ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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 ペンダントに指を絡め、ドフラミンゴは一人笑った。


 醜く引き攣れた傷痕をなぞるたび
 あなたの笑顔を思い出す
 
 ……訓練をサボるのはどうかと思うが



Liar,Liar,Pants on Fire.

 

 恩人との旅の最中、ちょっとしたミスから怪我をした。

 

 当時のドフラミンゴは毎日苛立っていたように思う。

 突如睡眠薬を打ち込まれて誘拐され、安全なアジトから連れ出された挙句、陰気なピエロ女との貧乏旅を強いられたのだ。これに腹を立てずして何に怒れというのだろうか。

 なんとか隙をみて逃げ出すも、何故かすぐに見つかっては引き戻され、何もかもが思い通りにいかない。フラストレーションを抱えて当然の状況である。

 

 その日は買い出しの日だった。

 目を離すと逃げ出すから。そんな理由で縄で椅子に縛り付けられて留守番を強いられたドフラミンゴは、それはもう怒り狂っていた。確かに逃げるし、毎度毎度暴れはしたが、だからといって犯罪手前どころかど真ん中の荒技で拘束される謂れはないのだ。

 

 今日こそ、あの陰気女を出し抜く。

 そして、アジトに戻るのだ。

 

 暴れた挙句に椅子ごと倒れたドフラミンゴは指先から糸を出した。まずはこの煩わしい縄を解かないことには脱走も何も夢のまた先である。

 結び目に糸を滑らせるが異様に固い。特殊な結び方をしている上に強固に絞められていた。

 

「あの女……くそ、馬鹿力め!」

 

 解くのは無理。ならば、引きちぎるしかない。糸を束ねて強度を上げ、無理やり縄と縄の隙間をこじ開ける。悪くない手答えがあった。ドフラミンゴは渾身の力を込めて糸を引く。

 ばつりと音がして縄が切れた。

 喜んだのも束の間、勢いづいた糸が跳ね、ドフラミンゴの左腕に絡みつく。慌てて腕を引いた瞬間、焼けるような痛みが走った。

 残った縄を振り解き、痛みの元を確認する。左手首に裂傷が走り、肘まで血が垂れていた。慌てて傷を押さえるが、あっという間に押さえている手まで赤く染まっていく。

 下手を打った。ドフラミンゴは舌打ちをし、あたりを見回す。包帯か、あるいは布切れでもいい。まずは止血をしなければと思ったのだ。

 

 その時、扉が軋む音がした。

 

「ただいま、いい子にしてた……なんて、そんなわけないか」

 

 部屋の惨状を見て、陰気女が大きなため息をついた。

 ドフラミンゴが自力で拘束を解いたのが気に入らないに違いない。

 今回も逃げ損ねた。苛立ちに歯噛みしながら、ドフラミンゴは背を向けて傷を隠す。

 しかし、傷を隠したところで床に溢れた血は丸見えであった。

 

「何、この血! その傷、どうしたの!?」

 

 買い物袋を放り出して喚く陰気女を睨みつけ、ドフラミンゴは吐き捨てる。

 

「どうしたもこうしたもあるか。お前のせいだろうが。馬鹿みたいに締め付けやがって」

「だからって、無茶をしたら駄目じゃない!」

 

 そっぽを向いたドフラミンゴの肩を掴み、陰気女が悲鳴をあげた。

 

「うるせェよ! 騒ぐくらいなら布でも探せ。アジトに戻ればこんな傷、ボスならすぐに──」

 

 そこまで言って、ドフラミンゴは息を呑む。

 

「……何を泣いてる」

 

 陰気女の目には大粒の涙が浮かんでいた。

 彼女は無言で涙を拭い、ハンカチを取り出す。

 傷に押し当てられた白の布はあっという間に赤く染まった。腕を持ち上げられ、患部を強く押さえつけられる。痛みに暴れるドフラミンゴを抱き寄せ、陰気女が囁いた。

 

「ごめんね」

 

 その声はか細く震えている。

 

「ごめんなさい」

 

 何がごめんだ。

 痛みのせいで滲んだ涙が溢れないように、ドフラミンゴは強く目を瞑った。

 鼻先を陰気女の髪が掠める。甘い花の香りと安い煙草の匂い。自身の血から感じる鉄くささが混じって気分が悪い。

 力を抜いたドフラミンゴは自身を抱く腕に身体を預ける。

 仕方がなかった。どうせ今日は逃げられないのだから、これ以上抵抗したところで意味はない。

 

「ピエロ女、痛ェよ。この馬鹿力が」

「ドフィ、傷を押さえて。そうよ、そう……」

 

 涙に濡れた声の指示に従う。抱き上げられ、ベッドに寝かされた。がさごそと音がする。おそらく救急道具か何かを漁っているのだろう。

 ドフラミンゴ自身でもわかる程度には深い傷だが、まさか縫うつもりだろうか。

 記憶が確かであれば、陰気女は不器用だったはずである。そもそも信用できない。任せる気にはなれなかった。

 縫合方法だけ聞けばいい。縫うのは自分でやろう。そう思いながら、ドフラミンゴは痛みを堪えて傷を押さえ続けた。

 

 

 

 

 

 甲板での一服を終え、医療室に戻る。

 ドアをくぐるドフラミンゴをちらりと見て、黒衣の男は再び視線を落とした。

 男が手にしているのは紙とペン。記録をつけていたようだ。ペンを持った手を喉元にやり、無言で自らの首を示す。

 糸をかけろという合図らしい。

 もはや仕草まで癪に触るが、自分が言い出したことだと己を宥めすかす。

 

「こいつらにはおれのことを伏せておけ。これでも一応、政府の犬なんでな」

 

 再び首に巻きついた糸を摘み上げ、男は言った。

 糸を首輪とリードに見立てた冗談なのか、本気なのか。表情が変わらないため、意図が読み取れない。

 しかし、いちいち言動の真意を探ればひどく消耗するような予感がして、ドフラミンゴはただ頷くことにした。

 

「かまわねェ。全部おれの手柄ってことにしておいてやるさ」

「それでいい」

 

 男は手を止めて記録を机上に置き、立ち上がる。

 

「おれが付き合えるのは女ヶ島に着く頃までだ。お前に今後の対処を教えておく。別室がいい。案内しろ」

「ここでいいだろうが」

「こいつらが起きると面倒だからな。異変があれば刀が教えてくれる」

 

 そう言って、答えも待たずに部屋を出ようとする男。重苦しい雰囲気に反してフットワークが軽く、何より身勝手で周りを振り回すところは昔から変わらない。ここで反抗したところで利益がないのは目に見えていた。

 ため息をつき、男を追い越し先導する。

 

 下手に会議室などに誘導してクルーと鉢合わせると面倒だ。対処のしやすい自室が良いだろうと判断し、男を招き入れる。

 部屋の内装や設備には目もくれず、男は椅子にかけた。明確に座り心地の良い方を選んでいる。

 

 確かにそれは客用だが、せめて勧められてから座れ。礼儀を知らんのか、礼儀を。

 

 ふつふつと湧き上がる苛立ちを不屈の自制心で押し殺し、ドフラミンゴは向かいの丸椅子に腰掛けた。

 

「それで。対処ってのは何だ」

「目覚めた時、確実に麦わらは暴れる。せっかく繋いだ命だ。無駄にしたくはねェだろ」

 

 聞く姿勢をとったドフラミンゴを見つめ、男は説明を始めた。

 

「時が来たらまずは能力を使え」

「縛るか? それとも手足を切るか何かして動けねェようにでも?」

「これ以上怪我を増やしてどうする」

 

 心底冷え切った目で見返され、ドフラミンゴは肩を竦める。

 この糸は引き寄せたり絡めたりはできるものの、うっかりしようものなら対象を切り刻んでしまうのだ。

 

「神経に糸を這わせ、制御しろ。ある程度でいい、完全に制御権を奪う必要はない。いや、出来れば制止してェところだが難しいだろうな」

「単純に拘束するか、全力で引っ張るってのは?」

「相手はゴムだ。振り切られるか、悪けりゃ振り回される。死にたくなければ従え」

 

 男はさも当然のように確認した。

 

「出来るな?」

「技術上は、出来る。だが……」

 

 あまり気分の良いものではない。以前使用したのも、やけになって銃を乱射しようとする警備員を止めた時くらいのものだ。

 本人の意思を無視して身体を動かす、人間性を無理矢理奪うような技。

 積極的に磨きたい技ではなかった。

 

「トラファルガー・ロー。誰も彼もがてめェのように人を操りてェとでも? 少なくともおれは違う」

 

 真っ直ぐ睨み返すドフラミンゴに対し、男は馬鹿にするでもなく淡々と返した。

 

「成程、心理的な問題か。操ると考えて手が鈍るなら、守ると考えてみろ」

 

 いつの間にか手にしたメモに何事かを付記しながら、男は目を伏せる。

 

「例えば、拘束。倫理的問題と背中合わせでありながら、身体拘束は許容され続けている。そうでもしねェと守れない命と尊厳があるからだ。拘束は患者の動きを制限することで本人とその周囲を守る技術。技術そのものに罪はねェ」

 

 抑揚を抑えた声は通常であれば眠気を誘うだろう。しかし、トラファルガー・ローの場合は違う。組織にいた頃はこの語り口調に陥落する者が続出していた。

 崇拝者曰く、神聖。

 まあ、ドフラミンゴの場合は苛立ちが高まるだけなので、全く問題がないのだが。

 

「麦わらに話を戻すが、今暴れたら傷が開くのは当然として、箍が外れて辺り一帯を潰して回るだろうな。心身の負担になる。誰かが止めてやるべきだ」

 

 男の寄越すメモを見ると、安全かつ的確に行動制限をかけるための注意書きが羅列されていた。

 思いの外乱筆で、ところどころ線が途切れる程に筆圧が弱い。

 一言でいうと下手だ。

 まさか心の中で呆れられているとは思っていないのだろう、男はドフラミンゴの目を真っ直ぐ見つめ、さらに宣う。

 

「技術だけじゃねェ。能力もイメージの問題だ。強固な檻も見方を変えれば堅牢な城になる。てめェの貧弱な考えで能力を限定するんじゃねェ。考えろ。思考は自由だ」

 

 自由?

 よりにもよって、お前がそれを語るか?

 

 せっかく煙草で落ち着いたはずが、早々に頭に血が上って目眩すら起こしそうだ。

 ドフラミンゴが反駁しないのをいいことに、男は続ける。

 

「だが、そのためには知識が必要だろうな。お前の糸もそうだ。肉体や覇気を鍛えるのも有効だが、物理法則を学べばより効率的に力を扱うことができる」

「御高説ありがてェが、その程度は考えてるさ。だが、そこら辺に都合良く滑車や支柱があるわけじゃねェだろう」

「……? ないなら作ればいい。お前は1どころか0からそれが出来る。違うか?」

 

 事もなげに言い放つ男は、自身の首にかかったままの糸に指をかけ、その感触を確かめるように弾いた。指に血が滲むが、深く切れるまではいかない。

 

「振動を加えて切断力を上げてるみてェだな。材質、粘性や硬度は操作できるか? 線は面になり、面は立体になる。さて、何が出来るだろうな」

 

 実に腹立たしい。

 腹立たしいが、男の言葉は飢える若き能力者にとって天啓に等しく、それがまた苛立ちを増大させた。

 

「よくもまあ、そこまで舌が回るもんだ。そうやって国も堕としてきたのか? なァ、“宗教屋”さんよ」

 

 “死の外科医”、あるいは“宗教屋”。二つ名の表す通り、男の歩みには死と崇拝が付き纏う。

 

 揶揄を乗せて嗤えば、男は口の端を歪めた。

 己が首を繋ぐ糸に指を絡め、ドフラミンゴを引き寄せる。

 

 溢れるのは吐息にも似た笑み。

 

「お前も堕ちるか?」

 

 冷めた眼で問い、反応すら待たず、黒衣の男は目を閉じた。

 

「疲れた。おれは寝る」

 

 暫くして微かな寝息が漏れ始める。

 息を詰めていたドフラミンゴは緊張に冷える指を握り込んだ。

 

 こちらの存在、己の首に纏わりつく糸すら全く意に解さないその傲岸さ。周囲を同じ人間とも思っていない冷徹さ。どういうわけだかあの頃と変わらぬ容姿。磨きのかかった技術と強さ。惜しげもなく知識を与えてくる姿勢。濁った眼。

 その全てが腹立たしい。

 

 そして、何より、だ。

 男の言葉に心底慄いた自分に腹が立つ。

 

 大体、この男は善意でドフラミンゴに教育を施そうとしているわけではなく、自分が去った後、患者のそばに便利屋を置いておきたいだけなのだ。

 ぎりぎりと歯噛みするドフラミンゴの耳に規則的な寝息が届く。

 

 というか、人の部屋で寝るな。

 

 額に浮いた青筋を撫で、ドフラミンゴは嘆息した。

 

 

 

 

 翌朝、ルフィとジンベエの経過を診た後、再びドフラミンゴの私室へと移動した男は出し抜けに言い出した。

 

「お前のその傷痕だが。縫合した奴が余程下手だったのか?」

 

 ドフラミンゴの左手首にはしる傷痕。皮膚のひきつれたそれは、ちょっとした能力の失敗から生まれたものだ。

 

「自分でやった。仕方なく、だ」

「下手だな」

 

 男は言う。

 その声音が馬鹿にするようなものであれば、あるいは煽るようなものであればまだ良かったのに。

 苛立ちと何とも言えぬ心地の悪さから、ドフラミンゴはまたもや奥歯を鳴らす。

 

「下手で悪かったな。おれの身体だ、傷痕なんざ別に気にしちゃいねェ」

「ちょうどいい教材がある。そこに座れ」

「はァ? 何故おれがお前に従わなきゃ」

「いちいち反抗しないと話せねェのか」

 

 このままでは早晩歯が擦り切れてなくなる。冷静さを取り戻そうと、ドフラミンゴは努めて深い呼吸を繰り返した。

 

 落ち着け自分。いつかくるその日に向けて、技術諸々盗んでやろうではないか。“怪盗”なんぞと呼ばれているのだ、それぐらい出来ずになんとする。

 

 どかりと音を立てて椅子に掛けたドフラミンゴを見つめ、男は頷いた。

 

「そう。それで良い」

 

 ごとり、と。

 

 机の上にあるものが置かれる。毎度のごとく能力を使い、いつの間にか男が手にしていたもの。それは人間の足だった。

 物理的に切り出され、能力により保存された物と思われる、謎の立体に包まれた左足。いくつかの傷があり、特に縦に裂けた傷は致命傷とまではいかないが、一時行動不能となる程度には大きい。

 この左足の先についていた人間、つまり本体のことだが、無事なのだろうか。

 ドフラミンゴが無言で机上の異物を眺めていると、傍に立った男が説明を加える。

 

「マリンフォードで海兵から預かった」

「そいつは左足なしで生き延びたのか?」

「さあな。とりあえずは別の足をつけてやった。戦場じゃ替えに困らねェからな」

 

 要は、比較的損傷が少ない死体から移植したということなのだろうが、淡々とした語り口が癪に触る。

 

「それで、助けたそいつがせっせと別の死体を作り上げるのか。結構なこった」

 

 苛立ちのまま、ドフラミンゴは吐き捨てた。男は不快を表すでもなく、平然と否定する。

 

「いや、仲間を連れて撤退するというから処置した」

「あんな場所じゃどこに逃げたって生き残れる保証ねェだろ」

「おれの後ろに下がったんだ。余程のことがなけりゃ死にはしねェ。この足も後で付け直してやる予定だ」

 

 鼻白むドフラミンゴに視線一つ傾けず、黒衣の男は続けた。

 

「球蹴りが趣味だとか言っていたからな。多少動きづらくともてめェの足の方がいいだろう」

 

 そう。人を人とも思っていないような行為を繰り返す傍ら、当然のように治療を施し、命を、時に誇りすら護る。敵に対してだけ凶悪なのであればまだ良いが、この男の場合、本質的には敵も味方もないのだからいよいよもって判断に困るのだ。

 これから壊すものと既に壊し終えたもの。治療が必要なものとそうでないもの。ほぼその二点の差しか認識していない。過去においても、ここ数年でかき集めた情報においてもそれは変わらなかった。

 尤も、麦わらは例外のようだが。

 鈍く光る金の眼に兆す暗い熱。どこか期待にも似たそれは、己には決して注がれない視線だ。

 ドフラミンゴを見る眼は相変わらず芯まで冷えており、机上の左足を指しての高説だけが続く。

 

「まずは軽傷から。皮膚の構造だが────」

 

 

 

 

 その後、海兵の左脚をモデルに座学を聞かされ、縫合練習キットを使用してまで修錬をつまされたドフラミンゴは、めきめきと上達する己の技術を呪い、頭を抱える羽目になった。

 

 この大悪党、字は壊滅的に下手だが、指導は神がかって上手い。

 

 ちなみに、ドフラミンゴの拙い縫合技術の元となったのは、恩人から得た知識である。

 彼女は抜けたところのある大人ではあったが、幼少時医療技術者に囲まれて育ったこともあり、血や怪我への耐性が強かった。だからこそ、彼女が述べる縫合方法も正しいものだと思い込んでいたのだが。

 彼女が嘘をついて適当に教えていたわけではない。ただ間違って覚えていただけだ。そこに悪意はない。

 彼女は根っから善性の人だった。

 ただ、門前の小僧に真の技術は宿らない。それだけの話。

 さらに言えば、恐らくではあるが、恩人は海軍で応急処置の訓練をサボっていたのだろう。そう、その程度で彼女の善性は揺らがない。揺らがないのだ。

 

「次はこれだ。さっき教えた通りにやってみろ」

 

 縫合キットで練習を重ねる間、常とは違う、子供に教えるような、どこか柔らかな声音で男が囁く。

 

「そうだ。いいぞ、その調子だ。うまいじゃねェか」

 

 ゆったりと褒めるテンポ。

 それが記憶の中の恩人に似ていることに気付いてしまい、複雑な気分になった。

 馬鹿にしているのかと心の中で悪態をつくが、実のところ、男の声音からはそんな意図などかけらも読み取れない。

 想起されるのはむしろ、記憶の中の父母が己と弟に向けていたもの。ドフラミンゴはそれが愛と呼ばれることを既に知っている。

 もちろん、トラファルガー・ローともあろうものが、記憶にこれっぽっちも、全くもって一片の毛ほども残っていないどこぞの馬の骨であるドフラミンゴに対し、そんな感傷を覚えるはずがない。

 つまりそれは、彼自身も忘れた、彼自身が子供だった頃の記憶からふいに溢れでたものなのだろう。

 

 この男の内にもあるのだろうか。

 愛された記憶の名残が。

 

 ちらりと覗った先、その瞳は鈍く虚なままだった。

 

 

 

 

 女ヶ島に到着後、トラファルガー・ローは夜明けと共に姿を消した。医療室に出向き、大太刀がないことを確認して初めて確信を得た形だ。

 挨拶もなく忽然と消えた糸の先に、そんなもんだろうな、などと妙に納得してしまい、ドフラミンゴは頭を抱えた。

 

 毒されている。

 

 何にせよ、女ヶ島での停泊許可は既に降りており、あとは麦わら達が意識を取り戻すのを待つだけだ。

 欠伸を噛み殺しつつ朝食に向かうと、シャチやペンギンなどのクルー数名が既に準備を済ませており、食卓には温かなスープやパンが並んでいた。

 

「おはようございます、キャプテン。一人ですか? トラファルガーは?」

「帰った」

「あら。じゃあ、朝食余っちまいますね。おーい、おにぎり食べる奴ー?」

「はーい! ていうか聞いてよ、キャプテン! さっきトラファルガーがいきなりおれのことモフモフしてそのままどっか消えてさ、失礼しちゃうよね」

「ジャンバールも身体触られてたよな。大丈夫か?」

「奴隷時代の薬の後遺症がないか確認されただけだ。ご丁寧に解毒効果のある薬まで渡されたが、飲むべきだろうか」

「うーん。キャプテン、どう思う?」

「……薬は、飲め。用法用量だけ守って、奴の他の言動については深く考えるな。理解しようとするだけ無駄だ」

「キャプテン、なんかやつれてます?」

 

 クルーの肝が据わっているようで頼もしい限りだが、緊張感がなさすぎる。

 相手は仮にも七武海、独自の支配圏を持つ強大な海賊なのだ。

 もう少し教育すべきか、とドフラミンゴがこめかみを揉んだ次の瞬間、下階から爆音が響いた。激しい振動が食堂にまで伝わり、柱が撓んで音を立てる。

 

「ぎゃー! 麦わら何すんだやめろォ!」

「キャ、キャプテーン! 船に穴が!」

「ルフィ君、いかんぞ!」

 

 医療室方面からクルーの絶叫、さらにはジンベエの声が上がり、破壊音と振動が徐々に移動し始めた。

 よろけたイッカクを片手で支え、ドフラミンゴはため息をつく。

 

 始まったか。

 

 

 

 

 その後、慟哭を引き連れ女ヶ島を破壊して回ったルフィだったが、ジンベエ渾身の語り掛けによりどうにか我を取り戻した。

 顔をぐしゃぐしゃにして泣き喚く少年の姿から視線を外し、ドフラミンゴはサングラスの位置を正す。

 このまま見ていると、己の内から何かが溢れそうだったのだ。

 トラファルガー・ローは傷への影響を第一に考え、制御を命じた。しかし、言葉に出来ない思いを溜め込めば何れ毒となることをドフラミンゴは知っている。だからこそ、折衷案として動きをそのものを制止するのではなく、さりげなく方向を逸らし傷が開きかねない動きのみ制することにしたのだが。

 かえって疲れるものだなと天を仰ぐ。

 

 仲間の名を叫び、会いたいと叫ぶ少年。

 

 その声を聞き、ドフラミンゴは口の端を上げた。会いたい奴がいるなら、前に進める。会えなくなった者の記憶を胸に抱き、己が足で歩いていけるはずだ。

 

 恥も外聞もなく泣くルフィのそば、どっしりと腰を下ろすジンベエと目が合った。感謝の込められた目礼に片手をあげて応え、一足先にその場を後にする。

 

 泣ける時には泣けばいい。どうしていいか、どうしたいかも分からず破壊衝動に囚われ続けるより、空っぽになるまで泣く方が余程いい。

 ただ、それは他人が眺めていいものではないと、ドフラミンゴは思うのだ。

 

 

 

 

「レイリーのおっさんと、ミンゴ! 何でこんなとこにいるんだ?」

 

 しばらくして、ジンベエに背負われ戻ってきたルフィが目を丸くして言う。その顔色と表情がマシなものになっていることにどこか安堵しつつ、ドフラミンゴは眉間に皺を寄せた。

 ちなみに、冥王はドフラミンゴが戻った時には既にいた。クルーが身を寄せ合って遠巻きにする中、海水に濡れた身体を拭く冥王を見て、世界の狭さを呪ったものだ。

 それはさておき、麦わらが戻った今、ここが恩の売り時である。

 

「『何で』とは随分なご挨拶じゃねェか。誰がてめェを助けたと思ってんだ?」

「誰だ? レイリーのおっさんか?」

「おれだよ! 何で今の流れで冥王だと思った⁉︎」

「そっか! ミンゴ、ありがとな! 助かった!」

 

 思わず素で突っ込んでしまったが、素直に受け止められてしまい鼻白む。

 さらには義理人情が着物を羽織って歩いているようなジンベエに頭を下げられ、おまけに何か察しているらしい冥王が片眉を上げて興味深げにみているものだから、壮絶に居心地が悪い。

 確かにマリンフォードでは助けに入った。しかし、あの海兵の叫びと四皇の乱入、さらにトラファルガー・ローの横槍がなければ、逃げ切ることすらかなわず海の藻屑となっていたのは想像に難くない。そもそも、逃げたところであの負傷をどうにかできるほどの技術などあるわけもなく、今思えばいくらなんでも無謀だった。

 

「どうした、ミンゴ。変な顔して」

「いや……」

 

 もしかすると、己の短慮でこの男をうっかり殺しかけていたのでは?

 

 じんわり冷や汗をかくドフラミンゴを見て、ルフィが笑う。

 

「へんなミンゴだなー」

「お前がおれの何を知ってる」

「ミンゴはいい奴だ。な、ジンベエ」

「そうじゃな。皆が我を見失う地獄の中、彼はお前さんを助けるために命懸けで飛び込んできた。あの戦火にあって、お前さんだけでなく、見ず知らずのわしまで救うとは見上げた男よ。半死半生のわしらを連れて見事逃げ切り、ここまで回復させてみせるとはなんとも天晴れじゃわい!」

 

 澱みなく一息に言い放つジンベエの真摯さがドフラミンゴの精神を追い詰める。もしやわざとではと疑うが、強面のわりに柔和な瞳は青空のごとく完璧に澄み渡っていた。

 後ろで冥王がふるりと口の端を揺らしている。この海のビッグネームは大概タチが悪い。タチの悪さにバリエーションがあるところも含めて最悪だ。

 もうこれは勢いで流すしかない、とドフラミンゴは勢いよく立ち上がった。

 

「フッフッフ! 誰がそんな得にもならねェことをすると思う⁉︎」

 

 唐突な大音声にキョトンとする二人に対し、ドフラミンゴは『うさんくさい』『悪人面』『チンピラ』などと世間で酷評される笑顔を向け、ヤケクソ気味に指を突きつける。

 

「残念だったなァ! てめェらはおれに返せねェほどの借りを作った! さァて、どう搾り取ってやるか今から楽しみだ!」

「まかせろ! ミンゴが困った時は絶対に助けてやる! 約束だ!」

「命を助けられたからのう。全霊で返す所存じゃ」

「フッ⁉︎ フッフッフ……フッフ……」

「キャプテン、もうやめなよ。変に悪ぶったって絶対通じないよ、こいつら」

 

 ベポにまで嗜められ、立つ背がないどころか船長の威厳まで失墜しかけている。

 ルフィを糸で制御した時以上の徒労感に襲われ、ドフラミンゴは力なく笑った。

 しかし、だからといってこのままではいたくない。

 さらに言えば、全く根拠はないのだが、誤解されたままにしておくと何かとんでもない困難に巻き込まれるような、有り体にいえば嵐の予感がする。

 その被害は売った恩より遥かに高くつく。そんな気がしてならない。

 

 そうだ。なすりつけよう。

 

 関与を伏せろとは言われた。己もそれを承諾した。しかし、お互い海賊なのだ。そうでなくても、裏切り裏切られてが世の常である。

 あと、自分は“怪盗”らしいので。嘘つきは泥棒の始まりというくらいだし、逆説的に、怪盗なら華麗に嘘をつくくらいはしてもいいはずだ、多分。だから、あれは嘘だったのだ、きっと。どうせ、あの男も信用なんぞしてないだろう、いけるいける。

 

 心中、大変に無理のある言い訳をしつつ、ドフラミンゴは咳払いと共に居住まいを正した。

 

「麦わら、ジンベエ。お前らを助けたのはトラファルガー・ローだ」

「とらふぁる? 何だそれ」

「トラファルガー・ロー。王下七武海の一人で、医者だ。瀕死のお前らを助けたのはそいつだ」

「えー、お前が助けてくれたんじゃねェのか。ミンゴ、嘘ついたのか?」

「いや、マリンフォードでお前さんを助けに駆けつけたのは彼じゃぞ。わしがこの目で見ておるからな、間違いない。彼がわしらを連れて逃げ、トラファルガーが治療を担当した、そう言うことじゃろう」

「そうか。ミンゴととらふぉ、とら、トラ男もおれを助けてくれたんだな!」

 

 やはりわざとなのでは?

 

 ドフラミンゴはジンベエを睨むが、義に生きる男には通じない。何なら『謙虚な御仁じゃのう』などと思われているのではないかというほどに好感触だ。

 軌道修正もあえなく失敗し、ドフラミンゴは空を仰ぐ。嵐とは程遠い晴天が広がり、良い昼寝日和だ。

 

 何もかも忘れて一日中ごろごろしたい。

 

 ドンキホーテ・ドフラミンゴに停滞はないが、時に休息は必要だ。

 

「帰りてェ……」

「大丈夫? モフモフする?」

 

 座り込んで項垂れるドフラミンゴの傍ら、ベポが腕を広げて提案してくるが、余計に空しくなるのでやめてほしい。

 

 麦わらは話を聞かないし、ジンベエの視線からは好意しか感じない。成り行きを見守る冥王の泰然とした様子も気に触るし、ベポの哀れみの目が胸にくる。

 そもそも、トラファルガー・ローの強制講座の疲れが全く抜けていない。

 さらに現実は残酷なもので、遠くから麦わらを呼ぶ海賊女帝の声まで聞こてきた。

 

 全く、人助けなどするものではない。

 

 嫌な予感に顔を顰めつつ、ドンキホーテ・ドフラミンゴはこの日何度目かのため息を吐いた。

 

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