ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ 作:ladybug
頂上戦争から二年、まるでいつか訪れる大嵐の予兆が如く、小さな変化が巻き起こり続けていた。
世界の歌姫、ウタ。
彼女の登場はその最たるものであっただろう。
片田舎の亡国から発信される歌声は、海賊を否定し民衆を代弁する。その音は瞬く間に響き渡り、今や彼女を知らぬ者の方が少ないほど。
暗き時代に突如現れた輝きに多くの人間が魅了された。彼女の歌は太陽のように普く世を照らし、救いの手すら届かない世界の片隅、暗く閉ざされた民衆の心にすら届いている。
彼女によって齎されたのはほんの一時の救い。時代の荒波を越えて生き抜くためのよすが。しかし、その僅かな光をこそ人々は求めた。
自由に祈る心さえ潰えかけた彼らにとって、彼女の歌は幸せを教えてくれるただ一つの道標だったのだ。
皆が彼女に縋るようになったのは至極当然のことであった。
たとえるならば、星。
宵闇に惑う旅人に降る淡くも確かな調べ。
もちろん、彼女の歌は日々の糧にはなり得ない。しかし、心を満たされた人々はそれを救いと呼んだ。
救いも幸せも知らないまま死ぬはずだった民衆が、生きる力に目覚めたのである。
分かるだろうか。
富も名誉も命さえも奪われることが常のこの世界で、ウタは与える側の人間だった。
彼女だけがただ救いを与える人間だったのだ。
エレジアには小雨が降り注ぎ、曇天の薄暗がりの中、多数の気配が犇めき合う。
舞台に観客席にと溢れかえる海兵達。彼らを率いる将校の一人、モモンガ中将は苦虫を噛み潰したような顔で舞台中央を睨みつけていた。
「トラファルガー・ロー、貴様が裏についていたのか」
鋭い糾弾には応えず、黒衣の男は目を伏せる。
元海賊トラファルガー・ロー。彼が王下七武海に属していた頃、幾度か顔を合わせたことがあった。
ドレスローザ防衛への寄与を切符に七武海入りしたトラファルガーは、当初相当に煙たがられていた。
最強生物との悪名も名高き四皇と競り合う猛者なのだ。当然の警戒であろう。
しかし、当の本人はといえば至って従順。軍の担当者以外からは遠巻きにされながら、海軍の招集にも素直に応じ続けていた。
戦場では消極的に後衛と支援を担い、逆に災害時などは呼ばれもしないのに最前線に現れて救援に加わる変わり者。態度こそ荒くれ者らしさを装ってはいるが、言動の端々に『らしくなさ』の滲む海賊だった。
戦うよりも人々を治療している姿が自然ですらあり、事実、作戦よりも人命を優先する彼の選択には多くの海兵が救われている。
だが、海賊は海賊。
結局は全て偽りで、トラファルガー・ローは海軍を裏切り世界の敵となった。
実に四割を超える数の海兵を引き連れて、だ。
知己であったミンク族の元海兵の姿を思い出し、モモンガ中将の顔はさらに歪む。
海軍将校の苛烈なまでの視線の先、世紀の煽動者二人が首を傾げていた。
「ローさん、本当はトラファルガー・ローっていう名前なんだ」
「そうだ。呼びにくいか?」
「呼びにくくはないけど咄嗟には呼べないか。それとも一応年上だしもう少し敬った方がいい? ガーさんとかトラさんとか?」
「海軍にも似たような呼び名の奴がいる。面倒だから名前で呼んでくれ」
雨に濡れながら佇む歌姫と元海賊。二人は密やかな声で囁き合う。
妙に穏やかな空気を纏う様は世界を滅ぼそうとしている極悪人には見えない。
騒めく部下達を制し、モモンガ中将は一歩前へと進み出る。
「観客を解放してもらおう」
油断なく大太刀を掲げる中将を見上げ、歌姫がうっそりと笑った。
「あなた達に言われなくてもそうするつもり。皆を自由にするのが私の役目だから」
「お嬢さん、あんたの言う自由ってのはこの世界からの解放、そういう寸法ですかい?」
舞台上手から進み出てきたのは盲目の剣士、大将“藤虎”だ。彼の後ろには大勢の海兵が詰め寄せ、それぞれに武器を構えている。
「お嬢さん、いやお二方。ネズキノコを食べやしたね?」
何かを嗅ぎ取ったのか。“藤虎”が鼻をひくつかせ、一段低い声で問うた。
ネズキノコとやらには聞き覚えがない。
能力者に作用するものだろうか。
眉を跳ね上げた中将に見えるよう、黒衣の男がバスケットを掲げる。見れば、籠の縁からはパステルカラーのキノコが顔を覗かせていた。
「ネズキノコってのは────」
トラファルガーが話し出すと同時、歌姫が籠へと手を伸ばす。キノコを齧る彼女を完全に無視し、説明は続けられた。
「この通り、キノコの一種だ。食べると眠ることが出来なくなる。体力消費が激しくてうっかり寝落ちしちまう能力者にとっては夢の食べ物だな」
トラファルガーの言にモモンガ中将の眉はさらに吊り上がる。
成程、件のキノコを使って無理矢理に意識を覚醒させ続け、限界を超えた能力行使を可能としているということか。
特にウタウタの能力については厄介だ。ウタワールドに囚われた民衆を救うには、歌姫を殺さず能力を停止させる必要があるのだから。
中将が策を巡らせ始めたのも束の間、“藤虎”が衝撃の一言を放つ。
「それが死と隣り合わせの代物でも、ですかい?」
「いつだって生と死は隣り合わせで地続きだ。善悪と一緒だろ。なァ、中将殿?」
「戯言を……」
嘯くトラファルガーを睨みつけた中将は、一拍遅れて事の重大さに気付いた。
ウタワールドに誘い込まれた者は自力では現実世界に帰ることができない。
そして、ウタウタの能力者が死ねばウタワールドへの扉は永遠に閉ざされるのだ。
取り込まれた民衆を残したまま。
青褪めて“藤虎”に視線を送れば、緊張の滲む肯定が返ってくる。
「まさか貴様ら、観客を巻き込んで心中するつもりか!」
中将の剣幕にトラファルガーが肩を竦めた。その横でキノコを咀嚼し終えた歌姫が心底嫌そうに否定する。
「心中って、私がローさんと? おかしなこと言わないでよ」
「まったくだ。邪推も過ぎると妄想癖の誹りを受けるぞ。おれ達はたまたま同じ日にたまたま同じ手段で死ぬだけだ」
「死ぬ? ローさんも何言ってるの。大事なのは身体じゃなくて心。“新時代”は心で生き続ける、みんなが自由になれる時代なんだよ」
「そうは言ってもこのままだとおれは死ぬが」
「ローさんは勝手にキノコを食べたんでしょ。嫌なら今からでも解毒剤を探しに行けばいいじゃない」
歌姫に素気無く毒吐かれ、元海賊がそっぽを向いた。
戯れ合うような二人の様に怒りが込み上げる。
呆れるほどに子どもじみて馬鹿げた行動だ。こんな狂人共のために世界全体が危機に陥っているとは。
大太刀の柄を握り締め、モモンガ中将は一歩前へと進み出た。同時に“藤虎”が鯉口を切る。
「お二方、今一度考え直しちゃあくれませんか。この世界転覆計画を」
能力など使わずとも海軍将校の放つ殺気は別格だ。
本来ならば、世間知らずの小娘など呼吸よりをなお容易く制圧できる。
しかし、死を前にしてもはや圧など感じていない歌姫は不可解なものを見る目で“藤虎”を見返すだけ。
暫く考え込んだ彼女は突然柏手を打った。
そして、実に不満げに眉を跳ね上げ、並び立つ男の袖を引く。
「ちょっとローさん、世界転覆計画って何。私、知らないんだけど」
「なにおれのせいみてェに言ってる。お前の
「え⁉︎ 違うよ! 私は皆に幸せになってほしいだけなのに!」
「じゃあ皆が幸せになったら困る世界なんだろ。いいじゃねェか。そんな船、転覆させちまえ」
元海賊が気のない様子で唆す。
事実、この三十年に渡り、陰に陽にと数十の国家を転覆させ壊し続けた男だ。彼にとっては世界転覆など日々の延長にすぎないのかもしれない。
海賊共は行動の結果、世界の均衡を傾ける。しかし、トラファルガー・ローは世界の均衡を蹴り崩すことにこそ目的を置いているのだ。
好き勝手に秩序を食い荒らし世界を混乱に陥れ続ける獣を前に、中将は憤怒の唸りをあげた。
「貴様らがそのつもりならば、力尽くでも止めさせてもらう!」
歌姫の胴を狙い、弧を描く大太刀。彼女が死んでは観客を現実世界から引き戻す手段が失われる。故に、抜かずの殴打だ。
振り抜かれた大太刀は、しかし、鈍い音を立て宙空で静止した。
大太刀を受け止めたのは黒のヒールだ。トラファルガーは裂帛の一撃を文字通り一蹴。そのまま踏み込んで大太刀の切先を強制的に地へと叩きつける。
舞台を揺らすほどの衝撃によろけた歌姫の背を支え、黒衣の男は流れるように妖刀を掲げた。放たれたのは攻撃ではなく牽制。鞘に入ったままの妖刀が閃き、“藤虎”の抜刀を制止する。
「相も変わらず、海兵ってのは躾がなってねェ」
相変わらずの無表情で将校格を見上げ、トラファルガー・ローは刀を引いた。攻撃の意思は見られない。
地に縫い止められていた刀を呆気なく解放され、モモンガ中将は声も低く問う。
「よもや刀も抜かず我々に対峙しようとは思っていまいな」
「まさか。大将もいるってのに徒手空拳で抗う馬鹿はいねェよ。ただ、今日のおれは護衛役でな。雇い主から手荒なマネは極力避けるように言われてる」
「雇い主だと? トラファルガー、貴様が煽動しているわけではないのか」
困惑のまま投げかけた問いに答えはない。
ぎりりと歯噛みする中将を制し、盲目の剣士が朴訥と語りかける。
「歌姫のお嬢さん。あんたァ自分のしでかそうとしてることについて、どこまで理解してるんです?」
「何が言いたいの?」
「独りよがりに架空の世界を作り上げ、人々を無理矢理閉じ込める……これァ独善や監禁と同義じゃあありやせんか」
問い、否、糾弾に対し、歌姫は不愉快さを隠そうともせず鼻頭に皺を刻んだ。
「何それ、全然違うでしょ。私が作るのは皆の望む世界だよ。皆が幸せになれる場所へ導いてるだけ」
「はァ、左様で。一つ聞きやすが、市民の皆さんがあんたの言う“新時代”を否定し逃げ出したいと願った時、どうする心算ですかい」
「待って、意味が分からない。皆の望む世界なのに、嫌がる人がいるわけないじゃない。それに嫌なことは忘れちゃえばいいし、楽しいことが足りなければまた作り出せばいいだけの話でしょ」
「……どうやら、話の通じる相手じゃあねェようで」
低く呟く“藤虎”を睨み付け、歌姫は苛立ちも露わに声を上げた。
「ねえ、ローさん。この人達、何が言いたいの?」
「馬鹿なことを聞く。正義の味方の考えることなんざ悪者退治以外ねェだろ」
「悪者は海軍の方じゃない。何にも出来ないくせに、皆の幸せを邪魔しようとしてるんだよ」
ギリギリと爪を噛み、歌姫が辺りを睥睨する。
「どうしたらいい? なんだかものすごく嫌な気持ちなの。こういう時どうするのか教えてよ、ローさん」
「どうもこうも、お前の好きにすればいい。ここはお前のステージで最後の晴れ舞台だ。違うか?」
「私の好きに?」
明らかに精神に異常をきたしている歌姫を見つめ、黒衣の男が曖昧に笑む。
トラファルガー・ローという人間はいつもこうだった。彼は明確な答えを返さない。それどころか頷きすらしない。
そうして浮き彫りになるのは質問者の思い。トラファルガーの思考は霞のように消え、質問した側の心が丸裸にされるのだ。
数多の正義がこの微笑みに突き崩された。
ある者は赦されたと思い込み、ある者は『あなたは正しい』と後押しされたように錯覚する。
そこにトラファルガーの意志はない。
例えるならば、トラファルガー・ローは鏡だ。
迷い辻に置かれ、歪みを僅かばかり大きく映すだけの壊れた鏡だ。
過つのは人ばかり。
鏡のバケモノは何もしない。
決して、何も。
トラファルガーは表情を消し、一歩下がった。その姿はまさに
やはり、この男が幼い願いを飲み込み、歌姫を歪めたのだろうか。問うたところで答えはないだろう。
真偽はともかくとして、事態がこれ以上悪化する前に歌姫共々無力化する他ない。
部下の一人が緊張に喉を鳴らす、その音がやけに響く。
「私の望み……」
切迫した空気の中、歌姫がだらりと両手を落とした。口元を隠していた袖口が頼りなく風に揺れる。
「私は悪い人のいない“新時代”を作る。それを邪魔する人達は絶対に許さないよ」
暗い呟きの直後、歌姫が息を吸った。
まずい。
遮音装置を耳に押し当てる。モモンガ中将に僅かに遅れ、海兵らも機器を装備した。
軍技術部の特別製で、特定の音を遮断しながらも兵同士は通信を可能とする最新鋭の機器だ。
唇を薄く開いたまま、歌姫が首を傾げる。
危うい光の揺れる瞳を見返し、中将は声を張り上げた。
「歌なき歌姫など恐るるに足るまい!」
「お前さんがた、覚悟はよろしいか」
「覚悟?」
膨れ上がる将校らの威圧を真正面から受けながら、歌姫は目を細めた。
唇が弧を描き、瞳に妖しい光が灯る。
「あなたたちこそ、ね」
言葉の意味を探る間もなかった。
異様な気配と共に上空が翳る。
振り仰げだ先に見えたのは二人の海兵。
そこにいるはずもない二人の姿に異常を察知し、中将は短く指示を叫んだ。
「下がれ!」
通信を通じて届いた警告に反応出来たのは僅か数名。思いもよらぬ襲撃に舞台上の海兵らが脆くも吹き飛ぶ。
「コビー大佐、ヘルメッポ少佐! 何をしている⁉︎」
「こりゃあ一体……」
空から強襲をしかけてきたのはコビー大佐もヘルメッポ少佐の両名。先んじて潜入していたはずのSWORDの隊員だ。
ガープ中将の薫陶を受けた二人の裏切りはまさに寝耳に水であり、混乱した海兵達はなす術もなく蹴散らされてしまう。
将校二名は瞬く間に戦線を崩壊させ、歌姫を守るように並び立った。
またしてもトラファルガーの差し金か。
そう思いかけた中将であったが、ゆらゆらと揺れるコビー大佐の様子に目を疑う。
眠っている。
目を閉じ、安らかな寝息を立てたまま。
そこでやっと気付いた。
先程の強襲で感じた異様な気配。それは敵意や害意ではない。
ただ虚な、意志のない空白だ。
まさか。
怖気が背を駆け上り、咄嗟に歌姫を見た。
嗤っている。
実に、楽しげに。
「皆! 悪い海兵さんが来たよ! 私達の“新時代”のために協力してくれるよね⁉︎」
歌姫が高らかに呼び掛ける。
声に呼応し、眠りについていたはずの観客達が身体を起こし始めた。しかし、そこに彼らの意思はない。
まるで糸に操られるが如くゆらゆらと立ち上がり、目を閉ざしたまま海兵らへと一斉に襲いかかる。
恐怖と混乱に叫びを上げた兵の一人が民衆へと銃を向けた。しかし、その指が引鉄を引くより早く、“藤虎”の制止が轟く。
「いけねェ! 彼らは操られているだけだ! 海兵が罪なき一般市民を傷つけちゃあならねェ!」
至極当然の命令に正気を取り戻し、銃を下ろす海兵達。しかし、海の猛者共を相手取る海軍をしても、操られた民衆を無傷で抑え切るには練度が足りない。
次々と民衆の手にかかり遮音装置を取り上げられる海兵らを眺め、トラファルガーが凪いだ声で呟く。
「正義ってのは不自由でいけねェな」
臍を噛んだ中将であったが、今はそれどころではない。
ククリ刀を手に襲いくる少佐を抑え、どうにか歌姫を止めようと手を伸ばす。
届かぬ指の向かう先、歌姫が唇を開いた。
「────ひとりぼっちには飽き飽きなの 繋がっていたいの」
響くのは狂想の子守唄。
歌声は楽しげでありながら狂気を宿して人々を誘う。
水たまりを踏み散らし歌姫が進む度、海兵らが眠りに落ち、倒れる前に操られ始めた。
守るべき民衆に、そして共に戦うべき仲間に襲い掛かられた海兵らは必至の形相で抵抗する。
遮音装置を押さえれば民衆を抑えることができない。かと言って民衆を傷付けるほどの力を奮うわけにもいかない。
このままではどの道誰も彼もが囚われてしまうだろう。
モモンガ中将は大太刀を振り抜き、ヘルメッポのククリを弾く。膂力は覚醒時と変わらず、しかしながら意思なき刀は軌道が読みづらい。
“藤虎”もまた苦戦しているようだった。コビーの放つ唐竹蹴りを腕で受け止めた剣士の腹を複数の銃弾が襲う。目にも止まらぬ一閃で鉛玉を凌いだ“藤虎”だったがその顔色は冴えない。
本来造作もなく制圧できるであろう下級隊員や将校が相手とて、傷付けないよう対処するとなると勝手が違うのだ。
ましてや、忍び寄る蛇の気配を感じながらでは。
激しく舞い歌う歌姫から離れ、トラファルガーは舞台上空、海王類の骨で作られた屋根に腰を下ろしている。
特等席からライブを眺めていた男は気怠げな様子で左手を振るった。
青い被膜が広がり、死角からウタに飛びかかろうとしていた海兵の遮音装置が宙に浮く。
ぐらりと上体を揺らがせた海兵に歌姫が腕を伸ばした。抵抗すらできず眠りに落ちた海兵が歌姫と共に踊りだす。
「迷わないで 手招くメロディーとビートに身を任せて──」
上空からの支援に気付いた歌姫がはにかんで手を振った。所謂ファンサービスなのだろうが、場にそぐわない華やかな笑顔はかえって恐怖を呼ぶ。
そうして怖気付いた海兵は歌に堕ちるばかりだ。
「手伝おう。要はあの無粋なガラクタを奪えばいいんだな?」
屋根から飛び降りたトラファルガーがウタの進む先を拓くかのように進む。
まずい。
物体の切断に移動、オペオペの能力は無法と言っても過言ではないのだ。
人体への影響を覇気で防げたとして遮音装置を破壊されれば詰みである。
掴みかかるヘルメッポを鞘を振るって跳ね除け、モモンガ中将は疾駆した。向かうは去り行く黒衣の背中。あの男を野放しにしてはならない。
追うように複数の海兵が殺到するが将校格の本気の疾走に追いつけるはずもなく、音すら置き去りに中将はトラファルガーへと肉薄する。
中将の接近に気付いたトラファルガーが目を見開き、嬉しそうに笑った。
否。
金の視線が向かうのは中将ではない。
振り上げた大太刀が止まる。ぎりりと音を立てる刀には細い糸が巻き付いていた。
動かぬ刀を捨て背後に迫る殴打を受け止める。しかし、並の海兵とは格の違う威力が中将の身体を吹き飛ばした。
黒く染まった拳に弾き飛ばされ、モモンガ中将は海面に叩きつけられる。
海へと沈みゆく最中、中将の目に映るのは二人の眠れる海賊達の姿であった。
糸を振るい次々と武器を奪い取る“怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ。
そして、海軍のコートを靡かせ拳を振り抜くは元海軍将校ヴェルゴ。
自身を護るべく戦う二人の姿を見て、ローは困ったように眉尻を下げた。
「ドフラミンゴはともかく……相棒、お前まで行っちまったのか」
どこか寂しげな呟きを受け止める者はいない。
眠ったままの二人はもちろん、未だ歌い続ける歌姫も逃げ惑う海兵らも、彼に構う余裕などないのだろう。
喧騒の中、ヴェルゴに問いかける。
「約束、守ってくれるんだよな?」
当然、答えはない。
一つため息を落とし、あたりを見回した。
相手を傷付けないように猛攻を凌ぎ続ける“藤虎”と、全身ずぶ濡れになりながらも撤退を命じるモモンガ。二人の将校による的確な判断と指示が海兵らに伝わり混乱が終息していく。流石の練度と言えよう。
だが、それでは面白くない。
そばを駆け抜けようとする海兵の腕を掴んだ。恐怖に歪んだその顔には見覚えがある。
二年前、頂上戦争で足を失い死に瀕していた新兵だ。否、もう新兵ではないか。
「久しぶりだな。元気だったか? 足は……良かった。問題なさそうだ」
揺れる瞳を覗き込んだ。
激しい動揺と不安、そして僅かな敬意。混乱の中に渦巻く感情を脈と瞳の動きから読み取り、最適であろう言葉を弾き出す。
「おれはただ最期に話がしてェだけだ。確かあんたは読唇術が得意だったよな? そのまま聞いてくれ」
息を飲む兵の腕を掴んだまま、口の端を緩めた。
浮かべるのは春霞の笑み。人心掌握を指南した悪辣な師、処世術を叩き込んでくれた悪党の師、二名の教えを最大限に生かした柔らかな
「非番の日、孤児院に顔を出してただろ。ガキ共に料理を教えて、一緒に球蹴りをして遊んでもくれたんだったか。喜んでたよ、あいつら。ありがとう」
「…………」
「引き留めて悪い。命令違反は懲罰房行きだろ? 行ってくれ」
海兵から手を離す。
即座に撤退すべきであろうはずの彼は棒立ちのまま動かず、雨にぬかるむ地面を睨みつけていた。
響く歌声に背を押され、若き海兵が弾かれたように顔を上げる。
「────トラファルガー」
「なんだ?」
「私はどうすればいい? 市民は……彼らは私達海軍ではなく、ウタに救いを求めた」
「そうだな」
「私達が守るべきものは秩序、それでいいんだよな? 秩序を守り抜けばいつか市民も守ることができる。我々は間違ってないんだよな?」
尋ねる相手を間違えていることなど、海兵自身が一番理解しているだろう。しかし、この場で言葉を通わせることのできる相手はトラファルガー・ローの他にいない。
青褪め、もはや縋るように黒衣の肩を掴んだ彼を見つめ、ローは静かに答えを返す。
「間違ってねェ」
「そう……そうだよな」
「だが、海軍が秩序とやらを守る間に人は死ぬ。そして、あんたが生きてる間に秩序が成熟するはずもねェ。本当はわかってるんだろ? 『いつか』なんてのはこねェんだよ」
安堵に緩みかけた青年の表情が凍る。
「『ただ守るべき人々を守りたい』、それがあんたの願いだったか」
壊れたオモチャのように硬直する彼の目を覗き込み、ローは囁いた。
「
呆然と項垂れた青年は震える掌を見つめ、唐突に泣き崩れる。
自身を守る機械に手を伸ばしたその肩を叩き、黒衣の男は場を離れた。
無軌道に跳ね回るような声が歌を紡ぐ。
聞くともなしに音を拾いながら、ローは耳朶に指を這わせた。
天才科学者謹製のイヤホンはウタが歌い始めた時点で外している。
懐に入れていたとてこちらの音声は船の通信機へと流れるのだ。トレーボルの指示を受ける理由もない今、耳に入れている意味はなかった。
曲はクライマックスに差し掛かり、歌姫のステップはより激しく戦闘を煽るように昂りをみせる。
「────この時代は悲鳴を奏で救いを求めていたの 誰も気付いてあげられなかったから」
雨に打たれながらも、救世主は子守唄を歌い続けていた。
眠りの先に待つ“新時代”こそが救いだと強く訴える彼女の目は、ここではないどこかを捉え彷徨っている。
あれはもう駄目だな。
そう判断し、ローは冷えた目で歌姫を観察する。
ネズキノコの毒性か、あるいは彼女自身の問題か。ウタは既に正気をなくしかけていた。
立場ある者達から責め立てられ、無意識のうちに罪悪感を覚えたのだろう。
見たところ、彼女はやや幼く閉鎖的な思考の持ち主だ。しかし、世の道理を理解していないわけではない。むしろ、道理で救えない者を知ったからこそ道を踏み外したのだ。
本来であれば内にこもり夢想に逃げる性質なのだろう。だが、今の彼女はネズキノコの作用下にあった。自力で正常な判断力を取り戻すことは困難だ。
目についたのは打ち捨てられ地に転がる遮音装置。その残骸を蹴り飛ばした。
脆く崩れるその様は正義とやらに似て滑稽だ。
救世主も民衆も海軍も、皆が皆、何かを求め何かを成そうと目紛しく蠢き続けている。
成すものが楽園であれ秩序であれ、齎される救いなど一時のもの。所詮は泡沫の夢でしかありえないというのに。
果たして、彼女は理解しているのだろうか。
夢に囚われる虚しさを。
狂乱の舞台の上、一人凪の海にあるが如く佇み、トラファルガー・ローは空を見上げた。
ウタだけでなく、少なからず自身にも異変が起きている。
先の海兵にしても効率を考えれば能力を用いるべき場面だったはずだ。態々言葉を弄したあたり、加虐心が煽られているのだろう。
腹心がウタワールドに落ちたことで動揺したか。あるいは、世界政府へ連なる者への嫌悪感がそうさせたのか。
何にせよ、感情に左右され始めている。
もうそろそろ潮時かもしれない。
今もまた、頭を冷やしてくれるはずの雨がやけに鬱陶しく感じる。
表情すら変えず、ローは左腕を持ち上げた。
「“タクト”」
数多の機械が宙を舞い、地に叩きつけられてガラクタと化す。海軍謹製の遮音装置とやらにも興味がないでもなかったが、今は何もかも壊したい気分だった。
子守唄に誘われ、取り残されていた海兵達が眠りへと落ちていく。安らかな寝顔のまま仲間達を追いその背を襲う姿は不出来な喜劇のようだった。
海兵達が撤退した舞台で歌姫が舞う。既に歌う意味などないというのに、彼女は髪を振り乱し最後まで歌を奏で続けていた。
刹那、爛々と輝く瞳がローを見る。
自信に満ち溢れていたはずの歌姫。その顔に浮かぶのは────
曲が終わる。
拍手を送る黒衣の男を見て、歌姫は興奮したまま駆け戻ってきた。
「私のステージ、どうだった?」
「若い奴の音楽もなかなか悪くねェ。大したもんだ」
「素直に褒めてくれてもいいじゃない」
「褒めてるだろ」
能力で引き寄せたタオルを投げ渡す。
目を丸くしたウタが頬を緩め、小さく笑った。どこか影のある薄曇りの笑みだ。
「ありがとう」
鈍く痛む胸を抑え、男は首を傾げる。
精神面はともかく肉体面のコンディションは決して悪くない。
ならば、これは?
痛みの正体は良心の呵責とも言うべき彼自身の内声。しかし、己が意思で長年無視し続けた悲鳴に今更気付けるはずもない。
戸惑うローのそばに腰掛け、ウタが誘う。
「座って。あなたには意味がないけど、特別に歌ってあげる」
「急にどうした。おれはお前のファンじゃねェぞ」
「そうだね。だけど、ローさん辛そうだから」
「……辛そう?」
「うん。どこか痛い?」
「それはお前だろ。ひどい顔色しやがって」
「そうだね、ちょっと疲れちゃったかも。だから、一緒に休憩しよう。ね?」
「おれは────」
かぶりを振れど、手は胸元を押さえたまま。
無意識にペンダントを弄っていることに気付き、袖を引き上げ口元を覆った。
それは長年の善人ごっこで身についた癖。ふいに漏れ出る感情を悟らせないようにするための防衛手段。
このままではまずい。
耐え難い何かが喉を迫り上がってくる。ひどい焦燥感が背を叩いている。
この若者を見捨てる自分を許せなくなる。
早く。
早く、この場を去らなくては。
分かっているというのに足は動かなかった。
ウタの瞳が瞬く。
溢れるのは遠く冷たい星に似た寂しい光。
「座って、ローさん」
翳りを帯びたウタの表情を観察し、気付いた。
成程、悟られたのだ。
彼女はローが離れようとしたことを察したのだろう。約束を違えるなと非難すればいいところを、迂遠にも自身の
子どものようでいて聡い。
否、子どもだからこそ聡いのかもしれない。
ラミも、そうだった。
最近は遠ざかっていた冷たさが右腕を這い上がる。
身の灼かれるような心地がした。
「ここ、寒いな」
ぽつりと呟くローを見上げ、ウタが苦笑する。
「ローさんも雨に濡れてるからでしょ。舞台裏に戻ろう。タオル使って」
「いらねェ。それはお前にやったんだ」
かつりと靴音が鳴る。
舞台袖に向かって歩き始めた黒衣の男を追い、歌姫が腰を上げた。
「何か歌ってほしい曲とかある?」
「頼んでねェ。黙って休んでろ」
「一曲だけ歌ったら休憩するからさ。ほら、タオルのお礼だよ。能力は使わないから安心して」
壁に背を押し付け座り込む。
少し離れた場所に腰掛けたウタが待っている気配を感じ、ローは深いため息をついた。
転がっていたバスケットからネズキノコを一つ取り出す。能力を展開し書庫の一冊と交換。古ぼけた表紙を指でなぞって確かめ、歌姫に手渡した。
「何、これ」
「童謡集だ。書庫にあった」
「ああ、これ
「ああ、
口を開きかけた歌姫は一瞬の躊躇いの後、何事もなかったかのように続ける。
「そっか。じゃあ、リクエストをどうぞ」
「最後の頁。それで頼む」
ぱらぱらと頁を捲っていた歌姫が不思議そうに首を傾げた。僅かな興味を宿し、紫の瞳がローを映す。
「何でこの曲なの?」
「お前のさっきの歌と似てるだろ」
「メロディは全然違うけどね。だけどいいの? ローさん、眠れないじゃない」
「だからじゃねェか」
「ああ……それもそうか。子守唄って眠れない時に歌ってもらうものだもんね」
小さく笑い、歌姫が本を閉じた。
やがて流れ出す懐かしい旋律。
子守唄を枕に眠れぬ男は思案する。
急ぐ必要はない。
歌姫の荒唐無稽な計画がどう転ぼうと今後の方針などいくらでも立て直せる。ならば、最後まで見届けて、それから考えればいい。
ヴェルゴがあちらにいる以上何らかの手段を用いて歌姫を無力化する必要はあれど、それは今でなくていい。
場合によっては彼らを諦め、歌姫を殺して。
そう考えた瞬間、右手が引き攣るのを感じる。
今はいい。
まだ、考えたくない。
騒めく胸を押さえ、男は歌に耳を澄ませた。