ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ 作:ladybug
ヴェルゴはただ拳を握り、ドレスローザを見下ろした。
ただ一つ、確かなこと
この身があるべきはお前の隣
前方に見え始めたドレスローザ。それを覆う青い被膜に気付き、ヴェルゴは小さく息を吐いた。
鬼を背に乗せここまで運んできたバッファローも同じく安堵したらしく、僅かにプロペラの回転が緩まる。しかし、次の瞬間には元通り、否、それまで以上の速度で島へと進んでいった。
「急かしてすまないな」
「この程度、まだまだだすやん!」
耳元で唸る風。
予定外の訪問に驚き、ワノ国で貸し与えられた着流しのままおっとり刀で出てきてしまった。ヴェルゴは片膝を立て、襟元がはためくに任せて白い息を吐き出す。
空の上は冷える。
無論、己にとっては訳のない寒さであるが、冷気を感じれば自然と主を思い浮かべてしまうのだ。
長年の付き合いであるはずの最高幹部、その裏切りが彼を傷付けた、とまでは思えない。裏切り者が他の誰かであれば違ったかもしれないが、相手はトレーボルである。予測は立たずとも予期はしていただろう。
否、根源の話をすれば、相手が誰だろうと関係はなかった。主が他者の行動で傷付くことなど殆どない。
トラファルガー・ローを傷付けることが出来るのは彼自身か、彼の妹のみ。そして、後者は彼に深い傷を残したものの、既にこの世を去っている。
もし、今、彼が傷付くとすれば、それは彼が自身の無力を悔いる時だけ。手が届くはずだったものを取りこぼした時。知らず胸の内に住まわせてしまった何かを失う、その時だけだ。
それでも、表面上は取り繕うのだろう。
例えば、彼の意思を離れて戦場へと変わってしまったドレスローザ。もし、この状況で彼が懇意にしていた誰か、例えば王族や教会の子どもの命が喪われたとしても、彼は何食わぬ顔でこの地を去る。
そして、一人、眠れぬ夜を過ごすのだ。
十三年前、彼の妹が凶弾に倒れた時。ヴェルゴは主の言いつけを忠実に守り海軍の任務に徹していた。
トラファルガー・ラミの動きを怪しんだ他の派閥から突かれ、センゴクが彼女に付けた監視役の一人。それが当時のヴェルゴの立場だった。彼にもまた監視がついており、誰もが皆、自由には動けない状況であったと言える。
あの雪の日、ヴェルゴは少し離れた場所から一部始終を見ていた。
一歩後退ったローの目の前で倒れるトラファルガー・ラミ。能力を展開し、彼女を診た彼の目に浮かぶ悲痛。そして、覚悟。
涙は溢れることなく、彼の妹の命と共に雪の中で凍りついてしまった。
あの日の行動を思い返す度、ヴェルゴの心中には苦々しい後悔が広がる。
己が信条を曲げてでも命を破り、あの女を殺しておくべきだったのだ。
事前に状況を共有した際、ローはどこか困ったように、到底叶わないだろうと深い諦念の浮かぶ顔でこう言った。
「最後に、会いたい」
止めるべきだった。彼のささやかな願いを踏み躙ってでも、彼自身を守るべきだった。或いは海軍の監視など振り切って、彼の代わりに手を汚すべきだったのかもしれない。
しかし、ヴェルゴはそのどれをも選べず、ただせめての抵抗として、ありのままの光景をセンゴクへと伝えたのだ。
あの日以来、ローは頻繁に寒さを訴えるようになり、伝聞で届く彼の変化にヴェルゴもまた身の凍る思いがした。
悔恨と焦燥に焼かれる内、しばらくして、彼が七武海として海軍に顔を出すようになる。
そこで目の当たりにしたのは、雪に溺れ続ける慚愧の黒。姿形は一切変化せず、服装だけが重く苦しげになっていく主の姿。
ロー自身は深く気にしていない。それでも、ヴェルゴの後悔はより一層強くなるばかりだった。
今から約二年前、海軍支部であるG-2に海賊が侵入したという報せが入った。それ自体は何でもないことであったが珍しくローが興味を示したため、情報を集めた。
“火拳のエース”、白ひげ海賊団の若き隊長格。王下七武海に勧誘されたこともある実力者。しかし、これまで接触はなかったはずだ。また、最近は突如名を上げた別のルーキーに関心を傾けていた記憶がある。
首を捻っていると、答えはG-2基地の海兵から得ることが出来た。
侵入前、とある町で溺れた火拳をミルク売りの少女が助け、そこに通りがかって処置を施した医師がローだった。
七武海として顔が割れている状態での遭遇であり、ロー本人も隠す必要を感じなかったのだろう。実際、火拳は『トラファルガー・ローもお前らのコーヒーは最悪だと文句を言っていた』など語っていたらしい。その結果、巡り巡ってミルクの買い付けのため海軍食堂の買い出し船がルルシア王国を訪れている。
海兵曰く、ルルシア王国での接触時、ローとエースは何か約束を交わしており、ローの出した条件が海軍基地のコーヒーの質改善であったとかなんとか。流石にこれは眉唾だとヴェルゴは聞き流していた。
さらに情報を集めようとしている内に、あの戦争が起こったのだ。
頂上戦争。海軍本部、支部を問わずあらゆる戦力がかき集められ、七武海も招集を受けたあの戦争が。
処刑を待つ青年が知り合いとなると万が一もあり得る。戦闘が始まる前にと、常の如く言葉を弄して意向を確認した際は、ローは特段何か動こうとしている様子ではなかった。
疑いつつも気にはなっていた火拳との約束。海兵の言はまさかの真実であったが、約束の内容は『エースの家族に一度だけ手を貸す』というもの。本人の危機に手を出すつもりはないと彼は言う。
ローを信じないわけではない。
ただ、気掛かりではあった。
「あいつら、逃げ切れるといいのにな。その方が処刑より断然面白ェ」
処刑台上の騒ぎを見上げながらヴェルゴに投げつけられた挑発に、周囲の海兵が色めきたつ。毎度の如く歪み合う演技をしつつ、その言葉の意味を考えた。
そして、気付く。
裏の意味などあるわけがない。
それは悪意や善意、はたまた企てなどとはかけ離れ、他意など何もない思い。
ただの願望だったのだ。
ヴェルゴが胸騒ぎに襲われる中、戦争は始まった。
“白ひげ”の奮う猛威、混乱する海軍、乱入する脱獄者達。火拳の義弟であるという青年は、奇しくもローが気にかけていたルーキーであった。
処刑台から逃れた義兄弟とその仲間たちが走り出す。そのまま、彼らが逃げ仰るのかと思われたその時、火拳が振り返り、赤犬を睨め付けた。
怒りと恐怖だろうか。自身が背を向けることで何かを失う焦燥。本能的な忌避感。
その在り方は、誰かに似ていた。
激しい口論に制止の声。
そして、紅く煮え滾る拳が、火拳ではなく彼の弟へと向けられる。
視界の端、異変が起きた。
戦いそのものには我関せずを貫き、治療を優先していたはずのローがゆらりと立ち上がる。
黒髪の隙間からのぞく金の輝き。歩き出そうとするつま先。持ち上がりかけた左手。感情。
彼の全てが戦場の中心へ向かっていた。
周りの海兵も海賊も、そして彼自身でさえ気付いていない。
約束、それがローを動かしているのであればまだ良かった。『一度だけ』手を貸すという条件であれば、介入の時期も引き際も選ぶことができる。おそらく、火拳本人とてそのつもりでいただろう。
だが、違う。違うのだ。
ローは今、火拳とその弟の危機そのものに反応してしまっている。
無意識に、或いは過去取りこぼした誰かの代わりに、見知った青年とその家族の命を拾おうとしているだけだ。
彼の前方、遅れて変化に気付いたミンク族の海兵が立ちはだかる人垣を掻き分け手を伸ばす。金糸のストラを掠めた指はされど彼に届かず、名を呼ぶ声が怒号にかき消された。
まずい。
止めなければ。止めなければ彼は行ってしまう。全てを無為にしても。
走る。間に合わない。声。届かない。海賊を仕向ける。有象無象が太刀打ちできるわけがない。
周りが止まって見えるほどの極限の集中、一秒を限界まで引き延ばしてもなお追いつくことのない思考。脳が焼け切れるほど回転し、瞬時に巡る策の全てが無惨に千切れ去る。
そんな中、彼だけが見えた。
鬼の子とその弟に向かう眼差し。目の前の光景への理解を拒み、声もなく上下する喉。苦痛にわななく唇。糾弾に伸びる手。何もかもを投げ去って走り出してしまいそうな足。
赤犬が拳をかざし、義弟の前に火拳が割り込むその間際。
トラファルガー・ローは息をのみ、ついに一歩を踏み出した。
咄嗟に竹竿を構え吹き矢を射出。着弾の衝撃に殴りつけられ、彼は僅かに身体を傾がせる。余程驚いたのだろう、見開かれた眼がヴェルゴを見た。
離れた場所からでも分かるほどに動揺の滲む眼差し。視線が合った瞬間、膨大な感情が彼の内を巡るのが分かった。それを振り払うように彼はゆるく頭を振り、胸の前で拳を握りしめる。
彼は戦場の中心を振り仰ぎ、僅かに眉を顰めた。
視線の先には背から腹を貫かれた青年の姿。主の力を以てしても決して助かることのない命。
ローの瞳から急速に熱が消えていく。一呼吸すら挟まず、彼は即座に青年に見切りをつけ、別の行動に移った様子だった。
時間にして二秒程。彼の動きに気付いた者など殆どいない。止めることができた。これで問題はない。ないはずなのだ。
しかし、互いの姿が黒煙の帷に消える刹那、おそらく無意識にだろう。
ローはもう一度だけヴェルゴを見た。
彷徨うような金の瞳。
それは確かに助けを求めていた。
海兵となって以来、幾度も繰り返した問いと憤りが胸の内で爆ぜる。
何故、己は彼のそばにいない。
いつもそうだ。思い返せば、彼が真に助けを必要とする時、ヴェルゴは常に彼と離れた場所にいた。
ローの能力が及ばないことなど多くはなく、力としての助けを彼は求めない。
だが、彼が人間であり、この世界が変わらない以上、逃れ得ぬ摂理がある。
謂れのない迫害、無知、天災、人災、貧困、止まることを知らぬ欲、行きすぎた正義、底なしの悪意、恭順、妥協、見て見ぬふりをする者たち。
そのうちに失われるもの。
何故、誰も抗わないのか。何故、誰も止めないのか。何故、誰も助けないのか。何故、誰も変えようとしないのか。彼の目は痛切に世界を批判し続け、その度に彼自身を傷付けていく。
彼の心が彼自身を苛む。その痛みを分け合うために『コラソン』は在ったはずだというのに。
そして今、ヴェルゴは思う。
十三年前も、十年前も、二年前も、そして今も。いつも己は出遅れてきた。
また、そばにいたからとて助けとなれない時すらあることも理解している。
燃え落ちる廃屋を前に彼を押さえ込んだ日がそうだった。妹を助けるようと火の海に飛び込まんとする彼を止めることしかできない。あの日の彼の横顔と、己の無力をヴェルゴはいつまでも覚えている。
それでも。
遠い日、ローとヴェルゴは約束を交わした。
世界を壊し地獄を共に歩む、それは誓いにも似た未来の約束。
ヴェルゴは知っている。
今なお多くの犠牲の上に成り立つ平和、それすら脆く崩れ去る砂上の楼閣に過ぎない。優雅に微睡む枕元、転がる髑髏から目を逸らし人々は泡沫の夢を見ている。
トラファルガー・ローが世界を壊すまでもなく、この世は地獄だ。
彼が手を下せば新たな地獄が生まれるのだろう。それでいい。それがどんな地獄であっても、そこに彼がいなくとも、彼が望むならばそれでいい。
極論、果てに何がなくとも構わない。
確かなことはただ一つ。
己があるべき場所は彼の隣。
それだけなのだ。
鬼を運ぶ風。
それは唸りを上げて海を渡る。
痛みを解く者。痛みを分つ者。
心の在りどころを知る者達が集う今、時を越え、歯車は動き出した。