“怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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 番外編の番外、ワノ国牢中四方山話 後編です。




If you want to go far, go together.

 

 

 少女は走る。

 慌てて追いかけてくる老人を振り切り、必死さを隠しもせず直走る。

 

「ごめん……! ごめんなさい、ゴードンさん!」

 

 つんのめり何度も転びそうになりながら、ただひたすら真っ直ぐ、がむしゃらに少女は走った。

 

 だって、聞こえたのだ。

 

 少女が遊びで作った合図。汽笛代わりの口笛、音の長短と高低を組み合わせて編み上げた秘密の符号。

 

 島で待つ生意気な少年におくる、ささやかな知らせの音。

 

 

 帰ってきたよ。

 会いに行ってあげる。

 

 そう知らせる、笛の音が。

 

 

 港へ向かう途中に森が見えた。

 少女は迷うことなくその暗がりへと飛び込む。

 

 海賊は気まぐれだ。

 港へ寄ってもすぐ海に出てしまう。

 

 だから早く。

 もっと早く。

 遠回りをしている間に船を出されてしまっては大変だから。

 

 

「シャンクス!」

 

 

 少女は叫ぶ。

 不思議な木の茂る森で、少女の声は捻じ曲がり消えていく。

 

「シャンクス、待って!」

 

 少女は走った。

 何度も何度も彼の名前を叫びながら走り続けた。

 

 転んでもすぐに立ち上がり、膝に血が滲んでも気にせず、顔が土で汚れているのにすら気付かず、ただひたすらに少女は走る。

 

 無我夢中の彼女は気付いていなかった。

 陽を遮る木々のざわめきは聞こえるのに、張り裂けそうなほど叫ぶ声は反響すらしないことに。

 

「シャンクス……!」

 

 方向感覚を失うほどの静寂が降り、冷たい暗闇が少女に纏わりついていく。

 

「あっ!」

 

 木の根に足を取られ、少女は転んだ。

 息も切れ、ついには立ち上がることすら出来なくなり、それでも少女は踠き続けた。

 苔むした土を抉り、少女の指の跡が地面に描かれていく。

 

 

 痛い。

 苦しい。

 怖い。

 寂しい。

 

 

 どうして。

 

 

「シャンクス、ウタはここだよ」

 

 この森は音の響かぬ場所。

 誰を呼ぼうとも決して声は届かない。

 

「ウタ、ここにいるよ。むかえにきて」

 

 大きな瞳からぼろぼろと涙が溢れた。

 しゃくりあげ歪む声で、少女は呟く。

 

「シャンクス」

 

 森は静謐に包まれ、応える声はない。

 もう随分前に、笛の音は聞こえなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まずい。

 そう思った。

 

 冷や汗がドフラミンゴの背を伝う。

 

 直感した。対応を誤れば最後、ローは荒唐無稽な殺戮を実行に移すだろう。

 ドフラミンゴに親しみを向ける者、害意を示す者、そのどちらも一切区別せず殺し尽くす。

 

「ロー、おれは……」

 

 せめて何か糸口をと吐いた言葉は何ら意味を持たない。それどころか、自分のものとは思えないほどに震えていた。

 先を続けることが出来ず、引き攣るだけの喉から無様な呼吸音が漏れる。

 

 何とかしなければ。

 何とか、止めなければ。

 

 分かってはいても、焦るばかりで頭が回らない。

 

 ローの手が喉へと伸びてくる。思わず後退るも壁に背があたり逃れることすら許してもらえない。

 冷たい指が首筋に触れた。それだけで蛇に睨まれた蛙のように身動きすら出来なくなる。

 

「呼吸と脈が早いな。瞳孔も開いてきた。かわいそうに、怯えてるのか?」

 

 大人しくなったドフラミンゴをひたりと見つめ、ローは滔々と診断を下し続ける。

 

「過去の体験から生じる予期不安と痛み。その苦痛から逃れようと仲間を寄せ集めても今度は仲間を失う不安でまた苦痛に苛まれる。イタチごっこだ。そのままじゃ辛いだろ」

「違う、辛くなんてない。そんな理由であいつらといるわけじゃねェ」

「自覚がないんだな。安心しろ、よくある話だ」

「待て、待ってくれ。おれはただ……」

「駄目だ。処置は早い方がいい」

 

 淡々と話を打ち切り、ローは言う。

 

「もう一度言うぞ。お前には治療が必要だ」

「────……」

「ドフラミンゴ、お前は弱いな」

 

 いっそ優しいほどに穏やかな声は医者というより死神を思わせた。

 

 投げかけられる言葉は蔑みや嘲りをただの一片も含んでいない。冷徹な評価を下されただけなのだと知り、なお一層惨めな気持ちになる。

 真っ当な反論を考えることすら出来ず焦燥だけが高まり、結果、溢れたのは意味のない虚勢だった。

 

「弱いだと? おれが、おれ達が、どんな思いでここまで来たと思ってる」

「さあな。想像はつくが」

「ふざけるな、強者のてめェに何がわかる!」

「…………」

「世界中から嫌われて、逃げても隠れても追ってきて息をしてるだけで殺されるんだ! やっと見つけた居場所を奪われたくねェと思うことの何が悪い⁉︎」

 

 息を切らし喚くドフラミンゴを見つめるロー。

 鈍く光る金の瞳には何の感情も浮かんでいない。

 取り乱す患者を前にした医者、あるいは奇妙な生き物の生態を観察する学者のような冷徹な目だ。

 それがひどく腹立たしく、それ以上に恐ろしく思えてしまい、ドフラミンゴは声を張り上げた。

 

「こんな世界だ、誰だってこの程度────!」

「ああ、そうだな。ありふれた思考だとは思うぞ」

 

 否定することなく頷き、ローは囁く。

 

 

「ありふれた弱者の思考だ」

 

 

 耐え難い衝撃が全身を襲った。

 

 成程、確かにローの言う通りだ。

 この身体は心の痛みと身体の痛みを混同している。

 他愛のない言葉一つで血を吐くほどの痛みと恐怖を感じてしまうのだから。

 

 瞠目する弱者から一歩離れ、ローが問うた。

 

 

「ドフラミンゴ。お前なら覚えてるよな。昔、教えてやったはずだ。『弱ェ奴は死に方も選べねェ』と」

「……ああ、よく覚えてる」

「今のお前は何かを選べる立場か?」

 

 

 反駁など、できるわけがない。

 

 実際まんまと捕まり無惨にも打ちのめされているわけでぐうの音もでなかった。

 

 噛み締めた唇が切れ、滴る赤が顎を汚す。

 

 これでも悪い方へと考えないようにしていたつもりだったのだ。

 ベポもペンギンもシャチも立派な大人、逞しさも強かさも折り紙付きの自慢のクルーだ。もし、ホーキンスや百獣の一派が追手を放ったとしても逃げ切れると考えてはいた。

 

 だが。

 だが、もし。

 

 もし、この手の届かない場所で、想定も出来ないような、どうしようもない事態が起きて。

 誰の助けも得られないまま、彼らが。

 

 

 彼らの命が奪われたら。

 

 

 そう思うと身体の芯が冷えて震えがくる。脳裏に浮かぶ炎が頭蓋を炙り、暗闇が足下から熱を奪っていく。

 怒りと不安に思考が溶かされ、正気を失いそうになるのだ。

 

 恐らくだが、ドフラミンゴ自身はどうあっても生きていける。

 狂気や復讐に身を堕とし、再び破壊を求めるようになるだけだろう。

 だが、身体だけ生き延びても意味がないのだ。

 

 

 コラソンから教わり、仲間達に組み立てもらった今の在り方。

 在り方を損ねてしまえば最後、ドンキホーテ・ドフラミンゴは生きているとは言えない。

 

 残されるのは捨てるに捨てきれない本性。

 醜悪で劣悪で決して誰にも愛されない、たった一人の愚かなバケモノなのだから。

 

 

 あるいは、かつてのローならば、ありのままのドフラミンゴを受け入れてくれていただろう。幼い頃、彼のそばだけは自由に息ができた。

 だが、きっと、今のローはそれを許してくれない。彼はコラソンの意思を失い、バケモノに戻るドフラミンゴを許さない。

 

 だから、ドフラミンゴは変わり続けるしかない。

 

 内面は変わらない。

 いくら仮面を被っても幼い頃の痛みが消えてくれない。胸に空いた虚はふとした拍子に存在を主張し、飢えに似た衝動を抑えるのに精一杯になる。

 

 奪われたのなら奪い返せ。

 全部壊して終わらせろ。

 そうすれば、怖いことなど何もない。

 

 そう囁く幼い自分を圧殺し、虚勢を張り続け笑みを貼り続けてやっと、ドフラミンゴは()()()()()()()

 

 くるしい。

 寄る辺なく空の果てを昇り続けるように、当て所なく海の底を彷徨い続けるように、この世界はどこまでいっても息苦しい。

 

 それでもこの道を選んだのは自分だ。

 進むべき未来を選ばせてくれたコラソンと、共に進んでくれる仲間達のためにも歩みを止めるわけにはいかない。

 ドンキホーテ・ドフラミンゴは強く、変わり続ける人間であらねばならないのだ。

 否、そうありたい。

 そうあると決めた。

 

 だが、どんなに強く願っても、喪失の痛みを思うだけで仮面は容易く外れる。

 

 ローの言う通りだ。

 不安で辛くて苦しい。失うことももがき続けることも、装うことも、何もかもが耐え難い。

 何よりも、この先、未来永劫この痛みは付き纏う。それが一番恐ろしかった。

 

 必死に押し隠してきた焦燥と恐怖。

 この感情が弱さだというならば、ドフラミンゴはいつまでも弱いままだ。

 

 

 浅く速くなっていく呼吸を整えようと息を吸った。だが、肺が真面に動いてくれない。

 何かが溢れ落ちそうで息が吐けない。

 喘げば喘ぐほどに喉が締まって引き攣る。

 

 駄目だ。弱みを見せるな。

 人間は弱者を踏み躙る生き物だ。そうでなければ自身が殺されるから、先んじて殺すのだ。

 本当に大切な者以外は誰も彼もが敵だ。敵は排除しなければ、そうでなければ。

 

 人間は奪うのだ。

 ドフラミンゴの大切なものを、何もかも。

 

 

 だが、この身体は動かない。

 いつも大切なものを守れないまま。

 

 

 無言で項垂れるドフラミンゴの耳に衣擦れの音が届いた。

 ローが遠ざかっていく。

 返事を待たずクルーを殺すつもりだろうか。

 

 

 ああ、そうか。

 もう選ばせてもくれないのか。

 

 

 のろのろと顔を上げれば、死神はまだ牢内にいた。場所を変えて腰掛けようとしただけらしい。

 ドフラミンゴの視線に気付き、中途半端に腰を浮かしたままで着物の裾を捌く手も止まっている。

 

「何をしてる。何で腰を落ち着ける体勢なんだ」

「何でって、お前が長考するから暇だったんじゃねェか」

 

 こちらに責があるとでも言わんばかりの言い草だ。

 呆気に取られていると、ローは胡座をかいて座り、さらには行儀も悪く頬杖までついた。斜め下から見上げてくる目は胡乱げに眇められている。

 

「まったく、想定外だ」

 

 挙げ句の果て、憮然とした様子で溢すではないか。

 

「想定外? 何の話だ」

「お前の話に決まってる。その不景気な面はなんだ。まるでおれがお前を虐めたみてェに」

「散々甚振られたように思うんだが、てめェにその自覚はねェのか」

「ない」

 

 この男、何がしたいのだろう。

 

 感情も思考も掻き乱されて正常に機能しない。怒りや困惑を通り越して呆然としてしまう。

 口を半開きにしたドフラミンゴを前にして、無表情のまま男は宣った。

 

「反論の一つもせず大人しく話を聞くとはな。随分と素直じゃねェか」

「反論させなかったのはお前だろうが。そもそも、おれは無駄口が嫌いだ」

「そうなのか? ガキの頃はもっとお喋りだったように思ったが」

「あんたが昔の事を覚えているとは初耳だ。関心のないことは秒で忘れるものだとばかり」

「失礼なことを言う。少しは覚えてるぞ。納得いくまで頷かねェし、事あるごとになんでだどうしてだと尋ね回ってたろ」

「……そこは忘れてくれていい」

 

 切実に逃げたい。羞恥で死にそうだ。

 もはや顔だけでなく首まで赤く染め、呻きながら壁に背を押し付けた。

 

「あの頃は必死だったんだよ。ガキのおれにしてみりゃ世界がひっくり返ったも同然だ。少しでも状況を把握しようとすることの何が悪い」

「悪いなんていつ言った」

「言ったようなもんだ」

「お前がそう受け取っただけだろ。勘違いのお喋りで弱味を晒すくらいなら口を閉ざせ。その方がいくらか利口だ」

 

 嫌味たらしく沈黙を強いられ、思わず無言で睨みつけてしまった。しかし、ローは気にした様子もなく先を促してくる。

 

「納得いかねェなら昔みたいに訊けばいい」

「…………」

「質問の仕方まで忘れちまったのか。まずは『なんでおれが弱いんだ?』とかどうだ」

「…………」

「何で黙ってる」

「てめェが黙れと言ったんだろうが!」

 

 平然と話を続けられるものだから、倦怠感も忘れて怒鳴りつけてしまった。

 耳を塞いだローが迷惑そうに宣う。

 

「黙り続けろとは言ってねェ。必要な時は話せ。子どもでもなし、駄々捏ねてんじゃねェよ」

「詭弁師が、てめェのくだらねェお喋りに付き合ってると余計に頭が痛くなる」

「ああ成程、頭痛で話せなかったのか。念の為診ておこう」

「馬鹿にして────!」

 

 唾を飛ばし罵るもローが立ち上がる方が早い。刺青の踊る指がドフラミンゴの顳顬を捕捉し素早く頭部を固定する。

 止める間などなかった。

 金の瞳が見透かすように瞬く。

 

「痛みはどうだ」

「どうもこうもあるか。無理矢理掴まれてんだ。痛いに決まってる。ついでに言えば、てめェの馬鹿力で目玉が零れ落ちないか不安で仕方ねェ」

「そうか。診たところ、中身に問題はない。だが、不安なら押さえてやる」

 

 顳顬から離れた手がドフラミンゴの両目を覆った。

 

 突如齎された深い闇に心臓が跳ねる。

 しかし、同時に懐かしい感覚に襲われた。

 

 訝しく思いつつその正体を探る。

 記憶から答えを見つけるまでさして時間は掛からなかった。

 

 香りだ。

 鼻をつく消毒液の匂いに混じり、微かに烟るそれは煙草の残り香に違いない。

 

「ロー」

「なんだ」

「お前、煙草なんか吸うんだな」

 

 思い起こされるコラソンとの日々。

 安息の香りと記憶に抗えず、目を閉じた。

 

「コラさんと同じ銘柄か」

「そうだったか? 覚えてねェ」

 

 嘘の下手な男だ。

 忘れるわけがないだろうに。

 

 下手な強がりに合わせ、口の端を引き上げる。

 吐息だけの笑声が返ってきた。

 

「随分と鼻がきく。確か、一度触れた物は再現出来るとも言ってたな。お前は五感が優れているようだ」

「鍛えてるんだ。色々探るより、まずは目の前にあるものを大事にってのがコラさんの教えでな」

「あいつの?」

「ああ。自分の目で見て、聞いて、触れて、全部それからだと」

「あいつはいつも難しいことを言う」

 

 閉じた左瞼の上を指の腹が柔く撫でる。

 確かめるような声音でローが続けた。

 

 

「片目、見えてねェよな」

 

 

 やはり誤魔化せていなかったか。

 そう思い、ため息を吐く。

 

「そうだ。普段は能力で視力を補ってる」

「擬似的に視神経を補修してるのか」

 

 感嘆の滲む声に面映さを感じた。

 ローはと言えば、まだ疑問が残っているらしく淡々と問いを重ねてくる。

 

「いつから見えなくなった」

「ファミリーに入る前から良くはない。気付いてたんじゃねェのか」

「ああ、お前が隠したがっているようだから放っておいた。だが、あの頃は軽い視力低下に留まっていたはずだぞ」

「本格的に見えなくなったのはコラさんに連れ出された後だ。額の辺りに石が当たってな」

 

 瞼を覆うローの手が微かな引き攣れを起こす。気付かない振りをして笑ってみせた。

 

「うっかり出自がバレたんだ。町中でコラさんと言い争ってるうちに例の訛りが出ちまった。あとはまァ、ご想像の通りだ」

「…………」

「『言葉には気をつけろ』ってな。まったくあんたの言う通りだったよ」

 

 揶揄っても返ってくるのは沈黙だけ。居心地が悪くなり身じろぎした拍子にローが手を離し、視界が薄らと明るくなる。

 瞬きを繰り返していると、どうにもバツが悪そうな様子でローが言った。

 

「治療や再生は難しい。ただ、能力で部位丸ごと入れ替えることなら出来る。どうする?」

「他人の目玉一式とか? 結構だ。ここを出ればすぐ元に戻せる」

「そうか。だが」

「どうした。治療云々やけに拘るじゃねェか。あんたにゃおれの面倒をみる義理もあるまいに」

 

 疑問をそのまま口に出せば、ローは黙り込む。

 

 どこか温い沈黙の中、ふと思った。

 

 

 そもそもだ。

 この男、何をしに来たのだろうか。

 

 

 毎度のこと神出鬼没に現れては意味深長に人々を惑わせ、ついでのように場をかき乱していく黒衣の男。

 今となっては意外に何も考えておらず、ただ好きなように動いているだけのように思える数々の行動。

 

 

 順を追って考えてみよう。

 ローが牢に現れて最初に行ったのは能力を利用した診察だろう。

 能力域は視認できないものの間違いない。彼であれば、まずはドフラミンゴの容態を把握したはずだ。

 

 その後は鎮痛剤を勧められ、唐突な講義で痛みへの見識を広げさせられ、淡々と現況への苦言を呈された。

 最後に関してはほぼ脅迫だ。

 だが、今の態度を鑑みるに、どうやらあれはローなりの保護宣言であったらしい。

 さらには現在、身体的な弱点にまで言及しつつ、施術による改善策を提示されているわけだ。

 

 ここに至るまで、ドフラミンゴはローの提案を悉く蹴っていた。また、『自身の下で囲ってやる』という誘いに関しては答えてすらいない。

 

 否、一応、講義のみは受けたか。

 話を聞く体勢を取った途端、満足そうにしていたローの顔を思い出した。

 

 

 今のローはというと、表情こそ変わらないもののどことなく悄然として見える。

 しょぼくれているのは察知できても、肝心の理由が分からない。さらに意図を探るべく観察していると視線があってしまった。

 

 金の瞳が瞬き、物憂げに伏せられる。

 

 何だというのだ。

 助け舟を全て無に帰されたようなその顔は。

 

「……助け舟?」

 

 思わず呟く声が震えた。

 

 

 あり得ない。

 あり得ないとは思うが。

 

 

 この男が牢を訪れた時、ドフラミンゴは何と言って声をかけただろうか。

 

『まさかお前が助けに来てくれるとは』

 

 あの時、ローは否定しなかった。

 ないとは思うが、本当に────?

 

 

 ドフラミンゴは唾を飲んだ。

 震える喉に力を入れ、恐る恐る問いかける。

 

 

「ロー。お前、まさか、おれを助けに来たのか」

「それ以外何だと思ってたんだ」

 

 

 言葉を失うとはこのこと。瞠目するドフラミンゴを他所にローは訝しげだ。

 

「お前だって嬉しいと言ってくれただろ」

「それは言葉の綾というか冗談であってだな」

「普通、知り合いが捕まってたら助けるもんだ」

「普通かどうかはともかく、カイドウを裏切るのは賢い選択じゃねェだろう」

「おれが賢い人間に見えるか?」

 

 首を傾げて問うその姿。

 戯けているつもりなのか、大真面目なのか、無表情のため判別不能である。

 だが、困ったことに本気ではあるらしい。

 トラファルガー・ローは自身の今後を省みず、ドフラミンゴを救いに来てしまったのだ。

 

 

 この男、馬鹿か?

 大馬鹿なのか?

 

 

 惚けるあまり、気を抜くと無駄なひと言を放ちそうになる。

 顎に力を入れて衝動を堪えていると、推定大馬鹿の眉間に僅かな皺が刻まれた。

 

「やっぱり嫌か? 本当は、お前が嫌がるだろうから手を出すなとは言われたんだ」

「誰にだ、誰に」

「デリンジャーに。あとベビー5とセニョールにも。他は、揶揄いに行くだけならいいんじゃねェかって」

「待て。何でファミリー総出でおれの状況を把握してやがる」

 

 思わず突っ込んでしまったものの問題はそこではない。真の問題は組織の長であるはずのローが単身この場に来てしまったことである。

 当人は真っ当な判断をしたと思っているあたり、本気でタチが悪い。

 

 自身には無関係と思いつつ、昔馴染み達への被害拡大を放置も出来ず、ローを責めてしまう。

 

「少しは考えろ。ここはカイドウのナワバリなんだぞ。お前が好き勝手動けばファミリーの奴らも諸共危険に晒されるのが分からねェのか」

「分からねェな。何でおれがそこまで考えてやらなきゃならねェ」

「何でじゃねェんだよ。分かるだろうが。お前も頭領なんだぞ。カイドウを裏切れば────」

「こうるさい奴だな。大体、さっきからなんだ。カイドウの名ばかりあげやがって、まるでおれがあいつに従ってるみてェに」

「そこまで言ってねェだろうが。友人の間柄にも仁義があるって話をだな」

「それくらい知ってる」

 

 応える声は徐々に低くなっている。

 表情こそ変わらないものの機嫌を損ねていることは間違いない。

 相変わらず子どもっぽい男だ。

 

 物分かりの悪い大人に世の理を説こうとしたその時、ローがぽつりと呟く。

 

「仁義なら通した」

「そりゃあどう言う意味だ」

「カイドウに頼んだんだ。尋問も拷問も好きにして構わねェが、お前はおれの身内みたいなもんだから渡したくねェって」

「待て待て、誰が何だって⁉︎」

「だから、身内みたいなもんだろ?」

 

 当然の共通認識を述べるかのような言い草だが、全くの事実無根である。訝しげな顔をされても言われた側としては全く理解できない。

 そもそも、ドフラミンゴの自認では身内どころの騒ぎではない。裏切者を自称する方が気楽なほどだ。

 

 身内。

 ローにとってのそれは、結構な価値がある。

 何故そこに自分が数えられようとしているのか。耐え難い違和感と妙な高揚で腹の底が気持ち悪い。

 

 だが、ロー自身は特に深く考えていないようで、人知れず悶えるドフラミンゴの反応を完全に無視し、だらだらと話し続けている。

 

「一応、カイドウにとっても悪い話じゃねェんだぞ。タダで我儘を言うのも悪いと思ってな。交換条件を出した」

「交換条件だ? まさか古代兵器の手掛かりを教えたとかじゃねェだろうな」

「え? そんなもん、隠す意味もねェから酒の肴にしちまった」

「…………」

「今回はな、お前を貰う代わりにシーザーのクズの件をチャラにしてやるってことで」

「馬鹿野郎! 極秘情報を垂れ流した挙句、特大の貸までドブに捨ててるじゃねェか! 革命家のくせに交渉のイロハも知らねェのか!」

「よく言われる」

「そりゃそうだ、大馬鹿……!」

 

 堪えきれずに怒鳴ってしまい、疲労感で脱力する。壁に寄りかかり天を仰げば目眩がした。

 

「ああもう信じられるか。笑えてきた」

「素直に笑えばいい。カイドウも笑ってたぞ」

「そりゃ笑うしかねェからだ」

「いや、多分酔ってただけだと思う。ナントカ上戸ってやつだな」

「酔っ払い相手に交渉をするんじゃねェ。仁義はどうした、仁義は」

 

 酔いにつけ込んだことを指摘する。しかし、何を反論するでもなくローは唇を歪めた。

 この男、確信犯である。

 

「と言うわけで、カイドウに文句は言わせねェ。あとはお前さえ頷けば万事解決なんだ」

 

 何が『と言うわけで』か。

 拷問時のホーキンスの態度を思い返せば、まず間違いなくカイドウの意向は百獣以下構成員まで伝わっていない。

 そもそも泥酔時の口約束などあってないようなものである。明日にはカイドウ本人も交渉のことなどすっかり忘れ、果てにトラファルガー一派と百獣の抗争が勃発しても何ら不思議ではない。

 

 要はこの男、どちらでもいいのだ。

 

 ドフラミンゴが素直に助けられたならば良し。

 そうでなくとも、カイドウが素面に戻った辺りで今日の交渉を下地に何らかの事を起こし戦乱と混沌を生むも良し。

 何があっても自身が楽しめるならばそれでいいのだろう。自らに課した軛が解けた途端、俄然自由な迷惑野郎である。

 

 平然と佇むローを睨みつけ、念の為に現状を問う。

 

「ホーキンスは? このことを知ってたのか」

「いや、おれから説明した。今は納得済みだ。お前と話すのも許してくれたんだぞ」

「説明? 納得? 馬鹿馬鹿しい。あいつが素直に聞き入れるはずもねェ」

 

 バジル・ホーキンスは賢しく慢心のない性質の海賊だ。酷薄になりきれないがゆえ計算高くもなれない難儀な性格ながら、芯のある男だった。

 また、カイドウに屈したとは言え、彼も海賊の頭領である。ただの珍客であるローの言い分を安易と信じるわけがない。

 何らかの交渉があったとみていいだろう。

 ドフラミンゴは目を眇め、ローを睨みつける。

 

「何をダシにホーキンスを動かした」

「ダシというか質だな。あとは占いの結果だと。曰く、おれが嘘をついている確率は──」

「誤魔化すな。話せ」

 

 ローが自身の胸に手を置いた。指は抵抗なく沈み、胸が歪に凹んでいく。

 

 

 また。

 また、この男は。

 

 

 ドフラミンゴが額に青筋を浮かべるのを見て、ローは抜け抜けと宣った。

 

「あの手の男には原始的な交渉が効く。同じ手口を使うんだから当然だよな」

 

 この男はホーキンスに自身の心臓を預け、カイドウに真実を確かめるよう説いたのだろう。もし、自身の言葉が嘘であれば、預けた心臓を如何様にでもすればいいと唆して。

 

「普段からこんなことしてんのか」

「時々な。釣果がいいんで重宝してる」

「……昔は」

「うん?」

「他人に心臓を晒すような馬鹿、昔はしてなかっただろうが。おれがファミリーにいた頃は、もっと……」

 

 声も低く呟くドフラミンゴを見つめ、ローは首を傾げた。視線が宙を彷徨い、何に思い当たったのか、その顔に薄い笑みが浮かぶ。

 

「あの頃はまだ自分の心臓に慣れてなかった。正直持て余してたのかもしれねェな」

「生まれてこの方、胸の中にあるものを持て余すものか。医者が適当を言うな」

 

 何がツボに入ったのか、緩く目を細めるロー。その穏やかな表情から彼が死への恐怖を感じていないことを改めて思い知った。

 

 この男は変わっていない。

 命そのものを他者に投げ渡しておいて平然と笑う。他人も自身も等しく扱い、その生死を道具としてしか数えられないままなのだろう。

 

 だからこそ、違和感があった。

 

「何故、おれに構う。お前が命をかける理由も価値もねェはずだ」

 

 奇跡的に道の交わった過去はあれど、ドフラミンゴはファミリーの一員でもなければ傘下でもなく、当然身内でもない。

 ローとてただ知り合いだからと助けに来るほど腑抜けた人間ではないはずだ。

 何か狙いがあるのか。意図を問うただけだったのだが、返ってきたのは胡乱げな視線だった。

 

「“怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴだったか? 大層な二つ名のくせに目利きに難ありとは笑わせる」

「交渉も碌にできねェ盆暗に言われたくはねェな」

「口だけは達者だ」

「黙れ。少なくともおれはおれの価値を把握している。自分で言うのも虚しいもんだが、客観的に見ておれの価値はそこまで高くねェ」

 

 反論でもあったのだろうか。

 唇を開いたローは、しかし言葉を発さず、胸元で何か握りしめて俯く。その動作はドフラミンゴ自身にも覚えがあるものだ。

 

 正直、意外だった。

 

 理屈であれ屁理屈であれ言葉を弄して味方を作り、敵という敵を力で排して事を成してきたロー。

 結局のところ彼は力ある者で、いつ何時も引き下がらない人間だ。

 それがどうだ。これではまるで、我儘も言えず我慢する子どものようではないか。

 

 何故かこちらが悪い事をした気さえする。

 ドフラミンゴは無意識に手を伸ばしかけ、派手に鎖を鳴らしてしまった。

 

「すまねェ。うるさかったか?」

「────」

 

 耳障りな残響に顔を顰めていると、ローが何事かを呟く。

 

「聞こえねェな。何だって?」

 

 聞き返すも答えはない。

 代わりに彼はかぶりを振り、吐き捨てた。

 

「何でもねェ。文句ばかり言いやがって、結局、お前はおれに助けられたくないんだろ」

「助けられたくないというか、理由がだな」

「もういい。帰る」

 

 やけに素直に引き下がる。

 否、むしろ、これは臍を曲げてしまったのではないだろうか。

 何にせよ、調子が狂ってしまう。

 

 そもそも、ドフラミンゴの意向を問う理由などローにはないはずだ。

 自分で言うのも惨めだが、この状態での抵抗などたかが知れている。力で捩じ伏せて連れ出せばいいだけの話ではないか。

 やはり何か意図があるのだろうか。

 訝しみ、眺めていれば視線が合う。

 

「……何だ」

「何だと言われてもな。むしろ、言いたいことがあるのはロー、お前の方じゃねェのか」

 

 一瞬揺らぐその視線を追えど、牢内に答えが転がっているはずもない。しかし、少なくとも何か内に秘めたものがあるのは確実だ。

 

 倦んでも腐っても“怪盗”。重要情報を逃すドンキホーテ・ドフラミンゴではない。

 

 長い沈黙の後、ローが根負けしたように目を伏せた。

 

「ひとつ、いいか」

 

 頷いて続きを促せば、ローは俯いてしまう。

 何がそんなに嫌なのか、さらには両手で顔を覆い、ため息まで吐くではないか。

 口元まで掌で覆っているせいだろう。

 妙にくぐもった声でローは言った。

 

「お前の人生だ。好きに生きて好きに死ねばいい。ただ、これだけは理解しろ」

「何だ?」

「お前の生存戦略には致命的な穴がある」

 

 

 何を言うかと思えば、この男は。

 

 

 直球の批判に怒りを通り越して笑えてきた。

 しかし、ここで怒鳴りつければこちらの負けだ。致し方ない。ドフラミンゴは忍耐の結晶たる笑みを顔面に貼り付ける。

 

「致命的な穴ねェ。フッフッフ、是非ご教示いただきたいもんだ」

「いい心掛けだ」

 

 大仰に頷かれると殊更腹立たしい。

 だが我慢だ。今は雌伏の時なのだ。

 

 苛立ちのあまり頬が痙攣しているのを自覚しつつ、傾聴の姿勢で先を促す。

 目に見える態度に満足したのだろうか。ローが一つ頷き、厳かに告げた。

 

「ドフラミンゴ、お前の船で一等強い駒はお前自身だ。自分が殿を務めるべきという考えは分かる」

 

 らしくもなく僅かに焦燥感を滲ませた声だ。

 不思議に思い首を捻る。

 

「分かるも何も当然じゃねェか。クルーってのは宝だ。海賊の頭領が宝を守らねェでどうする」

「そう思うならなおさら見誤るな。仲間を失いたくないあまりに前へ出るくらいなら、いっそいの一番に逃げ出せ」

「馬鹿言え。仲間の前でそんな無様が晒せるか」

「いくら無様でも生き残れば問題ない」

 

 そう呟き、ローはドフラミンゴの首元へと手を伸ばす。冷えた指が捉えたのは金の鎖、クルーから贈られたチェーンだ。

 涼やかな金属音を響かせ、指は絆の形をなぞる。

 

「お前が勝利より生存を望めば、奴らは死にものぐるいで生き残る。そうだろ?」

「おれのクルーだ。知った風な口を叩くな。そもそも、尻尾巻いて我先に逃げる長なんざ死んでるも同然だ。ついて来る人間はいねェ」

「違うな。船員が残っていればお前は必ず再起する。逆に、仲間を欠いたお前はそれこそ死んだも同然じゃねェのか」

「それは……」

「お前が要で、錨なんだ。生き残れば巻き返す機会はいくらでもある」

 

 何が言いたいのだろうか。

 これではまるで、ローがドフラミンゴの生存を願っているようではないか。

 

 困惑するドフラミンゴを見つめ、ローが囁く。

 

「お前はお前自身だけでなく周りをも変え、生かす力を持っている。分かるか?」

 

 ゆっくりと諭すかのように告げられる言葉に、どう返してよいものかいよいよ分からなくなった。

 ドフラミンゴが無言で瞬きを繰り返していると、ローは微かに目を細めた。

 

「ドフラミンゴ、お前は人一倍苦痛を嫌う。同じ轍を踏むのがいやだったんだな。だから、昔から神経質なまでに危険を避ける節があった」

「痛がり屋の怖がり屋だとでも? せめて慎重と言ってほしいもんだ」

「どちらでもいい。お前は慎重に状況を観察し、他人の心情を読み取る努力を重ねてきた。周りを制御出来れば安全だものな」

 

 確かに、ドフラミンゴは他人を制御下に置きたがる傾向がある。元天竜人という来歴を差し引いてもその気質は顕著で、時に制御を通り越して強制支配に近いことまでしでかしてきた。

 過去、ベビー5やバッファローを糸で操ろうとして、恩人──当時はいけすかないと嫌っていたコラソンに叱られたこともある。さらに、反抗して逃げ回った挙句、自分の糸に絡まって宙吊りになったのだ。

 見かねたローから能力の手解きを受ける流れに持ち込めたのはある意味僥倖だろう。それは別として、忘れてしまいたい恥の記憶である。

 

「一応言っておくが、今は他人を操りたいとは思っちゃいねェ。あんな面倒なことやってられるか」

「今は必要ねェかもな。だが、ガキの頃は違う。他人を操る技術はお前の生命線だったはずだ」

 

 淡々と語ったローが問いかける。

 

「ファミリーから逃げ出したあの頃、ラミは随分と不安定だった。手綱を握れる状態じゃない。そばにいるのは辛かったんじゃねェか?」

「うぐ⁉︎」

 

 恩人の人格を否定するわけではない。だが、擁護も出来なかった。

 

 コラソンという人は、まずもって計画性が皆無なのだ。見張っていないととんでもない事態を引き起こすタイプである。

 いや、見張っていても大概だったが。

 

 口をへの字にし返答を控えるドフラミンゴの様子から当時の状況を悟ったのだろう。

 ローが小さく笑った。

 

「すまねェ。ラミが迷惑をかけた」

「迷惑とは思っちゃいない。ただ、たまに不安になっただけだ」

「そうだな。お前は自身も不安な中、振り回してくるラミを逆にコントロールしようとした。対話と観察、自己開示もしたんだろう」

「……そうする内に、あの人に感化されたとでも?」

「いや、おれが言いたいのはむしろ逆だ。お前がラミを変えたんだよ」

 

 

 金の瞳が瞬く。鈍くも溢れる光。

 背負われて見た夜空の星とは違う、熱を帯びた柔らかな光。

 

 

「お前がラミを救ったんだ」

 

 

 ローはそう言って一歩離れた。袖で口元を覆う姿はかつての絶対性を失っている。

 

 おかしなことは何もない。ドフラミンゴも変わり続け、ローもやっと動き出した。

 コラソンだけが変わらず、時を経ることのないまま二人の中にいる。

 それだけの話なのだ。

 

「お前がそばにいてくれたから、ラミは強くなれたんだな」

「────……」

「おれの知るラミは優しくて、怖がりで弱い、守ってやらなきゃならねェ存在だった」

 

 理解はできる。

 兄弟などどこもそう変わらない。ドフラミンゴとてロシナンテのことを憎からず思っていた。

 愚図でノロマで足手纏いにしかならない弱い弟。かわいい弟。

 今や顔も声も朧げにしか思い出せなくなってしまったが、その存在はいつまでも心に残り続けている。

 

 兄というものはあまりに愚かだ。

 守りたいものも守れず、そのくせずっと彼らのことを忘れられないのだから。

 

 感傷を誤魔化すようにドフラミンゴは笑う。

 

「コラさんは元から強い人だったさ。胆力や腕力だけじゃねェ、笑うのも泣くのも怒るのも全力で、良くも悪くも加減の出来ねェ人だった」

「お前の知るラミの話が聞きてェな」

「またいつかな。上等な酒でも出してくれりゃあ、これまでのことくらい話してやってもいい」

 

 茶化さず陽気に応えたというのに、返事に力はない。どうにも反応が陰鬱である。

 珍しいこともあるものだ。ローの眉間にははっきりと皺が寄っていた。

 

「……いつか、か」

 

 そう呟いてドフラミンゴの横に腰を下ろした後、ローは髪をかき乱し、完全に表情を隠してしまった。

 

 どうやらまだ言い足りないことがあるらしい。しかも、何やら言葉にしづらいことが。

 

 しばらくして、消え入りそうな声でローが言う。

 

「ドフラミンゴ、お前のことを身内みたいなものだと言ったよな。あれは嘘だ」

「そりゃまあな。単なる他人だ」

「そう言うことでもねェ。そもそも嘘とも言い切れないというか、該当する言葉に心当たりがなくて適切に表現できないだけだ」

 

 声は不機嫌というよりは歯痒さで揺れている。

 拙くも言葉が重ねられるたび、壊れそうに軋む歯車を見る心地がした。

 

 大人しく続きを待っていると、ローは組んだ両手を額に押し付ける。

 まるで祈りを捧げているような、あるいは懺悔に震えているような苦しげな姿。

 

 顔は見えない。

 何を考えているのかなど、昔から分からない。

 

 ぽつりと、声だけがした。

 

 

「強いて言うなら、宝だ。お前の中におれの宝が眠ってる」

 

 

 幾度も悩んで出した答えなのだろう。

 言葉には何とも言えない苦渋が滲んでいた。

 

 呆気に取られたドフラミンゴを他所に、ローはひどく頼りない声で呟く。

 

「お前はおれにとっての宝箱なんだ。あまり脆くいられちゃ心配で、手の届く範囲に置きたくなっちまう」

 

 それはまるで告解だった。

 

 改めて告げられたのは助け舟の理由。

 遅れて、ローの言う『宝』が何かを理解する。

 

 

 コラソン。

 その遺志、彼女の心こそがローの宝だった。

 

 

 蓋を開けてみればあまりの単純明快さに閉口してしまう。

 

 ドフラミンゴはトラファルガー・ラミの生き様を知る人間。彼女の願いを受け継いだ唯一の存在である。

 つまりは、安物の煙草と同じだ。ローにとってのドフラミンゴは彼女を偲ぶ縁そのものなのだろう。

 だからこそ血迷って頓珍漢なアプローチを繰り返し、多少強引にでも守ろうとしてしまった。

 

 一方で、ローはドフラミンゴの『自由』を奪うことに躊躇いを覚えている。

 そうでなければ行動の速い彼のこと、四の五の言わずにドフラミンゴを囲っていただろう。

 

 

 ドフラミンゴが自由に生きること。

 それもまた、コラソンの願いだから。

 

 

 まったく、彼らしい葛藤だった。少なくとも根っからの悪党にはない発想である。

 

 何とも腹立たしい。

 身勝手で独りよがりなローの在り方。コラソンの思いをほぼ理解出来ていない鈍さと、それでもなお彼女の遺志に従おうとする盲目なまでに深い愛情。

 

 何より、『守ってやらねば』などと、他でもないローに思わせてしまった自分に一番腹が立つ。

 

 苛立ちを宥めるべく一つ息を落とし、顔を上げた。自責を胸の内に仕舞い、ゆっくりと告げる。

 

「ロー、お前の言いたいことは分かった。だが、駄目だ。おれは約束を果たしたい」

「約束?」

「ああ、そうだ。約束だ」

 

 それらしく真面目くさった顔を作り、神妙に頷いてみせた。

 

「麦わらとは四皇打倒の同盟を組んでる。戦いを投げ出すわけにゃいかねェ」

「ああ、分かってる。だが──」

「まあ聞け。他にもあるんだ。この戦いが終わったらクルーにパーティマナーを教えてやる約束でな」

 

 話の流れが理解できないのか、ローが首を傾げた。

 掴みは悪くない様子だ。咳払いで注意を引き、さらに言葉を重ねていく。

 

「パーティと言えば、ベビー5のドレスも頼まれた。大事な幼馴染の晴れ舞台だ。どうせなら布から一級品で設えてやりたい。もののついでだ。お前らのスーツも仕立ててやろう」

「それはありがたいが。お前ら、おれに隠れて連絡を取り合ってるんだな」

「隠れてるつもりはねェ。幼馴染だしな。ああ、そうだ。布で思い出した。この国で世話になった呉服屋の倅と仕立屋のじゃじゃ馬娘の仲人も頼まれてるんだ」

「何がどうなってお前みたいな仲人が誕生するんだ」

「おれは商人だ。縁結びは得意なんだよ。あとは、そう、紡績と染色の技術交換会もあったか」

「まさか、お前、ワノ国には商売目的で来たのか」

 

 訝しげながらも話を聞いているロー。斜めに外れる推察にさえ彼らしい愚直さが滲んでいる気がした。

 思わず笑い出すドフラミンゴを見返し、ローは意味が分からないとでも言うように首を傾げている。

 

「あちこちで油を売ってるのは分かったが、だから何なんだ? ドフラミンゴ、お前は約束がありゃ生きていけるのか?」

「そうだ。それがなけりゃ始まらねェのさ」

「分からねェ。どう言う意味だ」

「おれはコラさんと約束した。一等大事な約束だ」

 

 コラソンの名を聞き、ローの瞳に微かな感情が滲むのが分かった。

 その複雑な色合いをこそ愛と呼ぶのだと、ドフラミンゴは知っている。

 

 何のことはない。ローは恐れているのだ。

 ドフラミンゴ、否、トラファルガー・ラミの生きた証が失われることを。

 

 ならば、すべきことは決まっている。

 

 努めて楽しげに、窮地でこそ笑顔を。

 ドンキホーテ・ドフラミンゴは笑ってみせた。

 

 

「コラさんとの約束だ。おれはおれのやり方であんたと世界を変える。自由に、な」

 

 眩しいものを見るような、それでいて困っているような金の瞳。未だ揺れる願いと自制を全て飲み下して淡く瞬くその光を真っ直ぐに見返す。

 

「ロー、確かにあんたの下は安全だ。だが、自由にはなれねェ。そうだろう?」

 

 

 長い沈黙を経てこぼれたのはささやかな笑声。

 諦めと信頼の入り混じった声音から、変わらない男の何かが動いたのだと知る。

 

「お前がそう言うなら、手出しはできねェか」

「悪いな。カイドウへの貸しなんて大層なカードまで切らせたってのに」

「気にする必要はない。お前らが進むならどの道紙切れになる手札だ」

 

 凪いだ反応。珍しく感情を滲ませていた瞳もすっかり元通りだ。

 羽虫を見るような面でローは言う。

 

「カイドウを倒すんだろ?」

「ああ」

 

 頷けば、ローはふいと他所を向いてしまった。既に別事を考えているのか、口元に手をやって俯く姿からは執着の一欠片も見受けられない。

 

「フッフッフ、安心したか?」

「いや、全く。お前は自分の強味も弱点も自覚できてねェし、何も進歩しちゃいねェ。安心できる要素がどこにある」

「こりゃまいった。耳が痛い」

 

 恨めしげに睨みつけられ、おどけてみせる。

 

 実のところ、当たりをつけているとはいえ、脱獄の策などあってないようなものだ。それでもローの手を煩わせるわけにはいかなかった。

 

 これでいいのだ。

 弱者と断じられ守られるなど、ドフラミンゴの矜持が許さない。

 

 

 くつくつと笑うドフラミンゴを見つめ、ローが能面のような顔で告げた。

 

「無駄足のついでだ。一応教えてやるが、ドフラミンゴ、お前は強い」

「ああ、そりゃ当然──……うん?」

 

 唐突な評価の逆転に思考が停止する。

 聞き間違えたのかと思い声をひっくり返らせたドフラミンゴを他所に、ローは繰り返した。

 

「お前は強い。若く、身体も頑丈だ。発想力に富み、洞察力にも長けている。感情面でも悪くはない。プライドが高くやや神経質なところもあるが、その分、自他問わず緻密なコントロールが得意だ」

「な、なんだ? なんの話をしてる?」

「だから、お前の話だろ。ここに来てずっとお前の話しかしてない」

「えぇ……?」

 

 何故、突然褒めちぎられているのか。

 惚けた面を晒している自覚すらできず、ドフラミンゴは困惑の声を漏らす。

 間抜け極まりない反応を馬鹿にした様子でもなくローは続けた。

 

「今、お前を縛り付け、弱者たらしめているものが何かわかるか。拷問で受けた傷でもなけりゃ海楼石の枷でもねェ。過去に根付く恐怖心だ」

「それは理解した……つもりだが。結局、その恐怖心ってのを克服できねェから弱いって話だろうに」

 

 訝しげに問えば、再び睨みつけられる。なんなら舌打ちまでされた。

 大人しく押しかけ講座を聴講してやったというのに何とも理不尽な話だ。

 思わず苛ついてしまい、半笑いのまま吐き捨てる。

 

「そもそも、弱者だなんだってのはお前が言ったんじゃねェか。もう忘れたのか」

「忘れているのはお前の方だ。誰が見ても明らかな自身の価値を過去の痛み一つで忘れて、自ら弱者に成り下がる」

 

 突然襟首を掴まれ、引き寄せられた。

 首に痛みが走り思わず顔を顰める。しかし、下手人は気にした素振りもなく低い声で告げた。

 

「今一度、自覚しろ。逆境を生き延び、ラミを救ったこと。誓いを違えず歩み続け、おれの道を曲げたこと。他の誰にも出来ねェことをお前は成し遂げた」

「おれの功績じゃない。それどころか誰が欠けてもしくじってた。おれは結局、右往左往しただけだ」

「安易な卑下に逃げるな。カードを揃えて道を拓いたのはお前で、おれを引きずり出したのもお前だ」

「……おれはそんなじゃない」

「黙れ。過去の弱い自分ばかり振り返って無様に怯えるのはやめろ。どんな逆境にあろうが、今のお前には状況を覆す力と経験がある」

 

 謙遜したつもりは毛頭ない。本心だ。

 そして、きっと弱音だった。

 

 しかし、この男はドフラミンゴが弱くあることを許してくれないのだろう。

 

 至近距離で金の瞳が輝く。

 牢の薄暗がりの中、強く、どこまでも強く、ドフラミンゴの在り方を信じる眼が瞬いていた。

 

「ドンキホーテ・ドフラミンゴ。お前は賢く、強い。生きる力がある。周りまで巻き込んで、変わり続ける力もな」

「────……」

「おれとラミの見立てを裏切るんじゃねェ」

 

 それはいつかの夜、星空の下で聞いた言葉。そして、十数年の時を越え、新たに告げられる激励。

 

 凪いだ声の紡ぐ激励に、弱く縮み上がっていた胸が音を立てる。

 熱に倦みくさりかけた身体に血が巡り、凍えていた指に力が入る。

 

 ああ、この男は。

 否、この兄妹は、本当に。

 どうしようもなく、昔からずっと。

 

 立ち止まらせてくれない。

 少しの休みも許してはくれない。

 生きて、走れと。

 変わり続けろと。

 お前にはその力があると、身勝手に語るのだ。

 

 唇を噛み締めた。

 愚かにも、諦めきれず悔いる力があることを知ってしまった。

 

 何があっても信じている。

 その声を聞いてしまった。

 

「フッフッフ、妙に煽てるじゃねェか。弱い弱いと罵ったのはロー、あんたのくせに」

「煽てても罵ってもねェ。てめェの強さも認められねェんじゃ弱くなって当然だ」

 

 手を離したローが衣擦れの音と共に立ち上がる。

 

「もう行くのか」

「元々大した用はない。まったく時間を無駄にした。身の程も知らずへらへら笑いやがって虫唾が走る」

「どうした。急にご機嫌斜めじゃねェか」

「黙れ、馬鹿。お前なんかここで一生過ごせばいいんだ、間抜けが。おれの誘いを断ったこと、せいぜい後悔するといい」

「悪口のバリエーションがガキ以下な上に三下感もすげェな」

 

 そもそもだ。顔は鉄面皮のまま、口調など棒そのものである。本気の罵倒には思えない。ローなりの冗談、ないしは軽い戯れなのだろう。

 鼻で笑ってやれば、ローは目を伏せた。

 普段通りの凪いだ声が問う。

 

「どうだ。楽しいお喋りで少しは気も紛れたか?」

「おかげさまでな、先生」

「そりゃよかった。痛い痛いと思って身構えると碌なことがねェ。そういう場合は他所事を考えさせるのが手っ取り早い」

「…………」

「注射針を怖がるガキには意外と有効なんだ、これが」

 

 実のところ、ローは最初からドフラミンゴが拒絶すると予測していたのだろう。あまりに淡白な様子からその思考が透けて見えた。

 恐らくだが、この男、本当は暇潰しにきただけなのだ。

 

 思うがままに暇を潰し、徒らに本心を覗かせ、気まぐれにドフラミンゴを救いにきた。

 本当にそれだけなのだろう。

 

 もはや怒りすら湧いてこない。

 ため息を吐くドフラミンゴを他所に、ローが目を細めた。

 

「次会う時まで元気でいろよ」

「当分は会いたくねェな」

「それは困る。ほら、あのシロクマ。あいつ、名前は何て言ったか」

「ベポだ。あいつがどうかしたのか」

「そう、ベポだ。次の講義の資料をあいつに渡してあるからな。ワノ国滞在中にもう一コマは進めたい」

「ああ、成程。ベポに……?」

 

 さらりと言うものだから、危うく流しかける。

 

 いや、待て。

 この男、今なんと言った?

 

 こちらの困惑など気にした様子もなく、ローが無表情のまま頷いた。

 

「ああ、分かるぞ。興味があるんだな。そういう素直さは悪くない。特別に次のテーマを教えてやろう」

「違う違う。そうじゃねェ」

「次回の題目は『痛みは感染する』だ。孤立や排斥からくる社会的苦痛と共感について────」

「違うと言ってるだろうが! 人の話を聞け!」

 

 至近距離で怒鳴れば、ローは耳を塞いでそっぽを向いてしまった。どことなく子どもじみた仕草だ。

 そういえば、コラソンも人の話を聞かない人で、説教などされた日には年甲斐もなくぶすくれていた。

 

 兄妹揃って、なんとも。

 

 ドフラミンゴは声を顰めて尋ねる。

 

「お前、いつどこでベポに会ったんだ。一体どうやって接触しやがった」

「ついさっき、外で。接触方法と今どこにいるかは秘密だ。それにしてもあいつはいい。なかなか見どころのある男じゃねぇか」

「やらねぇぞ。そもそもどの口が言うんだ。殺そうとしたくせに」

 

 ローは目を瞬き、首を傾げた。

 不思議そうにされても困る。

 

「クルーも敵も全部殺す。他でもないお前がそう言ったんだろうが」

「お前が()()を望んだらの話だ。どうせ断られると思ってた」

「ロー、お前」

「考えてみろ。お前はおれの宝箱だ。宝箱を守ってくれた奴らを害する理由がどこにある」

「……それはまあ、ないと思うが」

 

 ドフラミンゴそのものではなくコラソンの遺志を指しているのだとは承知しつつも、宝と連呼される面映さに負けてトーンダウンしてしまった。

 軽く咳払いをして気持ちを切り替えようとするも、生暖かい感情が広がってうまくいかない。

 せめてもと喉を潤し、ありきたりな言葉を溢す。

 

「まァ、なんだ。礼を言う」

「構わねェ。ファミリーの奴らも暇つぶしができて喜んでいた」

「暇つぶし?」

「特にベビー5がベポと盛り上がってな。子ども時代のアルバムを見せてやる話になったらしい」

「えっ?」

「お前の繭玉だか何だか言ってたぞ。はやくここを出て止めなくていいのか?」

 

 唖然として動けないドフラミンゴの目前、トラファルガー・ローは艶然と笑った。

 

 

「じゃあな、ドフィ。()()()()

 

 

 突然、ローの姿がかき消える。

 代わりに薬瓶が転がり、中の液体が音を立てた。

 お得意の瞬間転移だろう。

 

 やはり、最初から能力場を形成し維持し続けていたのか。待てという暇すらなかった。

 

 こうなると、ベポと接触したというのも嘘ではないはずだ。

 牢を脱したベポ達はローの能力で無理矢理連れ去られた。連行先は恐らくファミリーの滞在場所だ。

 言葉通りであれば、ベポ達は今頃、ファミリーが開催する謎の懇親会に巻き込まれていると考えて間違いない。

 

 

 確かに安全ではある。

 だが、本当にこれでいいのか?

 もう考えるのも面倒だ。

 

 

 嵐の去った牢の中、脱力したドフラミンゴは天井を振り仰ぎ深いため息を吐く。

 

 よくもまあ、振り回してくれたものだ。あまりに振り回されすぎて、かえって落ち着いてしまったではないか。

 

 ベポ達の居場所に見当がついたためか、それともローの“治療”が効いたのか。

 何にせよ精神は安定し、ローの指摘通り、拷問による負傷も海楼石による脱力も大したことがないと気付かされてしまった。

 

 少し眠れば元に戻る。

 本当にその程度の傷だったのだ。

 

 

 もういい。

 今は何かを考える気分ではない。

 それに、何より────

 

 

 安心したからだろう。

 猛烈な睡魔に襲われ、ドフラミンゴは目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 健やかな寝息が響く牢の、その外側。

 少し離れた物陰で二人の男が顔を突き合わせている。

 

 十字傷の男が眉を顰めて呟いた。

 

「拷問の最中に寝落ちるとは大概太々しい奴だ」

「太々しさならお前も相当なもんだろ。あっちにつきこっちにつき、何とも節操のないことだ」

 

 黒衣の男が茶々を入れる。

 揶揄するような言葉だが声音には全くと言っていいほど抑揚がない。それが一層不気味さを助長していた。

 十字傷の男に睨みつけられ、声の主が首を傾げる。

 

「そんなに嫌な顔をするくらいなら、おれのことも裏切ればいいのに」

「元よりこの辺りで動く手筈だった。ついでにあんたとの約束が果たせるなら手っ取り早くていい」

 

 灯籠に照らされるのはこの上ない渋面だ。

 警戒心の表れか、腰に下げた斧と剣に指が触れていた。

 黒衣の男が不思議そうに呟く。

 

「別にいいんだぞ。借りなんか返さなくても」

「それは出来ない。助けを願って救われた。おれはあんたに報いるべきだろう」

「あれは気まぐれだ。それに、あの時もおつかいを頼んだじゃねェか。あれでチャラでもよかったんだぞ」

「命の恩だ。子どもの遣い程度では到底つり合わない」

「恩? 親を殺されたのにか」

「恨んじゃいない……恨む資格もない」

 

 十字傷の男は静かに返した。

 

 青年時代、男は黒衣の死神に命を救われた。

 みすぼらしい姿だったためか子どもと見間違われ、妙に心配されたことを覚えている。

 

 青年の父は元海兵であったが、落ちぶれ、海賊の頭領をしていた。

 ただでさえ安定しない生活は、父がとある女海兵の策略に嵌り大物取引を逃したことで地獄と化す。

 父とその仲間達から恐怖と暴力を与えられ、奴隷にも劣る扱いを受けた挙句、ついには嬲り殺されそうになり、たまらず逃げ出した先。

 

 

 青年は死神と出会ったのだ。

 

 

『地図は読めるか。読めるなら、印の場所に行って手紙を拾え。それを港の海軍に届けてくれ』

 

 手紙と共に仕舞われたコートを着て行くといい。暗い中を出歩くのは危ないから朝になってからで構わない。無理なら忘れてくれてもいい。

 

 そう言って、死神は去って行った。

 

 残されたのは無数の死体。

 父と、父の仲間だったモノ。

 

 血臭漂う小屋の中で一晩呆然と過ごし、青年は雪原に出た。

 よろめき、震え、何度も転びながら進んだ先。黒ずんだ宝箱を開ければ、そこには血で汚れたコートと手紙があった。

 

 港にたどり着いた青年は海兵に保護され、その後の人生を海軍で過ごすこととなる。

 

 死神と再会したのはずっと後のこと。

 青年が海軍将校となり、諸々の経緯を経た後、海賊に身を窶してからの話だ。

 

「再会した時、約束したな。『一生で一度だけ、善悪関係なくあんたの望みを叶える』と」

「『お前の利益や命を害さない範囲で、なるべく利害が一致してる時に』、な。今回の件は大丈夫そうか? 無理は禁物だぞ」

「問題ない」

 

 死神は乗り気ではないようで先の前提条件を付け加えてきたが、約束は約束。果たすべき義理があり、受け取らせるための道理もある。

 

「待たせたな、“ジョーカー”。あんたとの約束をここで果たす」

「分かった。これで本当にチャラだからな。あとは全部忘れて邁進しろよ」

「言われるまでもない」

 

 十字傷の男は冷たく答えた。

 死神はと言えば懐からメモらしきものを取り出し、淡々と記帳している。どことなく気怠げなあたり、面倒だとでも思っているのかもしれない。

 死神がぽつりと呟いた。

 

「気をつけろ。真面目が過ぎると早死にするぞ」

「忠告は有り難く受け取ろう。だが、これも性分だ。それに、芯を捨てればおれは終いだろう」

「それもそうか。スパイ(お前)の立場じゃそれだけは捨てられねェ。一等大事なもんだからな」

「分かったなら早くここを離れろ。恩はあるが、あんたと馴れ合うつもりはないんだ」

 

 目的を達するべくドフラミンゴの眠る牢へ足を向ければ、背後から声がした。

 

 

 凪いだ声。

 恐ろしくも変わらない、雪夜の声。

 

 

「じゃあな、()()()。息災で」

「…………」

「悪党ごっこもほどほどにな」

 

 

 今度こそ気配が消えたことを確認し、十字傷の男は細い息を吐く。

 緊張に引き攣っていた指をゆっくりと握り込み、前を向いた。

 

 

 この身がどこにあるかなどどうでもいい。誰に何と言われようが信念は変わらない。いくら手を汚そうが自分自身がぶれなければ問題はない。

 

 なすべきことをなす。

 それだけの話だ。

 

 

 錠を開ける。

 

 囚われの男が目を覚まし、苦く笑った。

 

 

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