“怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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Leave her, Johnny, leave her!

 

 霧雨が降る。

 冷たい雨は、けれど、炎を消してくれはしなかった。

 燃え落ちるエレジア城を後にして、ウタはふらつきながら道を引き返す。

 

 もう長い間、思考は止まったままだった。

 頭が腫れたように重たい。

 足取りは不確かで、そのくせ行くべき道のりだけは身体が覚えている。

 ライブ会場まで辿り着いたウタを迎えたのは、人々の寝息と雨音、そして波音。ローやオモチャ達、ゴードン。彼らの気配はどこにもなかった。

 

 分かっていたのだ。

 待ち人は来ず、皆が去っていく。

 誰も彼もがウタの目の前から消えていってしまう。止める間も無く、ウタの知らないうちにどこかへ行ってしまう。

 それはいつもの風景だった。

 

 ガラス玉のように虚な目で会場を眺める。

 しばらくすると立っているのも億劫になり、ウタは舞台の中央に座り込んだ。

 そこで初めて気付く。

 自身の手が、何かを強く握り締めていることに。

 

 それはナイフだった。

 ローから預かった無骨なナイフ。

 お守りだと言っていた。戻ってくると約束してくれた。きっと嘘にするつもりはなかったのだと思う。

 しかし、約束は果たされないままだ。

 

 エレジア城が崩れ、ローとゴードンを待つ間、ウタはずっと考えていた。

 ローが放った言葉の意味。

 いざとなったら使え。そう言い残した意味を。

 包囲された時に抵抗しろという話ではないだろう。

 彼はウタが音楽以外をまるで知らず、非力であることをよく理解していた。

 

 つまるところ、これは道具。

 ウタが自らの手で全てを終えるための刃なのだ。

 

 ウタの瞳が揺れる。

 彼女を襲ったのは死への恐怖ではなかった。

 約束と別れ、繰り返されるたびに強くなる痛み。叫び出したくなるような圧迫感が胃の奥底から迫り上がってきて息ができない。

 溢れ出る感情の本流を抑え、飲み込むように、ウタは目を伏せた。それでもとめどなく溢れる思いが歌姫の唇を震わせる。

 

 言葉は出なかった。

 胸を押し潰す思いの数々を何と呼ぶのか。

 そんなことすら、ウタは知らなかったのだ。

 

 何かに縋るように何度も辺りを見回して、その度に打ちのめされる。

 見慣れたはずのエレジアはまるで知らない場所のようで、眠る人々の寝息は聞き慣れず、ウタの方向感覚を奪っていった。

 きつく目を閉じて呻く。

 身体中が痛かった。

 

 どれくらいそうしていただろう。

 ふと顔を上げ、ウタは立ち上がった。

 ウタはナイフを胸に抱いたまま、引き摺られるように進む。

 

 ただ一人。

 ただ一人だけ。

 彼の傍ならば自由を、幸せを思い出せるかもしれない。

 

「ルフィ」

 

 歌姫は吸い寄せられるようにして、幼馴染の青年を目指した。

 ルフィは穏やかな寝息をたてて眠っている。

 周りには彼の仲間達。ウタワールドで見た彼らは生き生きとしていた。楽しげに囃し立て、自由で、共にいるのが当たり前のような顔で隣り合っていた。

 羨ましくないといえば、嘘になる。

 フーシャ村の港では一人、船の帰りを待っていた少年はもういないのだと、本当は分かっているのだ。

 それでも、ルフィはウタを見つけてくれた。

 ウタの名前を、呼んでくれた。

 それが夢幻の内の出来事であっても、ウタは嬉しかったのだ。

 涙が出るほど、嬉しかった。

 

 眠る青年の額に触れる。

 雨で張り付いた前髪を払い、頬に手を添えた。

 あたたかい。

 

 ふと、麦わら帽子が目に入る。

 シャンクスの帽子。ウタにとってはあまりに遠く、離れてしまった思い出の形。

 

「なんで」

 

 心が押し潰されるようだった。

 

 どうして、シャンクスはルフィに麦わら帽子を預けたのだろうか。守られ、置いていかれたウタと何が違ったのだろう。兄を喪った傷を抱えながら彼が笑えるのは何故なのだろうか。

 間の抜けた笑顔は幼い頃のまま変わらないのに、どうしてこれほど遠く感じるのだろう。

 どうして。

 本当は分かっている。

 

 ウタだけが一人、置き去りになったのだ。

 

「ごめんね。もう何も考えたくないんだ。だから、終わりにしなきゃ」

 

 傍に置いていたナイフを掴む。震える手で鞘から刃を抜き、指に触れる感触を確かめながら柄を握り直す。

 

「ねえ、ルフィ」

 

 眠る青年へ微笑みかけるその唇は、泣き出す寸前のように震えていた。

 

「新時代がいらないなら、せめて私と一緒に終わってよ」

 

 ウタはルフィの胸の上へとナイフを掲げる。

 しかし、その手は宙に浮いたまま、いつまで経っても振り下ろされることはなかった。

 

 

   ◇

 

 

 ウタワールド内、ライブ会場跡地。

 綿飴色の海広がるそこで、歌姫は蹲っていた。

 元より限界を迎えて始めたライブだ。現実世界での出来事を受け止められるわけもなく、ウタはただ放心したまま動けずにいる。

 

 のろのろと指を動かした。彷徨った指先はこれまで通り神がかった能力を発揮して、人々の望むであろう幸福の形を生み出す。

 ごちそう、オモチャ、宝石、花。かわいいもの、うつくしいもの、おいしいもの、たのしいもの。

 視界を埋め尽くした奇跡の数々は、観客達のいる海の底へと沈んでいく。

 

 その様を見るともなしに眺めていたウタだったが、違和感に気付いて首を傾げた。

 

 数歩歩いた先、いつまでも沈まないものがある。

 取り残され、海面に浮かぶそれは、見覚えのあるナイフだった。無意識のうちに、こちらでも再現してしまったらしい。

 ウタは力なく笑う。

 

 果たされない約束の形。

 こんなものが、幸せであるものか。

 

 それでもウタは立ち上がった。

 たとえこの場では幻であったとしても預かったものだ。放置する気持ちにはなれない。

 

 重い足を引き摺り進む。海面を伝わる波紋だけを道連れにウタは歩いた。

 たった数歩。それが随分と遠い。

 

 ナイフの傍に辿り着いた時、ウタはもう何もかもを投げ出したいほどに疲弊していた。

 そもそもが最初から今ある全てを終わらせるためのライブだったのだから、当たり前なのかもしれない。

 惑いながら歩み疲れ切った先に広がる袋小路。それをこじ開けるための新時代だった。

 

 ウタは無感動にナイフを見下ろし、ゆっくりと腰を屈める。

 

 その時だった。

 

 ウタの足下、凪いでいたはずの海が揺れる。

 広がる波紋がナイフに触れて崩れ、ウタの爪先で弾けた。

 

 誰かがいる。

 

 ここは観客全てを飲み込んだライブ会場。ウタのもたらす幸せを拒んだ者は全員逃げ出した。望んだ者は最初から来なかった。

 ウタと同じ場所に立つ者などもう誰もいないはずだ。

 それとも誰かが戻ってきたのだろうか。

 ウタの新時代を止めに来た“英雄”コビー。逃げ出した海賊達。あるいは──

 

 ウタは顔を上げる。

 

「……誰?」

 

 見れば、そこには見知らぬ少年が立っていた。

 

 短い金髪に、薄桃色のシャツと簡素なズボン。身体は小さく、手足も細く頼りない。目尻の上がったサングラスで目元は見えず、口元がへの字を描いて引き結ばれている。

 

 ただ一つ、少年の首下で揺れる金色。

 クローバーと天道虫を連れたそのコインにだけは、見覚えがあった。

 

「あなた……」

 

 言葉を失ったウタを無視し、少年はズカズカと海面を進んでくる。歩幅が小さいものだから少しばかり時間がかかるようだ。

 

「ねえ、あなた。ここにはどうやって来たの?」

『…………』

「一人? 大人とはぐれちゃった?」

 

 話しかけても答えはない。

 

 それどころか、この少年、どうやらウタを見てすらいなかった。

 俯き加減に歩き、ウタが手を振っても反応すらしない。

 よくよく観察してみれば理由は明白だ。サングラスに隠れて分かりにくいが、彼はウタではなくナイフを凝視していた。

 

『…………』

 

 ウタの下まで辿り着いた少年は無言のまま、流れるように手を伸ばす。

 

 海面に浮かぶナイフへと。

 

「ダメ!」

 

 ウタは慌ててナイフを拾い上げ、よろけながら一歩後退した。

 急に動いたからだろうか。鼓動が跳ね上がってうるさい。現実の身体ではないというのに、痛いほど胸が騒いでいる。

 

『……ちっ』

 

 少年はといえば、大変不服そうだった。舌打ちまでしているのだから間違いない。

 ナイフを取ろうとしゃがみ込んだ姿勢のまま、眉間に皺を寄せてウタを睨み上げている。

 

 何だろうか。

 妙に懐かしい仕草である。

 この十二年、遭遇することのなかった柄の悪さ。荒くれ者、しかも、赤髪海賊団ではなく彼らに向かってきた、所謂チンピラ達のような所作だ。

 

 再度舌打ちをして立ち上がった少年は、顎を上げて左手を突き出した。

 

『ん』

 

 手のひらは上。

 ウタが首を傾げると、彼は眉間の皺をさらに深くした。

 

『ん!』

 

 まさか、ナイフを渡せと言っているのだろうか。ウタもまた眉を顰め、少年を見下ろす。

 

 試しにと、指先を振るった。

 音符が跳ね、ぽんと小さな音が鳴る。

 

『…………』

 

 手のひらの上に生じた飴玉を見つめ、少年は口をへの字に歪めた。

 しかし、不機嫌そうながらも包み紙を外し、飴玉を口の中に放り込んでころころと転がし始める。

 

 ナイフが欲しいわけではなかったのか。そう思い、ウタが安心したのも束の間、少年は再び左手を突き出してきた。

 

『ん!』

 

 飴玉を舐めているからか、少々くぐもった声での要求だ。

 

 まだ満足していないのだろう。少し痩せているし、お腹が減っていたのかもしれない。

 そう思い、ウタは再び指を振るう。

 今度は三回。

 

 手のひらの上に数個生み出されたクッキーとチョコレートを見つめ、少年はさらに渋面となった。

 お菓子をポケットに捩じ込んだと思えば、苛々した様子で足を揺らし始めるではないか。

 再び手を突き出す少年を見下ろし、ウタは困惑する。

 

「もしかして、オモチャがほしいの?」

 

 次に生み出されたのはピンク色の小鳥のぬいぐるみだ。ふわふわと柔らかそうなそれを受け取り、少年は頭を振って盛大な溜め息を吐いた。

 どうやら違ったらしい。

 

 少年はぬいぐるみを小脇に抱え、またまた左手を突き出す。

 

『ん!!』

 

 飴玉もクッキーもぬいぐるみも、ウタのプレゼントを否定せずに受け取りはする。しかし、要求は止まらない。

 

 何だというのだろうか。

 これまでの諸々による疲弊と摩耗。痺れて麻痺していたウタの頭と心に確かな苛立ちが生まれ始めた。

 

 しかし、怒るわけにはいかない。当然だ。

 ウタワールドにいるということは、この少年もまた痛みや苦しみを抱えている可能性があるわけで。

 

 もしかすると、何か事情があって言葉を話せないのかもしれない。全くそんな雰囲気はないが、大人が怖くて話せないということもありうる。

 そう考えつき、ウタはしゃがみ込んで微笑んでみせた。

 

「ね、キミ。何か困ってるなら、お姉さんに話してみなよ。きっと何とかしてみせるから」

 

 ウタの声掛けに対し、少年は盛大に顔を顰める。それはもう盛大に、眉間どころか顎にまで皺が寄ってしわくちゃになる程の渋面だった。

 全力の不機嫌アピールに気押されつつ、ウタはさらに促す。

 

「黙ってないでさ。ほら、話してみて」

『何が“お姉さん”だ、クソガキ。迷子みたいなツラしてよくいいやがる』

 

 何だろう。

 とても流暢な罵倒が聞こえた気がする。

 

 ただでさえ限界を迎えていたウタの脳は耳にした言葉を処理しきれない。完全に硬直してしまったウタを見上げ、少年は口の端を歪めた。

 

『聞こえなかったか? まァそりゃあそうだよなァ。耳を塞いでちゃ聞こえるもんも聞こえやしねェ』

 

 大袈裟に肩を竦め、聞こえよがしに溜め息まで吐いての嫌味。どうやらウタが装着しているヘッドホンへの苦言らしい。

 感覚が麻痺したような心地のままヘッドホンを外せば、少年はさらに苦々しく顔を顰めた。

 

『やけに素直だな。少しは用心しろよ。そんなだから悪い大人に騙されるんだ』

 

 飴玉を転がし転がし、頬を膨らませて少年は言った。挙句の果てに、海面を揺らしずかずかと距離を詰めてきて、ウタの隣に座り込むではないか。

 もはや困惑しかない。

 意図が掴めず黙り込んだウタを見上げ、少年が胡乱げに吐き捨てる。

 

『突っ立ってないでお前も座れ。おれの首がもげたらどうしてくれる』

 

 ついには歯を剥きながら威嚇されてしまった。ウタは仕方なく隣に座り、膝を抱える。

 

 そこでふと思い出した。

 ローも似たような要求をしてきたことを。

 

 少年の首にかけられたペンダントはローと同じ意匠のものだ。

 金貨に四葉のチャーム、幸福を呼ぶお守りだとローは言っていた。家族揃いで買ったのだと。

 少年のペンダントは二種類。二枚の金貨、そして四葉と天道虫のチャームが揺れている。

 

 何か関係があるのだろうか。

 今は亡きローの故郷と。

 

 隣に腰掛けたきり、少年は黙り込んでいた。

 腰を落ち着けて、しかもわざわざ隣に並んだのだ。何か話があると思っていたのだが、ただ疲れていただけなのだろうか。

 

 しばらく待ったものの、沈黙に耐えきれず、ウタは横目で少年を覗き見る。

 彼もまたウタを見ていた。

 

「あのさ、キミのペンダント……」

『そのナイフ……』

 

 二人同時に話し始めてしまい、互いに口を閉ざす。再び妙な沈黙が流れ、ウタは溜め息を吐いた。

 結局、想像していても何も分からない。一聞一見で分かったと思い込んでしまうのは悪い癖だと、今のウタは理解していた。

 

「キミ、どこから来たの? キミと同じペンダントをつけてる人を知ってるんだけど、その人に連れてこられたのかな」

『奇遇だな。おれもお前の持ってるナイフを見たことがある。外で手に入れたのか?』

 

 外。そう言われて遅れて理解する。ここが現実ではないことを知っているのだ。

 きっと、ライブ会場でコビーの話を聞いてすぐ逃げ出そうとしたのだろう。手立てなどあるわけもなく、また戻ってきたに違いない。

 ウタは言葉を変えて尋ね直した。

 

「もしかして、ライブ会場に家族や友達がいたの?」

『どうでもいいだろうが。いいからナイフについて話せ。誰に貰ったんだ?』

 

 質問に答えず、少年が問いかけてくる。何やら不機嫌な声音だ。サングラスで覆われて分かりづらいが、ナイフを見る彼の目もまた妙に鋭く思えた。

 ウタがナイフを傍に隠せば、彼は舌打ちをしてそっぽを向いてしまう。

 

「先に私の質問に答えてよ。そしたら、ナイフのことも教えてあげる」

『おれは仲間と来た。このペンダントは……預かり物だ。お前の知り合いが誰だかは想像もつくが、今は関係ねェな』

 

 不満たらたらといった風情ながら少年が答えた。また眉間に皺が寄っている。

 子どもの時分から険しい顔をし続けると人相が悪くなってしまうのではないだろうか。ここがウタワールドだということも忘れ、ウタは少年の額へ手を伸ばした。

 しかし、指が届く寸前で、いかにも迷惑げに払われてしまう。

 

『質問には答えた。今度はお前の番だ』

「……私のこれも預かり物。外で渡された物だから、ここにあるのはレプリカだけどね」

『誰だ。誰がお前にそれを渡した? 誰かを殺せと言われたのか? まさか、ネズキノコも……!?』

 

 突然態度を変えて詰め寄ってきた少年に驚き、ウタは座ったまま後退った。

 少年はなおも身を乗り出してナイフを奪おうとしてくる。

 

『それを渡せ! 危ねェだろうが!』

「ちょっと待って! 危ないのはキミでしょ? 子どもがナイフなんか欲しがっちゃダメだよ」

『能天気娘め、誰が子どもだ! いいように使われやがって、頭お花畑もいい加減にしろよ!』

「使われる? 何の話よ」

『だから! お前、サイファーポールに何か命じられてるんじゃねェのか! 暗殺か? それとも自殺か? どうでもいいが、おれ達を巻き込むんじゃねェ!』

 

 年端もいかぬ少年を力尽くで抑え込むわけにもいかない。ましてや何の話をされているのかも分からないままとあっては尚更だった。

 ウタはナイフを背に隠し、大声を上げる。

 

「待って、意味がわからない! サイファーポールって何? これはローさんから預かった約束のしるしなんだから!」

『……ロー? お前、今、ローと言ったか?』

 

 互いに肩で息をしながら、ウタと少年は見つめ合う。

 

「そうだよ、ローさん。えっと、トラなんとか……ともかく革命家なんだって」

 

 ローの名を出した途端に動きを止めた少年は、何かを思案するように口の端を曲げた。それから、ナイフへ伸ばしていた腕を下ろし、元の位置へと再び腰掛ける。

 

『そうか、あいつが持ってたんだな』

 

 一言呟いたきり、少年は再び黙り込んだ。さらには膝を抱えて俯いてしまうものだから、ウタもどうしていいか分からず困惑してしまった。

 

「ローさんのこと、知ってるんだね」

『知ってるさ。ローも、そのナイフの本当の持ち主のことも』

 

 漏れ聞こえる声はあまりに寂しげで、聞いているウタまで胸が詰まるような心地がする。知らずの内にナイフを握りしめ、ウタもまた俯いた。

 

 揃いのペンダント。ナイフのことも知っている。ならば、この少年はローに近しい者なのだろう。

 現実で起きたことを知ったら、きっとひどく傷付くに違いない。

 だが、いつまで報せずにおけるだろうか。

 

 じきにウタは死に、新時代がくる。事実を伏せてしまえば、この少年は辛い現実に直面せずに済むかもしれない。

 だが同時に、彼は待ち続けることになるだろう。

 終わりのないウタワールドの中、二度と会うことのない人を、永遠に。

 

 ずきりと胸が痛む。

 ウタは唇を噛んで背中を丸めた。

 

 気付いてしまったのだ。

 十二年前、ウタに与えられた優しい嘘。

 それを齎したゴードンと赤髪海賊団の気持ちに。

 

 きっと彼らも苦しかった。ウタが苦しむ可能性とて、彼らは理解していたと思う。

 それでも、彼らは願ったのだ。

 嘘の先、ウタが少しでも幸せになる未来を。

 

『そのナイフは形見だ』

 

 少年がぽつりと呟く。

 小さな手でペンダントを握りしめ、彼は続けた。

 

『元はローの物じゃねェ。あいつの妹……おれの恩人が持っていた』

 

 形見。少年にそう言われ、ウタは手の力を緩める。現実と寸分違わず再現されたナイフは相変わらず重く、よく見ればやや古く、丁寧に扱われた痕がみてとれた。

 

『ほとんど飾りみたいなもんで、実際使ってるところを見たのは数回だったな。まァ、不器用な人だったし、万が一を考えて使わずにいたんだろう』

 

 少年の声に耳を傾けながら、ウタはナイフの鞘を撫でた。

 ローの妹という見たこともない他人を、ひどく近しく大切な存在のように錯覚する。

 それはきっと、彼女のことを語るローと少年の声が優しく、切ないからだ。

 彼女が今も目の前にいるような、愛おしげで淡い声音。それなのに、言葉は全て過去形で紡がれる。

 滲む喪失が輪郭を持ち、まるで影絵のように、彼女の姿を浮かび上がらせていた。

 

「その人が大事だったんだね」

『ああ、大好きだった』

 

 少年が頷く。

 先程まで大人びた言葉で罵倒を繰り返していたくせに、愛情を語る時は素直で子どもらしい。

 彼にとって“恩人”はそれほど深く、心に根差す存在なのだろう。

 

 少年は小さな溜め息を落とし、自身のペンダントを持ち上げた。

 

『これもあの人から預かったんだ』

 

 預かった。その言葉で理解してしまう。

 ウタが事情を察したことに気付いたのだろう。少年が苦く笑った。

 

『そうだ。これも形見だよ』

「キミにペンダントを預けたまま、その人は帰ってこなかったの?」

『ああ』

 

 返答は短い。その一音節に全てが詰まっているような、重い答えだった。

 

『まったく勝手なもんだよな。愛してるとか、ずっと見守るとか、あなたは自由だとか言って、自分だけとっとと逝っちまった』

「それは……だって、嘘じゃないんでしょ?」

 

 ウタは思わずとりなしてしまう。

 

 こんな世界では誰しも死に方を選ぶことはできない。それでも、大切な人には幸せに生きてほしいと祈ることは許されていいはずだ。

 

「きっと、あなたには幸せになってほしかったんだよ。私はそう思う」

 

 知らずのうちに両手を組んで呟いていた。

 そんなウタを横目で眺め、少年が面白そうに眉を上げる。

 

『幸せ、ね』

 

 目尻の上がったサングラス、その奥に隠された少年の瞳。

 気のせいだろうか。

 そこに、冷たい棘を感じたのは。

 

『だったらなおさら、腹の内に溜まった毒を吐き出さねェとな。文句くらい言わせろよ。置いていかれる側の身にもなってみろってんだ』

 

 少年はそれまでの大人びた態度を一変させ、にたりと笑う。

 

『お前もそう思ったんだろうが。なァ、歌姫さんよ』

 

 ウタは目を見開いて硬直する。

 

 

 触れたのは胸の奥にずっと仕舞い込んでいた思い。

 開けてはいけない箱の蓋、その軋む音が聞こえた。

 





 タイトルは伝統的なシーシャンティからお借りしました。
 
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