ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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 二本に分けるべき文量ながらタイトルもう一つ考えるの嫌だなということで文字数爆発してます。
 お暇なときにどうぞ。


引かれ者の小唄

 

 

 潮騒が聞こえる。

 

 

 少女は頬杖をつき、窓の外を眺めていた。

 水平線に落ちていく赤い太陽。空はもう暗くなり始め、しばらくすれば星の瞬く夜が来る。

 

 エレジアは静かだ。

 怖くなるほど静かな場所だ。

 

 海賊達が去って一年が過ぎ、少女はもうすっかりこの静けさに慣れてしまった。

 

 

 泣いて、喚いて、暴れて、閉じこもって。

 それでも何も変わらない。

 望みのない静寂。

 

 

 国を襲った悲劇以来、少女はゴードンに引き取られ新たな日々を過ごしていた。

 

 彼は少女を大切にしてくれる。愛してくれる。

 

 一夜にして滅ぼされたエレジア。国も家族も国民も、愛していた音楽ですら全て奪われた亡国の王様。

 一番の被害者であったはずの彼が少女を慈しんでくれる。加害者が用いた罠である少女を哀れみ、懸命に育てようとしている。

 

 塞ぎ込む少女に彼は言った。

 

 音楽に罪はない。

 ウタは悪くない。

 

 その言葉に嘘はないのだろう。

 だが、彼は海賊達を恨んでいる様子もなかった。

 

 少女が泣き喚いてシャンクスの名を叫び罵ってもゴードンは決して同調しない。また、少女が寂しさに押しつぶされ、かの大罪人のぬくもりを求めたとしても咎めることもなかった。

 そんな時、必ずと言っていいほど、彼は困ったような顔で口を噤んでしまうのだ。

 

 伸ばされかけては止まり、触れてこない大きな手の気配。その近くも遠い温もりを感じながら、少女はぼんやりと思う。

 

 

 ああ、この人は優しい人だ。

 とても立派な人だ。

 

 一番辛いのはゴードンだろうに。

 

 

 少女はごく一般的な少女同様聡くあったので、亡国の王が見せる高潔さを重々理解できた。ゆえに、彼の前では涙を見せないようにしようと考えたのだ。

 

 

 泣くな。

 笑え。

 

 笑え。

 

 奪う側の人間が泣くな。

 望外の優しさに報いなければ。

 

 

 そして、少女は歌に没頭した。

 海賊を呼び込んだ少女が、被害者であるゴードンと過ごしてもいい理由など歌しかないのだから。

 

 

 世界一の音楽の都と呼ばれたエレジア。

 聖地に等しいその場所で先達の指導を受けた少女の成長は目覚ましく、見る見るうちに技術を伸ばしていった。

 幼く跳ねるようだった声は深みを帯び、小さな手のひらの上で止まっていた表現力は際限なく高まりゆく。

 

 しかしながら、実のところ、抜け殻の心が奏でる歌は以前のような色合いを失っていた。

 勿論、ゴードンも少女自身もその変化に気付いている。

 しかし、胸に空いた虚を埋める術は音楽をおいて他にない。他の誰かならばいざ知らず、少なくともエレジアに残された二人にとってはそうだった。

 

 音楽だけが二人を支え、導いてくれる。

 

 

『キミの歌声はまさに世界の宝だ』

『本当? ゴードンさんがそう言ってくれるなら、私、もっと頑張るね』

 

 ゴードンが喜んでみせる。

 だから、少女も笑顔を返した。

 

 

 上手く笑えてはいない。だが、優しい王様は少女の歪さから目を背けてくれる。癒えず膿む傷に触れず、生きるための歌を教えてくれる。

 ウタの空虚に踏み込まないでくれる。

 

 

 本当は知っていた。

 

 

 ウタの歌はもうどこにも行くあてがない。

 もうどこにも行けない。

 

 

 何故ならば、本当に声を届けたい相手はもういない。歌を運んでくれる船は彼女を置き去りに遠い世界へ行ってしまった。

 

 

 誰もこの声を求めない。

 少女は一人笑う。

 

 

 だって、嘘だった。

 全部嘘だった。

 

 家族だった。仲間だった。愛されていた。幸せだった。愛していた。幸せにしたかった。

 

 

 歌は好きだ。

 今も、好きだ。

 

 

 だが、本当に、何よりも大好きだったのは────

 

 

 彼らと過ごした日々の全てが嘘ならば、少女の内に残る愛おしい記憶も全て嘘だったということになる。

 いっそ全部を忘れて、捨て去ってしまえたならばどれだけ良かっただろう。

 

 

 だが、歌を歌う度、少女は思い出してしまうのだ。

 

 赤髪海賊団。

 彼らと過ごした日々。

 

 その記憶は彼女の宝物であり、彼女の核だったから。

 

 

 幼い少女には分からない。

 こころの捨て方が分からない。

 

 

 分からないまま虚の空いた穴を抱え、少女は新たな日々でも歌い続けた。

 海賊船という特殊な環境で殆どの時を過ごし、そのくせ海賊の業に関してはそれとなく遠ざけられ続けていた少女。

 結局のところ、彼女は歌しか知らなかったのだ。

 

 

『素晴らしい。キミの歌声は世界中を幸せにする力を持っている』

 

 鍵盤を弾き、ゴードンが誇らしげに笑う。

 譜面で口元を隠し、ウタは微笑み返す。

 

『ありがとう。いつかみんなを幸せにするために、私、頑張るよ』

 

 

 笑顔の下、胸の奥で響くのは暗い声。

 

 

 この歌声が世界中を幸せにする?

 そんなはずがあるものか。

 

 だって、悪党も同じことを言っていた。

 

 

 この世界には平和も平等もないと、何でもないことのように説いた彼。少女を拾い、育ててくれた彼。エレジアを滅ぼした悪い海賊。

 

 

 赤髪のシャンクス。

 

 

 ゴードンと同じ、優しい瞳でウタを見つめ、彼は言ったのだ。

 

 

『お前の歌声だけは、────』

 

 

 全部、嘘だった。

 

 あの愛も、温もりも。

 幸せも。

 何もかも。

 

 

 だから、この歌声は誰も幸せになどできるわけがない。

 

 

 それなのに。

 いやというほど思い知ったはずだというのに、気付けば少女の唇は懐かしい歌を口ずさんでいるのだ。

 

 

「どうして あの日遊んだ海のにおいは……」

 

 

 どうして、歌は変わらないのだろう。

 世界は変わってしまったのに。

 ウタを置いて全部変わってしまったのに。

 

 どうして、捨てられてしまったのだろう。

 

 分からない。

 誰も教えてくれない。

 

 

 本当は訊くのが怖かった。

 

 

 不安に押し潰されぬよう立ち上がった少女は、そっと硝子窓を開け窓辺に腰掛ける。

 夕凪の静寂が少女を迎えた。

 

 暮れなずむ陽の下、暗く広がる海。

 遠くをゆく船影。

 

 無意識に目を凝らして彼らの姿を探してしまう。

 そんな自分が嫌で嫌で堪らなくなり、少女は瞼を閉じた。

 

 

「信じられる? 信じられる? あの星あかりを 海の広さを」

 

 

 信じられる?

 何を信じられるというのか。

 

 分からないまま、少女は歌い続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 雨が降る。

 冷たい雨が。

 

 

 歌姫は空を見上げ、手を翳した。

 

「風邪ひいちゃわないかな、みんな」

 

 この世界には様々な苦しみが満ち溢れており、病魔もその一つだ。病に冒された苦しみの果て、歌に救いを求めた者は大勢いる。病をおしてライブ会場に足を運んでくれたファンもいるだろう。

 

 新時代の到来は目の前。

 しかし、まだ少し時間が必要だ。

 

 それまでに病に負けて身体が死を迎えてしまえば、その人の心は新時代に到達することなく息絶えてしまう。

 

「ごめんね。もう少しだから」

 

 呟く歌姫の足下で二体のオモチャが跳ねた。

 二人は懸命に飛び跳ね、雨に打たれるウタの指や袖を引く。屋根のある場所に移動させようとしてくれているらしい。

 くすりと笑んで、ウタはオモチャ達を抱き上げた。

 

「このままじゃあなた達も濡れちゃうね。一度戻ろうか」

 

 オモチャを抱えて舞台の袖に引き返す。

 静かな暗がりの中、ウタは腰を下ろした。

 目を閉じても眠気は来ない。

 

 いつもなら数曲歌うだけで体力の限界がくる。ネズキノコの効果が出ている証拠だろう。

 まさか事前に試すわけにもいかず、ぶっつけ本番の大勝負だった。安堵に口元を緩め、歌姫はバスケットを引き寄せる。

 

「少し休憩しようかな」

 

 ひつじとフクロウを膝の上に乗せ、籠から取り出したキノコを齧った。

 ひつじが前足で手首に纏わりついてくる。食べたいのだろうか。

 何故か必死な様子で揺れるもこもこの頭を撫で、ウタは小さく笑った。

 

「だーめ。これを食べていいのは私だけなの」

「それ、不味くねェか」

 

 突如響いたのは場違いな問い。

 驚きに肩が跳ねる。

 

 この場に意識のある人間がいるわけがない。

 咄嗟に腰を浮かせ、声のする方角を睨みつけた。

 暗がりが広がるばかりの舞台袖奥。目を凝らせば、闇に溶けるような黒い人影が立っている。

 ふるふると首を振る二体のオモチャを抱き、歌姫は警戒の声を上げた。

 

「誰?」

 

 答えが返ってくるよりも先、腕の中からフクロウのオモチャが飛び出す。

 弾丸の如く暗闇に飛び出していくフクロウ。その背を追って走りだしたウタはバランスを崩し無様に膝をついた。

 痛みそのものは大した事もない。しかし、何故か心が掻き乱される。

 胸を押さえ身体を折りながら、それでも何とか止めようと手を伸ばした。

 しかし、飛び去るフクロウには届かない。

 

 

 いつだってそうだ。

 みんな、去っていく。

 

 じわりと視界が滲んだ。

 

 

「待って、行っちゃダメ!」

 

 

 顔を歪め叫ぶウタの視界、人影が動く。

 

 特段不審な動きでもなく、ただ前に進み出るだけのシンプルな歩行。

 響く靴音が殊更恐ろしく、ウタは息を詰めた。

 

 急ぐでも勿体ぶるでもない。その歩みはごく自然だからこそ異常だ。

 数万人もの人間が一斉に眠りに落ちている異様な空間。そこで平然と行動している人間が普通であるはずもない。

 正面を睨みつけたウタの前、幕が落ちるように闇が揺れる。

 

 姿を現したのは黒衣の男だ。

 彼は殆ど表情を変えることなくただ問うた。

 

「大丈夫か」

 

 その言葉が表すのは問いではなく思慮の念。しかし、投げかけられる声からは一切の抑揚が感じられない。

 

「大丈夫か」

 

 トーンすら変えず同じ言葉が繰り返される。

 ウタは警戒も露わに後退り、口を噤んだ。

 

 突然現れた闖入者。今この時、この場で活動しているだけでも怪しいというのに、問いかけの意図すら不明確。そもそも、状況にそぐわない台詞にどう反応していいものか分からない。

 

 歌姫はぎりりと歯を食いしばり、剣呑さも剥き出しに言葉を投げつけた。

 

「あなた、誰」

「ローだ。もしくはジョーカー。好きに呼ぶといい。それよりも大丈夫か?」

「何が」

「膝、打ったよな。怪我は」

 

 淡々と、心の見えない声が尋ねる。

 答えないウタの前、男はしゃがみ込んだ。

 

 暗い舞台袖、妙に目立つ金の瞳がウタを見つめる。

 

「怪我はねェようだな」

 

 そう言って男は手を差し伸べた。禍々しい刺青の刻まれた手だ。明らかに堅気ではない。

 彼は手を突き出し催促してくる。

 

「立てるだろ。ほら」

 

 当然手を取れずにいると、男は早々に諦めてその場に腰を下した。

 一応パーソナルスペースの概念はあるのか、ウタとはやや離れた位置だ。

 

 敵意は感じないが、目的も立ち位置も意図も不明。海賊や賞金稼ぎ、あるいは計画を知って止めに来た的外れな正義漢という可能性も否定できない。

 

 何であれ、邪魔をされてたまるものか。

 隙を窺って対処しなければ。

 

 男との距離を保ったまま、ウタは目を眇めた。

 

「ローさんだっけ。あたしに何の用?」

「用件と言える程の用はない。ただ暇だったもんで散策してただけだ」

「私に用がないならライブを見に来てくれたんじゃないんだね。エレジアには何をしに来たの」

「仕事だ」

「仕事?」

「お前のライブに依頼人を送り届ける、要は護送か。意外に割がいいんでな」

「そう。腕が立つんだね」

「そこそこな」

 

 会話の隙に男を観察する。

 

 暖かい気候のエレジアには適さない黒衣。首元まできっちりと釦を留めたカソック様の服の上にさらに外套まで着込んでいるのだから異質も異質である。

 どこぞの神父のような出で立ちながら、首元で揺れるのは十字架ではない。網紐で繋がれたコインとクローバー、妙に愛らしい意匠のペンダントだ。

 

 暫くの間、ウタは横目でローの出方を窺っていた。

 二人の間にあるのは単純明快な沈黙で、相手はそれを気にした節もない。

 いや、そもそも、この男は周りを気にしてなどいないのかもしれない。

 

 気まずいのも不安なのもこちらだけ。

 何だか腹が立ってくる。

 無視を決め込もうとウタは膝を抱えた。

 

「…………」

「…………」

 

 そう。

 無視しようとは、思ったのだ。

 

「……あのさ」

「なんだ」

「それ、気にならないの?」

 

 男の登場時から延々と続く音。表記するならば『ぽすぽす』が妥当だろう。

 音源は彼の肩の上。フクロウのオモチャが暴虐の限りを尽くしていた。

 

 荒ぶる柔らかな翼は男の頬に往復ビンタを仕掛け、鋭さに欠ける足は忙しなく男の肩を蹴り、先の丸い嘴は男の側頭部を穿たんと激しく撃ち込まれる。

 中々の暴れっぷりだ。

 しかし、当の男の反応はと言えばたまに眉を顰める程度。もしかすると擽ったいのかもしれない。とにかく、彼は一切の抵抗を見せず、フクロウの好きなようにさせていた。

 

「痛くない?」

「案外悪くねェ。ふわふわして面白い」

 

 フクロウ渾身の攻撃は全く効いていなかったらしい。むしろご満悦の様子だ。

 余りの言い草にショックを受けたのか、フクロウが男の肩の上で倒れる。

 転がり落ちるオモチャの体を掌で受け止め、ローが不思議そうに首を傾げた。どうやら自身の言葉がフクロウを傷付けたことに気付いていないらしい。

 

 ウタは半眼になり苦言を呈した。

 

「虐めないであげなよ。大人気ない」

「そんなつもりはねェんだが、悪かったな。許してくれ」

「どうして私に謝るの。この子に謝って」

「それもそうだが、こいつらはお前のファンだからな。晴れ舞台に水を差されたお前にも謝るべきだろう」

 

 ローが座したまま頭を下げ、フクロウのオモチャを恭しく差し出す。

 もはや茫然自失のオモチャを受け取り、ウタはため息を吐いた。

 

「この子たちが私のファン? 『持ち主が』の間違いでしょ」

「間違ってねェ……はずだ。今はこんななりだが、二人とも普段はさる大国のお姫様でな。さっき言った依頼人がこいつらだ」

「へー、悪い魔法使いに呪いでも掛けられたのかしら」

「魔法使いは悪い奴じゃねェよ。まァ、保険に契約は結んでもらったが」

「ふざけないで、御伽話じゃあるまいし」

 

 面白くもない冗談だ。冷たく吐き捨てれば、ウタの肩に飛び乗ったひつじが体を擦り寄せてくる。

 頬に触れる柔らかな感触で我に返った。

 

「……ごめん。嫌な言い方だったね」

「謝る必要はねェだろ。実際おかしな状況だからな」

 

 男が真面目に答えるものだから何だか面白くなってしまう。

 ウタはオモチャ達を抱き寄せて小さく笑った。

 

「この子達がお姫様ならあなたは騎士さん? それともあなたが悪い魔法使いだったりするの?」

「いや、おれはしがない元海賊の革命家だ。こいつらの国を襲った(よしみ)で護衛を頼まれた」

 

 ローは大真面目に、というよりほぼ無表情のまま荒唐無稽も甚だしい返答を返してくる。

 持ち上がりかけた機嫌が急降下し、ウタの鼻頭にシワが刻まれた。

 当然だ。馬鹿にされているとしか思えない。

 

 国を襲撃して生まれるのは誼ではなく因縁だ。恨まれることはあっても、受け入れられ頼りにされることなどあるわけがない。

 

 そう。

 そんなこと、あっていいはずがない。

 

 ゴードンの顔が脳裏を過り、ウタは固く目を閉じる。それでもこの十数年励まし続けてくれた声は耳を離れてくれなかった。

 

 話題を変えなければ。

 胸が騒めいて仕方ない。

 

 そう考え、ウタは無理矢理笑顔を浮かべた。

 

「色んな人が来てくれて嬉しいよ。本当は不安だったんだ。初めてのライブだったからさ」

「お前は世界の歌姫。しかも、今回はファーストライブだ。誰だって興味を持つ。だからこそ、タチの悪い輩も顔を出すと踏んでいた」

「確かに来てたよ。あなたみたいな人が沢山ね」

「そのようだ。まァ、奴らは揃って夢の中のようだが」

 

 ペンダントヘッドを掌に握り込み、ローが目を閉じる。服装が服装なだけにそうしていると敬虔な聖職者にすら見えた。

 だが、ウタには分かる。

 彼が捧げているのは祈りなどではない。もっと暗い、希望のかけらも無いほどの負の感情だ。

 

 革命家は微かな吐息と共に小さく呻いた。

 

「羨ましい限りだ」

 

 漏れ聞こえたのはどこか切羽詰まったような掠れ声。

 よく見れば、彼の下瞼にはそうとはっきり分かるほどの濃い隈が浮いている。

 眠れないのだろうか。

 あるいはどこか悪くしているのかもしれない。

 舞台袖は暗くはっきりとは分からないが、顔色も悪いように見えた。

 

 元海賊の革命家。その肩書きや語る経緯の真偽は知れず。

 ただ彼はこのライブ会場に現れた。

 そして、醸し出す裏社会の雰囲気とは裏腹にウタに危害を加える気配は全くない。

 恐らく、彼もまた何か悩み、救いを求めているのだろう。

 革命家、それは彼に世界を憂う心があることに他ならない。

 

 ならば、すべきことは一つだ。

 歌姫は頬に力を入れ、笑顔を作った。

 

 

 そう。

 笑え。

 それがウタに出来る最善なのだから。

 

 

「“新時代”に乗り遅れるだなんて、あなた、革命家に向いてないんだね」

「まったくだ。また取り残された」

「大丈夫、安心して。私、まだ歌えるから!」

 

 力強く胸を叩き、笑顔を深める。

 

 世界に取り残されてしまった革命家は顔を上げ、開きかけた唇を引き結んだ。

 ウタに応えようとしたのだろう。彼は笑みを浮かべようとする。

 しかしそれすらも難しいのか、諦念と共に首を振った。

 

 ペンダントを握りしめる両の手。

 死を模った刺青が歪む。

 伏せた金の瞳が翳りを帯び、弱々しく揺れた。

 

 

 ああ、やはりそうだ。

 この人も苦しんでいる。

 

 ならば、安心させてあげなければ。

 救わなければ。

 

 

 悲鳴を上げる心に子守唄を。

 求められているならば、応えなければ。

 

 

「私があなたを連れて行ってあげる」

 

 

 目を伏せ、息を吸う。

 いつも通り求められる役を演じようとした歌姫は、しかし、喉を押さえ目を見開いた。

 

 

 声が、出ない。

 

 

 首に触れる自身の手。

 そこにはあってはならない違和感がある。

 

 震える指先を喉元に這わせた。

 

 

 指で触れる。

 指が沈む。

 

 そこにあったのは指先一つで埋めてしまえるほどの小さな穴。あるべきものを失った虚。

 

 

 掠れた息が漏れる。その音すら虚しい。

 何が起こったのか、どうすれば良いのか。

 恐慌と混乱がウタを襲う。

 

 

「さて、救世屋」

 

 

 響くのは淡々とした、否、冷え切った音。

 それは決して救いを求める者の声などではない。

 

 ローはいつの間にかウタの背後、ちょうど頸の辺りに左手を翳していた。

 無機質な眼がウタを射抜く。

 

 

「お前には幾つかの選択肢がある」

 

 

 凪の声が告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 喉を押さえたまま、ウタは震え後退った。

 怯える歌姫をひたりと見つめ、男は自身の右手を開いてみせる。

 

 そこにあったのは人体の一部。

 

 実際目にしたことなどあるはずもない。しかし、ウタは理解してしまった。

 否、理解させられたのだ。

 

 揺らぐ足元。悍ましい程の喪失感。魂を抜かれてしまったかのような寒々しさ。

 そして何より、押し寄せる恐怖の数々が教えてくれる。

 

 

 歌姫の存在理由。

 ウタの存在価値。

 

 くり抜かれたウタの声帯。

 それは男の手にあった。

 

 

「──────っ!」

 

 

 無我夢中だった。

 

 訳もわからないまま恐怖に突き動かされ、ローへと飛び掛かる。

 ウタは勢いのまま彼の胴を膝で踏み付けて伸し掛かった。そして、迷わずその喉元へと両手を伸ばす。

 抵抗はなかった。全体重を乗せた掌は忌々しい熱を押し潰そうと男の首を締め上げる。

 

 とくり、とくりと一定の拍を刻む鼓動。安穏としたリズムはローが全く動揺していないことを示していた。

 反撃どころか身じろぎ一つすらしない。されるがまま、肉体的にはただの小娘であるはずのウタに組み敷かれている。

 

 

 ただ一瞬。

 ほんの一瞬だけ、彼は眉を顰めた。

 

 

 仕掛けたのはローのはずだ。しかし、その眼は憐憫にも似た憂慮を宿し、ウタを見つめている。

 

 きっと芯からの悪党ではないのだろう。思えば選択肢だなんだと話していた。略奪や妨害とは別の目的があって接触を図ってきたのかもしれない。

 

 様々な思考が瞬時に巡る。しかし、歌姫の手は思考に先立ち男の首を締め上げていた。

 次第に指にこもる力が増し、ぎちぎちと音を立てる。

 

 

 そうだ。

 この人は奪った。

 大切なものを奪った。

 悪い人だ。悪人だ。悪だ。

 だから。

 

 

 だから?

 

 

「────っ!」

 

 

 浮かんだ考えは信じられないほど直情的で、それだけにひどく悍ましかった。

 

 恐怖のあまり指の力が緩む。乱れた息を整えようとして失敗し、歌を奪われた唇からはただ虚しく吐息が漏れた。

 

 ローが訝し気に瞬く。

 

「どうした。早くやれ」

「──っ、────……」

「素人が上手くやろうなんて考えるな。苦しもうが眠るように逝こうが違いはねェ。死は平等だからな」

「…………」

「せっかくだ。お前も一人くらい自分の手で殺しておくといい」

 

 世間話でもするような気軽さで囁き、ローが自らの左手を持ち上げた。そして、徐に歌姫の手にその掌を重ねる。

 

 己が喉元を覆うように。

 

「簡単だ。ほら」

 

 言うが否や、彼は自身の左手に力を込めた。

 刺青が歪むほどの剛力だ。無理矢理押さえ込まれたウタの手に鈍く熱い痛みが走る。

 振り解こうとすれば、男は教導でもするような実直さでさらに力を込めた。

 

 仮面じみていた男の顔に微かな変化が生まれる。眉間に微かな皺が寄り、薄く開いた唇からくぐもった苦鳴が漏れ始めた。

 

 意と反して他者の喉を圧し潰す掌越し、太い血管が脈打ち暴れている。

 骨を押し込む指に伝わる抵抗。擦れる皮膚に感じる熱。呼吸を奪われ喘ぐ臓器の振動が恐怖を呼んだ。

 

 

 やめて。

 もうやめて。

 

 

 そう叫びたいのに声は奪われたまま。

 必死に首を振り離れようとする。しかし、男の握力は異常に強く、逃走を許してくれない。

 

 

 怖い。

 こわい。

 

 殺してしまう。

 

 

 ()()

 

 

 もはや抵抗すらも出来なかった。

 背中を丸め喘鳴を漏らすばかりのウタを見つめ、ローが手の力を緩める。

 

 彼は顔を背け、軽く咳き込んだ。

 酸欠のために茫洋としていた瞳がゆっくりと焦点を結んでいく。

 

 

 目が合った。

 

 

 ウタは転がり落ちるように彼の上から逃げ出す。力の入らない足で踠き、背を向けて這いずり必死に距離を取った。

 

 辿り着いたのは舞台の端。

 小雨の降る冷たい暗がり。

 

 自慢の歌声どころか悲鳴すらも出ない。それでも何か恐ろしいものが溢れてしまいそうな心地がして、両手で口を塞ぐ。

 意志と言葉、呼吸さえをも押さえ込んだ。しかし、手の震えが止まらない。

 吐気を堪え、固く目を閉じる。

 

 己が手で他人を殺しかけた。

 逃れようも無い事実が歌姫の肩へと伸し掛かる。

 

 確かに先に仕掛けてきたのは相手の方で、殺すも何も自殺紛いの凶行に巻き込まれた形だ。

 ローはおかしな人間だった。直前に見せたしおらしい顔とて演技だったのだろう。オモチャ達もブラフで、元よりウタに危害を加える手筈だったに違いない。彼らはウタの敵なのだ。

 

 そう思い込もうとして、しかし、思考は真実を探り当ててしまう。

 

 

 敵だったとして。

 それでも、もっと別の方法があったはずだ。

 

 

 気付いていた。

 ローが全く抵抗しないこと、さして害意を持っていないこと。世を憂う心に偽りはなく、彼自身、本当は救いを諦めていること。

 全て理解した上で、ウタは首を絞める手に力を込めた。

 

 

 救世主(ウタ)は正当な奪還ではなく、報復と破壊を選んだのだ。

 

 

 ああ、そうか。

 本当にそうなんだ。

 やっぱり、私は────

 

 

 掌の下、音を失くした唇が歪む。

 

 

 かつり、と。

 靴音が響いた。

 

 

「随分と不安定だな」

 

 

 振り返る。

 声の主は気怠げに舞台袖の壁に凭れていた。

 喉を痛めたのか、その声はやや掠れている。

 

「ネズキノコの影響にしても情動の幅が異常だ。これが若さか。それとも摂取量の違いか? お前、何本食べたんだ。過剰摂取しても意味はねェし、まずいだけだろうに」

「…………」

「────? ああ、そうか。悪かった。返す」

 

 ローが無造作に左手を持ち上げた。

 後退ったウタへ向かって振るわれる指。指揮さながらの動きに合わせ、小さな立方体が宙を舞う。

 目にも止まらぬ速さで飛来したそれを避けることもできず、ウタは腕を交差し瞼を硬く瞑った。

 

「────……?」

 

 何も起きない。

 

 薄目を開け様子を窺う。

 

 目に映るのは小さな騎士達の背。

 ウタとローの間、オモチャ二体が立ち塞がっていたのだ。

 

 いつでも特攻できるよう小刻みにステップを繰り返すフクロウと、震えのあまりもはや輪郭がぶれて見えるひつじ。

 彼ら、否、先の言葉を信じるならば彼女達だ。二人は黒衣の男の歩みを阻まんと小さな身体で立ち向かっていた。

 

 またもや止める間もなくフクロウが飛び出す。彼女は弾丸もかくやの速さで男の眼前に到達し、自慢の翼で痛烈なビンタを見舞った。

 大の男の身体がぐらりと傾ぎ、それを見て縮み上がったひつじが一拍遅れて走り出す。

 

 酸欠の身にビンタは堪えたのか、しゃがみ込むロー。彼の上空でさらなる追い打ちをと舞い上がるフクロウにひつじが抱き付き制止した。しかし、強襲の翼と鉤爪は止まるどころか苛烈さを増すばかりだ。

 

「待て。痛くもかゆくもねェが、少し待て。言い訳ぐらいさせろ」

 

 疲れたような男の言にフクロウが動きを止める。釦製の瞳は心なしか険しく見えるものの、釈明の機会は与えるらしい。

 

 いや、そもそも何故彼女が怒っているのかは分からないのだが。

 

 胡座をかいたローがフクロウとひつじを膝の上に移動させた。気怠げな様子のままため息を落とす様はどうにも悪人に見えない。

 

 ウタを横目で確認した彼は自身の喉を指で示してみせる。

 

「声、もう出るだろ」

 

 慌てて喉に手をやった。確かに穴が塞がっている。

 震える息を何とか抑え、歌姫は拙く音を零した。

 

「────あ、あ」

 

 唇を押さえる指に小さな振動が伝い、聞き慣れた声が耳を打った。

 安堵のあまり滲みそうになる涙を堪え、ウタは下手人を睨みつける。

 

「あなた、何がしたいの」

「お前を止めようと思って」

「邪魔しないで。悪いけど止まらないよ。私はみんなのために新時代をつくる、絶対にこれは譲れない」

 

 へたり込んだまま啖呵を切る歌姫を見つめ、革命家はかぶりを振った。

 

「勘違いするな。お前の計画を止めようとしたんじゃねェ。おれのために能力を使う必要はないと伝えたかった。意味がねェからな」

 

 そう言って彼はイヤホンを指し示す。しかし、元より小さな遮音機程度ではウタの能力は防げないはずだ。

 

「会話できてるんだから声は聞こえるでしょ。そんなもの、この距離なら何の意味もない」

「そうかもな。ただ、おれも少しお前に興味があった。最期にお喋りも悪くねェかと思って、あれを食べたんだよ」

「あれ? 食べた?」

 

 ローの言葉は分かりづらい。対話の意志がないようにさえ思える程だ。

 

 苛立ちと不安に顔を顰めたウタだったが、しかし、ふと思い出す。

 

 

 ローが現れた際、投げかけてきた第一声。

 毒キノコの味、その是非を問う珍妙な問い。

 

 

 慌ててバスケットを探す。舞台袖に放置されていたはずのそれはいつの間にやらローの腕の中にあった。

 ネズキノコを一つ摘み上げ、男がぽつりと呟く。

 

 

「まずいよな、これ」

 

 

 血の気が引いた。

 

 ウタは目の前の男のことなど知らない。何なら邪魔をしてくるような悪党で、意味不明な言動で惑わせてくる邪魔者だ。

 

 だが。

 だが、それとこれとは別問題ではないか。

 

 

「バカ、何考えてるの! 死んじゃうんだよ⁉︎」

「それをお前が言うのか」

「私のことは関係ない!」

 

 思わず床を叩いて叫んでしまう。

 ローの言うことは尤もだ。ネズキノコを食べたウタが彼を糾弾するのはおかしくもあり、まずもってウタが彼を案じ怒る理由などどこにもない。しかし、それでも声は大きくなるばかりだ。

 

「さっさとここを出て解毒剤を探しに行って! そうすればまだ助かるから!」

「助かる?」

 

 当の本人は不思議そうに首を傾げている。

 どうにも子どもっぽい、というより何となくあどけなさの残る、妙に愛嬌のある表情。容姿から見て少し年上だと踏んでいたが、髭やら何やらで大人っぽく見せている同世代の青年だったりするのだろうか。

 

 何にせよ、わけが分からない。言動全てがブツ切れで意図に連続性が感じられない。まるで無理矢理繋ぎ止めたような不自然さと生まれたてのような純朴さが混じり合って気味が悪い。

 

 ウタはさらに強く床を叩き、激しく責め立てる。

 

「どうしてこんなことするの! 革命家っていうなら、あなたにだって望んだ未来があるんでしょう⁉︎ 守りたい人や幸せにしたい人がいるんじゃないの⁉︎」

 

 オモチャ達が硬直している。きっと彼女らとローは仲間、あるいは親しい仲。当然、ウタと同じく、いやそれ以上に衝撃を受けたはずだ。感情など窺いようもないはずの釦やビーズの目に動揺が浮かんで見えた。

 しかし、当のローは周囲の反応を気にした様子もなく、バスケットを床に置いて壁へと凭れ掛かる。

 

「まァ、そうだな。今更そこを否定するつもりはねェ。好ましいと思える奴も少なからずいる」

「────だったら、どうして!」

「望む未来はあった。守りたいものだってあった。幸せになってほしい奴もいる。だが、おれはその未来に行けない」

 

 明明白白の既定事項を語るように澱みない言葉。そこにはこれまでにない感情が込められていた。

 掛ける言葉を失ったウタに視線を向け、革命家は静かに問う。

 

「能力には限界があるよな。あと何曲歌える? それをおれなんかのために使っていいと思ったのか?」

「……『なんか』だなんて自分で言わないで。あなたがどんな人であろうと、目の前で苦しそうにしてる人を放っておけない」

「そうは言ってもな。誰彼構わず救うのはやめるべきじゃねェか」

「どうして? 私はもう誰にも苦しい目や悲しい目にあってほしくないの。誰だって救われていいはず。そうでしょ?」

 

 もはや何かに縋るように言い募る。ウタの言葉は確かに目の前の男に届いていた。

 その上で、彼は不思議そうに首を傾げる。

 

「お前は死ぬのに?」

 

 何気ない問い。

 それはウタの胸に深く突き刺さり、一瞬の空白を生んだ。

 

「私は、いいの」

 

 不自然な沈黙を経て、やっとのことで紡ぎ出したのは、言い訳にすらならない短い言葉。

 声は弱々しく、まるで頼りにならない。

 

 ローが笑う。

 

「ほらな」

 

 浮かぶ笑顔は場違いに晴れやかでやはり幼い。彼はウタの目を覗き込むようにして笑みを深めた。

 

 

「お前だっておれと同じだ」

 

 

 息を飲む。

 

 

 何故、この人を子どもっぽいなどと思ったのだろう。

 

 

 暗い。

 暗い目だ。

 

 ウタは唇を噛み締めた。

 

 

 この人はきっと、同じ痛みを知っている。

 大切なものを穢してしまった痛み。

 引き戻せない痛み。

 

 どこにも行けない。

 どこにも行きたくない。

 逃げ出したくて、どうしようもなくて。

 ただ。

 

 

 反論を紡ごうと開いた唇は結局何も吐き出せずに閉じる。生じた妙な共感を紛らわせたくて、ウタは視線を彷徨わせた。

 

 ローの膝の上、フクロウが取り縋るようにしがみついている。相変わらず震えたままのひつじもまた、悲しげに頬を擦り寄せていた。

 彼女達の心を受け止めようともしないくせに、柔らかな光を宿した金の眼が二人を見つめている。

 オモチャ達を撫でるその手つきも彼女達を見つめる瞳もひどく優しいのに。ロー自身はどこか遠い場所にいるような冷たい空気を纏ったまま。

 

 

 ちぐはぐで、身勝手だ。

 ウタと、同じ。

 

 ただ分かるのは、この男は逃げ出したいと欲しながらついぞ逃げ出す事の叶わなかった、どうしようもない愚か者であるということだけ。

 

 それもまた、ウタと同じだった。

 

 

 何故か落ち着いてしまい、ウタは舞台袖へと引き返し、彼の隣に腰掛け直す。

 小さな笑声が間近で響いた。

 

「その子達、あなたを心配してくれてるんだからあまりいじめちゃダメだよ」

「分かってる」

「お姫様って言ってたけど、どこの人? あ、お忍びなんだから聞いちゃダメか」

「そうだ。どうにもお姫様方は正直者のお人好しらしくてな。うっかり出自をバラされちゃお忍びの意味がねェ。だからお喋り厳禁なんだ」

 

 男はフクロウの翼を労るように摩る。

 

「正直者ほど馬鹿をみる世界だろ。良い奴が酷い目に遭わないように全員黙らせるってのは至極正しい判断なんだよ」

「悪い人の言い訳だね」

「その通りだ。悪い奴ほど舌が回る」

 

 ちらりと覗かせた舌先は蛇のよう。

 ウタもまた、意味があるのかないのか分からないお喋りに散々惑わされたわけである。

 少し悔しくて、ウタは唇を尖らせた。

 

「誰かの為にしてもさ、無理矢理は良くないんじゃないの」

「それをお前が言うのか」

 

 舞台袖の薄暗がり、緩やかな死に瀕した歌姫と革命家は笑い合う。

 同病相憐れむとはよく言ったもので、奇妙で最低な連帯感を以て二人は隣り合っていた。

 

 ふと思い出し、ウタは問いかける。

 

「ね、ローさん。あなた、私に何か訊こうとしてなかった? 幾つかの選択肢があるとか何とか言ってたじゃない」

「ああ、そうだ。黙らせるついでに手を貸してやろうと思った」

 

 手助けどころか、今のところ邪魔しかされていない。鼻白んだウタだったが、思いの外相手が真摯であることに気付いてしまい、黙って先を促した。

 ローは静かに語りかける。

 

「なァ、救世屋。例えばの話だが、お前をこの世界から消すことができるとしたらどうする?」

 

 消す?

 殺すということだろうか。

 どの道あと数時間の命だ。それが少し早まったところで何の意味があるのだろう。

 

 首を傾げるウタを見返し、ローが続けた。

 

「世界中の人間がお前を忘れる。お前の功績も罪もお前という存在がいたことさえも、全て綺麗に忘れ去られる。元々この世界にいなかったかのようにな」

「なに? また御伽話でもしたいの?」

「違う。そういう能力があるんだ」

 

 誰しも忘れ去りたい過去があり、一度は世界から逃げ出したいと思ったことがあるはずだ。

 だからこそ、革命家の提案は悍ましくも否定しきれない魅力を湛えている。

 

 忘れたい。忘れられたい。

 逃げたい。消えてしまいたい。

 

 嘘と真実。どちらを選んでも残酷でしかなく、どこに立っても苦しいばかりだ。

 この世界には居場所がない。

 ウタは知っている。求められているのは救世主、歌姫であってウタではない。

 認めてくれる人も慈しんでくれる人もいる。それでも彼らに寄りかかることなど許されるはずもない。

 

 ウタは視線を落とした。

 

「どうせもうすぐ全部終わるんだよ」

「そうだな。だから、最期くらいお前も好きにすればいい」

「私を忘れたら、眠ってるみんなはどうなるの」

「おれの場合、既に発動していた能力については影響がなかった。確証はねェがウタウタの世界は残るのかもな」

「じゃあ、みんなはあっちで生きられる?」

「恐らくは」

 

 淡々と答え、ローは手を差し伸べる。

 

「おれの手を取ってくれれば、お前は世界から忘れ去られる。もう誰もお前に救いを求めない」

「誰も?」

「そう、誰もだ。ネズキノコの毒はお前を蝕み続けるが、時がくれば自由になれる」

「自由、に」

「そう、自由に。ほら、死は平等だって言ったろ?」

「…………」

「せっかく自由になるのに、死後まで誰かに応え続ける必要なんてねェ。違うか?」

「そうかな……いいの、かな」

「ああ」

 

 俯いてしまったウタのそば、冷たくも穏やかな声が囁く。

 

「これ以上応えなくていい。お前は充分頑張った。もう逃げ出したっていいんだ」

 

 そう言って、黒衣の男は優しく微笑んだ。

 

 不気味に感じていた抑揚のない声は凪いだ海のように穏やかで、誘われ沈んでしまえば何もかもが救われる気さえする。

 寂しい夜を照らす月の光に似た、薄曇りの金色がウタを見ていた。

 

 ウタはぼんやりと手を伸ばす。

 

 指先がその手に触れた。

 温かい。いや、熱い。

 誰かに触れるのは久しぶりだ。

 

 人のぬくもりはこんなにも温かく、心地良いものだっただろうか。

 

 

 ずっと、望んでいた気がする。

 誰かに触れてもらえることを。

 

 誰か、いや、本当は違う。『誰か』などという曖昧な存在ではなく、そばにいてくれた優しいあの人に、遠くに去ってしまった彼らに。

 

 

 海賊嫌いと謳われ否定しなかったのは、些細な反抗心と愚かな期待から。そうすれば、意外に子供っぽい彼の耳に届くのではないかと思った。

 

 歌で皆を幸せにしたいという思いは嘘ではない。

 見つけてもらえて嬉しかった。求められることを誇りに思えた。歌で誰かを救うことができるのだと知り、全てが嘘ではないと理解して、それだけで救われたこともあった。

 

 

 ただほんの少し。

 少しだけ、望んでしまったのだ。

 

 歌い続けていれば、エレジアから歌を届ければ、世界中に響くほどに歌えば。

 

 

 いつか。

 

 

 だが、彼らは来なかった。

 

 

 もう会えない。

 もう二度と、この手を引いてはもらえない。

 

 ならば、もういいのかもしれない。

 

 諦めても。

 偽ることをやめても。

 信じることをやめてしまっても。

 

 

 目を閉じ、ウタは呟く。

 

「私、本当は────」

 

 突如、暗がりの静寂を切り裂き、耳慣れない音が鳴り響いた。

 

 それは遠い汽笛。海兵達を乗せた軍艦がエレジアへと近付いているのだ。

 

 変革を止めようと世界が動き出した。そう言うことなのだろう。

 ウタは小さく笑う。

 

 

 だって、おかしい。

 望んだ人は来ないのに。

 

 

 そういえば、海軍もおかしな集まりだ。

 救いを求める声には応えない。そのくせ不幸せな世界を維持するのに躍起になるなどと、まったく馬鹿げた話ではないか。

 

 ウタとて本当は分かっている。世間知らずとは言え、その程度は知っていた。

 ファンの皆が教えてくれた。

 皆、必死なのだ。

 これ以上悪い方向へ向かわないように、崩れかけた均衡を、今を必死に保っている。

 

 だからこそ、この時代を突き崩す者は悪なのだろう。何よりも醜い、倒すべき悪なのだろう。

 

 だが、それでは何も変わらない。

 苦しい今を保ったところで誰も救われない。

 

 

 だからこそ、誰かがやらなければ。

 

 世界を変える。

 世界を創る。

 

 誰もが幸せで、何にも脅かされない、そんな新しい時代を作らなければ。

 

 

 手を引き戻し、ウタは自身の膝を抱えた。

 やり場もなく手と視線を彷徨わせるローの顔を覗き込み、笑ってみせる。

 

「ね、ローさん。あなたって意外に優しいお兄さんなんだね。見ず知らずの女の子を助けようだなんてさ」

「お兄さん?」

「え、まさかとは思うけどお姉さんだったりした? ごめんなさい、ずっと男の人だと思って話してた」

「いや、見ての通り男だが」

 

 真顔で答える様が面白く、ウタは袖で口元を隠し声をあげて笑った。対するローはと言えば特に気分を害した様子もなくかぶりを振る。

 

「箱入りのわりには随分と世辞が上手い。お兄さんじゃなく、おじさんだ」

「やだ、ローさんって渋く見られたい人? 私より少し年上程度でおじさんは無理があるよ」

「少しじゃねェ、二倍近くは生きてる。お前からすると父親世代だ。四十路だぞ」

「うっそ、見えない。シャンクスより年上じゃん!」

 

 抵抗なくその名を口にした自分に驚いた。

 死を前にした高揚か、妙な人間とは言え思わぬ話し相手ができたからか。どうにも情動のコントロールが難しい。

 ウタは口を押さえ、視線を彷徨わせる。

 

「えっと、今のはさ」

「成程。お前、赤髪の娘か」

「……だったら何」

 

 エレジアを壊滅させたのはシャンクス率いる赤髪海賊団。世の認識ではそうなっているはずだ。

 国崩しの海賊、その娘がエレジアで生きながらえている。しかも、海賊嫌いとその名も高い世界的歌手として。

 恐らく良い意味には受け止められない上、確実に勘繰られるだろう。

 

 そして、事実を伝えるわけにもいかないのだ。

 

 踏み込まれないよう視線を強めた。

 ほぼ睨み付けるような形となったにも関わらず、ローは軽い調子でぼやく。

 

「赤髪には詰めた盤面をひっくり返されたことがあってな。親子共々面倒だと思った。それだけだ」

「親子って、シャンクスだけじゃなくて私も?」

「そうだ。お前達ときたら、急に現れて他人の筋書を台無しにしやがる。地道に策を練って活動してきたこっちの身にもなれ」

「あー……ローさん、革命家なんだっけ。ごめんね、先越しちゃって」

 

 どちらからともなく笑い合い、二人揃ってため息を吐く。

 ウタが大きく伸びをすれば、ローはさして惜しくもなさそうな様子で呟いた。

 

「この分じゃ勧誘は失敗か」

「ごめんね。応えてあげられなくて」

「かまわねェ。望みは薄いと思っていた。第二プランも用意してある。こちらが本命だ」

「そうなんだ。どんなお手伝いをしてくれるの? せっかくだから聞いてあげる」

 

 上から目線で宣えば、胡乱げな視線が返ってくる。だからと言って文句をつけるでもなく、革命家は提案を続けた。

 

「お前が望みを叶えるまでサポートしてやる。海軍に海賊、目的達成を脅やかす全てを排除しよう。お前には指一本触れさせねェ。言うなれば、死出の旅路同行プランだ」

「何それ、変なの。そもそもあなた、何の関係もない赤の他人じゃない」

 

 毒吐くウタを半眼で睨み、ローが黙り込む。

 さすがに揶揄いすぎただろうか。気分を害したのかと不安になった。

 感情に引かれ、結い上げた髪が垂れ下がる。

 

「あのね、別に嫌ってわけじゃないの。ただ、あなたが助けようとしてくれる理由が分からないだけで……」

 

 言い訳がましいとは思いつつ、ウタは本音を口にした。俯いたまま視線のみあげれば、呆れの色を浮かべた半眼と目が合う。

 長い沈黙の後、ローが根負けしたようにため息を吐いた。

 

「まァ、なんだ。お前には借りがあってな。これが最期なら恩返しをしておこうと思った」

「借り?」

 

 覚えがない。記憶を探りつつもウタは首を捻る。

 そもそもウタは十数年エレジアに引きこもっているわけで、それより以前はシャンクス達と海上の生活を続けていた。

 何処かで会っていたとしても、ウタが彼の助けになったことがあるとは到底思えなかったのだ。

 ウタが悩んでいるのに気付いたのだろう。ローは相変わらず抑揚の失せた口調で説明を付け加えてきた。

 

「おれの部下がお前の歌に励まされてやる気を出せた。結果、そいつの能力は覚醒して新たな境地に辿り着いたわけだ」

「ふぅん。でも、それって私のおかげじゃなくて、その人が頑張っただけでしょ」

「かもな。だが、お前の歌が一歩踏み出す勇気を与えたのは確かだ。ありがとう」

 

 淡々とした語り口ゆえに、目の前の男がウタの実力を認めていると理解してしまう。

 面映さに身じろぎをしたウタは、何でもない風を装って続きを促した。

 

「……それで? その人が強くなってあなたの役に立ったから借りがあるって話?」

「そいつが頑張って裏切ってくれたおかげでおれは立場を追われ、今じゃ立派な根無草だ」

「…………」

「さすが世界の歌姫。お前のおかげだな」

 

 完全に凪いだ声。

 何故だろう。微妙に責めているようにも聞こえる。いや、間違いなく責めている。少なくともウタにはそう感じられた。

 

 この男は()海賊。つまり、海賊仲間に裏切られたということなのだろう。

 

 再び身じろぎする。哀れな元海賊から物理的に距離を取るためだ。

 

「逆恨みはやめてよね」

「恨むわけねェだろ」

「本当かなあ?」

「本当だ。根無草はいいぞ。何と言っても自由だ」

「ま、負け惜しみ……?」

「負けてねェし惜しんでもねェ。おれは自由だ」

「負け惜しみだ!」

 

 あからさまに侮られているにも関わらず、ローは至極真面目な顔でウタを見返してくる。つられて居住まいを正せば、彼は静かに告げた。

 

「何にせよ、だ。何を選択しようとおれはお前に従おう。慎重に選ぶといい」

 

 金の瞳がウタを見つめている。

 

 

 元海賊の革命家。悪人。自殺志願者。

 この人は何者なのだろう。

 何がしたいのだろう。

 何故、手伝ってくれようとするのだろう。

 

 

 様々な疑問がウタの中で浮かび、泡のように弾けて消える。そのどれにも答えらしい答えはなかった。

 

 

「どうでもいいか」

 

 

 小さく呟き、歌姫はゆっくりと立ち上がる。

 

 

 そう、結局はもう決めているのだ。

 引き返せない。

 引き返さない。

 

 ならば、どうだっていい。

 

 

 一つ息を吸い、胸に手を当てた。

 甲を覆うのは新時代のマーク。それもまた、彼女の核となる宝物だ。

 

「私はウタ。幸せな世界へみんなを導くのが私の望み」

 

 革命家は黙したまま、歌姫の宣言を聴いている。

 彼は新時代に行けない。行かない。彼自身が選んだ結末だ。だが、後悔などしてもいないのだろう。

 その証拠に血色の失せた顔には薄い笑みが浮かんでいる。

 

 ウタも微笑みを返し、先の男を真似て手を差し伸べた。

 

「ローさん。もしもあなたが私を応援してくれるのなら、今だけこの手を取って」

 

 間髪入れず、刺青の刻まれた手が伸ばされる。

 革命家の手を掴み、救世主は笑った。

 

「あなたって変な人だね」

「よく言われる」

 

 立ち上がったローの足下、オモチャ達が震えている。引き止めようと伸ばされた前足と翼は黒衣の裾を掠めるだけで届かなかった。

 なおも追い縋ろうとひつじが走り寄る刹那、ローが左手を振るう。次の瞬間、オモチャ二体の姿はかき消え、代わりに二冊の本が転がっていた。

 

「あの子達はいいの? 護衛なんでしょ」

「この島内程度の範囲ならどこにいても守ることくらいは出来る」

 

 抑揚のない声音で返される答え。それは自信に満ちているというより、ただ既存の事実を語るかのよう。この男もまた能力者であり、実力者なのだろう。

 納得したウタにネズキノコ入りのバスケットを押し付け、ローがぼやいた。

 

「しかし、これ本当にまずいな。毒キノコは美味いってのが相場じゃねェのか」

「油で煮たら美味しくなるかも」

「それもありか。甘辛く煮付けてみるのはどうだ」

「どうだろ。何か変なえぐみがあるんだよね」

 

 二人で渋い顔を晒し、ネズキノコを摘みあげる。

 

 

「「まっず……」」

 

 

 歌姫は笑い、革命家は笑わなかった。

 

 

 そして、二人は足並みも揃えずに歩き出す。

 ヒールが床を踏みしだく二色の音が舞台に反響し、薄曇りの空に消えた。

 

 舞台袖端で立ち止まり、ウタは背伸びをして海の向こうに意識を向ける。

 遠くの海に見えるであろう船影。いつも願い探していた旗印は今日も今日とて現れず。

 

 いつも通り。

 本当に変わらない。

 

 胸を抉るのは何もかも投げ出したくなるような悲しみ。いつも感じていたそれはきっと寂しさだった。どうにも出来ない息苦しさに顔を歪める。

 

「何を待ってる」

 

 並び立つ凪の問いにウタはかぶりを振った。

 

「もう待たないよ。待ってるだけじゃ何も変わらないから」

 

 望んだ人も、新時代も。

 何もかもが遠い。

 

 だが、自分には歌がある。

 世界中どこまでも響き、全てを塗り替える歌が。

 

 高揚に煌めく紫の瞳。両の足で舞台を踏み締め、歌姫は口の端を引き上げた。

 

 

「私は新時代を作る女、ウタ。歌でみんなを幸せにしてみせる!」

 

 

 歌姫の力強い言葉に秘めやかな笑声が追随する。

 

 

「ならば、旧時代のおれはせめて露払いでもするとしよう」

「うん。お願いね、ローさん」

「任された」

「あっ、でも、やりすぎはダメだからね。邪魔してくる人達だって本当は新時代に行きたいのに我慢してるかもしれないわけだし」

「…………」

「ローさん?」

「……善処しよう」

 

 不服そうな革命家を半眼で睨み、歌姫は港へ続く町と向き直った。

 

 響くのは軍靴の音。

 不完全な世界を守る秩序の調べ。

 

 再び曇りかけた心に逆らい、ウタは顔を上げる。

 彼女の傍に佇む異分子もまた、同じく港を眺めていた。浮かぶ笑みは元海賊らしく苛烈で酷薄だ。

 歌姫の視線に気付いた彼は黒衣の袖で口元を覆い、表情を隠す。

 彼もまた今の秩序に思うところがあるのだ。しかし、その感情を制御してまでウタの新時代への道を切り拓こうとしてくれている。

 

 不思議だった。

 最期は一人だと思っていたから。

 

「ローさんはさ、眠れないんだよね?」

「そうなるな」

「じゃあ、特別。私の最初で最後のライブ、最期まで楽しんでいってよね」

 

 声を潜めて囁き、ウタはその場でターンを決める。

 白のワンピースが翻り、風をはらんで儚く揺れた。

 

 不思議そうに瞬いたローが一拍遅れて柔く微笑む。

 

「悪いな、シュガー」

 

 呟きの意味は分からない。

 それでも彼がライブを楽しもうとしてくれていることは分かった。

 

 ウタは機嫌よくステップを踏む。先程オモチャ達がウタを慰めてくれた踊りを真似て踵を鳴らした。

 軽快なタップの調べは舞台へ雪崩れ込んできた海兵達の足音に掻き消されてしまう。

 それでも、歪み弾む心を塗り潰すことなど誰にも出来はしない。

 

 向かう先には立ち並ぶ海兵達と、彼らを先導するが如く白の外套をはためかせる将校格の姿。

 曇り空の下、掲げられた正義の二文字。

 舞台へ進み出れば彼らの視線が突き刺さった。

 敵意、害意、警戒、恐怖。押し寄せる感情の数々は物理的な圧力を感じさせる程に色濃く重い。

 

 思わず足を止めかけたウタの横をヒールの音が通り抜けていく。通り過ぎざまにウタの肩を叩き、ローが前へと進み出た。

 

 響めきに驚愕が混じる。ローの名を呼ぶ海兵らの声に絶望が滲んでいることに気付き、ウタは黒衣の背中を凝視した。

 

「ローさんって結構有名人?」

「お前ほどじゃねェ」

 

 いつの間にやら現出した大太刀を担ぐ姿は確かに強者のそれ。

 だが、本当のところは彼が強いかどうかなど関係ないのだ。

 

 手を取ってくれた。

 それだけで十分だった。

 

「行こうか、ローさん」

「ああ」

 

 ウタが再び一歩を踏み出せば、その歩みに合わせるようにローも続く。

 所詮は即席のデュオ。出会ったばかりの二人の足並みは揃わず、てんでバラバラだ。

 

 

 同病相憐れむときあらば、同悪相助くことあり。

 救世主と革命家。歌姫と元海賊。

 本来交わるはずのなかった道が交差する。

 

 幸福と破滅に彩られた足取りは歌うが如く、二色の靴音が世界へと響いた。

 

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