」
「そんなこと言ってる場合⁉︎」
闘士らとスムージーの激戦、その余波。そして出入口を塞ぐ海賊団員の存在。混迷を極める闘技場で子ども達の言い争う声はかき消されていく。
刹那、転んだ少年を介抱するスカーレットが青褪めた顔で叫び声をあげた。
「レベッカ! 危ない!」
防御網を抜けた水撃がレベッカの背に迫る。彼女を引き倒すように覆い被さったスカーレット。デリンジャーは被弾覚悟で二人の前に飛び出し、目を閉じた。
「────……あ、れ?」
いくら待っても来ない衝撃に目を開けたデリンジャー。彼が見たのは花畑。
高台にあるそこには侵攻の手が及ばす、騒乱の気配からも遠く離れている。
周囲を見渡せば、そこには呆然と座り込む人々の姿があった。その数はコロシアムを埋め尽くしていた観客数とおおよそ一致する。
「若様……」
悔しさに涙を浮かべたデリンジャーだったが、すぐに顔を上げ声を張り上げた。
「落ち着いて! ここは安全だから!」
主が守った人々の安全を確保することこそ己が使命。少年は心得ている。
たとえ、己の不甲斐なさに傷付いても、主と共に歩む以上、走り続けて期待に応えるために邁進する他ないのだから。
忽然と消えた観客に代わり、絢爛の花片舞うコロシアム。
花片の嵐に紛れ放たれた鉄片がスムージーを襲い、防衛と攻撃が入れ替わる。苛烈かつ太刀筋の読めないディアマンテの斬撃に顔を顰めたスムージーが、ステージの周りに張り巡らされた水場へと剣を向けた。
「“バーリア”!」
人を喰ったような笑みを浮かべ挑発するバルトロメオを睨みつけ、スムージーが剣を振るう。狙われたのはバージェスとルーシー。互いを殴りつけ斬撃を避けた二人は大きく距離を空けて対峙した。
先んじて動くのは、白ひげの老人に扮したルフィ……ではなく彼に扮した何者か。
「物には必ず、『核』がある。この戦いの『核』は人質、そしてメラメラの実。人質は解放され、メラメラの実はすぐそこ。つまり……もういいよな?」
男はリングステージの中央を拳で確かめ、にやりと笑う。
「さて、と。
黒く染まった両の拳に、男の意図を悟ったディアマンテが目を剥いた。制止の声をあげる間もなく、男がリングへと拳を突き立てる。
「────竜爪拳! “竜の息吹”‼︎」
男を中心にしてリングに亀裂が走り、噴き出した烈風が闘技場内を吹き荒れた。
砕け散るリング。堪らず観客席へ退避する能力者四名を尻目に、男は水面を走る闘魚へと飛び乗った。そこに括り付けられた宝箱を膂力で押し開ける。
「全員場外で、おれの優勝ってことでいいよな?」
「いやまァ、優勝者が麦わらだとローも喜ぶかもしれねェが、そもそもてめェ麦わらじゃねェだろう⁉︎」
「うっぷ、マズ……」
「もう喰ってるし! バレバレとは言えポーズでも替玉乱入は隠せよ! 主催者の前で堂々とルール違反してんじゃねェ!」
「これでよし。あと一人は地下だな? もう一発いくから巻き込まれるなよ」
「よせよせ! 話を聞け! これ以上ステージを破壊するんじゃねェ!」
ディアマンテの制止を完全に無視し、男はリングを蹴り付けた。その身体はいつしか炎を纏い、遥か上空へと舞い上がる。
兜と白ひげにサングラス。変装から解き放たれた金の髪が熱波に揺らめき、太陽を背に眩く輝いた。
「てめェ、革命軍の────」
呟くディアマンテの耳に、抑えた囁きが届く。
「エース。貰うぞ、お前の技……!」
引き絞られた拳、集約する炎が一気に放たれた。
「────“火拳”‼︎」
炎はリングを木っ端微塵に粉砕し、さらに地下へと突き抜ける。
リングに空いた穴から地下道へと飛び込んでいくルーシー(仮)、改め革命軍参謀総長サボ。その姿を観客席から見送り、ディアマンテは頭を抱えた。
並ぶは任務失敗が明白となったスムージー。彼女もまた苦虫を噛み潰したような顔で地下に続く穴を見ていたが、ふと気付いた様に自身も穴へと身を踊らせる。サボの言う『あと一人』がシャーロット・モンドールと気付いての行動だろう。
いつの間にやらバージェスとバルトロメオは退散しており、崩壊した闘技場に一人残されたディアマンテは座り込んでため息をついた。
「こりゃあ大損だ。ローにどやされる」
この騒動で地下道天井に空いた穴。そこから降り注ぐ光はとある勇者を神々しくも眩く照らし出すのだが、それはまた別のお話である。
地上の戦闘、地下の喧騒。それぞれ温度の違う叫び声を耳にしながら、少年は走っていた。
幼くもどこか気品のある姿と仕立ての良い服。この辺りでは見かけない意匠。
道の途中、ビッグ・マム海賊団の幹部二人が撤退を決める場に居合わせ、少年は息を潜めてやり過ごす。男幹部が手にした本を通じて各員に連絡し港へと向かうのを見送り、彼は再び走り出した。
少女、否、少女の姿をした能力者を抱え、彼はある場所を目指して進む。
「ん……」
小柄な少年の身体では衝撃を殺せず、失神していた能力者が目を覚ます。
「あれ、私……」
「喋らないで。舌を噛むよ」
透き通る声で制止する少年を見上げ、シュガーは複雑そうな顔をした。
「私、負けたの?」
「運が悪かったね。仕方ないよ、ぼくでもちょっと嫌だもの」
青褪めたシュガーが両手を自らの胸に押し当て呟く。ショックを抑えるためであるが、同時に少年に触れて能力を発動しないようにという配慮でもあった。
シュガーを襲った悲劇。それは敵をオモチャに変え切った時に起きた。
時間は少し遡る。
オモチャ達によって最後の一人である狙撃手を拘束したシュガーは己の勝利を確信していた。手には敵が必死に運んでいた葡萄に似た丸薬。恐らく、毒。そう判断したシュガーは暗く光る目を狙撃手に向ける。
彼を倒し、オモチャに変え、その後。
その後は?
為さねばならぬことの重さに唇を噛み締め、彼女は狙撃手の鞄から落ちた弾薬へと目を向けた。何故か火がついていたそれを蹴り飛ばそうとした次の瞬間、彼女の背を戦慄が駆け抜ける。
黒光りしてカサカサ動くアレ。
それが、たくさん。
脚を登って。
覚悟も悲愴も何もかもが一瞬遠のき、ブラックアウトしかける意識。シュガーはすんでのところでそれを引き戻し、ふらつきながらも目を見開いた。
奴隷時代にはよく見た生き物だ。生理的な悪寒などどうとでもなるだろう。
そう言い聞かすも、身体は制御しきれていなかったのか。手が滑って投げ出された毒の丸薬が狙撃手の口へと吸い込まれていった。
結果的には良し。再び勝利を確信した彼女は狙撃手に近付く。
そして────
「お、思い出したくない……」
「いやあ、見事な気絶だったね。あちらもキミもさ」
毒の丸薬、改め劇物と化した香辛料の塊。それを飲み下した狙撃手は人間の限界を超越した超弩級の表情を浮かべ絶叫したのだ。
呼吸の有無を確かめようと近付いていたシュガーは彼の姿を目撃してしまったことにより気絶。あまりのインパクトのためか、人智を超えたその顔は微に入り細に入りくっきりと記憶に染み付いている。
渦中に飛び込んでシュガーを助けたのは、今も彼女を抱えて走る少年だ。名を捨てオモチャとしてこの七年を生きた彼は、シュガーの能力が解除される寸前に小鳥のオモチャの姿で潜り込み、混乱に乗じて彼女を連れ出すことに成功した。
「『眠りの家』に向かう。それでいいんだね?」
トレーボルとの作戦が失敗した際はそこに向かう。最初から彼らの間で取り決めてあった方針だ。シュガーの瞳に走る動揺から敢えて目を逸らし、少年は今後の己の行動について相談を始める。
「彼も君の思惑に気付くだろう。ぼくはそばにいられないけど頑張って。一応、小屋にぼくの動きを書いたメモを置いてある」
「ええ」
「申し訳ないけど、着いたらぼくに能力を使ってくれ。ああ、先にメモを手に持ってにしてからにしておくれよ」
「分かってる」
差し込む光。『眠りの家』の管理小屋へと続く道が見える。息を飲むシュガーを抱え、少年は小屋へと飛び込んだ。
やがて飛び立つは青い小鳥のオモチャ。再び世界から忘れ去られた彼は、細い足に小さな手紙をくくりつけて空を進み、王宮へ向かう。
王宮の謁見室では、姿を取り戻したキュロスならびに自衛軍の兵士数名が状況を報告していた。
現在、トレーボル軍以外のトラファルガー配下と麦わらの一味の協力体制、そしてトンタッタ族の奮闘により事態はほぼ鎮静化しており、人命は守られている。また、追われていたヴィオラ王女とマンシェリー姫も無事に逃げ切り、今は王宮内で暫しの安息を得ていた。
しかし、トレーボル軍の面々は未だ潜伏しており、捜索の手を逃れ続けている。
厳しい面持ちで報告を聞いていたリク王がふと顔を曇らせた。
「ローは……彼はどうしている?」
「闘技場前での目撃情報が最後です。以降の足取りは追えませんが、能力が使用され続けているため、無事ではいるかと」
「また無茶をしているのか」
今回の件はトラファルガーの配下が手引きしていた。被害を抑えたといえど国民の悪感情は免れない。また、彼が自身を許せないという可能性もあるだろう。憂う金の瞳を思い出し、キュロスも視線を落とした。
十年前と協力者の有無に差はあれど、変わらず命を削るような戦い方。過去よりさらに磨きの掛かった実力を下地にしたとして、能力には負荷がある。加えて、今回は人命被害を完全に抑え切っていた。
力及ばず再び守られたことに自責の念を覚え、兵士たちは歯噛みする。
「ともかく、今は詳細な被害の把握と復興への呼びかけだ。執務室へ向かう。ヴィオラを呼んでくれ」
リク王が玉座を立ち上がったその時だ。
能力の発動音と共に黒衣の男が現れた。
青白い顔に濃く浮かぶ隈。決して無事とは言い難いほどに窶れた、しかし確かに生きているその姿をみとめ、その場にいた者全員が胸を撫で下ろす。
「ロー、無事であったか!」
「……リク王様」
「キュロスから話は聞いた。大事はないか?」
駆け寄って肩を掴み怪我などがないことを確かめ、安堵の息を漏らす王。
トラファルガーは王を見上げ、惑いと憂いを隠すように目を伏せた。
何はなくとも自責の念で動くような男だ。ましてや今回は配下が関与している。己が采配が生んだ凶事を目の当たりにし、その心痛は如何程のものだろう。
我が身のように友を案じるドレスローザの王と民は、口々に彼やディアマンテ、ピーカらの働きへ感謝を述べる。
しかし、そのどれにも反応をみせず、男はかぶりを振った。
「リク王様、申し訳ありません」
「ロー、今は己を責める時ではない。まずは身体を休め────」
肩を叩いた王の胸にそっと手を当て、男が呟く。
「“メス”」
何が起きたのか。
その場の誰も理解できなかった。
上体を傾がせるリク王を支え玉座へと導き、トラファルガーが微笑む。手にはいつのまにか、脈打つ心臓が握られていた。
「ああ、良かった。どこにも異常はありませんね」
「トラファルガー殿、何を……」
自分の声が掠れていることにキュロスは気付く。頭のどこかでは理解しているのに、これまでの記憶全てがそれを否定するのだ。それほどまでに、この十年は温かく平穏だった。
ましてや、彼は先程まで国のために戦っていたではないか。
静寂に包まれた謁見室に靴音が響く。
信じられないと雄弁に語る顔のまま、胸に空いた穴を撫でるリク王。その目は己が身を離れて脈打つ心臓ではなく、遠ざかる背中を凝視していた。
誰もが動けない中、黒衣の男は窓へと近付き、ふと何かに気付いたように窓を開け放つ。
舞い降りる青い小鳥。脚には手紙。黒衣の男が差し出した指に留まるその姿には、見覚えがあった。
心臓が騒ぐ。
『偶然』知った離反計画。小鳥の報せ。待ち受けていたかのような幹部達。起こった凶事。脳裏を過ぎる十年前の映像。
窓枠に腰掛けて手紙を読む姿は、普段と何一つ変わらぬ穏やかさを保ったまま。
「トラファルガー殿、その小鳥は……」
降り注ぐ陽光の中、トラファルガーはキュロスを見下ろした。
片手に王の心臓、肩に小鳥のオモチャ。その姿は異国の聖画にも似た歪な神聖さを湛えている。
男の顔に浮かぶのは春霞の微笑み。
「彼は私の子飼いです」
囁きが耳に到達する前、キュロスは既に剣を抜いて駆け出していた。
神速の踏み込みと一線を退いても未だ劣らぬ剣速。
しかし、怒りと混乱に揺れた太刀筋は容易く見切られる。半身で切先を躱した男は間合いを取ることすらせず、そのまま前へ疾走。
向かう先は玉座。
手には大太刀。
放たれたのは、舞いの如き横凪の円閃。
突如、開放された窓より飛び込んできた麦わらのルフィがキュロスを押し倒した。頭上を掠める不可視の切先に戦慄しながらも、床に這いつくばったまま手を伸ばす。
遠い。届かない。
その間にも刀は振るわれ続け、玉座の背凭れが崩壊する。
「リク王様‼︎」
魂切れるほどの叫び。
顔を上げたキュロスが見たのは、細切れにされた王の姿だった。
「トラファルガー! 貴様ァ‼︎」
ルフィの拘束を振り解き駆け寄ろうとしたキュロスに対し、トラファルガーは手にした心臓を掲げてみせる。動作一つでその場全員の行動を制止した彼は、困ったように眉尻を下げた。
「ご安心を。命までは奪いません」
男は胸像と化したリク王を崩壊した台座へと据える。その手はまるで敬愛する主君に触れるかのように恭しく、常の印象と寸分違わないが故になおさら恐ろしい。
男は薄く笑んだまま視線を上げた。
「そこにいらっしゃるのでしょう?」
低く凪いだ声が扉の向こうへと投げかけられる。衣擦れの音と共に現れた王女はひどく青褪めた顔で震えていた。
「何をしているの」
「姫様、国民の皆さんは無事ですか?」
「ロー、ねえ、あなた何をしているの……?」
「ああ、そのご様子なら無事ですね。無法者共も去ったようで安心しました。良かった、本当に」
「何を考えているの、ロー!」
ヴィオラの糾弾に、トラファルガーは自らの目を指で示し、首を傾げる。
「御身自らお確かめになられては?」
ごく稀に冗談を言う時と同じ表情で放たれた言葉はヴィオラの心にヒビを入れた。震える指で円を描き、男の心を覗き見た王女は呆然と座り込む。
「どうして……? あなた、何も変わっていないじゃない」
「ええ。ですから、そういうことです」
前日と何の変化もない心。
この十年、いやおそらく何十年も前から変わらず澱み続け、しかしどこかで安寧を望んでいた胸の内。
不変。それはつまり、彼の行動が予定されたものであると言うことに他ならない。
「ロー、キミは最初からこのつもりで」
ただ呆然と呟くリク王に向き直り、黒衣の男は小さく頷いた。
「この十年、本当に幸せでした」
囁くように彼は言う。
その思いを正確に読み取るヴィオラの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
黒衣の男は小さな溜息を落とし、目を伏せる。
「────だが、それももう終わりだ」
まるで、長い物語を読み終えたように。
あるいは、夢からさめるように。
突如、男の顔から笑みが消えた。
「愚かな王に弱き民、同じオモチャで遊んでちゃ流石に飽きがくる。やり方を変えねェとな。十年前の焼き回しで悪ィが、良いスパイスだっただろう?」
凪いだ声から温度が消えていく。小さく灯っていた仄かな光すら見えなくなり、残るのは砂塵に巻かれ乾いた憎悪。
「お誂え向きに新しい時代が来る。殺し殺され奪い奪われ、全く好ましい時代だ。分かるか? お前らのやり方じゃ生き残れねェほどの波が直ぐそこまで迫ってんだよ」
一切の表情を失った顔は十年前と何ら変わらない。そう、彼はずっと、何一つ変わってはいないのだ。
「大丈夫だ。おれが教えてやる。殺し方に奪い方。簡単だぞ。ガキでも出来る。案外、お前らみたいな奴の方がハマるかもな。安心しろ。責任もって国民全員、ちゃんと育ててやるから」
気怠げに王座の肘掛けに腰を下ろし、トラファルガー・ローは静かに問いかけた。
「なァ、王様。今更訊くのもなんだが、この国、おれにくれるよな?」
「ロー……」
呆然と名を呟くリク王を見つめた男は、突然興味を失ったように視線を切る。
金の瞳が次に写したのは、その全身に怒りを湛える青年だった。
キュロスを押さえつけ伏せていた青年がむくりと身体を起こし、立ち上がる。
「トラ男」
「おれのことか。何だ?」
「おれ、お前に礼を言いに来たんだ」
首を傾げたトラファルガー・ローに対し、麦わらのルフィはその場で小さく跳ね、手足をほぐしていく。
「だけどよ。お前、今、おれの話なんて聞かねェだろ?」
「面白ェことなら聞いてやるぞ。そうだな。例えば、新時代の話とか?」
片膝を抱え煽るトラファルガーには応えず、ルフィが拳を構えた。
「まずは、ぶっ飛ばしてからだな」
「それは構わねェが、ツレはいいのか? まだ寝てるようだが」
「ミンゴには後で謝る」
鼻息も荒く言い切る青年を見つめ、男は玉座から飛び降りる。
一拍遅れて翻る外套はやけに重たげな音を立て、不穏さを伝えた。
「まァ、待て。こんな狭いところで暴れても面白くねェだろう」
そう言った男は再び肩へと舞い戻っていた青い小鳥を窓へと放つ。未だ手に持つ王の心臓を太陽に透かし見た彼は室内へと向き直り、窓枠へと腰掛けた。
「ピーカ、外でもてなしてやれ」
静かな呼び掛けに答え、石の巨人が動き出す。謁見室にいた者は皆、波打つ床によって外へ弾き出され宙へと放り投げられた。
胸像と化したリク王とて同じこと。
悲鳴を上げて落ちていくヴィオラを見下ろし、トラファルガーが手に持った心臓を投げ落とす。
その手が閃き、能力が発動した。
ヴィオラの手にふわりと到達する心臓。そばにはバラバラにされたリク王が一塊になって浮いている。
王女の目に映る男の顔は逆光で隠れ、もはや何を考えているのかなどわからない。
身体を膨らませたルフィに受け止められ、呆然と壁を見上げる彼女の目の前で、王宮が移動を始めた。
幸せだったと語るその心には一つの偽りもなく。
凶事を呼び込む憎悪もまた真実で。
「ロー、あなた、何を考えているの」
呟かれたのは先程と同じ意味の言葉。
答えは返ってくるはずもなく、王女の声は揺れる大地の音にかき消されていった。