ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ 作:ladybug
番外編のそのまた番外、ワノ国牢中四方山話 前編です。
If you want to go fast, go alone.
廃教会跡地から少し離れた森の中、一人の老人が力なく項垂れている。
憔然とした様子の彼を取り囲むのは海賊達。ドフラミンゴにベポ、そしてヴェルゴの三人だ。
「成程、事情は理解した。状況が状況とはいえよく隠し仰たものだな」
素直に感心するヴェルゴとは違い、ドフラミンゴは渋面を隠せずにいた。
無力な老人を取り囲み秘密を暴いたのだ。状況打破の糸口を求めてのこととは言え後味が悪い。
ゴードンが語ったのはエレジア崩壊の真実。
長年、赤髪海賊団の仕業として語られてきた惨劇の真相だった。
禁忌の楽譜とウタウタの実の能力者が揃った時に現れる怪物、“トットムジカ”。国一つに死を齎したバケモノを呼び起こしたのが当時年端もいかぬ少女であったとは。
俄には信じがたいが、ゴードンにはこれ以上嘘を重ねる理由などないだろう。
「私がもっとはやく止めていれば。いや、あの晩、私がもっと気をつけていればウタは」
声を詰まらせ、両手で顔を覆うゴードン。
その苦しげな姿を見下ろしていると脛に衝撃が走った。ベポに飛び蹴りを入れられたのだ。
廃教会跡地で行動を共にしたからか、ゴードンに同情的になっているらしい。
『アチョー!』
何を言っているかは分からない。しかし、身振り手振りから察するに、先程の蹴りは教育的指導らしい。
この場にいないペンギンとシャチの代わりに善の道を説いてくれているのだろう。残念なことに、説教の仔細は全く分からないのだが。
「無理に聞き出したのがいけなかったのか? 仕方ねェだろう。情報が伏せられてたんじゃ盤面が見えない。策を練るにも────」
『アチョ! アチョアチョ‼︎』
「う⁉︎ ベポ、やめろ。分かった、おれが悪かった」
地味に蹴りを入れ続けられ、早々に音を上げれば攻撃が止んだ。
『アチョ? アチョチョ?』
「勘弁してくれ。痛くはねェ、確かに痛くはねェが……困る」
ベポは半眼になった後、ドフラミンゴを上から下まで眺めまわし肩をすくめた。やれやれと言わんばかりである。
一応は反省の意を汲み取ってもらえたのか、よじ登ってきたベポに頭を撫でられた。完全に子ども扱いである。
「ベポ、ヴェルゴと先に行ってろ。おれは元国王に話がある」
『アチョー?』
「何を言ってるのか分からねェが、その面はまだ疑ってるな。酷いじゃねぇか。謝るだけだ。お前のキャプテンを信じてくれ」
傍観していたはずのヴェルゴの忍び笑いに気付き、思わず口をへの字にするドフラミンゴだ。
「ヴェルゴ、聞いただろう。先に行け」
「了解した。貴様の頼みをきいてやる理由はないが、私にも情けはあるからな」
腹が立つ。
しかし、ここでヴェルゴに怒鳴り散らせば元の木阿弥である。ドフラミンゴは忍耐力を総動員してヴェルゴとベポを見送った。
「さて、と」
反省したなら行動あるのみ。
ハートの海賊団の掟だ。
困ったような顔で見上げてくるゴードンに向き合い、勢いに任せて謝罪する。
「無理矢理口を割らせて悪かった」
「いいんだ。全てを伏せて協力を仰ごうなどと、私の方こそ浅はかだった」
「決して他には漏らさねェ。約束する」
何かを言いかけたゴードンは、しかし、言葉を飲み込んで立ち上がる。よろける彼を支え、ドフラミンゴは辺りを見回した。
「この辺りには歌姫の能力が及ばないようだな。音符の槍兵の姿が見当たらねェ」
「もしかすると無意識に避けているのかもしれない。ウタはこの森が苦手だったから」
「フッフッフ、迷子にでもなったのか?」
「よく分かったね。森の中で逸れてしまって……植生の問題か音が響かないものだから、お互いを呼ぶ声が聞こえなくて大変だった」
老人の顔に寂しげな笑みが浮かぶ。笑い皺の勲章が物語るのはゴードンとウタが過ごした時間の密度だ。
「どうして、こんな薄暗い森に?」
「森ではなく城の外に行くつもりだったんだ。だが、当時のエレジアは焼け野原同然で、ウタに町を見せたくなかった。いや、私自身が見たくなかったのか」
「そりゃあ当たり前だろう。誰だって、改めて傷付きたくなんかねェもんだ。安全な場所にいるならなおさらな」
「そうは言っても、ずっと城暮らしではますます気が滅入る。やっと食事を摂ってくれるようになった頃、彼女を連れて散歩にでたんだ」
「成程、それで森か」
「いや、城近くの野原を歩いていた。すると突然、ウタが走り出して……」
ウタの向かった先がこの森だったのだろう。
何が彼女をそうさせたのか。ゴードンの話ぶりから考えると、当時の歌姫は特段エレジアに詳しくなかったはずなのに。
ゴードンもまた、記憶を探るように視線を彷徨わせた。そして、ぽつりと呟く。
「思えば、あの頃からだったか。ウタが泣かなくなったのは」
老人は力なく吐息を溢し、自嘲の籠った言葉を落とした。
「あの子は逃げ出したかったのかもしれない。突然、知らない土地で過ごすことになって──しかも知らない人間と二人きりの生活だ」
独り言のようなゴードンの言葉に、ドフラミンゴは応えなかった。
突如変わり果ててしまった生活に慣れない環境、そして身近で起きた惨劇。どれをとっても子どもの心身には耐え難い。
ドフラミンゴは知っている。
幼いウタの心に落ちたであろう影の名を。
おそらくだが、その影は彼女が成長していくにつれ深く濃くなっていった。
その影は信頼できる誰かと共にあれば消え、背を預けることのできる居場所があれば薄れる。しかし、信頼も居場所も、本人が心を開くことができなければ得られないものだ。
ゴードンはきっと、献身的に彼女を支えたはずだ。そばにいて笑わせ、共に食事をとり、音楽を教え続けたのだろう。
だが、それでも、ウタとゴードンの間には細くも深い溝が横たわっていたに違いない。
ゴードンは少女を欺いているという罪悪感を拭えず、ウタから見ればゴードンは赤髪海賊団が生んだ哀れな被害者だった。
それぞれ自身にはどうしようもない負い目があり、だからこそ二人は互いを頼りきれない。
心を開いて、弱音を吐く。
それだけのことがどれほど難しいか。
きっと、歌姫にはそれができなかったのだ。
幼い少女が抱いた影。
その名を孤独という。
もし、幼いウタのそばにとびきり愚かな大人がいれば。
無理矢理に外の世界へ連れ出して、身勝手に泣き喚き、無神経な同情で怒り散らすような、ひどく愚直で明け透けな人間がいたならば。
あるいは、遠慮がちなゴードンのそばに無遠慮なほどに強引な友でもいれば良かったのだろう。
他者によるきっかけがあれば、きっと二人の世界は変わっていた。
だが、そうはならなかったのだ。
シャツの下、今もそこにあるコインを握りしめ、ドフラミンゴはため息を吐いた。
「あんたは後悔ばかりしているが、それじゃあ何も変えられない。まずはあの女を止めて、あんたの思いを伝えろ」
「私の思いかね?」
「そうだ。あの女が傷付くだとか今更だとか色々考えずに、飾らず誤魔化さず嘘もつかず、一切合切を馬鹿みたいにだ」
「ああ……そうしよう。もし許されるならば、ウタに謝りたい。ずっとそう思っていたんだ」
糸を紡ぎ、簡易な構造の車椅子を作り出す。
戸惑うゴードンを乗せて森を進めば、廃教会跡地へ出た。
「今更だが、教会を壊して悪かったな」
「謝ることはない。ここは現実のエレジアではない。それに、元々もう誰も使っていなかったからね」
不器用に笑んだ元国王は思い出したように呟く。
「そういえば、ウタはここのオルガンを気にしていたんだ。使わせてやればよかった。私が不甲斐ないばかりに……」
「やめろ。この世界にゃ後悔の言葉を拾う神はいない。だから、祈りや告解に意味はねェんだ」
またもやゴードンから溢れ出す後悔の言葉を遮り、ドフラミンゴは断言する。
「願い事も懺悔も本人の前でやるに限る」
日差しは強く、相変わらずの晴天。
額に手を翳し、エレジア全土を見渡す。
丘の下、海辺にあったはずのライブ会場は不可思議な色合いの海へ沈んでいた。
また、派手にやったものだ。
先行していたヴェルゴとベポが戻り、少し進んだ先の廃墟群を指し示す。どうやら戦力集めもあらかた終わりらしい。
「さて、
「ああ……そうだね。無事ウタを救えたとして、その後どうするか。海軍も世界政府も見逃してはくれないだろう」
「フッフッフ! 見逃す⁉︎ ただ逃げるだけで満足か。まったく、善人ってのは欲がなさすぎる!」
不思議そうに首を傾げる老人を見下ろし、ドフラミンゴは口の端を吊り上げた。
「最高の歌い手にする、だったか? 今まで約束を果たそうと踏ん張ってきたんだろう。どうせなら最後までやり通せ」
「──ああ、そうだ。世界を幸せにする最高の歌い手にウタはなれる。こんな方法でなくとも、絶対に」
「それについちゃ、おれ個人は疑ってるがな。世界どころかあの女自身ですら幸せに見えねェ」
再三の失言にベポの蹴りが飛ぶ。こめかみを狙って穿たれる神速の攻撃を避けつつ、ドフラミンゴは糸を紡いだ。
透明なレールが現出し、かき集められた戦力の集う廃墟群へと道を繋ぐ。
「キミ、名はなんと言ったか」
「ドンキホーテ・ドフラミンゴだ。業腹だが、世では“怪盗”なんて呼ばれてる。そこそこ有名なんだが、こんな田舎にゃ噂話も届かねェか」
戯けてみせたドフラミンゴへ微かな笑顔を返し、ゴードンが問うた。
「ドフラミンゴくん。キミは何故、私達を助けてくれるんだい?」
「何故も何も、この辺鄙な楽園を出るために決まってるだろうが」
「そうだとしても、私の心まで慮る必要はあるまい。まして、ウタを助けた後の話などキミには何の利益もないだろうに」
「まァそうだな。気まぐれ、とでも言いたいところだが────」
「違うのかい?」
「おれは“怪盗”で商人だからな。貴重な情報をいただいたからにはそれに見合った報酬を、だ」
ゴードンを乗せた車椅子を押し、糸で作り出したレールを進む。
途中でベポも相乗りする形となり楽しげに声を上げるものだから、ドフラミンゴは凶悪な笑みを浮かべてレールを蹴り付けた。
当然、車椅子は一気に加速し、座る老人の顔が引き攣る。
「ドフラミンゴくん、この速度は大丈夫だろうか」
「大丈夫だ。一応、腰に響かねェようサスペンションはしっかりと作ってある」
「お気遣いありがとう。いや、そこではなく! こんな勢いで走行してもいい作りなのだろうか。気のせいか、異音が聞こえるような」
「さあな。車椅子もレールも壊れたらまた作ればいい。簡単だ」
「それ、私達は吹き飛んでいるのではないかね⁉︎」
編み方が雑だったのか、車椅子のタイヤが煙を上げて撓む。加速が過ぎたことで糸がほつれ始めたのだ。
さらに、車椅子組の後を追うヴェルゴが容赦なく駆けるものだから、糸のレールも耐久限界を超過し端から崩れ始めた。
「ぬうう⁉︎」
『アチョー⁉︎』
「おっと」
一瞬完全に宙に浮いたゴードンとベポが堪らず悲鳴を上げる。
野太い声と甲高い声の二重奏を聴きながら、二人を糸で固定しさらに加速した。
視界の端に音符の槍兵がちらついて仕方ない。急ぐに越したことはないだろう。
そうだ。
あの歌姫は病に冒されているようなものだ。
歌姫の抱えていたであろう孤独。
彼女の境遇を聞いた時、得心がいった。
圧倒的な才能を見せつけ、瞬く間に世界中へ歌声を届けるに至ったウタ。
彼女は電伝虫によって世界と繋がった。
そこで世界中に散らばる人々の声を聞き、彼らの孤独や痛みに共感したのだろう。
だが、悲しいかな、負の感情は共鳴し合うだけで、打ち消し合うことはない。
孤独は伝染病に似ている。
人間は他者の孤独に共感し、まるで自身のことのように痛みを錯覚する。
そして、人は他者の痛みに引きずられるものだ。
他者の孤独を感じる度に心の傷は深まり、痛みが重なるほどに閾値は下がって過敏になっていく。
結果、思考は次第に捻れ、その目は正常に世界を映さなくなってしまう。
誰かを救うことで自身の痛みが和らぐなどと、勘違いしてしまうほどに。
ウタの音楽はただ美しいだけではなく、どこか影を宿して人々の胸に響く。
それはきっと、彼女自身が孤独に苛まれ痛みを覚えていたから。
人々は彼女に共感し、彼女もまた人々に共感した。共感し合うことで救われたように思えた。
だが、限られた手段で世界に触れた彼女は、人々の孤独や痛みばかりを耳にしてしまったのだろう。
彼女は歌った。
それしか知らなかったから。
自らの孤独と痛みを歌に変え、自覚のない感染源となるように。
その声で世界を救うと同時に、世界中の痛みを呼び覚まし、人々の悲鳴を聞いてしまったのだ。
結果、ウタは救世主になるしかなくなった。
ふと、ワノ国滞在中に聞いた言葉を思い出す。
『孤独や不安は感染する。てめェの中身がしっかりしてねェと、他人の感情に振り回されて我を失うことがあるんだ』
それはとある牢で繰り広げられた問答の続き。
突如ポーラータング号に乗り込んできた黒衣の男によりその言葉は語られた。
『お前は人の機微に聡い。いっそ強迫的なくらいに他人の心情を探ろうとする。せめて引きずられねェように、自分の価値を理解して立ち返る場所を守れ』
くどくどと続けられた観念的な教えをまとめると、自尊心を高め孤立を避けろということらしい。
『
しかし、今思えば、あの男はエレジアで巻き起こる騒動を予測していたのかもしれない。
世界中に愛されながら、孤独に沈んだままの歌姫。彼女がじきに動き出すことをローは知っていたはずだ。
「考えすぎか?」
凪いだ声を思い出し、ドフラミンゴは眉を顰めた。
自然、意識は過去を手繰り、とある牢での苦い記憶へと辿り着く。
気配を感じる。
腫れ上がった瞼を開けば、薄暗い牢の片隅に死神が佇んでいた。
然程距離があるわけではない。だが、闇に溶けるような、ぼやけた輪郭には覚えがある。
ワノ国滞在に合わせて配下が誂えたか、あるいは友誼を結ぶ四皇の計らいか。着物に黒の羽織を重ねた装いが妙に馴染んでいた。
首元まで覆う襦袢代わりのシャツは相変わらず重苦しく、だからこそ彼らしいとも言える。
何にせよ、他者のファッションを品評している場合ではないだろう。
何せ、今のドフラミンゴは囚われの身。執拗な拷問による痣が全身を隈なく飾り立て、乾いた血の這う様はイカれたタトゥーもさながらだ。
住民らと肩を突き合わせて仕立てた着物など、よれによれた上汚れも解れも大変なことになっていた。
それでも、である。
外見で繕えない分、気の利いた挨拶でも。
そう思い唇を吊り上げる。
しかし、殴られた頬は引き攣って歪み、言葉の代わりにまろび出たのは血の塊という為体。それどころか、ついでとばかりに胃液まで綺麗すっかり吐いてしまった。
情けないところを見られてばかりで嫌になる。
今更と言われれば、反論の余地もないのだが。
羞恥を笑みで覆い隠し、破れかぶれのままに声を掛けた。
「フッフッフ、嬉しいね。まさかお前が助けに来てくれるとは」
「…………」
「ほら、さっさとこれを外してくれ。どうした? 鍵を失くしちまったのか」
枷を揺らしてみせてはみたが、それ以上は思うように身体に力が動かない。冷えた地面に座り込んでいるものだから腰から下の感覚が遠く、まるで重石でも乗せられているようだ。
死神はと言えば相変わらずの無表情。しかし、どことなく困惑して見える。
ないとは思うが、冗談が気に障ったのだろうか。
「怒るなよ、ほんのジョークさ。お前はカイドウの客人だ。おれに関わる理由がねェ。弁えているとも」
肩を竦めればはしる痛み。
正直なところ、休息に専念し少しでも体力を取り戻したい。だが、これ以上弱っているところを見られるのも癪だった。
会話程度ならこなせるはずだ。そう考え、頬の痙攣を誤魔化し歓迎のポーズをとる。
「ただまあ、せっかくおいでなすったんだ。黙ってないで楽しくお喋りでもしようじゃねェか」
反応はない。
もしや幻覚ではないかと己を疑った。考えてみればその線もありうる。あの男が突然現れるよりはいくらか現実的だ。
あるいは本物の死神と言う可能性も捨てがたい。
ドフラミンゴは血と笑声を吐き出し、笑みで呻きを押し潰す。
「何か言えと言ったんだ、ロー」
声も低く促せば、ローは首を傾げた。
目前の男が瞬く度に溢れる鈍い輝きは、子どもの時分に見た星の光に似ている。
遠く手の届かなかった存在。その光が消えず近くにあることが不思議に思えて、ドフラミンゴは細く息を吐き出した。
眩しい。
鬱陶しい。
恥ずかしい。
逃げてしまいたい。
寂しい。
「なんで、応えてくれねェんだ」
自ら視界を遮ろうにも手は枷で繋がれ無様に吊るされていた。サングラスも早々に踏み砕かれ形を失っている。
ぼんやりとした感覚の中で俯けば、ローが手を伸ばしてきた。
珍しく冷えた指が血を拭っていく。目元とこめかみを撫でて離れる手はどこか雪に似ていた。
霞む視界の中、凪の声が問う。
「元気か?」
やっと言葉を発したかと思えばこれだ。
なんとも呑気なものである。怒る気にもなれず、かぶりを振った。
「海楼石の前じゃ無力なもんだ。逆らおうにも力が入らねェ」
「確かに枷の効果は絶大だ。この国の加工技術は抜きん出ている。魔術師とやらの拷問も的確だった。だが、それだけだ」
「能力者一人を封じ込めるには充分だろう」
「お前を跪かせるには足りねェ。違うか?」
意識が浮上する。鼓舞されてしまう。
実に腹立たしい。口先一つで糸使いを絡め取ろうなど、舐めるにもほどがあるではないか。
しかし同時に、ローらしいとも思ってしまうのだ。
まったく、この男は。
堪え切れず苦く笑い、壁に凭れた。
「跪いたつもりはない。ただ、少しばかり疲れたな」
「痛むか」
「フッフッフ、素直に答えられたら何をしてくれる?」
「お前の望むことなら何でも。とは言え、まずは治療を勧めるな。鎮痛剤は必要か?」
「結構だ。この程度、一人で切り抜けてみせる」
拒絶を受け、死神が一歩後ろに下がる。
話す内に感覚を取り戻せたのか、空気の冷たさに気付いた。
「おい、ロー。寒くはねェか?」
「急に何だ」
「いや、妙に冷えると思ってな。お前、やたら寒がりだろう」
「他人の心配をしてる場合か。お前のそれは発熱による寒気だ」
成程、先程ローの手が冷えていると思ったが、むしろ自身が高熱に侵されているらしい。
発熱というものは気付くと途端に煩わしくなる。癇癪のごとく枷を鳴らせども不快さは変わらず、むしろ拘束への鬱憤が増すばかり。
気怠さに抗えず、再び脱力した。ぼんやりと床を眺めていると、温度のない声が降り注ぐ。
「ひとつ面白い話をしてやろう」
この手の滑り出しで笑える話になる可能性はゼロに等しい。
思わず白けた目で見返すドフラミンゴに対し、動じた様子もなくローは語り出した。
「人間の脳は思いの外適当でな。例えば、脳の一部は痛みの種類を区別せず同様に反応する」
「お前は外科医だろう。身体はともかく脳に精神ときたら専門外じゃねェのか」
「黙って聞け────この部位だが、呼吸や心拍、情動にも関わっている。人間を生かし同時に振り回しもするシステムだ」
滔々と語る様は教師というより宣教師に似ている。しかし、肝心の内容はありがたい教えなどではなく、人間の作りに関する小話であった。
「神経は興味深い分野だが、これは今回の講義のテーマから少し外れるな。次を楽しみに待て」
「待てと言われても、まずもって講義とやらを頼んだ記憶がねェんだが」
「黙れと言った」
「…………」
突如始まった謎の出前講座に困惑する。眉間に皺を寄せて表情で抗議したものの、相手は傍若無人の権化。止める術などなかった。
反抗するのも煩わしくなり口を噤めば、ローはどこか満足そうに頷く。
「そうだ。それでいい」
既視感のあるやり取りの後、押しかけ医師は頼んでもいない講義を続けた。
曰く、痛覚とは脳のどこか一部で感じるものではない。身体の感覚だけでなく、記憶や情動など様々なデータを元に統合された情報なのだという。
例えば受傷したとしよう。
受傷は生命維持の面から看過すべきではない。これに対処すべく人体は様々な反応を起こして情報を統合し、人は痛みを感じるのだ。
しかし、対処法を探るために過去の経験を辿る内、過去の痛みや傷による負の反応も想起されてしまう。
巻き起こる不安や恐怖、怒り、悲しみ。もし、繰り返せばこれらもまた痛みを構成する要素となり得るというのだからなんともままならない。
つらつらと話し続けていたローが視線を傾けた。
どうやらテーマが移行するらしい。
生徒の思考が追いつくのを待つように一呼吸おき、ローは再び語り出す。
「ところで、心の傷にも『痛い』という言葉を使うよな。これはあながち的の外れた表現でもない。脳は心の傷と身体の傷を同類の情報として捉えるからだ」
「心の傷だけじゃ抽象的にすぎる。例えば、どんな状況を想定してるんだ?」
「そうだな。排斥なんてのはどうだ? 孤独に不安、社会から隔絶されるだけで人の心は容易く傷付き、痛みを訴える。何故だと思う?」
問いを投げかけられ、ドフラミンゴは思考する。
然程難しい問題ではない。
押しかけ講師曰く、痛みと生命維持のシステムは密接している。
痛みとは、いわば命の悲鳴。自身を守るべく防衛機構を立ち上げるアラートなのだ。
ならば、それこそが答えだろう。
「生き延びるためだ。人間ってのは極めて社会的な動物だからな。集団から外れた間抜けは苦境に置かれ、場合によっては死ぬ」
即答がお気に召したのか、ローは満足そうに頷いた。
「正解だ。だからこそ人間は排斥や孤立に痛みを感じる。生命の危機から逃れようと踠き、逃げ出せた後も策を練るわけだ。二度と同じ轍を踏まねェようにな」
「……今のはおれの過去の話をしてんのか」
「察しがいいな。それも正解だ。迫害の恐怖をお前のここが記憶し、回避すべき痛みとして処理している」
自らの顳顬をこつこつと突き、ローが続けた。
「ところで、今のお前はそこそこ頑丈だ。診たところ傷も深くはない。海楼石の影響で脱力してるにしても気力まで失うのは納得いかねェ」
「フッフッフ、納得ねェ。やけに評価してくれるがご期待に添えず汗顔の至り、だ」
「期待? 単なる事実だ」
ローは大真面目に首を傾げている。
ドフラミンゴの敗北はあり得ないと心底信じている。否、確信しているのだ。
情けなく曲がりそうになる口を気合いで引き結び、ドフラミンゴは鼻を鳴らした。
「拷問されて平気な顔でいるとでも思ったのか?」
「確かに尋問に容赦は不要だ。だが、お前は有能だからな。後で配下にすると考えれば無駄に傷付ける理由がない。むしろ、ここまで弱る方が意外だった」
「意外も何も現におれはこの有様だ。革命家殿の見立ても大したもんじゃねェようだな」
醜態を見られる羞恥。あのローに『有能』などと評された妙な高揚感。異なる感情に胸中を掻き乱されてしまい、話を打ち切るように吐き捨てる。
「大体がだな、おれの精神がどんなに脆弱だろうと元々投降の道はなかった」
「どういうことだ」
「そのままの意味だ。麦わら共に計画共有なんて概念はない。当然何も知らされてねェおれにゃ吐くネタがない。いくら甚振られても無い袖は振れねェんだよ」
「それ、おれに教えていいのか? 敵方と組んでるかもしれねェのに」
揶揄うような問いだ。
ありえない。
思わず鼻で笑ってしまった。
「馬鹿言え。お前は麦わらとカイドウの戦いを特等席で見たいだけ。割り込んで水をさすわけがねェ」
「そうか? 確かに最高の舞台ではあるが、こうも動きがないとつまらねェもんだぞ」
「だから特別に裏事情を教えてやっただろう。幕間で暇を持て余す観客へ、演者からのリップサービスだ」
やぶれかぶれの冗談にローが口の端を緩ませる。しかし、その眼は相変わらず冷えていた。
話題の矛先を逸らすつもりだと気取られたのだろう。失敗だ。
案の定、視線を切った途端に話を引き戻される。
「今、お前を苛む痛みの正体が分かるか?」
講義から、ローの言わんとすることは察していた。
今、ドフラミンゴを苛んでいるのは身体の苦痛ではない。
自覚とてある。
拷問による疲弊や海楼石による脱力以上に、心を蝕むものの気配を感じていた。
ただ、見ないようにしていただけだ。
それをローは暴こうとしている。
「仲間を人質に取られたそうだな。お前は人質の解放を条件に自ら囚われの身となった」
力なくかぶりを振る。
否定したわけではない。ただこれ以上言及されたくないのだ。
だが、ローはそれを許さない。
「交渉は無事成立。仲間は解放され、恐らくお前自身の脱出も算段はついている」
「────……」
「何がお前を不安にさせてるんだろうな」
ぎりりと音がした。
自身が歯を食いしばった音だと気付く。力の入らないはずの顎が痛いほどに軋んだ。
ローが首を傾げる。
「仲間のいない世界が嫌か」
「そりゃそうだ。マゾでもあるまいに、誰だって気の合う奴らと笑って暮らしたいに決まってる」
「だから身代わりに? あいつらがいないとお前は笑えないものな」
「馬鹿言え、おれ一人なら脱出できる策があるだけの話だ。あいつらを逃せば勝算も上がる。だから」
「違うな。策がなくともお前は同じ選択をした」
反駁しようとして言葉に詰まった。心のどこかで指摘を受け入れてしまったのだ。
「ドンキホーテ・ドフラミンゴ。お前は仲間に依存し、他者を信じることが出来ない」
「だから何だ。誰だってそうだろうが」
「今はお前の話をしている」
嘲笑うかのように死神は嘯く。
「仲間は解放され、ここを出た。お前もそれを見た。だが、牢を出た後は? 敵が約束を反故にしてあいつらに手出しする可能性は?」
「やめろ」
「疑ってんだろ? 今この瞬間にも、あのミンク族あたりが────」
「やめろ!」
声を荒げ、言葉を遮った。
自身の叫びがこだまして頭が割れるほど痛む。鼓動が跳ね上がり、血流が耳を打つ音すら聞こえてくる気がした。
今は何も聞きたくない。
だが、耳を塞ぐことは許されないのだ。
凪の声が囁く。
「いっそ、全部殺してやろうか?」
今、何を言われた?
精神が理解を拒み、身体が硬直する。
俯いたまま瞠目するドフラミンゴを覗き込み、ローは淡々と言葉を重ねた。
「殺してやる。味方も敵も全部。お前を弱らせ痛めつける存在を全て壊そう。安心しろ。すぐ終わる」
「何を──何を言ってる。何のために、そんな」
「お前には治療が必要だ。そう判断した」
簡潔な言葉が指すのは絶対的な指示。
仮にも患者と見定めた者の意思を問うことすらしない、医者にはあるまじき宣告だ。
いや、違うのだろう。
ローはこう考えているのだ。
ドフラミンゴには正常な判断が出来ない。
意思そのものが病に冒されている、と。
息を詰めたドフラミンゴを見つめ、ローが続ける。
「まずは環境を整えよう。いや、むしろこれが治療の本命だな。多少荒療治で痛みは伴うが一時のもんだ。必要なら痛みだって和らげてやれる」
「やめろ。そんなことをしてお前に何の得がある」
「おれは医者だ。治療に得も何もない。だが、言葉一つでお前が納得するなら答えをやろう」
「答え……?」
「お前が生き残る。それで充分だ」
絶句するドフラミンゴの腕に触れる冷たい指。安心させようという意図が理解できるからこそ、恐ろしさは一層深まるばかり。
息が出来ない。
溺れそうな沈黙の中、視線が合った。
ローが微笑む。
「最初から全部やり直せばいい。おれの傍でな」
表情の変わらない顔、抑揚の抑えられた声音。
薄暗がりで一際強く光る金の瞳。
そして告げられる言葉。
「気を楽にしろ」
それは紛れもない処刑の宣告だった。