ONE PIECE novel.DD “怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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お久しぶりです。
改稿などを挟みつつ、少しだけ更新します。


人々、汝らを除名すべし

 

 

 嵐だ。

 そう思った。

 

 

 シャボンディ諸島、人間屋(ヒューマンショップ)でのことだ。近く起こる戦争のため、王下七武海としての召集をうけたローは前乗りよろしく島を訪れていた。ここで待っていれば海軍の迎えが来る算段である。

 護送担当はいつものミンク族だ。

 真面目な彼のこと、人身売買の現場など見たくもないだろう。それも、世界政府が黙認する腐敗の現場など。だが、元はと言えばあちら側の指定なのだから我慢してもらうほかない。

 極めて従順に、努めて愚鈍に。大人しく島で過ごしていたローは早々に手持ち無沙汰となってしまい、暇潰しがてらオークション会場の舞台裏へ忍び込んでいた。

 

 一人の海賊が口から血を流し床に転がっている。負け犬が奴隷落ちを厭い、舌を噛んで自死を図ったらしい。特に珍しくもない話だ。

 男を観察する。状態は良くない。先の千切れた舌が収斂し気道を塞ぎかけていた。失血と窒息、死に直結せずとも苦しみはあるだろう。

 

 辺りを見回しても価値を失った商品に注意を払う者はいない。ローは痙攣する男の顎を掴み、その顔を覗き込んだ。

 

「生きたいか?」

 

 答えはない。虚な瞳がローを見ている。

 

「終わらせたいか?」

 

 眦に浮かんだ涙の膜が震えた。感情の発露ではない。生理的な落涙だ。

 

「やはりここか」

 

 ローの背後、甲高い声が響く。

 主への呆れを多分に含んだ声はピーカのもの。彼は死に体の海賊を見下ろして溜息を吐いた。

 

「治療したいならすればいい。敗者ごときに問いかけてやる必要がどこにある」

「おれは医者だ。意思確認くらいはする」

 

 時々、無理矢理処置することもあるが。

 そう心の中で付け足せば、心底呆れたように鼻を鳴らしてピーカが言う。

 

「ロー、お前は海賊だろう。海賊なら生かすも殺すも好きにしろ」

 

 言われてみれば、その通りだった。

 未だ続くピーカの小言に生返事を返しつつ、能力を展開する。まず患者の舌を根こそぎ抜き取った。これで窒息は回避できる。

 続いて首を切断し枷を取り払った。施術の邪魔になるのだから仕方がないだろう。

 

「……暗いな」

 

 知らずぼやきが溢れる。舞台裏なのだから当然だが手元が不明瞭だ。

 縫合や輸血は別の場所で行うべきか否か思案するうち、ローの視界が明るくなった。

 

「若、灯りをお持ちしました」

「助かる」

 

 礼を言えば、光が微かに揺れる。グラディウスは常日頃から気を配ってくれる忠義者だ。しかし、礼一つで感極まって震えるのはなんとかならないのだろうか。

 

 手早く縫合を終え、汚れた手袋を処理する。傍らで輸液を調整していると舞台側から響めきが広がった。

 集中が途切れる。何事かと目線を上げれば、意図を汲んだグラディウスが囁いた。

 

「侵入者のようです。一人は若手の海賊、もう一人は魚人族」

「魚人族が?」

 

 おかしな話だ。差別の坩堝であるこの場所に彼らが姿を現すなど。

 

 処置を終えてピーカとグラディウスに後を頼み、ローは単身会場へと戻る。他の客からは見えない位置にある要人席が海軍からファミリーに与えられた待ち合わせ場所だ。

 紗幕に指をかけ覗いた途端、中にいるトレーボルに睨まれた。断りも入れずに席を離れたからだろうか。明らかに不機嫌だ。

 

「……ただいま」

 

 帰ってきたのは舌打ち一つ。

 不機嫌云々以前に空気が不穏だった。様子を窺えば、ソファを牛耳るトレーボルとディアマンテの影に隠れ、ベビー5がデリンジャーの肩を抱いている。デリンジャーは俯いており、その表情を窺うことはできなかった。

 通り過ぎざま、少年の背を軽く叩く。

 

「何かあったか?」

「何でもないです」

「そうか。だが、顔色が」

「本当に何でもないんです。ぼく、大丈夫ですから。おかえりなさい、若様」

 

 少年は眉根を寄せたまま応え、無理矢理笑顔を浮かべて一歩下がってしまった。明確な拒絶に戸惑う。

 デリンジャーは魚人族の血を引いている。会場の状況に少なからず気分を害していると思ったのだが、余計な声掛けだっただろうか。

 首を傾げれば、天井を眺めたままのディアマンテが鼻で笑った。呆れを多分に含んだ仕草だ。

 

「何がおかしい」

「おかしくて笑ったわけじゃねェさ。ほとほと甘ちゃん揃いだと微笑ましく思っただけよ」

「今のは警備に対する慰労だ。首長の役目を果たしただけだろ。文句があるのか」

「文句なんか、とてもとても。ただまァ、休憩中のこいつらの何を労ったのか、おれにはさっぱりだがなァ」

 

 やや気弱な声音に反して内容には棘がある。

 ディアマンテもまたオークションから何かしら刺激を受けているのだろうか。普段なら引き下がる場面だというのにやけに攻撃的だ。

 付き合ってやるべきか否かを迷い、続けて問いかける。

 

「休憩中と言えば、ベビー5達がどうしてここにいる。こいつらには待機を命じていたはずだ」

「おいおい、どうしておれに訊くんだ。本人に聞けばいいだろう」

「理由なくおれの命に背く奴らじゃねェ。例えば、誰かに呼びつけられでもしない限りな」

 

 ディアマンテがにたりと口角を上げた。

 

「そうイカるなって。喉が渇いたんだ。ワインを運ばせただけじゃねェか」

「酒なら給仕に頼めたはずだ。第一、グラス一つ運ばせるのにわざわざ二人も呼びつける必要があったのか」

「悪い悪い。何かあったらと思うと心配でよ。下衆共の巣窟に小娘一人放り出す鬼畜にゃなれねェ。なァ、ベビー5?」

 

 グラスを傾け、ディアマンテが嗤う。

 青の目は嗜虐に歪んでいた。その様はまさに獲物を定める獣。若者二人のどちらかを弄って遊ぼうという魂胆らしい。

 この男は暇になるとこれだ。思いの外繊細で誰かを踏みつけていないと落ち着けない、ある種の防衛反応による悪癖である。

 困り顔のベビー5と目が合う。慌てて伏せられた目に滲む罪悪感に気付き、ため息を吐いた。

 

 若手に社会勉強の場を設けるのは構わない。ただ、ここはボックス席。単純な話、定員オーバーだ。

 

「────“シャンブルズ”」

 

 若者二人の姿が消え、代わりに落ちてきたクッションを受け止める。

 獲物を奪われたディアマンテが舌打ちをした。当然無視。最高幹部達の間、元々自身が掛けていた場所にクッションを投げ入れる。

 勢いのまま腰掛ければ、迷惑そうに傍へ退いたトレーボルが問いかけてきた。

 

「さっきの商品はどうなった」

「商品? 何の話だ」

「舌を噛んだ馬鹿だ。考えなしのお前のことだ、どうせ助けたんだろォ〜?」

「助けてはいない。治療はした。あとはピーカに任せてる」

「じゃあ生きてるな。いつも通り、使い道はおれが考えてやる。んねー、それでいいよなァ〜?」

「どうでもいい。好きにしろ」

 

 興味がない。手駒など履いて捨てるほどいる。

 やや機嫌を回復したらしいトレーボルが気味の悪い笑みを浮かべた。

 

「べへ、素直なのは悪くねェ。勝手な散歩は特別に許してやる」

「近い。離れろ」

 

 無遠慮に近付く顔を片手で押し退ける。

 頬杖をついて観客席を見下ろした先、騒動の中心にいたのは二人。タコの魚人族と麦わら帽子の青年だ。先のグラディウスの報告によれば、後者が若手海賊だろう。

 二人は今まさに舞台に上げられた人魚族を助けに現れたらしい。

 女の人魚族には高値がつく。故にセキュリティも硬い。彼女を救おうと会場に侵入したはいいが何かの拍子に片割れが魚人族だと露見し、さらなる混乱が起きたと言ったところか。

 

 ありふれた状況だ。先の展開とて想定を外れまい。関心を失い手元のクッションを弄んでいると、心底馬鹿にした様子のトレーボルが笑った。

 

「バカな奴らんねェ〜。名が売れてきたってのに、奴隷一人のために全部棒に振るなんて」

「名が売れてきた? 知り合いか?」

「はァ? 奴隷(モノ)にもバカにも知り合いなんかいないんねー」

 

 トレーボルが吐き捨てる。声には苛立ちが滲んでいた。トレーボルの出自が関係しているのかもしれないが、それ以前に的を外れた推測を繰り出すローに呆れているようだ。

 

 どうにもいけない。先程から幹部達の地雷を踏み抜き続けている気がする。

 最高幹部二名から白い目で見られつつ足下の染みを数えていると、突如銃声が響いた。

 いつもながらに傍若無人な天竜人が魚人族の男を撃ったようだ。

 滴る血が通路を濡らしていく。

 

 会場にはざわめきが満ちていた。

 存在が汚らわしいと厭う声、当然の報いだと罵る声。漣のようにぶつかり合う声の数々、その根底にあるのは紛れもない恐怖だ。

 

「こんな場所にいたら巻き込まれる。早く逃げないと」

「あの身体……まるでバケモノじゃない」

 

 天竜人という道理を超えた権威への畏怖。

 魚人族という異なる種への嫌悪。

 

 それらに混じり怯えた囁きが耳に届く。

 

「見て、魚人の血。一丁前に赤いわ」

「気持ち悪いな。妙な病でもうつされたらたまらねェ。誰か早く片付けろよ」

 

 無知と蒙昧、そして生存本能から生じた忌避がそこにあった。

 

「────……」

 

 めまいを堪え、咄嗟に目を閉じる。

 だが、記憶の奔流を制御できず、声が漏れないようにとローは背を丸めた。

 

 赤に沈む白の町と人々。叫び声。

 未だ鮮明に脳裏を炙る亡き故郷の記憶。

 

 今更何を思うこともないはずだというのにどうにも視野が安定しない。何とか顔を上げると、身じろぎを能力発動の前兆と捉えられたのか、険しい顔をしたトレーボルに腕を掴まれる。

 

「おい、ロー。次は許さねェぞ」

「まだ何もしてない」

「まだァ〜⁉︎ まだとか言ったんねー⁉︎」

「……言ってねェ」

 

 ほぼ恫喝の勢いで詰め寄るトレーボルを再び押し退ける内、喚き声が響いた。

 

 見れば、天竜人が麦わら帽子の青年を口汚く罵っている。対する青年は一言も発さず天竜人を睨みつけるだけだった。

 当然の反応だ。迫害に暴力は勿論のこと、腐敗とてこの世界では珍しくない。反抗するだけ無駄というものだろう。

 

 信条も人命も、人の尊厳の全ては甘く腐った権威の前で露と消える。後に残る怨嗟や怒りとて天には届かず渇くばかり。

 麦わら帽子の青年が抱えた憤りは形になることなく、魚人族の男は失意の内に野垂れ死ぬ。いつも通りの光景だ。

 

 

 ごく当たり前の結末。

 そうなるはずだった。

 

 

 青年が動く。喚く天竜人を無視して膝をついた彼は、倒れ伏す魚人族の男へと手を伸ばした。

 彼は友人の身体をしかと抱え、血の穢れを厭うことなくその手を握る。

 恐れ一つなく、当たり前に。

 

 

 何故だろうか。

 その時はじめて、青年の眼が見たくなった。

 

 

 身を乗り出した先、麦わら帽子の青年が立ち上がる。彼は天竜人の罵声など気に留める様子もなく、ぐるりと肩を回し腰を落として構えた。

 

「────……?」

 

 何をするのか予測できず、ローは瞬く。

 

 はたして、次の瞬間、青年が繰り出したのは何のこともないただの拳。

 摂理を殴り飛ばす、神への鉄槌だった。

 

「え?」

 

 掠れた声が漏れる。

 それが自分の喉から溢れたものだと知り、ローは咄嗟に口元を覆った。

 掌にあたる熱い息。呼吸の乱れを自覚し、遅れて高揚に気付く。視界が揺れ身体が動かない。思考が追いついていないのだ。

 

「おいおい、嘘だろ。見ろ、ルーキーがかましやがった!」

 

 興奮したディアマンテに肩を揺さぶられ、やっとのことで息をした。

 騒めく胸を押さえ、再び観客席を覗き込む。

 

 天竜人の怒りを恐れて我先にと逃げ惑う群衆、その中でしかと立つ青年の姿。

 麦わら帽子を目深に被っているため、表情は窺えない。帽子を押さえる手は小柄な肢体に似合わず大きく、彼がまだ成長途然の若者なのだと物語っていた。

 

 どこかに潜んでいたのか、混乱に乗じて数名が走り出す。天竜人の手勢を阻む者もいれば、魚人族の男の治療を担う者もいた。当初の目的通り、囚われの人魚族を救うべく枷の鍵を探しに出る者もいる。麦わら帽子の青年の仲間だろう。

 驚くべきことに、彼らは立ち向かうことを選んだのだ。

 

 食い入るように騒動を見つめていると、ヒーローの登場のごとく空から声が降ってきた。

 天井の穴から飛び込んできた声の主は狙ったかのように天竜人の上に降り立つ。足蹴に、否、尻の下敷きにされた天竜人が苦鳴をあげて倒れた。

 長鼻のヒーローは失神した天竜人に煽り紛いの軽い謝罪を入れた挙句、麦わら帽子の青年に状況を確認している。

 彼も仲間なのだろうか。情けない悲鳴をあげていたわりにやることはえげつなく挑発的だ。

 

 

 風向きが、否、世界が変わる。

 予想だにしない展開だった。

 

 

「んねー、一旦出るぞ。面倒事はごめんだ」

「分かってるって。ロー、何を惚けてんだ。ほら

、行くぞ」

 

 腕を掴まれ無理矢理立たされる。抵抗しているつもりはないが身体が動かず、ディアマンテに襟首を掴まれ移動を開始した。

 

「ディアマンテ、あれは何だ」

「麦わらの小僧のことか? ただの馬鹿だろ。いや大馬鹿野郎だ。よりにもよって海軍本部のお膝元で大暴れするたァな」

「そうじゃねェ。名前を聞いてる」

「はァ? まさかルーキーの名前を知りたいってのか。ロー、お前が? ウハハハハ! 地震でも起きるな、こりゃ!」

 

 茶化されていては話が進まない。大袈裟に仰反るディアマンテを無視し、トレーボルに尋ねる。

 

「おい、あれは」

「麦わらの一味だ」

「麦わら? 聞いたことがあるな」

「クロコダイルを失脚させたクソガキ共だろう。この程度、自分で覚えておくんねー」

 

 何故か不機嫌な様子のトレーボルから視線を外す。言われてみれば七武海の一角を落としたルーキーがいた。情報が不自然に伏せられ、海軍の手柄となっていたはずだ。

 ただ、アラバスタ周辺は既に探索を終えており、関心を傾ける要素がない。

 “麦わら”の名を知ったのはつい最近。さらに言えば、文字情報や伝聞ではなかったように思う。

 

 ディアマンテに引きずられながら、思考の補助にと手帳を開いた。記されている数多の交渉事や貸借の記録の内、思い当たる時期の記述を辿る。

 

 そう、鬼の子──“火拳”のエースだ。

 溺れた彼の救護にあたった際、“麦わら”の名を聞いた。“火拳”が告げた家族の内の一人がそんな通り名をしていたはずだ。

 確か、義兄弟だと言っていたか。

 

 ほんの遊び程度、気まぐれで持ちかけた取引。エースはしばらく考え込んだ後、あまりに平凡でささやかな希望を語った。

 

 ふと、思い出す。

 家族に力を貸してやってほしい、と。

 そう願った青年の、屈託のない笑顔を。

 

 “火拳”のエースはまもなく死ぬ。

 戦争の火種となりだだ無為に殺される。

 そんな未来を知ってか知らずか、遭遇時、彼はごく普通の青年のように礼を言い、笑っていた。

 

 くたびれた手帳の頁を捲る。いくら取引とは言え、エースが遠慮なく、しかも誇らしげにエピソードまで語っては幾人もの“家族”の名を告げるものだから、慌てて記した記憶がある。

 殊更乱れた筆致の中、その名を見つけた。

 

「モンキー・D・ルフィ……」

 

 記された名を無意識の内に指でなぞり、ローは目を伏せる。

 

 四皇や海軍の英雄などの錚々たる面子については流石に知っていた。だが、ルフィは全く無名の存在だ。顔も分からないのではエースとの約束を果たせまい。

 記憶に留めるためにも、今一度“麦わら”の姿を確認する必要がある。そう思った。

 

 我ながら言い訳がましい。

 だが、あと少しだけ。

 そう思い、ディアマンテの腕を叩く。

 

「ちょっと待て。もう少しだけ、もう少し見たい。頼む」

 

 これまでにない反応を面白がり、ディアマンテが高笑いの末に手を離す。トレーボルは制止こそしないものの、不機嫌の絶頂と言わんばかりの顔付きで舌打ちをしていた。

 

 ローは一人道を戻り、再び舞台を見下ろす。

 

 いつの間にやら場内の目ぼしい人間は皆倒れていた。凄まじい覇気の名残を肌に感じ、会場全体へと視線を巡らせる。

 

「冥王……?」

 

 舞台上で笑う老人の姿に気付き、ローはその異名を呟いた。

 

 “冥王”シルバーズ・レイリー。海賊王の右腕。かつて世界のからくりを知り、その上で隠遁生活を送っているはずの彼がそこにいた。

 未だ空気を焼く覇気の主は彼なのだろう。

 何故このような場所にいるのか不明だが、老人は麦わら帽子の青年との邂逅を心底喜んでいるようだ。

 衆人環視の下で天竜人を殴りつけるなど、確かに稀に見る偉業ではあった。だが、隠居した海賊王の右腕が歓迎するほどかと言うと────

 

 

 そこでふと思い当たる。

 

 

 まさか、あの青年がそうなのだろうか。

 馬鹿馬鹿しい御伽話の一節。

 海賊王があるべき時代を築き損ね、大海賊時代を選ばざるを得なかった理由。

 ただの一点、足りなかった一欠片(ワンピース)

 

 

 心拍が跳ね上がり、指先に熱が通ったような感覚がした。柵を握る手に力が入り、ぎりりと音を立てる。

 

 

「……あいつが」

 

 

 きっとそうだ。

 あれが、()()だ。

 

 

 世界は演者を変えながら同じ過ちを繰り返してきた。それ故に、怨嗟の歴史を読み解き必要なピースを揃えれば、破壊を再現することも容易い。

 歴史をなぞり、暴力で呼び覚ました戦乱に煽動し引き起こした災害。確かに、ローが掻き回したことにより世界は歪み、本来この時代に起きるはずもなかった変革の数々が世界を蝕んでいる。

 ただ、裏を返せば、その全てが歴史の再現で二番煎じだった。

 これまでトラファルガー・ローのしてきたことは善も悪も全てが真似事なのだ。

 

 世界を壊すだけなら問題はないのだろう。だがそれでは足りない。現在の秩序が二度と再起できないよう、枠組そのものを破壊する嵐が必要だ。

 

 小さな風を巻き起こして育てることは出来る。あるいは、自身を嵐のように見せかけることも。

 だが、嵐そのものに成ることは出来ない。

 所詮、ローは紛い物でしかないのだから。

 

 忸怩たる思いを抱え続けるにも倦みきった今、とうとうそれは現れた。

 

 

「モンキー・D・ルフィ……“麦わら”のルフィ」

 

 

 間違いない。

 酔いに酔った友が時折漏らしていた御伽話。

 永く閉じた世界を壊し、いずれ解放を齎す者。

 鎖を打ち砕く、遠く永い約束の主。

 

 

 見つけた。

 最後のピースを見つけた。

 

 

 本物の嵐(“ジョイボーイ”)が現れたのだ。

 

 

「やっと────」

 

 

 呟くローの背後、戻ってきたトレーボルが険しい声で唸る。

 

「んねー、あのガキが何だってんだ。まさか、あれをファミリーに引き込むつもりかァ〜?」

「ファミリーに? 何言ってんだ。嵐を懐に抱え込む馬鹿がいるか」

 

 熱を帯びて回らない思考の中、夢現の心地で答えを返した。返答が気に入らないのか、あるいは何かを察したのか、トレーボルはさらに低い声で問いかけてくる。

 

「約束は覚えてるだろうな。まだ十一年だ」

「分かってる。まだだ。死ぬにはまだ早い」

 

 焦がれるように呟く自身の変化に驚きながら、ローは計画の修正を検討し始めた。

 

 “麦わら”はきっと、誰が何をせずとも恐るべき速さで世界を塗り替える。

 だが、それだけでは足りない。

 間に合わない。

 

 

 だからはやく。

 もっとはやく。

 

 

 例えようもない高揚が身の内を暴れていた。久方ぶりの感覚に戸惑う。

 冷めやらぬ興奮と常からの寒気で鳥肌が立ち、身体感覚の異常から眩暈がするほど。

 無意識のうちに腕を摩っていると、地面からセニョールが現れた。伊達男は渋い顔をして煙草に火をつけ、脱いだ背広をローの肩にかける。

 

「若、船に戻るぞ。今はラオGとマッハバイスが止めているが、ジョーラの奴、痺れを切らせて先に逃走しそうだ」

「そうか。遠慮せずお前も一緒に逃げ出せばいい。そのまま行って二度と顔を見せるな」

「そりゃあ出来ねェ相談だ。船に宝を積んだままなもんでな」

「勝手にしろ。おれはバッファローと出る」 

 

 何度も足抜けを勧奨していると言うのに頑固な男だ。セニョールの腕を払えば、今度はトレーボルに肩を掴まれた。

 

「どこに行くつもりだァ?」

「カイドウのところだ」

「はァ〜⁉︎ 海軍に呼ばれてこんな辺境くんだりまで来たってのに、今更引き返すって馬鹿なんねー⁉︎」

 

 喚き散らすトレーボルの顎を鬼哭の柄で押し返し、ローは思案に沈む。

 

 これから起こる()()。海軍はただ漫然と海賊王の息子を抹殺しようとしているわけではない。エースを餌に白ひげ海賊団を誘き寄せ、諸共の掃討を以て大海賊時代に終止符を打とうとしている。

 つまり、処刑までまだ日があるはずだ。

 少なくともカイドウと接触し、百獣海賊団を焚き付けるには充分。

 

「仕事には間に合わせる。迎えが来たら適当に誤魔化しておけ。少将殿によろしくな」

「あっおい待て、ロー! 何でお前はおれの言うことが聞けないんねー!」

 

 杖を床に叩きつけ喚き散らす悪の師を無視して一目散に走る。そのまま外で待機していたバッファローと合流し、空へと繰り出した。

 今ならばドレスローザを出たばかりの輸送船に合流できるだろう。

 

 風は冷たく、沸いた頭も冷め始める。

 暇潰しに死合い大量に血肉を失えば、高揚とて治るに違いない。

 

 

 目指すはワノ国。

 最強生物との悪名名高き友の下である。

 

 

 

 

 ……とまあ、色々あり。

 人間屋(ヒューマンショップ)での一件から数年が経過した今、麦わら帽子の青年は見立て通りに急成長した。

 様々な危機と難所を乗り越え、いまや四皇に名を連ねるほどだ。

 

「快進撃もここで終わりか?」

 

 健やかそのものの寝息を立てて寝こけるルフィの頬を突く。

 

 まったく想定外だった。麦わらのルフィのことだけではなく、歌姫に関わっている己の現状も。

 

 歌姫の計画は事前に察知していた。ネズキノコとその解毒剤の材料の流通、そして世界政府の動きが妙だったのだ。

 彼女の計画そのものに関心はない。ただ、好機であるのは間違いなかった。何しろ、世界が動くのだ。どんな事態でも活かせるよう十全に準備をしたところで、奇しくも別口から依頼が入った──と、記録はそう語る。

 元々このタイミングでエレジアに出向くつもりはなかった。ただ手帳の記録と依頼書から状況を推察し、方針を変えただけだ。

 本業はファミリーに任せ、自分はおつかいがてら古書でも漁ろうと思っただけなのだ。

 それがこのザマである。

 

 依頼の内容は『ライブに参加したい』というものだった。

 ライブ前の会場の雰囲気からライブ終了後の余韻まで余すことなく堪能したい、とは依頼書記載の言。依頼者は某国の姫君二名のようで、手帳の記録によれば二人とも能力者だという。

 

 まあ、何一つ覚えていないのだが。

 

 シュガーの能力により彼女らに関する記憶は跡形もなく抹消された。残るのは記録ばかりだ。

 手に握りしめた契約書、昔からつけている手帳と挟み込まれた写真。残された記録の様々とオモチャになった彼女達の態度を見るに、ローとも縁深い相手なのかもしれない。

 

 だが、縁など何になるだろう。

 

 失ったものは戻らない。

 手放したものは取り戻せない。

 確かにそこにいた、そう訴え続ける記憶さえも簡単に消えてなくなってしまう。

 生命さえ失われれば、すぐにでも。

 

 霧雨に烟るエレジアのライブ会場。眠りに包まれたそこで数多の人間が同じ夢に囚われている。

 ウタの様子から鑑みるに、それほど良い夢でもなさそうなものだが、人々の寝顔は穏やかそのものであった。

 

 あと数時間で途絶える生命。記憶と繋がり。誰かにとっての宝。夢の中でならそれらは失われないとでもいうのだろうか。

 どんな夢にも終わりはあるのに、どうしてそんな夢物語を信じることができよう。

 

 眠る人々、そして歌姫の青褪めた横顔を眺めていると、虚な眼がこちらを見返してくる。

 

「ローさん、何してるの」

「別に何も。強いて言えば人間観察か」

「出た、人間観察。暇な人の言い訳だ」

「実際暇なんだよ」

「確かにね。でもさ、寝てる人を観察しても意味ないんじゃない?」

「そうでもねェぞ。寝相一つとっても個人差がある。面白い」

「変なの」

 

 ウタが笑う。しかし、その表情は精彩を欠いていた。

 ウタワールド内で負荷がかかったのだろう。何とか持ち堪えているが、今にも壊れそうな危うい空気を纏っている。

 

 まだ壊れてもらっては困るというのに。

 

 暇つぶしがてら当てもなく彷徨い歩いていると“麦わら”の一味の一人が目に入った。

 一人というか、どうみても人骨だ。眠る骨という不思議な生命体に心惹かれ、剥き出しの右足を持ち上げる。ついでに脛骨と腓骨の隙間に指を入れ空間を探ってみるが本当に何もなかった。

 感触は完全に人骨そのもの。ただ想定より冷たい。悪魔の実の副次効果だろうか。生きているというから温かいものと考えていた。

 しかし、火葬したわけでもあるまいに乾燥しているとも思えないがその割に軽い。海風で湿気たりはしないのだろうか。

 

 ウタが半眼で見ているのに気付き、首を傾げる。

 

「どうした」

「セクハラは良くないと思うな」

「性的な意図はねェ」

「じゃあどんな意図があるのよ」

「……触診? いや、医学的な関心か?」

「お医者さんみたいなこと言うんだ」

「いかにもおれは医者だが」

「嘘吐き。元海賊で革命家な上に医者って忙しすぎるでしょ」

 

 どうやら納得は得られなかったらしい。

 歌姫はローの腕を突き、鼻で笑った。

 

「ローさんって手癖も悪いよね。ネズキノコも勝手に食べちゃったし、さっきから色んなもの触ってるし」

「よく言われる」

「よく言われるならやめなよ」

 

 呆れ声で呟く歌姫の目はどこか虚だ。

 先程から口数も多い。崩れかけた精神の均衡を何とか取り戻そうとしているのだろう。

 ただ、これはウタに限った話ではなかった。

 ローとて同じ、ネズキノコを食べた仲である。ウタが他愛もないお喋りに傾倒するように、ローもまた手近な物に触れて思考を制御しているにすぎない。

 

「あのさ、ローさん」

「何だ?」

「……ううん、何でもない」

 

 何かを言いかけ躊躇うこと数回。ウタは他愛もない言葉を吐いて、本当に口にしたい言葉を飲み込み続けている。

 ローが会場を練り歩き観客にちょっかいをかけている間も、彼女は付かず離れず後をついてきていた。

 胡座をかくローの横にしゃがみ、歌姫は再び口を閉ざす。膝を抱えたまま様子を窺ってくる様が面倒に思え、ローは水を向けた。

 

「おしゃべりが望みなら付き合うぞ」

「え、いいの?」

「ああ。そうは言っても若い娘が好む話題は知らねェからそこは許してくれ」

「急におじさんみたいなこといわないでよ」

「そりゃまァおじさんだからな」

 

 薄く笑んだ歌姫の視線が彷徨い、ルフィの頬へと向かう。

 

「この傷、痛いのかな」

「うん?」

「ほっぺたの傷。何があったんだろ。痛かったよね。弱虫だからきっと大泣きしたんだろうな」

 

 眠る青年の下瞼、そこに走る古傷をウタの指が撫でた。

 

「私、こいつと幼馴染でさ。ルフィって言うの。知ってる?」

「知ってるも何も四皇だぞ。有名人だ」

「へ? よんこうって何」

 

 まさか四皇も知らないとは、世間知らずにも程がある。

 ローが呆れを通り越して驚愕に動きを止めたことに気付かず、ウタは片手を上げて宣言した。

 

「待って、当ててみる。すごそうな響きだから、もしかして王様? それともアイドルみたいな人気者とか?」

「あいどる? それは強いのか?」

 

 互いの知識体系に差があるのだろう。頓珍漢なやりとりを交わし、二人は同時に首を傾げた。微妙な間を経てウタが苦笑する。

 

「海賊だもん。人気なわけないか」

 

 溢れた言葉に否定の色はない。

 作り上げた救世主の仮面に綻びが生まれているからか、或いは単純に幼馴染への好意が上回っているのか。

 “海賊嫌い”の歌姫にはあるまじきことだ。

 

「馬鹿だよね。寂しがり屋の泣き虫のくせに、みんなに嫌われるようなことしてさ」

 

 ウタ自身も戸惑っているのだろう。彼女は取り繕って眉間に皺を寄せ、ルフィを非難し始める。

 

「どうして無茶ばっかりするのかな。友達まで巻き込んで悪いことをして何がしたいんだか」

「海賊王になるらしいぞ」

「何でローさんがそんなこと知ってるのよ」

「こいつ自身が行く先々で喧伝、いや宣言して回ってる。有名な話だ」

「もう、本当に馬鹿なんだから」

 

 ルフィの額にかかる髪を梳き、歌姫が目を細めた。傷痕をなぞる指は優しく、それでいて臆病だ。触れることにすら憂いて数度止まり、怯えながらも再び触れる。

 その弱さに引き摺られて何かを思い出しそうになり、ローは思わず話を逸らした。

 

「傷の話だが」

「うん? ああ、ほっぺの?」

「いや、そっちは知らねェ。俺が知ってるのは胸だ。大きな傷痕が残ってる」

 

 静かに上下する青年の胸を指し示せば、歌姫は眉を顰める。

 

「胸って心のこと? それとも、身体のこと?」

「どちらでも同じだ。今はどうだか分からねェが、痛みは残ったはずだ。いっそ、死にたくなるような痛みが」

 

 一気に青褪めたウタがルフィを見つめる。紫の瞳は揺れ、胸の前で握りしめた手が音を立てた。

 ウタは聡い。否、共感性に長けている。幼馴染の受けた深い傷を知り、彼女自身も痛みをおぼえているのだろう。

 だが、彼女は痛みから逃げない。正確には逃げ出したいのに逃げられず、ただ受け止めるしかないのだ。

 視線を上げたウタが静かに問う。

 

「何があったか、聞いてもいい?」

「有名な事件──いや、戦争か。そこでこいつの家族が死んだ。目の前で殺されたんだ」

「え? ころされた?」

「そうだ。死んだ兄貴に庇われてなけりゃ、こいつが死んでただろうな」

 

 ウタはひどく動揺した様子でルフィを見つめていた。

 散瞳の傾向。共感性が生む負の感情、不安や恐怖からくるものだ。

 薄く開いた口から溢れた吐息は音にならず、雨に濡れた睫毛が震える。握り込んだ拳は込めた力のあまりに血の気を失い白くなっていた。

 再び俯いたウタが絞り出すように呟く。

 

「────誰が」

「うん?」

「誰がそんなひどいことをしたの」

「おれを含めて大勢の人間が関わった。誰というわけでもねェが、最終的に手を下したのは海軍大将だな」

 

 ウタは受け入れ難い様子で首を振った。紅白の髪が雨を吸って重くなり、彼女の心を映すように項垂れる。 

 

「ルフィにお兄さんがいたなんて初めて聞いた。それも、海軍と敵対するような悪い人だなんて」

「確かに海賊ではあったな。ただ、本人の罪状云々よりルーツが問題だった」

「どういうこと?」

「生まれがな。大海賊の血を引いて……いや、別の大海賊の下についたこともか。言わば、海賊のサラブレッドだ。世間を脅かすには充分だった」

「いやな言い方。まるで悪党の子供は絶対悪党になるみたい」

「なってるだろ。海賊は悪だ」

 

 軽く言ってみせれば、ウタはふいと横を向いてしまった。彼女の動きに遅れて紅白の髪が揺れる。

 

「親なんて関係ないじゃない」

「ああ、そういえばお前も赤髪の娘か。悪党にならずに済んで良かったな、“海賊嫌い”?」

「────本当に、いやな言い方」

 

 ルフィの胸の上、握りしめた拳が震えていた。前髪のベールをも透かし、紫の瞳がローを睨みつけている。

 

「親が海賊だから何。生まれてすぐ悪党になる人はいないよ。悪い道を選んでるだけ」

 

 良くも悪くも箱入り娘らしい言葉だ。

 もし血筋を隠し通せたとして、“火拳”のエースに真っ当な生き方が選べたとは思えない。隠し事は人々の暮らす日向では出来ないものだ。また、逆に血筋を明かし真っ当に生きようとしたとて、世間がそれを許すはずもない。

 ローは小さく笑って囁く。

 

「他の生き方を知らねェ奴もいる」

「別の生き方を探すことだってできるでしょ。閉じ込められてるわけじゃないんだから」

 

 大真面目に反論するウタを見返し、ローはかぶりをふる。

 散々逃げ回り、光明を求め、持ち得る全てをかけて模索した結果、世間を追われた人間が行き着く最善こそが悪の道だからだ。

 害虫が陽の当たる場所で生きようとすれば命を奪われる。理由などなく簡単に駆除される。だからこそ日陰で他人の生活を蝕むしかない。

 好悪の問題ではなく生き死にの問題。それだけの話だった。

 

 無意識にペンダントを握っていたことに気付き、ローはため息を落とした。

 

「何にせよ、こいつの家族は結局悪党の卵だった。成長して事をしでかす前に殺しちまえば世界が幾分平和になる程度のな」

「人が死んで平和になるわけないでしょ。誰がそんな勘違いをしたの」

「誰というなら民衆だ」

「…………」

「恐ろしいバケモノが生まれても芽を摘んでくれる海軍がいる。その力は絶対的だ。絶対的な正義が自分達を守ってくれる。安心だろ?」

 

 今、このライブ会場で眠る人々の中にもエースの死に安堵した者はいただろう。弱者とはそういうものだ。

 民衆の多くは自ら変わることが出来ず、周囲の環境が変わることを祈り暮らしている。それは決して悪いことでない。嵐が過ぎ去るのを待つように、時代のうねりをやり過ごすこともまた一つの選択だ。

 

 だが、嵐の後、破壊し尽くされた世界に取り残された時、彼らに何ができるのだろう。弱く、変わることの出来なかった彼らに、新時代を生き、未来を選び抜くことができるのだろうか。

 きっと、彼らもどこかで理解しているはずだ。

 

 新時代。その到来もまた、弱者を殺し得るものなのだと。

 

 弱者達の手前勝手な願いを身勝手に背負い込んだ歌姫は、自身を抱きしめるように膝をかかえ、声をくぐもらせて囁く。

 

「みんな、怖がってるんだね。今よりもっとひどいことが起きるんじゃないかって不安なんだ」

「そうかもな。だからお前は新時代を作ろうとしたんだろ」

「どうかな。みんなが望む世界を用意したつもりだったんだけど、分からなくなっちゃった」

「何が分からねェんだ?」

 

 質問に返答はない。

 歌姫は眉尻を下げ、ただ弱々しく笑った。

 

「私、本当に何も知らなくてさ」

 

 どこかぼんやりとした目を伏せ、ウタは唇を歪める。それは自嘲の色が濃く落とし込まれた、救世主らしからぬ笑みだった。

 

「世の中のこともファンのみんなのことも、みんなを助けてくれた人がいたことだって、何も知らないままだったの」

「エレジアで外の情報を得るのは難しいか」

「ううん。電伝虫で色々聞いてはいたんだ。それなのに調べようともしなかった」

「お前が全部背負い込む必要はねェと思うがな」

「そんなことない。みんなは助けてほしくて私に相談してくれてたの。それなのに!」

 

 怒鳴ったウタが突然立ち上がり、身体を折って耳を塞ぐ。まるで自身の声に怯えるように彼女は呻いた。

 

「本当は知ってたくせに……!」

「おい、どうした。落ち着け」

「うるさい! 本当はローさんだって思ってるんでしょ⁉︎ 何も分かってないくせに、何が新時代だって!」

 

 様子がおかしい。やはり、ウタワールドで何かあったのだろうか。

 原因などローには知る由もないが、少々面倒な事態であることは間違いなかった。

 もとより歌姫の精神状態が良くないことは予測していた。見たところ、プレッシャー、あるいは何らかのストレス下に長く身を置き続けていた様子だ。そこにきての服毒と過剰な活動。良い方向に向かうわけがない。

 古参のファンであるシュガー曰く、ライブ以前から異常の片鱗は見え隠れしていたという。

 

 ただの田舎娘から世界の歌姫へと躍進を遂げ、挙げ句の果てに救世主へと成り果てたウタ。

 彼女の救世願望は病的で、恐らくは追い詰められた迷走の果てに導き出されたものだ。

 

 悪道しか歩めないものもいれば、正道しか知らないものもいる。世間を追われた者の行く先が悪道だとすれば、歩みを讃えられ一身に願われた者の行く先は正道のみなのだろう。

 善悪は別とし、どちらも追い込まれた結果であることには変わらない。意志薄弱なまま袋小路へ至った先に待つのは決定的な破綻だ。

 ウタが急作りで彫り上げた救世主の仮面。それはひび割れ、形を失い始めている。

 

「分かってる。分かってるんだ。みんなが苦しんでるのに見ないふりをした。そんなひどいことをできるのは私が──」

 

 呟く歌姫の唇はわずかに震え、遠くを見る瞳は翳っていた。

 怯え、痛み、焦燥。負の感情をないまぜにしたまま、自身の喉に爪を立てて彼女は呟く。

 

「私がバケモノだから……?」

 

 聞き覚えのある言葉に眉を顰め、ローは密かに嘆息した。自ら望んで堕ちるならまだしも、救世主の転向先がバケモノとは救われない。

 

 他罰行動と自責傾向。幼い思考と表裏一体の純粋さ、そして高潔さ。自他境界が曖昧だからこそ他者の痛みに敏感で、他方エゴも強い。

 ウタが救世主の仮面の下に抱え、ひた隠しにしていたであろう内心。それはネズキノコ、そして人々の願いという毒に炙られ、見るも無惨に露出しかけている。

 両手で顔を覆い呻く歌姫を観察し、ローは目を細めた。

 何にせよ、加減を間違えては計画が狂う。抑揚を抑えつつ、壊れかけた歌姫を刺激しすぎないように言葉を紡いだ。

 

「何を知りたい?」

「え?」

「要は外の暮らしぶりを知りたいんだろ。おれにも多少は知識がある。革命家だからな」

「…………」

「ほら、座れ。立ってると疲れるだろ」

 

 ウタは言われるがまま緩慢な動作でしゃがみ込む。自身を押さえつけるようにかき抱く腕はあまりに頼りない。

 顔を覗き込めば変わらず散瞳の傾向。呼吸も浅い。病的な高揚が生み出す異常が彼女の身体を支配しつつあった。

 ローは自身の呼吸をウタに合わせ、動作一つ一つの速度を調整する。鏡合わせになるように、それでいて、主導権を握らせないように。

 

「ありがとうな。座ってくれて助かった」

「……なんでローさんが助かるの」

「助かるだろ。ずっとお前を見上げて話してるんじゃおれの首がイカれちまう」

 

 戯けた言葉がウタの意識に到達するのを待ち、目を合わせて小さく笑む。不思議そうに首を傾げたウタもまた、ぼんやりと笑みを浮かべた。自然に生じた笑顔ではなく、ローが制御し引き出した表情だ。

 

「どうせ暇なんだ。もう少し話そう。案外お喋りも悪くない」

「若者の話題は分からないんじゃなかったの?」

「そうだ。分からねェからお前が教えてくれ」

「そんなこと言われたら逆に思いつかないよ」

「なら、質問でもいいぞ」

 

 必要なのは時間。目的を果たすためにはピースが揃うまで歌姫を延命させる必要がある。彼女の気を逸らし続けなければならない。

 幸い場を制するのは得意だった。

 言葉でも、暴力でも。

 

 

「教えてやる。知りたいこと、何でも」

 

 

 水平に目を合わせ笑んでやれば、ウタは叱られる前の子どものように視線を彷徨わせた。

 彼女は爪を噛もうとして堪え、行き場を失った両手を組む。

 

 

 その様はまるで祈りのようだった。

 

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