ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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 セニョール・ピンクは懐古する。


 ギムレットには早すぎる



さらばいとしきひとよ

 

 港から去る四皇の艦隊を見送り、伊達男は小さく笑った。

 町は喧騒に溢れ、行き交う情報からはトラファルガー配下の分裂が伝わってくる。

 主からの指令はない。それはつまり、縁が断ち切られたということだった。

 

 いつかこんな時がくる。そう思い始めて、結局何年が経っただろうか。

 

 カフスボタンを指先で弄り、空を見上げる。

 遠い空の下で住まう別れた妻子の事を思えば、ここらが潮時なのだろう。

 元より、そういう約束だった。

 

 

 

 

 トラファルガー・ローとの出会いは、今を遡ること二十五年程前。

 その頃のセニョール・ピンクはトレーボルの率いるファミリー、その傘下でちんけなチンピラとして駆けずり回っていた。

 

 ある日突然、ファミリーの幹部と直の配下が呼び出された。過去にない大規模な集会である。

 何事かと騒めく皆の前に姿を現したのは、スラム出身ながら巨万の富を築き一帯を支配する組織の長、トレーボル。彼の傍に立っていた青年こそがトラファルガー・ロー、その人だった。

 

 トレーボルは青年の背に手を回し、こう宣った。

 

「いずれこいつにおれの座を任せる。未来の主になる男だ。覚えておけ」

 

 元より噂はあったのだ。

 

 ボスと同じスラムで育ったという秘蔵っ子。悪の寵児。徹底的に秘匿された存在。

 どんな怪物かと思いきや、現れたのは毛並みの良さそうな青年だから驚きであった。

 

 生気が薄く浮世離れした佇まい。見る限り傷痕一つなく、ただ隈が酷く顔が青い。何というか、明日にでも港に浮かんでいそうな雰囲気である。

 

 出世に興味のないセニョールは、物見遊山程度の気持ちで彼の姿を眺めていた。

 

「いいか。こいつはお前らとはモノが違う。頭も中身も強さもだ。全く比べようもねェ。手出しは止めねェが、やる場合は覚悟を決めろよォ〜?」

 

 明らかに周囲を煽るボスに対し、当の青年は僅かに眉を顰める程度。

 彼はファミリーの面々を虫を見るような目で眺めた後、トレーボルの服の裾を引き何事かを囁いた。

 傲岸で通るトレーボルが身を屈めてまで彼の『おねだり』を聞き、上機嫌に笑う。

 

「好きにしろ」

 

 甘やかしていることは一目瞭然。

 当然のことながら、ますます反感は高まる。ボス本人がいる手前、今だけは静けさを保っているが、後日爆発することは想像に容易い。

 

 暫くファミリーは荒れるだろう。

 セニョールは肩を竦めた。

 

 

 予想通り連日のように襲撃を喰らった青年は、しかし惑うことなく反撃に出た。

 襲撃犯全てを血祭りに上げ、うち数名を支配下に置いたのだ。それだけならまだしも、彼は能動的に襲撃を繰り返し、結果的にファミリーはその数を半数以下に減らすこととなった。

 おかしなことに、配下となった者が皆、口を揃えて彼を賛美するものだからますます不気味である。

 

 聞けば、ファミリーの面々を見た初日、青年がボスに強請ったのは間引きと再構成。

 

『数を減らして入れ替えたい』

 

 それを許すボスもボスだが、初対面の人間をつかまえて廃棄処分を決め込む青年も大概だ。

 

 渦中大人しくしていたセニョールは狩りの対象にはならず、それどころか繰り上げ昇格を喰らい、幹部となってしまった。

 望まぬ出世にうんざりし、関わらずにおこうと決めたセニョールだったが、そうは問屋が卸さないのがこの業界である。

 

 

 昇格から数日後、セニョールは自身が管理するフロント企業の一室で次期頭領と対面していた。

 

「ここが用意した部屋だ」

「…………」

「何かあればベルを」

「…………」

「聞いてるか?」

 

 無視かと思えば、青年は小さく頷く。

 

 ボスからの指令は単純明快。青年に部屋を貸し与え、仕事をさせろというものだ。

 

 敬う必要はない。ただし下っ端扱いはせず、やりたいようにやらせろ、と。

 

 言うは易いが、話どころか返事もしない人間に仕事をさせろとは無理難題である。ここは人材派遣会社なのだ。

 苦肉の策で、話さなくとも何とかなるものをと書類を任せてみれば、これが思いの外仕事が早い。意外に使えるのではと思い会計業務に携わらせれば、数日で財務状況を把握できる程だ。

 

 まあ、これが間違いだったのだが。

 

 ある日の午後、外回りを終えて戻ったセニョールの目に飛び込んできたのは血溜まり。正確には受付嬢の肩をヒールで踏みつけ、床を汚す青年の姿だった。

 阿鼻叫喚と化す社内、スタッフを鎮めるファミリー構成員。真顔の青年。呻く受付嬢。

 よく見れば、受付嬢は外部の者と結託して横領に勤しんでいるネズミではないか。つまり、青年は財務関係の資料から横領の事実に辿り着いたわけだ。

 唖然と立ち尽くすセニョールに彼は告げる。

 

「掃除しておいた」

 

 初めて聞いた声は意外に涼やかだった。

 

「────そりゃどうも。出来れば、もう少しばかりエレガントな方法で頼みてェもんだな」

 

 何とか繰り出した言葉を受け、彼は足下を見下ろす。絨毯に染み込み黒いしみをつくる赤い液体。そして受付嬢あらため横領犯の苦鳴。

 顔を上げた彼は小さく頷いた。

 

「次は気をつける」

 

 次があってはセニョールの責任問題である。

 どう転んでも最悪だ。

 

 横領についてはセニョールも気付いていたのだが、泳がせて関係者を引っ張る算段だった。その矢先の事件だ。計画が無に帰したのもそうだが、何より一般社員の目の前で生の暴力はさすがにいただけない。

 

 清掃業者を呼んだ後、与えられた部屋に再び篭る青年に対し、セニョールは決死の覚悟で説教を行う羽目になった。

 

「フロント企業とは言ってもカタギも多い。連中も暗黙の了解で騒ぎ立てはしねェだろうが、それにしたってちっとは考えて行動してくれねェと困る」

「……そうなのか」

 

 青年はぽつりと呟く。

 

「ここ、普通の企業だったんだな。非合法に奴隷かなんかを売ってて、社員全員がファミリーの一員なのかと思ってた」

「中を見りゃ分かると思うが」

「見てない。この部屋を出たのは今日が初めてだ。出るつもりもなかった。呼び出したらあの女が逃げたから追っただけだ」

「毎日出勤してるんだ。フロントくらい通るだろう」

「通らない。能力で……あ」

「能力?」

 

 言われてみれば、彼は初日もいきなりこの部屋の中にいた。ボスかファミリーの誰かが通したのだと思っていたが、能力者だったのか。

 

「言っちまった……いやもう、どうせ部屋出ちまったしな……」

 

 ぶつぶつと何事かを呟く青年。察しがいいのか悪いのか、どうにも掴みどころがない。セニョールはため息をつき、再度注意喚起を行う。

 

「分かった。知らなかったならいい。今後は気をつけてくれ」

「え? 殴らないのか」

「は?」

「ああ、成程。帰ってからか。トレーボルがまとめてやってくれるんならこっちも楽でいい」

 

 ディスコミュニケーション極まる会話に別の意味で苦痛を感じた。

 

 この青年、もしかすると相当な世間知らずなのではないだろうか。スラム育ちで箱入りとも思えないが、噂が真実であればボスが徹底的に秘匿してきたわけで、つまりそれは世間と接する手段がなかったということでもある。

 業務における報連相どころの話ではない。この様子では業界のいろは、否、世間一般の常識すら危うい。

 

 正直、『殴らないのか』という言葉も気にはなった。直後の言葉からして、ボスから殴られているのだろうか。それも、常習的に。

 青年は次期頭領、おそらくボス自身が手塩にかけて育てた大切な跡目だ。青年本人にしても貧弱な見た目に反して暴徒を返り討ちにできる程度には強い。滅多なことはないと思いたいのだが、トレーボルはあれで暴力に長け、これまで敵味方問わず幾人もの死者を出している。つい、うっかりということも────

 

 しかし、深入りはしたくない。

 

 煩悶に煩悶を重ね、セニョールはただ一つ、彼に注文をつけた。

 

「今後、何か事を起こすときは一言でいいから相談してくれ」

「分かった」

 

 こくりと頷く仕草は妙に行儀が良く、そのくせ頬が返り血で汚れているものだから、視覚が混乱する。

 眉間に寄りそうになるしわを親指で制し、セニョールは告げた。

 

「今日はもう帰れ」

「明日も来ていいか?」

「おれにもお前にも選択権はねェ。帰ってボスに聞くんだな」

 

 一瞬、青年の顔が曇ったような気がした。

 気付かないふりをして素気無く答える。

 

 翌朝、何事もなく部屋に篭る青年の姿を見つけ、諦念と安堵を混ぜたような心情になったのは不覚と言えよう。

 

 

 それから、彼はセニョールのそばで過ごすようになった。と言うより、彼の行動が不安定すぎてセニョールが張り付く羽目になったのだ。

 

 部屋から出て仕事にケチをつけたかと思えば、スタッフ全体に健康診断を要求し、突然ファミリーの一員を窓から吊し上げて一帯を悲鳴に包み込ませる。

 制御するにも行動が意味不明なせいで予測が立たない。上下から突かれ頭を抱えたセニョールは、仕方なく彼の傍で咄嗟の制止に入ることにしたのだ。

 

 そばで過ごし異常行動を防げるようになったはいいが、その分セニョールのメンタルはボロボロだった。タバコの本数も増え、経済的な痛手も地味に辛い。

 しかも、青年は監視の目を掻い潜り、新たな人材を連れてくるのだ。

 逃避癖の婦人、尻尾の生えた暴徒、謎の老人。何の役に立つか分からない人物を何処からともなく連れてきて、『あとは頼む』などと宣う。確かにここが人材派遣会社であるとは教えたが、人材=イロモノとでも思っているのだろうか。

 何にせよ、予測がつかないから常に気を張っていなければならない。そのストレスは多大なものである。

 

 すっかり参ったセニョールは、雑談がてら青年を探る事にした。

 深入りはしたくない。強くそう思う。しかし、青年に対して無理解のままでは胃に穴が空くのも時間の問題であった。

 

 まず、青年は能力者だ。移動能力があるのは確かだが、実際使うところはみたことがない。

 特技はおそらく医療系。

 出自は伏せられており、過去については概ね口を閉ざす。ただ、スラムの話には応じた。同世代の幼馴染達がいて彼らは幹部生として鍛えられているそうだ。

 現在はトレーボルと二人暮らし。幼馴染の中で跡目である彼だけが隔離され、ボスの管理下に置かれている。聞く限り、実態は軟禁に近い。鍵は外からしか開けられず、使用人の監視がついていた。

 薄暗い業界に棲まう以上、健全な生活は望めない。だが、日中は職場、夜間は自室で軟禁状態ともなると流石に哀れだ。

 彼の異常性には生活環境も関わっているのでは、とボスの采配に恨みがましい思いを抱く。

 

 話してみると、青年は意外に素直で、どこかのネジが外れているわけではない。

 ただ、何というか、空虚なのだ。

 

 凍りついた表情と物音に敏感な様子。華のある風貌に成長途然の肢体、時折現れる暴力性と普段の仕草に滲む上品さ。

 全てがちぐはぐで、つぎはぎの死体が歩いているのを見たような気味の悪い感覚を覚える。

 

 知れば知るほど胃痛のネタが増え、これはもしや逆効果なのではと悩み始めた頃、事件が起きた。

 

 大怪我を負ったファミリーの一員が社に運び込まれたのだ。秘密裏に裏口から担ぎ込まれたその男は既に意識を失っており、失血の具合から長くはないと思われた。

 青年を部屋に残し処理の手順を考えていたセニョール。その耳に激しい物音が飛び込んできた。

 最近は言いつけを守って部屋にこもっていたはずの青年が、扉を蹴り飛ばす勢いで現れたのだ。

 

「どけ!」

 

 聞いた事のない大声。肩を掴まれたかと思えば後方に弾き飛ばされた。もんどりうったセニョールの目に青い被膜がうつる。

 

 はたして、瀕死の重症者は一命を取り留めた。

 

 

 

 

 翌日、青年が職場に姿を見せず訝しんでいるとボスから呼び出しがかかった。

 

 使用人に通された広間で見たのは、杖でこめかみを強打され倒れ込む青年の姿。

 

 既に何度も殴られた後なのだろうか。一切抵抗もせずに殴られ続け、杖で鳩尾を押さえ込まれた彼は呻き一つ上げない。

 次期頭領の無惨な姿に呆然としていると、ボスから手招きをされる。

 

 手には小さな鍵束。三本連なったそれをセニョールに投げ渡し、トレーボルは言った。

 

「お前がいいんだと。任せる」

 

 ボスは鍵束の詳細を告げる。

 

 一本は玄関の鍵。

 一本は青年の自室の鍵。

 最後の一本は枷の鍵。

 

 三本目の鍵の説明を受けて見下ろせば、青年の足首には細い鎖の付いた枷がかけられていた。

 

「べへへへ、良かったなァ〜。これでお前は次期ボスの付き人だ。そのうち悪魔の実も回ってくるかも知んねェ。期待してろォ」

 

 何が良いものか。

 そう思いつつもセニョールは黙って青年を担ぐ。見た目通り軽いのだが、身体に全く力が入っておらず支えにくい。

 セニョールが抱えた青年を見下ろし、トレーボルが笑みを消した。

 

「分かってるだろうな」

 

 普段の甘やかしているかのような態度とは全く別種の酷薄な表情。

 青年は何事かを囁いた。聞き取りづらいが、それは確かに謝罪の言葉である。

 しかし、トレーボルは不快げに口を曲げ、青年の肩を殴りつけた。

 まさかこの状況で殴るとは思わない。セニョールが体勢を崩し、青年は床に崩れる。背中を丸める彼を蹴り付け、トレーボルは鼻を鳴らした。

 

「ついてこい」

 

 慌てて青年を抱え直す。ボスの後を追えばそこには簡素な印象の扉があった。

 そこが青年の自室だと説明を受ける。

 

「まずは身綺麗にしてやれ。今はまだ小汚い鼠だが、これでも大事な跡目だ。丁重にな」

 

 もはや不機嫌さを隠そうともせず、それだけ言ってボスは去って行った。

 

 鍵を開けて中に入る。

 簡素な作りの内装に一通りの家具に娯楽が揃った部屋だ。壁際にはぎっしりと本が詰まった書棚が並んでおり、書庫のような印象だった。

 青年をベッドへと横たえる。

 見える位置の怪我はこめかみのみで、他は胴や足等の見えない場所を集中的に打たれていた。

 本人が動こうとしないため代わりにシャツの前を開けば、鳩尾より下部には色の変わった打撲痕が広がり幾重にも重なっている。日常的に暴力を受けているのだ。また、背中には古傷と思われる火傷や切り傷の痕もあった。

 上手く隠していたものだと妙に感心してしまう。

 

「枷を外してくれ。治療は自分でやる」

 

 青年は平然と言った。

 

「海楼石だ。トレーボルの野郎、海兵を買収して掻っ払ってきやがった」

 

 言葉は荒い。しかし、声には熱が籠っておらず平坦。これが憎らしげまたは悔しげであれば自然なのだが、感情の波が現れないため何をしてもちぐはぐな印象がある。

 不気味で仕方ない。

 大人しく枷を外してやると彼はゆっくりと身を起こした。

 

「ありがとう」

 

 礼は言うんだな、と。どこかで当たり前のことを思いながら、セニョールは問う。

 

「随分と手酷くやられたじゃねェか。ボスの機嫌でも損ねたか?」

「おれが悪いんだ。言いつけを破ったから」

 

 彼は能力を発動させ軟膏や包帯を取り出した。移動能力ではなく改造能力なのだと彼は言うが、何の実かは見当もつかない。

 淡々と処置をしながら青年は続けた。

 

「ここに一人置かれてるのもおれが悪いからなんだと。他の奴らがおれを助けようとするから隔離された。罰なんだ」

 

 ぽつぽつと話す彼の表情は特段辛そうでもなく、ただ事実を述べているだけといった印象だ。平然とした様子は被虐待児のそれに似ている。

 

「言いつけってのは?」

「能力を使うな、と。無駄に話すな、部屋から出るなとも言われたな」

 

 横領事件を思い出す。

 あの日も折檻を受けたのだろうか。

 

 別に哀れではない。彼も幼い子どもではないし、こんな世界だ。よくある話である。ただ、あまりに平然としすぎてそれが気がかりではあった。

 いや、気付いてやるべきだったか。

 加担した自覚も見て見ぬふりをした自覚もあり、セニョールは傷に障らぬよう抑えた声で言い訳をする。

 

「言ってくれりゃこっちも配慮した」

「何の配慮だ」

「そりゃお前、次期ボスが過ごしやすいようにするのは当然だろう」

「充分楽しかった。久しぶりに外に出られたし、人と話せた。少し羽目を外しすぎたんだ。全部おれが悪い。あんた達は何も悪くねェだろ」

 

 青年は不思議そうに首を傾げた。

 澱んだ目を除けば年相応、いやどこか幼い印象すらある。

 

 部屋を見渡せば書架には医学書や経済誌、歴史本に童話。机の上にペンと紙、そして数種の薬瓶。色合いが不揃いな棚には臓器の標本と並んで大小のぬいぐるみ。床に小さな玩具のピアノ、鍵盤の一部は外れていた。シーツに滲んだ血。ワードローブには似たような服ばかりが並んでいる。

 

 埃一つなく、一見整頓されているのに噛み合わない。青年の印象そのもののような部屋だ。

 

「今日は悪かった。あんたがこういう立場を望まねェことくらい分かる。明日、トレーボルに言っておくから安心してくれ」

「そんなことをすれば、また殴られるだろう」

「慣れてる。問題ない」

 

 処置を終えた青年はごろりとベッドに横になる。

 

「悪ィな。あんたしか思い浮かばなくて、咄嗟に名前を出しちまった」

 

 そう言って彼は小さく笑った。

 

「だってあんた、やたらと話しかけてくれるから」

 

 何が面白いのか、痛みに顔を歪めてまで笑う。『無駄に話すな』という言いつけの対象にセニョールが含まれていたのは間違いなく、恐らくその分彼は折檻を受けていただろうに。

 

「なァ。ボスが言ってた付き人ってのは何の話だ」

「言葉の通りだ。他人に慣れろってことらしい」

「なりたい奴も適した奴も掃いて捨てるほどいるだろうに、何故おれを」

「信頼できる奴を、と。そう言われた」

 

 閉じ込めておいて信頼も何もない。恐らく、トレーボルは自身の息のかかった者を彼の側に置こうとしたのだろう。思いもかけず彼自身が意思を示し、仕方なくセニョールを登用したわけだ。

 

 ため息を飲み込み、床へと座り込む。

 

「乗りかかった船だ。付き合おう」

「いいのか?」

「男に二言はねェのさ」

 

 ベッドから身を起こした青年はどことなく嬉しそうな様子でセニョールを見つめた。

 

「ありがとう。明日トレーボルにそう言う。あと、一緒にあいつ殴ろう」

「────は?」

 

 息を吐くように『ボスを殴る』と発言する青年。表情は特に変わっていない。

 恐る恐る、問う。

 

「殴る? 何故?」

「そりゃ確かにおれが悪いが、殴られてばかりは気に入らねェ。大丈夫だ。いつもやり返してる」

「大丈夫じゃあねェだろう」

 

 ガッツがありすぎる。

 

 そもそも考えてみれば、ファミリーの数を半減させるパワーがあって、ただ殴られ漫然と隔離されているわけがない。

 殴られて平然としているのは本当に慣れているからで、トレーボルが不快そうにしていたのは青年が全く堪えておらず反省しないからだ。

 

「暴れてばかりいねェで社会勉強でもしてこいってあいつが言ったくせに、あんたのとこにいても難癖つけやがるから、()()

 

 『つい』で、何をしたのだろう。

 考えたくない。

 

 トレーボルの薫陶を受けた悪の寵児。翻せば、育てたはいいが迷惑千万なクソガキ。シマで無秩序に暴れ回る上、周囲はそれに心酔していく。たまったものではないだろう。

 考えてみれば、最近の敵対グループの不自然な沈黙は、恐らくこの人間の形をした暴風域が引き起こしたもの。組織再編も許されてはいるが秩序が乱れて破綻する勢いだ。死人は意外に少ないが、それにしても組織の新陳代謝が激しすぎる。

 とにもかくにも、勢いが尋常ではない。それはもう、手足たるスラムの同胞を引き剥がした上、軟禁でもしなければどうにもならない程だったのだ。

 だが、軟禁されている中ですら人を呼びつけ、躾と称した暴力にも屈さずやりたい放題。ついにボスも音をあげた、というのが真相なのかもしれない。

 

 むしろよくぞこれまで抑えつけていられたものだ。若干ではあるが、トレーボルを尊敬してしまった。

 

 何にせよ、首輪をつけて社会勉強をさせたいというのが本音なのだろう。

 

「大体、何でおれがあいつの命令を聞かなきゃならねェ。ボスだからか」

「ご明察だ。ついでに教えてやるが、次期ボスとは言え、お前はまだただの坊やでおれは幹部。この違い、わかるか?」

「まさか、おれはあんたの言う事も聞かなきゃなんねェのか?」

「……そうは言ってねェ」

 

 眉間の皺を親指で押し伸ばし、ため息をつく。

 なるほど、これは教育が必要だ。

 主に、社会教育が。

 

 問題は誰がやるのか、という話。

 

 猫の首に鈴をつけるネズミの気持ちがよくわかるセニョールだった。

 

 

 

 

 かくして、次期頭領の付き人となったセニョールはトレーボルと連携し、青年に多くのことを伝えた。

 トレーボルが教えるのは主に悪の手法と思考、セニョールは悪の作法や流儀と言った観念を訓える。さらに、一般社会への溶け込み方、つまり擬態についてもセニョールが担当した。面倒な部分を丸投げされた気がしないでもなかったが、得意分野ゆえ問題ない。

 ただ、青年は生き急ぐ傾向があり、教師二人の目を掻い潜っては破壊を為す。おかげでファミリーは国の半分を牛耳るほどの勢力を誇るようになっていた。

 

 暴力が悪いとは言わない。ただ、敵対しているからと言って全て張り倒していてはいつか行き詰まる。

 

 セニョールがそう説いた翌日、青年は姿を消した。

 

 彼の不在に気付いたのはトレーボル。ボスの権限を使い一帯に捜索網を敷けば、彼は簡単に見つかった。

 場所は港の廃倉庫。海兵崩れのゴロツキに捕まっていたのだ。

 

 セニョールとトレーボルが向かった先。椅子に拘束され、とろりと微睡んだ様子の青年は尋問を受けていた。自白剤の影響下にあるのか抵抗はない。

 一言二言答えた彼に対し、尋問している側であるはずの男が声を震わせる。

 

「ホワイトモンスター……?」

 

 凍えるような一瞬の沈黙。

 そして、青年は暴れ出し酷い恐慌を起こした。

 

 拘束されていた足が折れんばかりに持ち上がり、上腕に繋がれた点滴が飛び、血が逆流し管を上る。

 セニョールが敵の脳天を撃ち抜くがそれより一瞬早く敵の注射針が青年の大腿部へ突き立てられていた。

 瞬く間に静かになった青年は濁った眼で譫語を繰り返し、それを聞いたトレーボルが青年の頭を殴り昏倒させる。

 

 椅子ごと地面に引き倒され、ぐったりとしている青年。彼を見下ろし、教師役二名は顔を見合わせた。

 

 

 

 

 幸い、自白剤の効果は長く続かず、ほどなく青年は目覚めた。

 彼は自身の喉を抑えつけた後、トレーボルとセニョールから離れるように後退り、二人を睨め付ける。

 

「急に動くな。目を回すぞ」

「……おれは何を聞かれた」

「過去のことだ。家族構成や出自のような簡単な秘密から入り、組織について尋ねる。教えただろう。常套手段だ」

 

 セニョールは努めて冷静に答えた。

 

 反応は呻き声一つ。

 両手で顔を覆った青年の、その指の隙間から見える頬は青褪め引き攣っていた。

 肩も震えている。普段どんな暴力を受けようが鉄火場にいようが変容しない彼がみせる、怯えとも言うべき反応。

 薬剤の影響が残っているのかいないのか、尋常ではない動揺だ。

 沈黙の後、青年は声を絞り出して尋ねる。

 

「聞いたのか」

「うん?」

「あんたやトレーボルも、聞いたのか」

「んねー、馬鹿なの? 自白剤なんざある程度の濃度までは誤魔化せる。ちゃんと教えてやったよなァ?」

 

 セニョールが言葉を発するより早く、のんびりとした声音でトレーボルが答えた。

 霞む金の瞳が二人を見る。それはまるで縋るような、それでいて射殺すような、矛盾した感情の発露。

 気圧されたセニョールの傍、トレーボルはいつもの態度を崩さず続けた。

 

「ロー、お前は事前に決めた通り嘘を答えていた。んねー、何だっけか」

「『家族は父母と自分の三人、出身は北の寒村』」

「べへへ、下手なカマかけるんじゃねェ。『家族は祖父母と自分の三人』だ。それで、本題に到達する前におれ達が海兵を殺した。なァ、セニョール?」

「ああ。正確にゃ、本題に到達する前にボスがお前を殴りつけて昏倒させたんだが」

「バラすんじゃねェ。黙ってりゃ海兵のせいに出来たのによォ〜」

 

 突然矛先を向けられるが、セニョールとてこの手の問答は慣れたもの。

 努めて普段通り、かつ思考が分散するように無駄な情報を付与する。受けたトレーボルが軽く応えた。それでもなお、青年の眼には強い猜疑心が滲んでいる。

 

「……ほ、んとうか? 嘘をついているんじゃねェだろうな。嘘なら、おれは────」

 

 言葉は続かない。しかし、その眼に宿る剣呑な色から何を言わんとするかを察し、ぞっとした。

 

 今、青年の心を占めているのは明確な殺意だ。

 

「本当だ。お前は大事な跡目。そんな下らねェ嘘をついてヘソを曲げられちゃ困る」

「…………」

「心配なもんで、組織についてぺらぺら喋る前に頭を殴ったのは、まァ悪かった。んんー? どうした? 痛むか?」

「……いや。たすかった。すまねェ」

 

 膝を抱え丸くなった青年はくぐもった声で応える。

 

「んねー、おれ達の言った通りだろうが。いいつけを破るからこうなるんだ。懲りたなら、しばらく単独行動は控えろ」

「…………」

「ロー、わかったな?」

 

 青年はもはや言葉もなく頷き、震える肩を自らかき抱くようにさらに縮こまった。

 

 後に本人に聞いたところ、彼は薬剤への代謝機構に問題を抱えているらしい。薬剤の種類にもよるが健常者と比べて効能が強く出るため、普段服用する薬も自身で調剤しているそうだった。

 臓器の問題だと言うから能力を用いて解決してはと提案してみたが、彼はこれを拒絶する。

 

『おれにはできない』

 

 一切の熱が消えた声音から技術云々ではないと判断し、セニョールはそれ以上の追及をやめた。

 彼もそれ以上は語らなかった。

 

『父様』

『母様』

『ラミ』

 

『フレバンス』

 

『殺してやる』『嘘つき』『みんな』『火が』『病院が』『シスター』『ごめんなさい』『かみさま』『許さない』『なんで』『おれだけ』『許されない』『ちがう』『おれのせいで』『ごめんなさい』

 

 薬剤によって無理矢理に引き摺り出された過去。譫語のごとく溢れた断片的な言葉。

 塗炭の苦しみに喘ぐ声は怒りに震え、そして次第にか細くなり、自らを責めるように消えた。

 

 伝染病と戦火により瞬く間に滅んだ美しい国、フレバンス。国外で暮らしていた市民すら発症し、政府の手により連行され姿を消したと聞く。伝染病ゆえフレバンス国民と共に暮らした者も連行の対象であり、彼らもまた、戻ることはなかった。

 

 病の恐怖と苦しみで理性をなくし連行される姿を見た他国の者は、彼らを『ホワイトモンスター』と呼んで恐れ、迫害した。

 

 もう、六、七年は前の話である。

 

 

 青年が失踪した日。

 数年前の、まさにその日。珀鉛病の根絶宣言がなされたことをセニョールは思い出してしまった。

 

 

 青年が纏う傷は今なお血を滴らせ、憎悪と恐怖は風化せずに彼を突き動かしているのだろう。

 

 少し調べればすぐに分かる。彼の姓はそこまで珍しくない。ただ、フレバンスという属性を加味すれば、浮かび上がるのは国一番の名医と謳われた医師の名だ。

 

 どこか育ちの良さを思わせる仕草に浮世離れした雰囲気。昏い眼と凄絶な行動。息を吸うように人を害し、息を吐くように人を助ける、明らかな矛盾とそのくせ強固な意志。

 

 過去と今。

 

 セニョールはここにきて初めて得心がいった。

 

 

 なるほど。

 彼はとうの昔に壊れていたわけだ。

 

 

 普通なら死んでいるところを自らの知識と悪魔の実に救われ、廃人になってもおかしくなかった心を憎悪の記憶で動かして人を害し、壊れたオルゴールのように過去のよすがに縋り治療行為を繰り返している。

 そして、その矛盾を、彼自身が誰よりも理解しているのだ。

 

「何でまた、世界なんざ壊したいんだ?」

 

 過去、青年の口から目的を聞き、理由を問うたセニョールに、彼はぼんやりと答えた。

 

「わからねェ。でも、やらなきゃ」

 

 当時は妙な答えだと思っていた。しかし、今思えばこれは真実の言葉だった。

 

 きっと、彼にはもう何も分からないのだろう。彼は人間の利己心を正しく理解し、どこかで納得してしまっている。

 迫害も戦火も、それを為した個人それぞれはただ当然の権利を行使しただけ。生存本能に従う動物として、当たり前のことなのだと。

 

 おかしいのは、集合体としての社会。

 調和を保つ世界政府。正義を背負う海軍。国を守る王族。善を尊ぶ道徳。

 その全てが虚構だと気付いた彼は、世界のシステムそのものを壊さなければならないと思い込んだのだ。

 

 だが、それを壊したからと言って、彼の心が満たされるわけでもなく、憎悪が晴れるわけでもない。

 

 気付いていないのだろうか。

 彼はもう何も望んでいない。

 

 この世界に望みなど何もないのだ。

 

 

 望みなき破壊。

 破壊を巻き起こすための破壊。

 

 それが青年の正体だった。

 

 

 翌日、自室に籠る彼に食事を運び、セニョールは悪の流儀について再び懇々と説き始めた。普段通りの態度に安心したのか、青年もいつも通り質問や珍回答を繰り出す。

 

「なァ、若よ」

「わか?」

「お前さんのことだ。跡目だから、若」

「なんだ、それ」

 

 微かに口許を緩めた彼を見つめ、セニョールは肩を竦めた。

 

「つまり、お前はまだまだケツの青いクソガキだってことだ」

「うるせェ」

「罵倒が一辺倒。減点だな」

 

 教導というより嚮導。然程年は離れていないこの幼き嵐に形を与え、ぎりぎりのところで生に繋ぎ止める。それもまた、セニョールの仕事なのであった。

 

 

 

 

 その後、時は流れ、セニョールは妻帯者となり、中核からは離れた仕事を担うようになっていた。

 それというのも、無事に頭領となった弟子がセニョールを突き放したせいである。

 

『家庭があるんだ。てめェは降りろ』

 

 偉くなったもんだ、と。

 そう言えればどれだけ良かっただろう。

 

 彼の下を離れる際、セニョールを見る金の瞳は冷えきり、時を止めていた。

 

 

 コラソン。

 あるいは、トラファルガー・ラミ。

 

 

 セニョールにとっては然程思い入れもなく、強いて言えば思い返すと煙草が不味く感じる、その程度の女だ。だが、彼女の死が主に与えた影響を思えば、なかなかくるものがある。

 

 馬鹿げた名を与え、楔をつけ、道を繋ぎ、ファミリー総出で何とか編み上げたトラファルガー・ローという虚像。それはコラソンの死をきっかけに解け、曖昧模糊とした悪の概念へと成り代わってしまった。

 

 何が変わったわけではない。

 目的も変わらない。

 

 ただ以前にも増して空虚になっただけ。

 

 トレーボルが教えた手法を昇華し、セニョールが説いた作法を忠実に守り、機械的かつ無作為に世界を圧し潰して回る。

 明確な意図などない。

 

 まさに天災のような悪。

 

 しかし、その非生物じみた動態とは裏腹に、彼は自分以外の者が喪われることを厭うようになった。

 故に、人を遠ざける。

 

 セニョールは結婚と共に指南役を下され、息子の誕生と共に幹部を外された。そして、再びフロント企業の管理へと回されたわけである。

 まあ、規模は過去とは比べようもないのだが。

 

 安心していない。

 そう言えば嘘になる。

 

 妻のルシアンは海賊を嫌っていた。セニョールは薄暗い自身の背景をひた隠し、虚飾に塗れたまま彼女と結婚している。

 嘘はともかく、虚飾は得意だった。

 

 

 

 

 ある日、担当地区を回っていたセニョールはチンピラ同士の抗争に巻き込まれ、二、三日帰宅できない状況に陥った。

 やっとのことで事態を収め、家路につこうとした時、初めて連絡に気付く。電伝虫の向こう、罵る声は涙と混乱で震えていた。

 

 最悪の想像に胸の内を掻き乱されながら嵐の中を駆け、玄関を開ける。

 そこで見たのは、予想外の光景だった。

 

 

 穏やかに寝息をたてる幼い息子。

 何度も頭を下げる妻と、彼女の頭を上げさせようとおろおろしている若い医師。

 

 乱れた息を整える間にルシアンがこちらに気付く。涙に濡れた顔は、それでも安堵の色を宿して明るい。

 対峙する彼女の変化に気付いたのだろう。医師が振り向いた。

 

「ああ、先輩。連絡がついたんですね」

 

 穏やかに微笑んだ男の顔には嫌と言う程見覚えがある。最近ではついにお目にかかることすら許されなくなった、自然で、どこにも違和感を抱かせない金甌無欠の虚飾だ。

 

「わ」

「静かに。今、寝入ったばかりなんです」

 

 男は人差し指を口許にやり、小声で制止する。人好きのする懐っこい様子で近付いてきた彼は、セニョールの耳元でいつも通りの冷えた声で言った。

 

「出来ることはした。今のところ、状態は落ち着いてる。後遺症もねェだろうから安心しろ」

「若、どうしてここに」

「とりあえず、てめェは二、三日休め。何かあれば連絡を寄越せばいい」

 

 電伝虫を通じセニョールに連絡をしてきたのは銀行員だ。勤め先と偽っていた銀行の支店長である。

 彼は『貴方の上司から頼まれた』『こんなことは金輪際やめてくれ』とひたすら恐怖に喘ぎながら訴え、息子ギムレットが危篤であることを伝えてきた。

 

「……なんと、言っていいか」

「そんな! 先輩と私の仲じゃないですか。お気になさらず」

 

 嵐に乱れへばりついたセニョールの髪をさりげなく整え、にこりと笑って見せる。

 やり口を教えたのはセニョールのはずなのだが、違和感が強すぎて目眩がした。

 

()()()()()()、どうかご家族のそばにいてあげてください」

 

 背中を押され室内に入れば、涙を湛えたルシアンが抱きついてくる。おずおずと彼女を抱きしめると同時に玄関の扉が閉まる音がした。

 

「帰ってきてくれてありがとう」

「いや……大変な時にそばにいれず、すまなかった」

「いいの。こんな嵐の中、あなただって大変だったでしょう? 帰ってきてくれただけで嬉しい」

 

 涙の浮かんだ目を細め、ルシアンが笑う。

 

 ベビーベッド脇のソファに二人で腰掛けた。手を繋ぎ、ギムレットの穏やかな寝息に耳を澄ませる内、ルシアンが経緯を話し始める。

 

 ギムレットの突然の高熱。なかなか医師がつかまらず、ルシアンは夫の助けを得ようと考え、隣人へ我が子を預け銀行に走った。

 しかし、夫は不在。『本人は出張しているが、何とか連絡をとる』と銀行員は話したらしい。

 直後、融資の相談に訪れていた若い医師が顔を出し、セニョールの後輩を名乗った。駆けつけた彼の迅速な対処によりギムレットは一命を取り留めたのだ。

 この二日の間、彼は付き添ってくれたのだという。

 

 つまり、トラファルガー・ローはセニョールの嘘が露呈するのを見越して、銀行に手を回していたわけである。

 師匠かたなしとはこのこと。

 

 そして、彼は息子の命の恩人だ。

 

「あの人、あなたに救われたと言っていたの。道を示して、踏み外すのを止めてくれたって。あなたのおかげでやりたいことをやれてる、そう言っていた」

 

 彼はあたかもセニョールが『医者の道を勧めた』かのように語ったのだろう。

 示した道は悪の花道であり、踏み外すのを止められたかは定かではない。

 

 やりたいことなど、ないだろうに。

 

 眠るギムレットの額を撫で、ルシアンが囁いた。

 

「パパが帰って来てくれたよ。良かったね」

 

 強く唇を噛み締めたセニョールを見上げ、彼女は微笑む。

 

「お礼をしなくちゃ。まずは手紙よね」

「そうだな」

「やだ。今更だけど、こんな嵐の中、一人で帰らせてしまったわ。大丈夫かしら?」

「ああ……いや、あいつは大丈夫だよ」

「そう言えば名前も聞いてないのよ。後輩さん、お名前は何て?」

「若、だ」

「わか? ワカ先生か。なんだかしっくりくる名前。少し頼りなさそうだけど誠実で優しくて。お父さんもお医者様だったら呼び名で混乱しそうだけどね」

「そうだな。本当に、そうなら……」

 

 ルシアンの声。蕩けるような、愛に満ちた声。ギムレットの寝息。確かなぬくもりと安堵。愛しい家族。

 

 きっと、彼も。

 彼も、本当ならば。

 

「ギムレット、パパのお友達が助けてくれたのよ。いつかお礼を言いに行こうね」

 

 いつかは来ない。

 来るはずがない。

 

 このままでは、トラファルガー・ローは死ぬ。あの男は自分の身を顧みず、破壊だけを求めて彷徨う嵐だ。破壊を終えた後、生き残る術など考えていない。

 

 止められなかった。

 むしろ、助長した。

 

 

 だが、まだ。

 まだ、生きている。

 

 

「ルシアン」

「どうしたの?」

 

 泣き腫らした目を丸くする妻の顔。嘘偽りのない愛が浮かぶその瞳を見つめ、覚悟を決める。

 

「話が、ある」

 

 セニョールは床に額を叩きつけ、虚飾を捨てた。

 

 

 

 

 結論から言えば、セニョールはルシアンと別れた。

 告白の直後に妻から罵られ、家を蹴り出された彼は嵐の中玄関前で謝罪し続け、最終的に高熱を出し病院送りとなる。

 

 数日後、ルシアンは回復したギムレットを抱えて病院に現れ、怒りに燃える目で結婚指環を叩きつけた。

 

「嘘つきは嫌いよ」

「あァ、分かってる」

 

 震える手で指環を外す彼を見つめ、彼女は号泣。つられてギムレットも泣く。そして、そもそも既に滂沱の涙を流しているセニョール。

 家族で泣きに泣いた後、三人は新しい約束を交わした。

 

 別れても連絡を取り合うこと。

 離れて暮らしてもお互いを想うこと。

 お互いに嘘をつかないこと。

 ギムレットを育てるために出来ることは何でもすること。

 もし、好いた相手が現れたら、

 

 その時は。

 

 再び号泣したルシアンは病み上がりのセニョールに渾身の平手打ちをかまし、勢いのままに言い切った。

 

「さっさと足洗ってうちに帰ってこないと許さないんだからね!」

 

 

 

 

 出戻りさながら帰還したセニョール。

 トラファルガー・ローは虫を見るような目で彼を見つめ、心底冷えた声音で吐き捨てた。

 

「お前、馬鹿だろう」

「……罵倒がワンパターン。減点だ」

「師匠面してんじゃねェよ。おれが減点ならてめェは父親失格じゃねェか。あの年頃の子どもにどれだけ手が掛かると思ってんだ。ケジメとか掟とか寝惚けたこと言ってねェで汚ェ足洗ってさっさと消えろ」

 

 罵倒というより単に口が悪い。

 しかし、言っていることは正論だった。

 

「時が来たらお前は消えろ」

「あァ、約束する」

「約束だからな。絶対だぞ」

「あァ、絶対だ。男に二言はねェ」

 

 直々に何度も言い含められた言葉。どこか子どもっぽさの残る口調で確認する主に、長年伏せてきたことがある。

 

『時が来たら』

 

 彼が暈して語るそれ。それは、彼の死を工程の一つに含めた破滅の到来だ。

 

 世界の破壊はいい。家族に問題がないならむしろ好きにさせてやりたい。

 しかし、死は駄目だ。

 セニョール・ピンクは認めていない。全力で阻止する所存である。

 

 つまり、『時は来ない』のだ。

 

 まあ、彼が海賊をやめてカタギになると言い出したら、それはそれだが。

 

 頻繁に妻子の元へ『出向』させられながら、再び彼と共に歩んだ十数年。

 何とか振り切られないように嵐の尾を掴んできたセニョール・ピンクだったが、ついに、嵐の方から絶縁を叩きつけられた形である。

 

「でもな。おれァまだ安心できねェんだ。お前がいつまでもボーヤに見えちまう」

 

 伊達男は煙草に火をつけ、煙をふかした。うまい。

 

「なァ、若よ」

 

 麦わらの加勢に向かおうとした鉄人が足を止める。

 セニョールはその背に一声投げかけた。

 

「鉄人、おれ達にゃ立たなきゃなんねェ時がある」

「あァ。分かるぜ、兄弟」

 

 振り返り、鉄人はにやりと笑う。

 

「────それが男ってもんだ」

 

 守るべき道があらば身を徹し、続く者に背で語ってこそ。信念が交錯すれば必然、男は対峙する。

 そういうものなのだ。

 

 目には闘志。

 そして、互いに向け合うリスペクト。

 

 

 男の戦いが、今始まる。

 





 原作のローは意外にドフラミンゴの言葉を踏襲してるところもあり、あれもまた教育の賜物かしらと思うわけですが、ifだと教師役がトレーボルなので……猫被りの師匠役をセニョールにしてもらいました。
 原作において嘘や虚飾で後悔してそうかなと考えての配置ですが、セニョールがスーツの姿のままだと格好良さが天元突破してしまうので、振り回されてるくらいで丁度かなと。
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