ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ 作:ladybug
主に捨てられたと知り、デリンジャーは拳を握りしめる。
微かに残った傷跡をなぞるたび
自分の愚かさを思い出す
本当に愚かだった
何も知らず、何も知らされず、ただ後を追って笑っていた
だが……否、だからこそ
今、この愚かさこそが足を動かす
デリンジャーの左脇腹には古い傷痕が残っている。
醜く引き攣ったそれは名誉の負傷などではなく、かつての弱さの証だ。
物心ついたときには主のそばにいた。
主のそばを彷徨いては他のファミリーに移動させられる日々。
だが、時折気まぐれに名を呼ばれ駆け寄るとしなやかな腕に抱き上げられる。日によってはしがみついて温もりに甘えることを許された。
鼻腔を擽る消毒液の冷たい匂いと煙る軟膏の香り。隠されてなお滲む血の臭い。安心の中で微睡み気付けば朝になっている。
そこで生まれ育ったデリンジャーにとって、ファミリーは本物の家族だった。
家族といってもレベッカのように父母がいるわけではない。自身が捨て子だったことを早くの内に知っていた彼にとって、そんなものは必要なかった。
大切なのは仲間。そして、主だけ。
もちろん、離れて過ごしていた時間もある。幼い頃は留守番をさせられたし、力及ばず途中で拠点に送り返されることも多々あった。
それはとても悔しくて、寂しくて。
主をそばに感じたいあまり、デリンジャーは彼の生き方を真似た。在り方や立ち振る舞い、言葉遣い、服装を真似た。
戦闘スタイルも蹴り技主体。刀は向いていなかったから、代わりに鋭いヒールを選んだ。
悪魔の実の利用も考えた。だが、主は首を縦に振らず、こう言ったのだ。
「お前には別の役割がある」
一説に悪魔の実は宿主を選ぶという。
それは運命に干渉され、同時に命の母たる海に拒絶されるということ。
当時まだ年端もいかぬ子ども、ましてや闘魚の血を引く彼にとっては良くない選択だと主は述べた。
「おれが海に落ちたらお前が助けてくれ」
真顔で言った主だったが、そんなヘマをするような人間ではない。
強く、ただ強く。
全てを振り切るように進み続ける主の背を追い、デリンジャーは生きてきた。
蹴り技主体の戦闘スタイルゆえ肉弾戦になるデリンジャーは必然怪我も多い。深い傷を負う度、主は物言いたげな目で彼を見た。
もっとも、当のデリンジャーはといえば主の目に自身が映ることが嬉しく、治療を施してくれるその手が好きだったのだが。
ただ一度だけ、ひどく叱られたことがある。
脇腹の傷はその時のものだ。
主の背中を狙った銃口の前に咄嗟に飛び出した。後々考えればそんな必要はなかったはずなのだが、その瞬間は他に何も考えることができなかったのだ。
若様を助けなきゃ。
そう思ったときには身体が動いていたし、銃弾を腹に喰らっていた。
痛いというよりは衝撃。全力の殴打を喰らったような感覚。腹の内で熱い鉄が暴れる灼熱感、そして遅れてくる痛み。
この時点で、デリンジャーの意識は殆ど飛んでおり、雪の中、駆け寄る主が全くの無傷であることだけ霞む視界で確かめた。
後のことは記憶にない。
目覚めた時には数日経っており、ファミリーの面々から嫌と言うほど叱られ、長期の謹慎を喰らう羽目となった。
その間、幹部や年少のメンバーは全員見舞いや激励に現れたのだが、主は一度も姿を見せなかった。
元より忙しい人だ。数日会わないことなどざらにあったはずなのに何故か悲しい。
見かねたベビー5とセニョール・ピンクが渾身の説得を行ったおかげでやっと会えた主の顔。
その顔を見た瞬間、デリンジャーは悲しみも忘れてひどく後悔した。
血の気の失せた顔。常より酷い隈。
烟る金の瞳は虚に彷徨い、ただ床を見つめている。
「若様、デリンジャーを叱ってあげて」
主の手を引くベビー5の声は、細かく震えていた。
怯え切ったベビー5、そして自身の酷い顔色とは裏腹に、主は普段と変わらぬ様子で語りかける。
「てめェに庇われるほどおれは弱いか」
慌ててかぶりを振った。
主はデリンジャーを見下ろす。常はただ無機質に、あるいは咎めるように見つめてくるだけの冷たい瞳が、燃えるような怒りを湛えていた。
「命を使うならもっと利口になれ。考えろ。無駄死にする奴はいらない」
そう言い捨て踵を返した主は石壁から現れたピーカに連れられ、一度も振り返ることなく去っていった。
思わず涙を溢したデリンジャーにベビー5が言う。
「デリンジャー、強くなろう。私たちは弱くて馬鹿だから、若様を困らせちゃう。そんなの嫌よ。ね?」
「うん……ごめんなさい」
「うんと強くなって、死ぬ時は若様のお役に立って死ぬの。それってとっても幸せなことだわ」
「うん、そう思う」
壁際で様子を見守っていたセニョール・ピンクが小さくため息をついた。
涙を浮かべた子ども達の頭を柔く撫で、彼は呟く。
「若もまだ青い」
意味も分からず見上げるデリンジャーとベビー5。伊達男は両腕を大きく広げ、二人の肩を抱き込んだ。
「勘違いはいけねェ。あのお方が言ってるのは強さとか賢さみてェな上っ面の話じゃあねェんだ」
胸ポケットから出したハンカチで二人の涙と洟水を拭い、温もりを分けるように語るその声は穏やかで心地良い。
傷に響かぬよう手加減して背中を摩る仕草は手慣れていて、主とはまた別の強さを感じた。
「セニョール、私たちはどうすればいいの? どうすれば、若様のお役に立てるのかな?」
「生きるんだ」
男は言う。
「生きて、何があっても生きて、どんなことがあってもついて行け。置いて行かれたとしても追いかけろ」
肩を抱く力が強まり、声が深くなった。
それはまるで、何度も自身に言い聞かせてきたように淀みのない言葉だ。
「必死に考えた先で命を張るのは一向に構わねェ。だが、若のためを考えるなら絶対に死ぬな」
ベビー5の目を真っ直ぐ見つめ、男は続ける。
「おれ達ァ若の為に死ぬんじゃあいけねェ。若の為に生きるんだ」
観念的な話だった。
結局のところ、強くなる必要もあれば賢くなる必要もある。それでなくとも主の背中はぐんぐんと離れていくのだから。
だが、主の怒りの理由が少し見えた気がして、デリンジャーは頷いた。
「うん」
涙がとまらない。汚く濁った声の、されど真っ直ぐな返事にセニョールが笑う。
「よし、良い子だ」
頭を撫でる男の手に力が入り、寝込んで固まった肩に痛みが走った。
「やめてよ、セニョール。恥ずかしい」
「おっとすまねェ。一人前の男にゃ野暮だったな」
セニョールと笑い合っているとベビー5が頼りなく呟いた。
「難しいのね。私、分からない。デリンジャーには分かるのよね?」
「うん。ぼく、間違ってた。若様にちゃんと謝らないとだめだ」
「私には難しい、のかも」
「じゃあ、教えてあげる」
「え?」
「ぼくが教えてあげる。家族だもん」
きょとんとしたベビー5の手を握る。
歳の離れた姉のような、友達のような妙な関係の仲間。すぐ泣く上に、変な男に惚れてはファミリーを呆れさせている女の子。
彼女は苦笑いをこぼしてから、腰に手を当てて唇を尖らせた。
「生意気ね。私の方がお姉さんなのに」
「ぼくの方が賢いんじゃない?」
「そんなわけないじゃない。あなたなんてまだ赤ちゃんなんだから」
「ひどい! 赤ちゃんって、ぼくもう7つなのに! うわ痛い!」
「何やってるの。大人しくしてなさいよ」
抗議すると傷が痛んで思わず叫ぶ。心配そうに眉尻を下げたベビー5がデリンジャーを優しく横たえ、ベッド脇のスツールに腰掛けた。
「まずはしっかり休んで。それから、また教えてね」
頭を撫でる細い指は、まだ震えている。
ベビー5は誰かの役に立つことを喜んだ。そうでもしないと自分の価値を見失ってしまうから。価値のない人間の行先を、邪魔になった人間がどうなるかを知っているから怯えているのだ。
だが、彼女は主を連れてきた。彼女にとって絶対に害したくない、邪魔をしたくないはずの主の意向を無視して。
それはきっと、デリンジャーのためだ。
「ベビー5、セニョール、ありがとう」
囁きに返されたのは小さな笑み。
目を閉じると、渋い男の声と澄んだ少女の声が合わさった子守唄が始まった。
微睡の中、主を想う。
眠れていないようだった。
主は変わった。
デリンジャーはあまり覚えていないが、彼には妹がいたらしい。
殆ど話したことすらなかった彼女は主の手により死を迎えた。
以来、主は分厚い黒衣を着込むようになり表情が極端に薄くなった。眠れないことも増え、隈がひどくなったようにも思う。
謹慎が解けたら、謝らなくちゃ。
そう思いながら眠りにつく。
彼の背中を追いかけるため。
遠い記憶を辿り、デリンジャーはぼんやりと地面を眺める。
今聞こえるのは、剣士同士がぶつかる激しい音。人々の囁く声。
隣では幼馴染が口を覆い、嗚咽を堪えながら戦局を見守っていた。
混乱の中、脇腹の傷痕を撫でる。
そこに残る主の熱。
デリンジャーは気付いていた。
わざと逸らされた照準。主の額に浮かんだ汗。密かに行使される能力。
己の腹を撫でた指が酷く熱かったこと。
銃を向けられた。当たりはしなかったが撃たれた。見捨てられた。
捨てられた。
ああ、違う。
己は護られたのだ。
覚悟が足りなかった。強さも、賢さも、何もかもが足りない。
ならば。
ならば、せめて泣くな。
溢れかける涙を飲み込み、前を向く。
思い出すのは主人の言葉。そして仲間の激励。
命を使うなら利口になれ。考えろ。
生きて、何があっても生きて、主の背中を追いかける。出来ることを考えて走れ。
彼のために命を使うということは死ぬことではない。命を燃やし、出来る限りのことを全力で行うということなのだ。
主もまた、命を燃やしているように。
弱く愚かな自分にも出来ることがある。
「レベッカ。ぼく、行くね」
立ち上がったデリンジャーは己が足を軽く叩き、その力を確かめた。
まだ動く。彼の背を追うための力。
彼を模して磨き上げてきた力だ。
引き留めようとしたのか、レベッカの手が伸ばされ途中で止まる。宙で彷徨った幼馴染の手を取り握りしめた。涙諸々で汚れた手だ。
「レベッカ。ぼくの言うことなんて信じられないかもしれないけど、聞いて。あんたの祖父さまも国の奴らも無事だよ。だって、若様はこの国が好きだったから」
レベッカは目を見開き、涙を零しながら頷く。
「────うん。信じる。信じたい」
十年は長い。
デリンジャーがこの国を馬鹿にしつつもどこか憎めなくなるほど知ってしまったように、レベッカもこの国の民もトラファルガー・ローを知ってしまった。
手酷い裏切りをうけ、今まさに戦いが繰り広げられている最中にあっても、未だ信じることをやめられないほどに。
「みんなを助けられるかな」
「分からない。でも、助けたいなら動かなきゃ。だから、ぼくは行くよ」
「待って。私も行く」
よろめきながらレベッカが立ち上がる。
少女は次第に確かになる足取りで母親の下へと向かい、彼女の前で跪いた。
「お母様、ごめんなさい。私、行ってくる」
少女自身と良く似た容姿のスカーレット。上半身と下半身を分断されるという憂き目に遭いながら伴侶の闘いを見守っていた強い女性。
彼女は半ば諦めるようにため息をつき、その手でレベッカの頬を撫でた。
「気をつけるのよ」
「うん。お父様をお願い」
「この身体で出来ることならね。本当にあなたったらお転婆なんだから。まったく、誰に似たのかしら」
呆れ半分喜び半分でそう言ったスカーレットの背後、民が物言いたげに彼女を見つめている。何より雄弁なその目と、思いの他冷静な国民達の様子にデリンジャーは密かに笑った。
「レベッカちゃん、必要ならうちの武具を使いな。あ、でも店無事かな……」
「ピーカ様がなあ。久しぶりに暴れておいでだから」
「お腹が減ったらウチのお弁当をお食べよ。店に置いてあるからさ」
「おいおい、言ってる場合か?」
「ありがとう、みんな」
無論空元気もあるが苦笑いを浮かべる彼らと応えるレベッカ。
当初張り詰めていた空気は弛み、微かな囁きが民の間を渡っている。
突然正体を現したかのように見えた海賊トラファルガー・ロー。
観客達は大いに恐怖し世の終わりの如く嘆いたが、次第に状況に慣れつつあった。それもまた、かの大海賊のせいである。
十年前の事件以来、ドレスローザの良き隣人であり続けた彼は、同時に良き師でもあったのだ。
受けた恩義に報いようと自らを鍛えた者。穏やかに保たれる仮面から心を読み取るために観察眼を磨いた者。他者を受け入れる心を育み胆力をあげてしまった者。鍛錬の端々にトラファルガー・ローの影がある。
押されれば応え、請われれば教えてしまう彼は、結果的に国民を強くした。
今回の騒動とて、死者が未だ出ていないのは彼の手腕によるものだけではない。単純に国民が強くなっているのだ。
また実のところ、ドレスローザの民は元より愚鈍とは程遠い国民性を有している。
愛を見つけ出すため耳目は常に相手の様子を探り、情熱に生きるがゆえ愛すべき癖や美点を見つければ決して忘れない。
その観察眼たるや、瞬く間に大海賊のハッタリを見抜いてしまうほどである。
いや、正確には見抜いてなどいない。訳もわかっていないが何となく理解している。それはもはや見聞色の覇気に匹敵する程の直感力、或いは単なる経験則。
加えて、土壇場に対処できるだけの胆力を身につけたがゆえ、結果的に泰然としているのだ。
「おれ達にゃトラ坊が何考えてんのかとんと分からねェが、考えてみりゃそれはいつものことだしなァ」
「十年前の件だってヴィオラ様同席の公開審問で否定されたはずだ。若様はああいったが、何か事情があるんだろう」
「さっきの瓶ね、リク王様のあれ、ご病気だったらしいわ。若先生もお気の毒よね。休暇中の侍医先生が闘技場に来てるんだもん」
命を奪うわけでもなく分断だけして帰った主。元より混乱が徐々におさまることは予測していただろう。
だが、恐らく、これは予想外の反応だ。
主も完璧ではない。
デリンジャーは確信する。
主の何が問題かといえば、己の影響を軽く見ていることだ。目的のために強大に編み上げたトラファルガー・ローという存在は、彼の目的を外れた埒外の場でも多大な影響を及ぼしている。
例えば、命を救われた者。拾われた者。育てられた者。デリンジャーとてその一人だ。
壊された歯車もあれば、新たに育まれ鍛えられた歯車もある。主はそれに気付いていない。或いは、気付かぬうちに目を逸らしているのかもしれない。
そして、ここはドレスローザ。
愛と情熱の国。
本人でさえも気付かぬ密やかな愛をつぶさに拾い上げ、陽の下に引き摺り出して大きく花咲かせることに余念がないのだ。
「二人とも、いってらっしゃい」
スカーレットが微笑む。さすがに不安そうではあったが同時にあたたかな笑み。
頷く少年少女から始まるのは、ドレスローザ史上、最も単純で愛に満ちた反乱だ。
勿論、残された観客達とて、分たれた身体を元に戻し自ら町を助けたい気持ちはある。家族と離れ、不安に心を揺らす者もいた。
希望的観測が大きく外れ、全てが悪意の下に崩れ去ることとてありうるのだろう。
海賊トラファルガー・ローの意図は、十年を共にしてなお分からないのだ。
ただ、同時に、ドレスローザの隣人のことであれば多少は知っていた。
彼の薫陶を受け、ドレスローザに育まれた子ども達が走り出した今、出来ることといえば信じることだけである。
信じることならば得意だった。
走り出す二人の背中を見送り、民衆は目の前で繰り広げられる戦闘に息を飲む。
闘技場の軛を解かれた剣士達の絶技。
それは命の取り合いであるにも関わらず見る者を魅了してやまない。
もはやヤケもあるのだが、確かな強さを以て観客達は騒ぎ出した。
熱狂を取り戻した声援に包まれ、剣士の闘いはさらなる高みへと昇り始める。
地下に響く靴音。
振り向く大男の足下にはぼろぼろになった貴婦人が倒れていた。
靴音の主は彼女を一瞥し、左手を動かす。突如姿を消した彼女を気にした様子もなく、大男が歪な笑いを浮かべた。
黒衣の男は顳を揉み、辺りを見回す。
フェイクであったはずの武器庫。
そこにはあるはずもない戦略兵器と麻薬の類と思しき白い粉が山と積まれている。
「安心しろ。ジョーラは上手くやった。この勝負はお前の勝ちだ」
離反者ジョーラ。
麦わらの一味の船にて捉えられた彼女には、逃走を許す代わりに一つの命が下されていた。
それは武器庫の隠匿。能力を使って武器庫内の物を全て『アート』に変換し、侵入者共に証拠を掴ませないようにすること。
革命軍、そして町に潜んでいたCP。彼らの本命は密輸ルートの摘発だ。
本来安全を約束するはずの場所は、だからこそ死角となる。騒動に乗じ裏を掻くならば武器庫が利用されるに違いない。黒衣の男は深く理解していた。
ビッグ・マム海賊団との取引で手に入れたのだろう武器や麻薬。それを革命軍あるいはCPに発見させ、トラファルガー・ローを失墜させる計画。幾重にも張り巡らされる悪意に気付けたのは、偏にその思考を読み合うことができるから。
「よく気付いたなァ」
「おれに悪事を教えたのはお前だろ」
小声で答えた弟子を見下ろし、トレーボルは両腕を広げる。
「それで?
「裏切りか。悩むところだな」
再び能力を行使し武器と麻薬の全てをまとめて地に葬った男は、若干ふらつきながら呟いた。
「まずは、話を……場所を移したい」
「話ィ!? べへへへ! ここまでしてオハナシか!」
「気にいらねェか」
「いいやァ〜? 全てお前の好きにすればいい。逃げも隠れもしねェもんねー?」
にやにやと嗤う大男を見つめ、男は眉を顰めた。金の瞳には霞がかかり、瞼が重たげに瞬いている。
トレーボルはよろめく黒衣の男の肩を抱え、さも心配した様子で親しげに問うた。
「んねー? どうした? 大丈夫かァ?」
「いや……なんでもねェ。どこにするか悩んでただけだ。問題ない」
「なら王宮の謁見室がいい。あそこは安全だ。ゆっくり、ゆ〜っくりオハナシできる。そうだろ?」
「……そう、だよな」
「迷う必要なんかねェ。おれに従っときゃ問題ねェもんな。ずっとそうだったろ」
黒衣の男は返答せず、左手を持ち上げた。鉛でも掲げるかのようにひどく緩慢な動きを瘦せこけた腕が支える。抵抗はない。
瞬く間に視界が変わり、二人は王宮の謁見室へと移動した。
もはや立っていることも出来ず、膝をついて蹲る黒衣の男。
能力、あるいは痛みにより覚醒を促そうとしたのか振り上げられた左手は、しかしトレーボルによって制止される。
「トレーボル、てめェ……」
言葉は続かない。
呂律も回っておらず、自力で蹲っていることすら困難な様子だ。
焦点の合わない金の瞳が大男を見上げる。しかし、彼を見下ろす大男の顔はサングラスに覆われ、真意など窺う術がない。
「べへへ、駄目じゃねェか、ロー。医者が薬を飲み違えるなんざ」
トレーボルの懐から取り出されたのは鎮痛剤の小瓶。トラファルガー・ローの私室にあったはずのそれは、数日前にすり替えられていた。
単純ゆえに、悪辣。
そう。
トラファルガー・ローに悪の何たるかを叩き込んだのはトレーボルなのだ。
「気を楽にしろ。起きたら全部終わってる」
トレーボルは褥の幼子に語りかけるように優しく囁いた。
無理な能力行使による極限の疲労、そして睡眠薬による強烈な眠気に抗えず、黒衣の男は眠りの淵を滑り落ちていく。
「そう、良い子だ」
トレーボルは弛緩したその身体を片手で引き上げ、崩壊した玉座へと座らせた。そして、玉座の裏側に隠してあった鎖と手錠を取り出す。
それは海楼石の拘束具。
互いに能力者であるため扱いには難があるが、相手は眠る人間一人、ただ繋ぎ止めるだけであれば造作もない。
苦しげに寝息を立て始めた男を見下ろし、トレーボルは表情を消す。
その手には一枚のメモが握られていた。
鎮痛剤と化膿止めの服用を勧めるその文字は乱れ、ひどく読み取りにくい。
眠る黒衣の男。
かつて彼は、特段悪筆ではなかった。
彼は十三年前のある日を境にペンを握れなくなったのだ。
ペンだけではない。細い軸、例えば食器の扱いも難しい様子で、しばらくは何かを握っては捨てのリハビリを繰り返していたが、いつの間にか諦め慣れぬ左手を使うようになった。
直接的な医療行為、あるいは戦闘であれば思考が切り替わるのか、問題は生じないらしい。ただ、普段の生活には難があり、ペンやナイフを右手で握りこむことができない。元々器用な方ではないから、左手も上手く使えない。
本人はそう、淡々と語っていた。
妹の頚髄を圧し潰した感触。
その感触が彼を鈍らせる。
それは、トラファルガー・ローの弱さの証だった。
メモに火をつけたトレーボルは、窓の外へと火の塊を投げ捨てた。炎を纏った紙片は空へと舞い上がり、灰となって遠ざかっていく。
「終わらせねェぞ」
呟く声に温度はない。
「堕ちてこい、ロー」
階下の喧騒をよそに、眠りについた王の傍へと大男は侍る。
忠心とはかけ離れた思いを抱き、その唇は固く引き結ばれていた。
今更ですが、デリンジャーの性格が原作とまるっと違います。
生育環境が変わりジョーラの関与がやや減少、お転婆な幼馴染の存在などもあってぼくっ子に落ち着きました。
一人称に関しては、一時ボスの真似をして「おれ」「わたし(敬語)」と言っていたものの、心身馴染まず。ドレスローザの孤児院の子どもらからヒントを得ての現状、というのが裏設定です。
当のボスは「なんか知らん間に口調変わっとるな……」とか思っていましたが、わざわざ言及するほどのことでもないのでノーコメントを貫いています。