ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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 地下道にて、ドフラミンゴとヴェルゴは対峙する。


 笑え
 笑い飛ばせ
 今、ここにおれがいる
 それこそがあの人の愛の証明だ




think of you

 

 

 地下道の奥深く、鬼が一人。

 

 主の命により来訪者を迎え討つべく、彼は目を閉じてただ待っていた。

 地表の動乱とはかけ離れた静けさの中、思い返すのは幼い頃の記憶だ。

 

 

 

 

 ヴェルゴはファミリーで唯一、ローの過去を知っている。

 元組織長であるトレーボルは調べをつけているかもしれないが、ローから直接事情を聞かされたのはヴェルゴだけだ。

 

 互いに幼かったあの頃、熱に浮かされるように、ローは語った。

 

 珀鉛病のこと。フレバンスのこと。

 その目で見た地獄。

 やっとのことで連れ出した希望。

 

 そして、妹。

 大切な妹のこと。

 

 彼女を助けなければならない。どんな手を使ってでも、自身の全てを、命を賭けてでも、絶対に助けなければならない。

 

 病み上がりの少年から垂れ流される必死の口上に気のない返事を返す。

 伝わっていないと思ったのか、ローはさらに言い募った。胸元で揺れるペンダントらしき何かを両手で強く握り、彼は言葉を重ねる。

 

「病気のことなら安心してくれ。うつらない。本当だ。おれの父様は国一番の名医で、おれも医者を目指してた。だから、分かるんだ。本当なんだ」

 

 何を疑うでもないヴェルゴへと彼は語り続けた。幾度も言葉を変え、繰り返し。

 

 周囲の無知から危機に晒され続けるローと、無知だからこそ彼を助けたヴェルゴ。黙っていればいいものを、ローはヴェルゴに対し全霊をかけて言葉を紡ぐ。

 後から思うに、それは彼の誠意のあらわれだったのかもしれない。

 真実を知ったヴェルゴから石を投げられようとも、恩人である彼が何も知らぬまま不利益を被ることのないように。

 或いはただ、理解してほしかったのか。

 

 だが、ローはたったの一度も『信じてくれ』とは言わなかったように思う。

 

 今では一言一句聞き漏らすことなど許されない主の言葉。それも当時のヴェルゴにとってはどうでもいい音の羅列にしか思えなかった。

 何せ、医療にはとんと縁がない。死など日常茶飯で、病に罹ろうが罹るまいが人は死ぬ。未知の病ともなればお手上げだ。病で死ぬか、バレて殴り殺され死ぬか。行き着く先は同じである。

 

 しかし、何にせよ今は生きている。ならば、病を隠すしかないだろう。難を言えば、病が外見に表れる点。それでも布で覆えば誤魔化せる。

 問題ないだろう。外の人間はわざわざドブネズミを注視などしないものだ。ネズミの体皮が白かろうが黒かろうが斑だろうが気にも留めない。

 当然である。ゴミ溜めに棲む害獣を見て気分を害するくらいならば、区画一画丸ごと焼き払う方がいくらか健康的なのだから。

 

 無論、外がどうあれ、スラムの住人にとって病の流行は一大事だ。ただ、当時のヴェルゴは自暴自棄となっており、心底どうでもいいと感じていた。

 御託はいい。

 今生きているのだから、と惰性で尋ねる。

 

「熱は下がったのか」

「え?」

「熱が下がったなら狩場を教えてやる。取り分なら心配ない。ちょうど一人減ったところだ。何とかなるだろう」

「一人減ったって……」

「友人がな。そこの藁と布、持っていっていいぞ。もう使う奴もいない」

「友達が、死んだのか」

「ああ。殴られて、打ち所が悪かった」

 

 ローが閉じていた目を見開いた。病に冒され、つい数瞬前まで伏せっていたとは思えないほどに強く光る瞳がヴェルゴを見つめる。

 思わず狼狽えるヴェルゴに、ローは言った。

 

「辛かったな」

 

 白く熱い手がヴェルゴに触れた。

 色の抜けた指でヴェルゴの手をゆっくりと摩り、彼は静かに繰り返す。

 

「辛かったよな」

 

 恐らくだが、その瞬間、ローは何も考えていなかった。その頃の彼は何かを考えられるほど強くあれず、何も考えられないほどに疲弊し切っていた。

 ただ、目の前にいる人間が苦しんでいる。そう感じ、自然に身体が動いてしまったのだろう。

 

 触れた手がじわりと熱を拾う。

 

 

 これは、なんだ。

 

 

 押し潰されたように胸が痛み、思わず押さえようとした。しかし、肝心の手が塞がっている。

 ヴェルゴが身じろぎしたことで我に返ったのか、ローは青褪め狼狽えた。

 

「あ、ご、ごめん! 気持ち悪いよな」

 

 慌てて指を解いた彼は視線を彷徨わせ、誤魔化すように唇を歪める。そして、震える手を開き、血の気の引いた顔で無様に笑った。

 

「大丈夫。触ってもうつらない。本当だ」

 

 どうすればいいのかわからず、何も言えない。

 ヴェルゴの戸惑いを拒絶と受け止めたのか、ローは唇を噛み締める。暫く黙り込んだ後、彼は消え入るような声で呟いた。

 

「うつらない。本当だ。本当なんだ。嘘じゃない。うそなんかじゃ……」

 

 開いてみせた指が力なく縮こまる。俯いた顔の下、丸い金の光が胸で揺れていた。

 縋るようにペンダントを握ろうとした白い指を見つめ、衝動的に手を伸ばす。

 

 触れればこちらまで焼けるような熱い指。病の辛さを物語るその指を握って手を引き、逃げようとする彼と額を合わせる。

 

 目を閉じた。

 

 

 熱い。

 

 

 死んだ友は一晩かけて冷えていった。寒い寒いと言い続け、最期には言葉も失くして、指先から紫色に変色していった友。

 ありったけの藁と布をかけても彼の熱を留めおくことはできず、ヴェルゴは彼の死体を町外れの穴へと放り込んだ。

 

 その時からずっと、指が冷たい。

 瞼が重く、凍えるようだ。

 

 一人では忘れられないのかもしれない。

 胸を刺す生々しいこの冷たさを。

 

 ローはもう、何も言わなかった。

 ヴェルゴもまた、何も言わなかった。

 

 ただ互いに手を取り、額を合わせる。

 

 痛み、苦しみ、不安。哀しみ、寂しさ、虚しさ。

 未だ幼く脆い人の心では抱えきれない、その全てを分かち合うように。

 

 

 

 

 

 鍛え上げられた身体に簡素な着流し。目元を覆うサングラスとそれでもなお隠しきれないほどの憤怒。

 管理小屋とは逆側の通路。果ては王宮へと繋がる道に鬼はいた。

 扉の前に立ち竹竿を床に打ちつけたヴェルゴは、目前に広がる暗闇を睨みつける。

 

 主の命を受け、背に守るは『眠りの家』。二代目コラソンの墓所だ。

 

 例えばの話だが。

 主がただ、安息の地、或いは亡骸を守れと命じただけならば、ヴェルゴはここまで苛烈な感情を見せてはいなかっただろう。それだけの命ならば、臍を噛むことはあったとて反論などせず従った。

 だが。

 耳に残り、目に焼き付き、触れる熱すら忘れられない、主が願う様。過去から今に渡るまで願い続け、裏切られ続けてきたその眼をまざまざと思い出し、握り込んだ拳から血が滴る。

 

 主が真に願ったのは遺体の保護などではない。ドフラミンゴの制止だ。

 

 ドンキホーテ・ドフラミンゴ。

 トラファルガー・ラミの誇り。彼女がローに背を向けて選び取った未来。

 彼女が命を賭して守った宝物。

 

 何を考えたか、ドフラミンゴは今、墓所の破壊を狙っている。それに気付くやいなや、もはや縋り付くような有様でローは言った。

 

『あいつにラミを傷付けさせないでくれ』

 

 トラファルガー・ラミは、ローにとってかけがえのない宝だ。一時も忘れることすらできず、縛り付けられたように守り続けてきたはずの彼女の亡骸を指し、彼は告げた。

 

『もし、止めきれないと思った時は、ヴェルゴ、お前が代わりにやってほしい。ラミがいたことなどあいつに分からないように、跡形もなく徹底的に』

 

 己が宝を壊せ、と。

 ローはそう願ったのだ。

 

 主がきつく掴んだため皺になった袖。そのざらついた感触に意識を取られ、ヴェルゴは拳に力を込める。

 

 ただ任された仕事を全うする、それでいいはずだ。問題ない。ドフラミンゴを制せばローの宝も心も守ることが出来る。

 そう自身に言い聞かせ、雑念を追い出そうと頭を振れど、懇願の色を帯びた声が耳から離れない。

 

『あいつだけは駄目だ。あいつにだけはラミを傷付けさせたくない』

 

 ラミが命を賭けて守った宝を汚すわけにはいかない。ラミはそんなことを望むはずがないから。

 

 ローは譫語のようにそう言った。

 

 彼はドフラミンゴを通し、トラファルガー・ラミの幻影を見ている。

 被差別者であった元天竜人の少年を助けたい一心で彼女は動いた、そう思い込もうとしている。

 真実を十二分に理解していながら、自ら耳目を閉ざし彼女の『正義』を信じている。

 

 今も、まだ。

 

 

 忌々しい。

 

 コラソン。

 否、トラファルガー・ラミ。

 

 彼の傍に在って裏切るだけでは飽き足らず、死してもなお彼を苦しめるなどと。

 

 

 闇の中から若き海賊の姿が現れる。彼は引き攣った笑みを浮かべ、足を止めた。サングラス越しの目はきつく眇められ、ヴェルゴを見つめている。

 

「どうした。まるで幽霊でも見たような顔をして」

「薄暗い地下通路に筋肉達磨の幽霊ってのは斬新だが些か風情にかける。雇い主のセンスが疑われるな」

「墓場に幽霊が出るのは然程不思議ではないと思うのだがね」

「墓場……?」

 

 眉間に皺を寄せたドフラミンゴが掠れ声で呟く。まさかとは思うが、この先に何があるのか把握していないのだろうか。

 笑わせる。

 溢れそうになる憤怒を笑みで押さえつけ、ヴェルゴは両腕を広げた。

 

「ところで、ドフラミンゴ。お前をもてなすためにわざわざ化けて出てきてやったんだ。少しばかりは歓迎してくれてもいいんじゃないか」

「喜んでるさ。二度もお前を殺せるんだからな」

「ああ、確かに鼓動が早い。満足してもらえて嬉しいよ。実にやりがいがある」

 

 鼻白むドフラミンゴに肩を竦めてみせ、ヴェルゴは嘯いた。

 

「それにくらべ、海軍なぞ虚しいものだな。あれほど可愛がってやったというのに部下の一人も見舞いに来ないのだから」

「見舞いか……後学のために一体どこにお隠れだったのか教えてもらいてェもんだ」

「亡者の棲まう場所など決まっている。地獄だよ。ここと何も変わらない、ありふれた場所だ」

 

 牽制に放たれた糸を竹竿で絡め取る。引き合う力は完全に拮抗し、互いに微動だにしない。

 糸束が不穏な音を奏でて千切れ、跳ねた金糸がヴェルゴの頬を掠めた。流れる血を親指で拭い、竹竿の先を床へと叩きつける。

 

「ドンキホーテ・ドフラミンゴ。ここから先は関係者以外立入禁止だ。羽虫一匹通さないようにと仰せつかった」

「負け犬風情が随分とイキがってくれるじゃねェか。パンクハザードのことはもう忘れたか? もっと派手に刻まれてェなら止めはしねェがな」

 

 減らず口を叩けど額には汗。サングラスの奥の瞳は彼我の実力差をはかり、突破口を見つけようと眇められている。

 互いに負傷はあれど、ワノ国で休養していたヴェルゴに比べ、直前まで駆け回っていたドフラミンゴの疲労度は高い。

 ましてや、今の己は主直下で動いている。この意味が分からないほど目の前の若者は愚かではないのだ。

 

「おや。そう言えば、今日はスモーカーくんがいないようだが?」

「犬は好かねェんでな。喰いでがない上に鳴き声が煩くてかなわねェ」

「ならば、他の海兵でもたらし込んだか? お前は昔からそうだったな。今もなお、海賊のくせに海兵と手を組んで彼の邪魔をする」

「……コラさんが海兵だったことは関係ねェ。あの人は海兵じゃなくてもおれを助けてくれたはずだ」

「あれが海兵でなければ、彼はとっくの昔に目的を達していただろうよ」

「死ぬことで、か?」

「ああ」

 

 簡潔にすぎる返答を受け、ドフラミンゴが掌で自らの顔を覆い呻く。指の隙間からのぞく額には血管が浮き出ていた。

 射殺すような、糺弾の視線が注がれる。

 

「止めてやるのがお前の仕事じゃねェのかよ」

 

 一瞬、視界が暗くなった。

 

 右手に灼熱。

 

 何事かと思い視線を落とせば、手が赤に染まっていた。己の血ではない。だが、指の骨にヒビが入っている。自身が何かしたのは間違いないのだが、状況を把握するための思考が回っていない。

 ふと視線を巡らせればドフラミンゴが倒れていた。頭部から少量の血。サングラスにヒビが入っている。意識は明瞭な様子でダメージとて然程響いていない。

 当然だ。武装色すら纏わない、ただの殴打だったのだから。

 

 遅延した思考で冷静に状況を把握する最中にも意志を離れ四肢が動く。

 執拗な殴打と蹴り。鼻をつく血の匂い。肉を殴る生々しい感触。

 

 この男も、あの女も、何も分かっていない。

 理解しようとしていない。

 

 ローが死を選ぶこと。ヴェルゴはその選択自体を否定しない。彼の死を以て彼の目的は達される。彼が望むならそれでいい。

 

 だが、選択の理由については納得していないというのも揺るぎない事実だった。

 

 ローが己の死を決定付けたのはコラソンのためだ。

 

 彼女がいなければ。

 彼女さえ現れなければ、ローは別の方法を主軸に据え続けていただろう。

 死を選ばないでくれとファミリーの誰かが頼めば、惰性であれなんであれローは必ず別の方法を選んだ。

 

 

 彼女が。

 コラソンが。

 

 トラファルガー・ラミこそが。

 

 

 あの女がローを殺すのだ。

 

 

 再び沸騰する脳髄に従い拳を振るった。皮膚を破る音。骨を砕く感触。諸共に砕ける己の拳の痛み。

 無様な戦い方だ。適切な制圧とはかけ離れ、力任せに殴り続けるだけの醜い暴力。この行為が紛れもなく八つ当たりであると気付いていながら、だからこそ止まれない。

 

 肩で息をする。荒れる呼気を整えることすら出来ず、感情のまま吐き捨てた。

 

「お前達はいつもそうだった。何も見えていない。いや、見ようともしない。彼のことなど何一つ理解しようとしなかった」

 

 コラソンは。

 彼女はローに背を向け逃げ出したのだ。

 

 恐怖に負け、不安に負け、己の無力に負け、重圧に負け、現実に負け、ローの優しさに負け、手前勝手に圧し潰された。

 それはきっと、ロー自身が望んだことではあったが、『コラソン』の取るべき行動では決してなかったはずだ。

 

 彼女が、彼女だけがローの救いだったというのに。

 

 トラファルガー・ラミは盲目の正義に身を委ね、真に救いを求める者を見捨てた。

 その彼女が大切にしてきた宝が今、ヴェルゴの前に転がっている。

 

 どろりとした感情が胸に溢れた。

 

 嫉妬というには冷静で、怒りというには平坦で、嗜虐というには遊びがない。

 言うなれば、それは破壊願望。

 ただ、壊したい。

 そんな思いが身体中を暴れ回り、内側から背を殴り付けては臓腑を焼き焦がし、どうしようもない衝動を伴って溢れ出す。

 ヴェルゴは場違いな充足感に唇を綻ばせた。

 

 何故ならば、きっと。

 きっと、これは、この感情は。

 彼の抱える思いに似ている。

 

 規模は違う。経緯も全く似通っていない。彼のような高潔さなどどこにもない。

 だが、それでも、この感情があれば、彼の一部を理解できる。苦しみを知ることができる。

 

 それでいい。

 それで十分だった。

 

「ドフラミンゴ。コラソンが海兵でなくともお前を助けたとそう言ったな。そんなはずはない。あの女はそんな人間ではない」

 

 咳き込むドフラミンゴを蹴り飛ばし、衝動のままに事実を告げる。

 

「あの女には真実を見る眼がない。だから、お前がローの計画の鍵だと勘違いした。お前さえいなければローは足を止める。あの女はそう思い込み、お前を連れ出したんだ」

 

 反論しようとしたのだろう。ドフラミンゴは薄く口を開き、しかし唇を噛んで黙り込んだ。歯の隙間から溢れた血が顎を伝って床を汚す。

 ひび割れたサングラスの奥、眼だけは強く光り、ヴェルゴを睨みつけていた。

 

「哀れにもお前はあの女に利用された。それだけだ。そして、あの女は見立てすら間違っていた。お前達の旅は徹頭徹尾無意味で無価値だった」

 

 紛れもない真実ではあるが、ドフラミンゴに真偽が分かるわけでもない。彼にしてみれば謂れのない罵倒であり、根拠のない断定だ。当然激昂するだろうと踏んでいたのだが、反応はなかった。

 訝しみながらも言葉を重ねる。

 

「お前には何の価値もない。ローにとっても、あの女にとっても、お前は代用品にすらなり得ない。塵芥の分際で彼の道を穢すなど許されるものか」

 

 ドフラミンゴが俯き、胸を押さえた。

 血反吐と共に吐き出すのは昏い声。

 

「二人にとって何の価値もない……代用品にもなれない、塵芥」

 

 ドフラミンゴは口を閉じた。

 溢れる激情を堪えるように、暴れる毒を飲み込むように、そして誓うように。

 

 シャツの上から何かを握り込み、顔を上げる。

 

 吊り上がる口の端。

 燃える瞳。

 

「そりゃあ自己紹介か? 初代コラソン」

 

 ドンキホーテ・ドフラミンゴは歯を剥き出し、凶悪な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 襲いくる竹竿を受け止める。骨が軋んで悲鳴を上げるが、引くわけにはいかない。

 竹竿を跳ね除け、ドフラミンゴは立ち上がった。

 

「全ては勘違いだった? 代用品にもなれない? 何を今更ほざく。そんなことはハナから分かってんだ」

 

 敢えて嗤う。顔が引き攣っていることを自覚し、無理矢理顎を引き上げた。

 

 徹して傲岸に。

 あくまで不遜に。

 何があっても、ドンキホーテ・ドフラミンゴは前を向かなければならない。

 

 今更。本当に今更だ。

 

 コラソンは海軍のスパイとして元天竜人の少年に接していただけ。兄の暴走を止める一手としてドフラミンゴを連れ出した。

 仕組まれた罠にかかって勘違いした上、兄を正面切って止めることが出来ず、その手で終止符を打つことも出来ず、やぶれかぶれで取った策がドフラミンゴの誘拐だ。

 その時の彼女は混乱していたし、ドフラミンゴ自身に興味など持っていなかった。兄によく似た、懐かしくも悍ましいトラファルガー・ローというバケモノに怯え、責務から逃げ回るだけの無力な女だった。

 ドフラミンゴもまた、誰に期待されるわけでもなく、常に怯え、得ていた空虚な栄華すら奪われ、どうしようもない悪を抱えた無力な子どもだった。トラファルガー・ローとは違い、慕い愛される素質などどこにもない、根本から醜悪な存在だった。

 

 だが、それも過去のこと。

 

 旅の最中であればまだしも、ドフラミンゴは既に事実を受け入れ消化している。改めて他者の口から聞かされたことで幾分傷付いたのは事実だが、だからといって折れることはない。

 

 何故ならコラソンは全てを打ち明けてくれたのだ。

 ドフラミンゴが父親殺しを打ち明けた日。彼女は彼女の罪をも告白した。

 悪を騙り、正義を騙り、何にもなれず、決めたはずの目的すら誤魔化し続けてきた彼女は、ドフラミンゴのためだけに全てを話してくれたのだ。

 

 彼女は、ドフラミンゴと同じく怯えながら、己の内を晒し心を見せてくれた。

 

 変われる。

 変わっていける。

 

 それはきっと、彼女が自身に言い聞かせてきた言葉だったのだろう。

 

 ドフラミンゴは知っている。

 彼女が教えてくれた。

 

 人は変われるのだ。

 

 全てを打ち明け、涙に溺れた夜明け前。

 偽りで満ち、曇りに曇った心を空にして迎えた朝。

 差し込む光の中、浮かべたあの笑顔が。

 

 涙と後悔に汚れ、どうしようもなく弱々しい、無様な笑顔こそが。

 

 

 ドフラミンゴを救った、彼女(コラさん)の愛なのだから。

 

 

「確かに、おれはあいつとは違う。あいつにとっては何の価値もないただのガキで、本来はコラさんに愛されるような人間でもねェ。だが、だから何だ」

 

 額を汚す血を拭い、サングラスをかけ直す。

 ヒビが入った硝子越しに見る世界は相も変わらず歪みに満ちていた。だが、それはまだ己自身が歪んでいるからだ。

 ヴェルゴの罵倒。恩人とドフラミンゴを貶める害意に満ちた言葉。

 それに煮える頭がある。一思いに殺して踏み躙りたい欲求がある。忠義厚い狗の腑を思う様にぶちまけてやりたい、そう思う自分がいる。

 

 だが、抑えなければ。

 変わらなければならない。

 

 何故ならば、この鬼は、もう一人の恩人にとって大切な仲間なのだ。

 

 

 ドンキホーテ・ドフラミンゴは、悪から財を奪う男であれど、誰かの大切な存在を壊す者であってはならない。

 

 

「誰が何と言おうとコラさんはおれを愛してくれた。だから、おれも為すべきことを為してあの人に応え続ける」

「身勝手に慈悲を享受した挙句逃げ出したあの女が、誰かを、よりにもよってお前を愛しただと? 重ね重ね、思い込みもここまでくると病気だな」

「おれだけじゃねェさ。コラさんは、あいつのことだって愛していた。別にてめェに信じてもらいたいとは思っちゃいねェが、それでも」

「…………」

「今、おれがここにいることが、コラさんの愛の証明だ」

 

 真っ直ぐにヴェルゴを見つめた。

 見える。手に取るように分かる。

 

 人も鬼も同じだ。

 大切な人の大切なものを守る。

 それだけのために、立ち上がるのだ。

 

「退けよ、旧世代。この先に、あるんだろう? あいつの願いを支える本物の鍵が。あいつを縛り付ける、糸が」

 

 指先から伸びる一本の糸。それはドフラミンゴがここに至るまでに計算し、地下の至る所に張り巡らせて編み上げた、破壊を呼び寄せるトリガー。

 

 シャツの下で揺れるペンダントを握りしめ、ドフラミンゴは叫んだ。

 

「お前らがやらねェなら! おれがあいつを解放してやる!」

 

 指が強く弾いた糸の先、響き渡るのは幾千の共振、交響楽のごとき音色。滴る血を吸った赤い糸が地下道全域を揺らし始めた。

 

「────どの、口が」

 

 俯いた鬼が低く呟く。

 

「何が鍵だ。何が願いだ。何も分かっていない。見ようとしない────お前達は!」

 

 憤怒に顔を歪めたヴェルゴが柱を掴む。撓む指先が生み出した亀裂は瞬く間に天井へ到達し、睨み合う二人の間に砂の紗幕を作り出した。

 

「貴様が……貴様らが壊そうとしているのは彼の心だ!」

 

 それは鬼の激昂。

 全てを圧し潰す怒りを皮切りに、歯車は回り始める。

 

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