ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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I believe in you.

 

 

 海賊達が去っていく。

 一等大切な宝物を残して。

 

 波止場に響く涙で形を無くした言葉と声。

 魂ごと枯れてしまいそうなほどに泣き叫び、少女は彼の名を呼んだ。

 遠く漕ぎ出て消えゆく船影に追いすがっては泣き喚き、喉が枯れるまで何度も、何度も。

 

 少女は船着場から乗り出して全身でもがき、去り行く船影へと叫び続ける。

 黒々と深い夜の海へ落ちてしまいそうなその矮躯を抱え、亡国の王は呻きを押し殺した。

 

 背には瓦礫と亡骸の山。

 燃え落ちる町と消えた命。

 一夜にして滅んだ音楽の都。

 

 エレジアは滅んだ。

 歌の魔王の前に崩れ去った。

 

 愛しい家族も、心底誇らしかった国民達も、連綿と積み上げられてきた音楽の技術や心得も、何もかもが喪われてしまったのだ。

 

 残されたのは二人きり。

 

 他にはもう何もない。喪われたものは二度と取り戻す事はできない。

 だが、過去を嘆くばかりではいられなかった。

 

 

 託されたのだ。

 少女の未来と幸せを。

 

 

 喉が張り裂けるほど叫ぶ少女を抱きしめ、王は固く目を閉じる。

 

 これからだ。

 全てを抱え背負い、生きていかなければならない。

 音楽を愛した全ての国民、その魂を慰めるためにもただ伏して嘆くことなど許されるものか。

 

 

 約束を果たさねば。

 

 

 必ずや、彼女の歌を世界へ届けてみせる。

 エレジアが培ってきた音楽、その研鑽の髄を余すことなく伝え、彼女を世界最高の歌姫にしてみせる。

 

 彼女を想って去った彼らにも、いつの日か、天使の歌声が届くように。

 

 それが唯一出来る罪滅ぼしであればこそ、亡国の王は少女をかき抱く腕に力を込めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 喧騒から離れた廃墟に数名の男達が集っていた。

 寂れた空間に揺れるのは割れたステンドグラス越しの陽光。淡い光は人の気配消えて久しい大聖堂を照らし出すにはあまりにか細い。

 

 聖堂の片隅、パイプオルガンの上には埃が薄く積もっている。歳月の感じられる痕跡を指でなぞり、ドフラミンゴは溜息を落とした。

 

 廃教会へと海賊達を導いたのは亡国の王を治る老人だった。

 名をゴードン。

 頭に傷のある、大柄ながらどこか優しげな男だ。

 

 男は語る。

 国民の死に絶えたエレジアで育った、否、彼が育て上げた歌姫の過去を。

 

「ウタはこのエレジアで私が育てた」

 

 育て親と離れ音楽の道に進んだ少女は、ゴードンの薫陶を受けひたすらに技術を磨き上げた。

 亡国の王が語る少女の努力、その鍛錬の影には孤独と寂寞がある。

 

 ドフラミンゴは眉根を寄せ、記憶を辿った。

 

 “世界の歌姫”、ウタ。

 二年という短い期間で圧倒的な知名度を誇るようになった彼女だが、最初から今のような強さを見せていたわけではない。

 

 ゴードンによれば、偶然拾った新型電伝虫により彼女が配信を始めたのが二年前。頂上戦争を経て一つの時代が終わり、世界が新たな動乱の渦に飲み込まれ始めたまさにその頃だ。

 始まりの配信は正直お粗末な物だった。ひどく緊張した様子で棒立ちのまま歌う、幼さの抜けない姿を覚えている。

 しかし、当初ぎこちなかった笑みは人々を元気付けようと次第に鮮やかになり、聴衆の言葉一つ一つに頷く真摯さは時を経る程に深まっていった。

 紫に輝く瞳の深さに妙な既視感を覚えたことを、ドフラミンゴは今でも思い出せる。

 

「元々は歌を聴いてもらうものだったのに、いつの間にか……人々はあの子に救いを求めるようになった」

 

 歌姫の師は声を落とした。

 

「確かにあの子の歌声は皆を幸せにする。だが、それはこんな形ではないはずなんだ」

 

 憂いに掠れる声には後悔が滲んでいる。

 きつく握られた拳を眺めるともなしに見て、ドフラミンゴは眉根を寄せた。

 

 “救世主”。

 救いを齎し、崇め讃えられ、そして全ての祈りに応えるべく世界に反旗を翻した者。

 己が身を焚べ、世界を書き換える愚者。

 

 まったく、覚えがあるはずだ。

 

「気に入らねェな」

 

 吐き捨てたドフラミンゴを麦わらが見上げる。彼が積み上げていた石と木片が崩れ、小さな音を立てた。

 

「麦わら、あの女の能力────」

 

 視線が合ったついでに、至極真面目に語り始めようとしたその時だ。

 

 陽気な音楽が鳴る。

 しかも、派手なレーザー光線つきで。

 

 思わず口をへの字にして振り返れば、音と光の出所であるベポが目を泳がせた。背に負った謎のライブ用ガジェットが誤反応したらしい。

 

「す、すいません」

「誤作動は仕方がねェ。だが、気をつけろよ」

「ごめん、キャプテン────あっ、わ、す、すいません!」

 

 注意したそばから再び流れる陽気なリズムと目を焼くレーザービーム。焦って操作するが故にコントロールを失っているようだ。

 額に青筋を浮かべ半笑いとなる船長に対し、航海士はさらに視線を泳がせる。

 恐らく顔が怖かったのだろう。心外だ。

 なんだかんだ言ってドフラミンゴは身内に甘い。それは信頼の証でもあり自信の表れでもある。クルーがどんなミスをかまそうとある程度はフォローできるという自負があった。

 とは言え、しめるところはしめなければならない。念押しをと口の端を吊り上げたドフラミンゴだ。

 

「ベポ、ライブ気分はここまでだ。おれの言う意味、分かるな?」

「アイアイ、キャプテン……」

 

 ベポがしょぼくれた様子でガジェットの主電源を落とす。ドフラミンゴは額の皺を指の腹で伸ばしつつ視線を戻した。

 緩んだ空気の中、再び石を積み始める麦わら。その傍らでバルトロメオがゴードンに問いかける。

 

「ウタ様は“新時代”を作るって言ってたども、あれはどういうことだべ?」

「ああ、それこそが彼女の計画なんだ」

「計画?」

「そうだ。だが、このままではウタは、あの子は……」

 

 ゴードンが言葉を途切らせ、焦燥も露わに叫ぶ。

 

「頼む、ウタを止めてくれ! ルフィくん、キミの言葉ならばあの子に届くかもしれない!」

「え、おれか? おっさんが言っても聞くんじゃねェかな。一緒に暮らしてたんだろ?」

 

 事態が飲み込めていないのか、はたまた呑気なだけか。こてりと首を傾げる麦わらを見下ろし、ドフラミンゴはこめかみを揉んだ。

 

「麦わら、事はそう簡単にいかねェ」

「なんでだよ?」

「あの女は既に動き出してる。計画だ新時代だとご大層に掲げちゃいるが、何にせよ穏やかじゃねェのは確かだな。おい、国王、歌姫はネズキノコを食ってるんだろう?」

「見たのかね」

「残骸だけな。どうして止めてやらなかった」

 

 ゴードンを睨みつける。押し黙ってしまった彼と替わるようにルフィが疑問の声を上げた。

 

「キノコ?」

「あァ、ネズキノコと言って」

 

 救世云々以前に、麦わらにとっては幼馴染の一大事だ。事態を報せてやるのが元同盟相手としての果たすべき義理だろう。

 やおら口を開いたドフラミンゴの背後、高らかにラッパの音が鳴る。

 

「ベポ! いい加減に──……?」

 

 額に青筋を浮かべ振り返った先、ベポはいなかった。代わりに視界に入ったのは宙に浮かぶ煌びやかな光と共に愛らしい音符達だ。

 呆気に取られたドフラミンゴが手を伸ばすと音符の群が弾けて消える。

 

 現れたのは小さなシロクマ。

 否、見慣れたクルーの見慣れぬ姿。

 

「ベポォ⁉︎」

「クマなんだべ⁉︎」

 

 絶叫するドフラミンゴとつられて声をあげるバルトロメオ、二人の余りの大音声に耳を塞ぐルフィ。三者の視線が注ぐ中、一層愛らしい姿に変貌してしまったベポがバランスを取り損ねて地面にダイブした。

 思わず糸玉でクッションを作って受け止め、手元に引き寄せる。ドフラミンゴの手の中、もはやオモチャと見紛わんばかりのベポが瞬いた。

 

 胸中を襲う驚愕、そして遅れて生じるのはどろりとした怒りだ。

 

 ────よくも。

 よくも、おれのものに。

 

 冷静さを欠いた思考が生来の仄暗い方向へと向かう中、糸に微かな振動が伝う。

 

「アチョ……?」

 

 視線を落とせば、ベポが親指を摩っていた。自身が異常に見舞われたというのに、そのつぶらな瞳は一心に己が船長、そして幼馴染を案じている。

 ドフラミンゴは唇を噛み締め、声を絞り出した。

 

「すまねェ、取り乱した。他に異常は? 苦しいところはねェか」

「アチョ?」

「なんだと⁉︎ まさか言葉も奪われたってのか‼︎ あの女だな⁉︎ よくも……‼︎」

「ア、アチョ! アチョ────‼︎」

 

 一瞬で振り出しに戻る船長と慌てる航海士。己が船長の物騒極まりない凶相を仰ぎ、ベポが甲高い声を上げて制止する。しかし、言葉にならないものだから全く効果が出ていなかった。

 ドフラミンゴは小さなベポを上下に振り、高速で矯めつ眇めつ異常の有無を確認する。その背を叩いたバルトロメオが引き気味に声をかけた。

 

「とりあえず落ち着くんだべ。あー……そう、よく似た他クマかも知れねェし……」

「馬鹿言え! おれがおれのクルーを見間違うわけがあるか!」

「それはそうだども、そんなに振り回すたらクマの中身が出ちまうべ」

「ぐ⁉︎ すまねェ、ベポ、お前のことも考えず。おれとしたことが取り乱した」

「そのセリフも二度目だべな」

 

 茶々を入れているつもりはないのだろうが、律儀なツッコミに腹が立つ。

 怒りに任せてバルトロメオを睨みつければ、やれやれと言わんばかりに肩を竦められた。

 

「言っちゃ悪いがドンキホーテ、ドレスローザからここまでずっと取り乱してるべ? トラファルガーにせよ船員にせよ、大事なもんを前にした気持ちは分かるけんども落ち着きってもんがねェ」

「黙れ麦わらフリーク! てめェと一緒にするな! それにだ、ローのことはそういうんじゃねェと何度言えば分かる⁉︎」

「ほれみろそういうとこだべ」

 

 ルフィに続きバルトロメオまでもが耳を塞ぐものだから、ドフラミンゴは悔しさと混乱のあまり足を踏み鳴らした。

 振動で埃が舞うレベルの狂乱っぷりである。

 

「麦わらァ‼︎ 元はと言えばてめェの幼馴染がしでかしたことだぞ⁉︎ 何とか言ったらどうだ、あァ⁉︎」

「え、おれか? わ、わりィ……? ウタ、アイツ何か変なんだよ。どうしちまったんだろうな?」

「だから今! まさに今! そこの元国王がイチから話してただろうが‼︎」

 

 失礼極まりなくもゴードンを指せば、麦わらは相変わらずの能天気な顔で頭を捻った。経緯を聞いていたのかそうでないのか判然としないその態度に苛立ちが募る。

 

「あの女、ローと似てる。ろくでもねェ思想にとんでもねェ行動力を兼ね備えた至高のカリスマだ。この海じゃそんな奴はごまんといるが、あいつら、よりにもよって選ぶ手法が同じときやがる」

「んー……? トラ男もライブすんのか?」

「ライブ? 何でそうなる」

「ウタと同じ方法だってお前が言ったんだろ」

 

 不思議そうに返した麦わらが宙を見つめ、ごくりと唾を飲み込む。

 

「トラ男に頼んだら呼んでくれねェかな。いいよなァ、ライブ。音楽は楽しいし、好きなだけ肉が喰える。今度はミンゴも一緒に肉焼くか?」

「おれはバーベキューは嫌いだ……じゃねェ! ライブは肉を振る舞う場じゃねェんだよ。そもそもだ、誰が好き好んであんな危険人物のライブに行く?」

「え、ミンゴは行くだろ。だってお前、トラ男のこと褒めちぎってるし大好きじゃねェか」

「だから! そんなんじゃねェって言ってんだろうが! 切り刻まれてェのか!」

「トラファルガーのファーストライブ……賞金稼ぎに海軍に世界政府、医者連中もか。千客万来だべな」

 

 ドフラミンゴの剣幕に胡乱げな顔をする麦わらと乾いた笑いをこぼすバルトロメオ。どうにもこの男共と話していると脱線が過ぎる。

 苛々と腕を組み、ゴードンを睨みつけた。

 

「おい、王様。てめェもてめェだ。仮にも他人に託すってんなら最後まで説明するのが筋じゃねェのか」

「分かっているんだ。だが……」

 

 言葉は濁ったまま続かない。

 ネズキノコの件は説明しづらいようだ。

 当然と言えば当然か。娘同然に育ててきた人間が自害に直走っているのだから。

 

「聞け、麦わら。ローと同じ手段ってのはだな」

 

 再び石を積み始めた麦わらを見下ろし、眉根を寄せる。

 

 妙だ。

 

 麦わらのルフィ。この男はそこまで察しの悪い人間でもなければ馬鹿でもない。

 そもそもである。常の麦わらであれば、仲間を人質に取られ追い回された時点で攻勢に出ている。

 それをまあ、のらりくらりと核心を避けるような何ともらしくない態度。

 

 少なくとも話を聞いていないようでいて最も大事な点だけは理解している。

 それが麦わらではないか。

 

 同じ思考へ至ったのか、バルトロメオが視線を寄越した。困惑の浮かぶ目を見返し、ドフラミンゴは声音を低くする。

 

「……麦わら、聞いてくれ」

 

 ぴたり、と手を止めた青年の背中。

 そこには僅かな、ほんの僅かな、しかし隠しきれない緊張が滲んでいた。

 

 らしくない態度に確信を得る。

 麦わらは話を聞いていないわけではない。

 ただ、知りたくないのだ。

 

 努めて穏やかに。自身の内側から生じる怒りと破壊衝動を捩じ伏せた。

 ドフラミンゴとて大切なクルーに手を出された。許せるはずもない。本当ならばここで麦わらや歌姫に付き合って無駄な時間を過ごす必要などないのだ。

 それでも、ドンキホーテ・ドフラミンゴはこの場に残る。

 

 傷付いた子どもを放置するわけにはいかない。

 ましてやその子どもが守りたいものを一人で抱え込んでいるならば、なおさら。

 

 石を積み上げる音だけが響く。

 近付く気配に神経を尖らせながら、ドフラミンゴは話し始めた。

 

「歌姫の控え室でおれが見た物の話だ。妙な物が転がっていた。ネズキノコという────」

「はーい、そこまで!」

 

 手を叩く音と共に教会の扉が吹き飛ぶ。

 破壊と共に現れたのは件の歌姫だ。

 実体化した音符が宙を舞い、煌びやかに彼女を浮かび上がらせる。

 

 薄暗がりの中、爛々と輝く紫の瞳がドフラミンゴを射た。

 

「あれ? そのサングラス……手配書で見たことあるよ。あなた、もふもふコートの海賊でしょ」

「コートの話はやめろ。あれは一時封印してんだ」

「なんで? かわいくて人気でそうなのに」

「フッフッフ。お前ほどじゃねェさ、世界の歌姫」

 

 歌姫は笑っている。表面上は愉しげに、実に幸せそうに笑っている。

 当たり前だ。

 彼女は救世主たらんとこの場に立った。幸せな世界の旗頭たる彼女は努めて笑顔であるべきなのだから。

 

 悪戯っぽく小首を傾げ、少女めいた仕草のまま歌姫は尋ねる。

 

「褒めてくれてるところ悪いけど、お喋りはおしまい。海賊の皆、そろそろ次の曲にいきたいから大人しく捕まってくれないかなァ?」

「……ウタ、ライブを中断しよう」

 

 緊張に喉を鳴らし、ゴードンが一歩前に進み出た。躊躇いがちなその歩みには何とか歌姫を説得しようという願いが滲んでいる。

 だが、もう遅い。歌姫は既に心を決め、身を焚べる毒を服した後なのだから。

 歌姫は育て親へと向き直ってただ目を細め、冷たい声で問いかけた。

 

「ねえ、ゴードン。なんで海賊と一緒にいるの」

「ぐ……」

「あなたなら分かってくれるって思ってたけど違った? “海賊嫌い”の私を育ててくれたあなたなら」

 

 詰問、否、糺弾か。

 歌姫の言葉に怯んだ国王の陰で麦わらがゆらりと立ち上がった。

 

「ウタ、お前どうしちまったんだ」

 

 その場にいた者全ての視線が麦わらに集中する。

 しかし、麦わらの意識はただ一人、歌姫だけに向けられていた。

 常は能天気に笑い馬鹿のように開いている口が静かな声を紡ぐ。

 

「お前、なんで船を降りたんだ?」

「さっきも言ったでしょ。歌手になるためだって」

「歌手になったって、お前は赤髪海賊団の音楽家だろ」

「…………」

「シャンクス達はお前の夢を応援するって言ってた。だから離れたんだって。歌手になる夢は叶ったんだろ。だったら、戻ればいいじゃねェか、シャンクスのところに」

 

 後で思えば、麦わらの投げかけたそれはきっと問いではなかった。

 言うなれば願い。

 祈りに似た、幼いまでの願いだ。

 

 麦わらは『歌姫の計画』とやらの概要を何一つ理解していない一方で、本質には勘付いていた。

 彼女が何を願ったかではなく、何故こうなってしまったか。彼女を突き動かすものが彼女の夢などではなく痛みであることにすら、きっと気付いていた。

 

 彼女が自身の意思で船を離れたのであればそれでいい。戻らないと決めているのならば、辛くとも飲み込んで笑ってみせる。

 もし、そうでないならば。

 

 だが、どんな形であれ幼馴染の決意を無碍にしたくない。しかし、一方で彼女に苦しんでほしくもない。

 

 願わくば笑っていてほしい。

 

 そう思ったからこそ、彼は拙い祈りを言葉にしてしまったのだろう。

 

「なァ、ウタ。シャンクスは────」

「やめてよ……シャンクスの話は聞きたくない!」

 

 それは聖堂全体を揺らすほどの絶叫だった。

 

 血を吐くような叫びに呼応し吹き荒れる暴風。その場にいた全員が顔を覆う中、嵐は各々の心を乱し、大切なモノを奪い去っていく。

 

 

 例えば、思い出の麦わら帽子。

 例えば、かけがえのない仲間。

 そして、誰かを大切に願う思いまでも。

 

 

 風に巻き上げられた麦わら帽子を追い、ルフィが手を伸ばした。しかし、その指を拒むように音符の洪水が襲いかかる。

 ドフラミンゴもまた、吹き飛ばされたベポを追おうとし、しかしすんでのところで足を止めた。

 

 駄目だ。

 状況も把握しないまま己が身を顧みず進めばベポに申し訳が立たない。

 

 木片に埋もれながらも手を突き出し無事を主張するベポに気付き、安堵の息を漏らす。

 

 麦わらの様子を窺えば、矢も盾もたまらずの様子で飛び出そうとしている。実体化した音符に拘束されたままなおも帽子に追い縋ろうとしたその肩をバルトロメオが掴んだ。

 青年は動きを止められながらも大声で叫ぶ。

 

「ウタ、何すんだ! 帽子返せ!」

「うるさい、うるさいうるさいうるさい!」

 

 返ってきたのは麦わらの声をかき消すほどの激昂。

 

 全容の知れぬ能力で宙を舞っていたはずの歌姫はいつの間にか地に降りていた。彼女は暴風の中で苛々と足を地に叩きつけ、金切り声を上げ続ける。

 

「なんであんたがこんなものを大事に持ってるの⁉︎ 分かってるの⁉︎ あいつは海賊だよ⁉︎ 皆を不幸にする大悪党なんだよ⁉︎」

 

 息を荒げて訴えた直後、歌姫は糸が切れたように肩を落とした。

 

「“海賊王”に“ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)”、そんなの悪党共の戯言じゃない」

 

 顔は伏せられ表情を窺い知ることすら許されない。ただ一つ分かるのは、彼女の精神が限界を迎えつつあることだけ。

 

「皆を苦しめて、他人の幸せを踏み躙って……大海賊時代なんかにうかれる奴らも、シャンクスの帽子だって、なにもかも全部くだらない」

 

 零れ落ちる重く暗い怨嗟。

 それは救世主という輝かしい仮面の隙間から漏れ出る民衆の怒りと恨み。人々に望まれ歩み続ける彼女が心に溜め込んだ真の猛毒だった。

 結局のところ、麦わらの問いと願いは、毒に冒された彼女の精神に大きな亀裂をいれてしまったのだ。

 

 そう。

 この世界において、幼い願いが叶うことなどないのだから。

 

「ねえ、ルフィ。もうやめなよ。海賊王なんてくだらないものばっか追いかけてないでさ。昔みたいに一緒に遊ぼうよ」

 

 震える喉を押さえ、歌姫が顔を上げた。

 引き攣った笑顔を浮かべ、彼女は小首を傾げる。

 

「大丈夫、ここにはなんだってある。私が何でも作ってあげるよ。楽しい遊びもおいしいごはんも昔みたいな勝負だって、何だって用意できるんだから」

「何言ってんだ! 今は遊びの話なんてしてねェだろ⁉︎ 帽子を返せ!」

「……ルフィやルフィの友達が笑顔で過ごせるようにしてあげる。海賊なんてやめていいんだよ。ここではね、みんな自由なんだ。だから、がまんしないで────」

「いい加減にしろ、ウタ! ふざけてねェで返せ! シャンクスの帽子!」

 

 噛み合わない会話に歌姫の瞳が再び翳った。

 宙に浮かんでいた麦わら帽子を手に取り、彼女は目を伏せる。

 

「ああ、そっか。あいつは、私じゃなくてあんたを選んだんだ」

 

 低く静かな声だった。

 風の消えた海のごとく、全ての情動がひび割れ壊れた凪の音色。嵐の前の静寂。

 

 まずい。

 

 背中に伝う冷汗から意識を逸らし、ドフラミンゴは視線を巡らせる。

 入り口には歌姫、その背後には追いかけてきた観客達と能力で生み出された槍兵達。正面突破は困難だ。

 聖堂の隅にベポ、奥にゴードン、残る三名は中央、急場凌ぎの連結は可能だが歌姫の捕捉範囲内。

 ならばと、後ろ手に紡いだ糸でベポとゴードンの周辺に不可視の盾を張る。

 

「だから、か。わかったよ」

 

 歌姫が麦わら帽子で口元を覆った。

 冷気を感じさせるほどの眼光がルフィを射る。

 

「ルフィ、あんたにはここが必要ないんだ。なら、あんたは────」

「“荒浪白糸(ブレイクホワイト)”!」

 

 突如、聖堂入口付近全域が崩れ白糸に変貌。波濤となった糸の海が歌姫を襲う。

 目を見開いた歌姫が糸の荒浪に飲まれ、数多の悲鳴が上がった。

 

 まだだ。

 まだ悪寒が消えない。

 

 救世主の危機に怯え憤る民衆に背を向け、ドフラミンゴは範囲を限定しながらも間髪入れず立て続けに技を放つ。

 

「“海原白波(エバーホワイト)”! “大波白糸(ビローホワイト)”‼︎」

 

 糸となり解けゆく聖堂の質量、大海原のごときその全てが歌姫へと殺到した。同時に、聳え立つ白波の槍が次々に音符の槍兵らを貫き霧散させる。

 しかし、足りない。

 この程度で止まる女には見えない。

 推測を裏付けるように、歌姫を包む糸繭の隙間から赤い光が漏れ始めていた。

 

 制圧は不可能。

 この場は撤退するしかない。

 

 脳内で響く警鐘に導かれ、ドフラミンゴは叫ぶ。

 

「ベポ! あとは頼む!」

「────アイアイ、キャプテン!」

 

 ドフラミンゴの意図に気付き、バルトロメオがルフィを抱え込む。

 ルフィが何か喚いているが無視。有無を言わせず二人を引き寄せ地を蹴り跳躍した。

 そのまま上空の雲へと糸をかけ一気に上昇、急激な加速による負荷を気力で捩じ伏せ空を駆ける。

 

「何すんだ、ミンゴ! ウタが!」   

「黙れ! あの程度で死ぬ女じゃねェだろうが!」

 

 叫ぶ麦わらに怒鳴り返せば、二人の声に応えるかのように閃光が迸った。

 糸の繭へと姿を変えていた聖堂が一撃で解け、白の雪片となって空を舞う。

 

 四皇をも拘束した覚醒技を、こうも容易く。

 

 絶句したドフラミンゴだったが立ち止まっている余裕はない。変わらず叫び続ける麦わらを無視して滑空、包囲網の薄い崖へと降り立つ。

 

「おい、人食い。この馬鹿を閉じ込めろ」

「申す訳ねェ、ルフィ先輩! “バリアボール”!」

「あっ、ロメ男! 出せ!」

 

 喚く麦わらごと球状の結界を蹴り転がしながら、ドフラミンゴはぎりりと歯噛みした。

 

 胸を占めるのは後を託したベポのこと。

 

 無事だろうか。

 元より歌姫をどうこうするつもりなど毛頭ない。ゆえに放った技全て、攻撃ではなく防御と拘束に強度を振ってはみたのだが万が一もありうる。

 

 ざわめき続ける意識を平すべく頭を振り、片手で胸のペンダントを探った。

 指でチェーンをなぞり、拳で握り込む。

 手に馴染む熱に救われながらも、ドフラミンゴは唇を噛み締めた。

 拭いきれない不安が首を擡げて胸の内を苛む。

 

 

 この島にはトラファルガー・ローがいるのだ。

 

 

 これだけ派手に事が起きているというのに、姿を隠したままの黒衣の男。

 もし、あの男が歌姫の背後についているならば、状況は既に詰んでいる可能性すらあった。

 

 焦燥感に背中を焼かれ、ドフラミンゴは再びかぶりを振る。

 

 

 違う。

 そんなはずはない。

 

 

 絶望から生まれ失意を頼りに紡がれる新時代にあの男が賛同するはずはない。

 トラファルガー・ローがドフラミンゴとの、そして、彼女(コラソン)との約束を破るはずがない。

 

 

 何にせよ、信じよう。

 今は、それしか。

 

 

 遠く小さくなりゆく聖堂を振り返った。

 

 解け去り、跡形もなく崩れた教会。

 人も信仰も死に絶えたはずのそこで新たな喝采が上がる。

 

「……哀れなもんだな」

 

 ドフラミンゴの呟きは誰にも届かず、廃墟となった町並みへ消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海賊達の去った聖堂跡。

 亡国の王と歌姫は向いあっていた。

 否、向かい合うというには互いの距離がある。それが物理的なものであれ、心理的なものであれ、二人の間には大きな溝が生まれていた。

 

 ウタが観客達に海賊を追うよう明るく伝えれば、その場に残るのは二人きり。

 沈黙が落ちる。

 やがて溢れたのは小さな笑声だった。

 

「悲しませるつもりなんかなかったのに、なんでそんな顔してるの」

「ウタ、私は……」

「ああ、それとも勝手にライブなんか開いてたくさんの人を呼び込んだから、困らせちゃった?」

 

 僅かに顔を上げ、ウタの様子を窺った。

 張り詰めた様子ながら何とか平生通りに話そうとする彼女。しかし、その手は微かに震え、麦わら帽子のつばを頼りなく掴んでいる。

 

 

 止めなければ。

 何とか、この子を引き戻さなければ。

 

 

 ゴードンは拳を握りしめ、意を決して言葉を放った。

 

「ステージライブにしたのには、意味があるんだろ?」

「え?」

「お前の能力なら配信で事足りたはずだ。エレジアに皆を呼び込んだのには、計画とはまた別の理由があったんじゃないのか」

「…………」

「会いたい人がいたんだろう?」

 

 眉間にしわを寄せたウタは手にした帽子で口元を隠す。そうしていると、怒っているのか悲しんでいるのかすらわからない。

 彼女は言葉を返さず、まるで乱れたリズムを取り戻すように数度踵で地を叩いた。

 幼い頃からの癖だ。

 歌の才能に恵まれた彼女だったが、その実、言語化そのものは得意ではない。旋律にのせれば伝えることの容易い心も、ただの言葉となると紡ぐことが難しいのだろう。

 

 だからこそ、昔から彼女は得意だった。

 悲しみ、辛さ、恐怖、寂しさ。そういった感情を胸に閉じ込めてしまうことが。

 

 それでも、溢れ出す情動の一筋が瞳に影を呼ぶ。

 

「分かってたんだ。じゃあ、怒ってるよね? エレジアを滅ぼした海賊を……一番酷い極悪人を呼ぼうとしたんだもの」

「ウタ! 私はお前にこんなことをしてほしくはない!」

「『こんなこと』ってなに。新時代のこと? それとも、シャンクス達とけりをつけようとしたこと?」

「全てだ! お前の歌はこんなことのためにあるんじゃないだろう⁉︎」

 

 激しく言い募るゴードンから一歩離れ、ウタはかぶりを振った。項垂れた紅白の髪が項垂れ、彼女の動きに振り回されて揺れる。

 

「ゴードン。ずっと一緒にいて、たくさん褒めてくれたでしょ。私の歌は世界を幸せにするって、そう言ってくれた」

「そうだ。お前の歌は皆を幸せにする。だから────」

「約束するよ。きっと、あなたの望んだ私になる。なってみせる。信じてくれるよね?」

 

 顔を上げ、ウタは静かに告げた。

 

「今更、何を言われてもやめないよ」

 

 表情の消えた顔の中、瞳だけが爛々と輝いている。膨れ上がるプレッシャーに気圧されゴードンが口を噤めば、彼女は口の端を緩めた。

 

「安心して、ゴードン。シャンクスは来なかった。新時代はもう止められないけど、あいつの顔は見ないで済む」

 

 救うべき民衆の去った聖堂跡。

 救世主は心を隠し戯けた笑顔で両腕を広げる。

 

「ほんのついでだったし、これでいいんだよ」

 

 待ち人は来ず。計画は既に始まってしまった。残された時間はあと少し。

 新時代まで、あと少し。

 

 黙り込むゴードンに一歩近付き、ウタが囁いた。

 

「ねえ、ゴードン。私ね────」

 

 

 それは唐突な変化だった。

 

 

 何事かを紡ぎかけた唇が凍り付く。一気に青褪めた彼女はふらふらと後退りその場にへたり込んだ。

 声をかける間もない。

 

 そして、歌姫は頭を抱え絶叫した。

 

 

「やめて!」

 

 

 思わず駆け寄り肩を支えた。

 吹き飛ばされた際強か打ちつけた身体が痛みに軋む。だが、そんなことはどうでもいい。

 

 ウタが心配だった。

 

 背を小さく丸め、がたがたと震えているウタ。顔を覗き込めば、大きく見開かれた瞳に涙が滲んでいる。

 

「やめて、もうやめて!」

「ウタ! 急にどうしたんだ⁉︎」

「怖い、こわい! やだ、やだやだやだ! やめてって言ってるのに、なんで⁉︎」

 

 ウタは叫びながら地面を幾度も殴りつけた。

 まるで己が手を潰そうとでもしているような激しさで、幾度も。

 

 ウタワールドにおいて彼女は無敵だ。

 いくら地を殴りつけても擦り傷一つすらつかないその手を掴んで止める。

 今の彼女に痛みがあるのかすらゴードンには分からない。それでも、傷ましい彼女の姿をただ見ていることなど出来るはずもなかった。

 

「ウタ! しっかりするんだ!」

「やだ……やだよ、なんで、なんでとめてくれないの? じゃなきゃ、私、わたし、また……!」

 

 両腕を掴まれて身を起したウタは、茫洋とした様子で宙を見つめている。

 一粒の涙が頬を滑り落ち、戦慄く唇が弱々しく音を紡いだ。

 

「わたし、また、ころしちゃう」

 

 零れ落ちた言葉に息をのむ。

 

 

 ────()()

 

 『また』とはなんだ。

 

 

 ウタは外界とは隔絶されたこのエレジアで育ってきた。それ以前、海賊時代においても荒事の際は決まって舟番だったと聞いている。

 何かを害したり殺したことなどなかったはずだ。

 

 

 まさか。

 

 

 一抹の不安が過ぎる。

 否、そんなはずはない。彼女がエレジア崩壊の真実を知るはずはない。

 生き残ったのはゴードンとウタだけ。

 赤髪海賊団は一等大事な宝物の代わりに、全ての真実を宝箱に詰め込んで水平線の彼方へと去っていったのだから。

 

 元より、ウタに罪はないのだ。

 全ては迂闊だった己が悪い。

 国王としても、魔王の伝承を知る者としても、一人の音楽家としてもしてはならないことをした。

 

 もし、あの晩、彼女の歌声をエレジア全土に届けようなどと思わなければ。

 最後だからと次々に歌わせなければ。

 そう思う一方で気付いている。

 そんな選択はあり得ない。彼女の歌を、天使の歌声を、小さな国の城のホールのみに留めることなど出来はしないのだ。

 

 もし、過去に戻れたとして、それでもきっと、ゴードンはトットムジカの出現を阻むことはできない。

 だから、歌に罪はない。

 ウタに罪はない。

 

 本当に罪深く愚かだったのは他の誰でもないゴードン自身だ。

 そのはずだった。

 

 動揺するゴードンの腕の中、ウタが身じろぎをした。

 我に返り、肩を支え直す。

 

「どうした? 向こうで何かあったのか?」

「……あなたには関係ない」

 

 一段低くなった声から感じられるのは拒絶ではなく閉塞。ウタはゴードンの手を押し退け囁いた。

 

「気にしないで。なんでもない」

 

 ウタはふらりと立ち上がる。頼りなく震えたままの唇を引き結び、彼女はいつものように微笑んだ。

 

 

 そう、いつものように。

 

 

 ウタは気丈な子だ。

 ゴードンの前では涙を浮かべないよう、努めて笑顔でいたことなどとうの昔に知っていた。

 

 全てを知り、その気遣いと深い傷に胸を掻きむしられながら、ゴードンは見て見ぬふりをしてしまったのだ。

 

「何があったんだ」

「本当になんでもないよ。現実世界(あっち)で変な人に絡まれただけ」

「もう海兵が来たのか……?」

「…………」

「ウタ、やめよう。世界政府や海軍、いや、世界中が黙っていない。私はお前を危険な目に合わせたくないんだ」

 

 呼びかけに答えはない。それどころか、ウタは視線も合わせてくれなかった。

 当然だ。

 ゴードンは彼女を救おうとしなかった。ただ漠然と、彼女が救われるのを待っていた。それだけだったのだから。

 

「止めないで。邪魔をするならあなたも捕まえなきゃいけなくなる。それは嫌なの」

 

 そう言って、ウタは眦に浮かぶ涙を乱暴に拭う。

 

 彼女は涙を見せたがらない。

 今も、昔も。

 

 思わず手を伸ばした。しかし、指先はウタの腕を掠めるだけで届かない。

 彼女が後退ったのだと気付き、焦燥と後悔が胸を焼く。

 

 この手は何も掴めないまま。

 ああ、違う。

 己は迷ってばかりで遅きにすぎた。

 何もかも知っていたというのに。

 

 唇を噛み締めた。だが、思うだけでは何が変わるわけでもない。何も変えられないからこそ、今、ウタは救世主となる覚悟を決めてしまったのだ。

 

 ただ見つめる瞳。燃えるアメジストの光が瞬き、亡国の王を射抜いた。

 

「ゴードン。私、知ってたんだ」

 

 静かな告白に息が止まるような錯覚を覚える。

 ゴードンの動揺を他所に歌姫は淡々と問うた。

 

「どうしたの? 変な顔して」

「何を……何を知ったと言うんだ」

「これのこと」

 

 あの晩のことであれば、何が何でも否定し隠し通さねば。

 そう考え身を乗り出したゴードンは、しかし、ウタが手にした紙片に気付き青褪める。

 

「まさか……!」

 

 その手にあったのは古めかしい譜面。

 悍ましくも美しい古の歌、“トット・ムジカ”。

 

 惨劇の夜、炎に呑まれる町から拾い上げてしまったあの楽譜だった。

 

「お城に隠してあったの、見つけちゃった。古い言い伝えがあるんだよね?」

「だめだ、ウタ! その歌を歌ってはいけない!」

「どうして? これを歌ったらどうなるの? 古の魔王って何? どんなことが起こるか、あなたは知ってるの?」

 

 首を傾げ、ウタは歪に微笑む。

 

「それとも、見たことがあるのかなァ?」

「────────ッ!」

 

 凍り付くゴードンから視線を逸らし、歌姫は能力を行使した。

 指先から迸る五線譜がゴードンを捉え、宙空で磔にする。

 必死に踠く師を見上げ、歌姫は自身の顔を楽譜で覆い隠した。

 

「大人しくそこで待っていて。新時代がくれば自然に解放されるから安心していいよ」

 

 強いて冷たく聞こえるように押さえているであろう声。共に暮らした日々の記憶がそこに滲む微かな感情を読み取る。

 

 罪悪感。

 彼女が抱え続けたもの。

 ゴードンとの間に一線を引いたその理由。

 

 誤魔化しきれていないことに彼女自身も気付いていたのだろう。

 祈るように紙面に額を押し付け、ウタは小さな声を零す。

 

「本当はこんなの言っちゃ駄目なんだろうけど、最後の我儘を聞いてくれる?」

「なんでも聞く! なんでも聞くから、最後だなんて言わないでくれ!」

「ごめんなさい。私、嘘は嫌いなんだ。嘘は人を苦しめるから。私は嘘吐きになりたくないし、あなたに嘘をつきたくない」

 

 楽譜を握りしめたウタの手。力のこめられた指先は白く色褪せ、小さく震えていた。

 まるで幼い少女のように屹然と彼女は告げる。

 

「だから、本当にこれが最後の我儘。お願いゴードン、私を止めないで」

 

 言葉をなくしたゴードンを見つめ、彼女はふいに微笑んだ。

 

「あなたには幸せになってほしいんだ」

 

 それは柔らかな声だった。

 慈しみ愛おしむような、彼女らしいどこか寂しげで、どこまでも優しい声だった。

 

 ゴードンの目の前でウタが再び能力を振るう。

 

 指先の動きに合わせ古の楽譜が縮んだ。

 小さくなったそれをヘッドホンに格納し、歌姫はくるりと背を向ける。

 

 

 行ってしまう。

 一等大切な宝物が、遠くへ行ってしまう。

 

 

 どうにか止めよう、追い縋ろうと足掻けども五線譜は離してくれない。まるで呪いのようにこの身体は動かない。

 

 遠ざかる彼女の背中へ無我夢中で叫んだ。

 

「ウタ、私にはお前こそが!」

 

 実体化した音符に飛び乗り去って行くウタ。

 その肩が未だ震えているような気がして、ゴードンは声を張り上げる。

 

「ウタ、行かないでくれ! ウタ!」

 

 物陰に隠れていたミンク族の海賊が姿を現し止めるまで、ゴードンは叫び続けていた。

 

 

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