“怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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悲しげな鳥たち

 

 飾り気のない服、少しあどけなさの残る顔立ち。昔と比べて随分と伸びた背。

 見知った幼馴染の見知らぬ姿。

 

 ライブ会場跡地に現れたルフィの顔を、しかし、ウタは直視することができなかった。

 

 目を伏せたまま、問いかける。

 

「ルフィ、何しにきたの?」

「お前を止めにきた」

「へえ、どうやって? 戦う?」

 

 ウタの視線は海面へと落ち、ルフィの足下ばかりを見つめていた。草臥れた草履はいかにもルフィらしくて、込み上げる懐かしさに場違いな笑いが溢れる。

 

「勝ち目なんてあるの? あんた、私に勝てたことなんかないでしょ。今だって、私が百八十四連勝中なんだし」

 

 茶化すようにそこまで言って、ウタは唇を閉ざした。

 ルフィがただ静かに、ウタを見つめていたからだ。

 

 いつもならば。

 いや、昔通りならば、ルフィは食い下がって反論してくれただろう。

 だが、もう変わってしまった。

 

 ルフィはウタと違う。

 もう、あの頃とは違うのだ。

 

 胸の奥から痺れるような、ひりついた感覚が迫り上がってくる。ウタは喉を押さえ、けほりと咳を零した。

 

「ともかく、あんたじゃ私を止められないよ。大人しく待っててくれたらいいから」

 

 片手に握ったままだったローのナイフを見下ろし、指を振るう。生じた音符がウタの右大腿を覆い、レッグホルダーを形作った。

 ここはウタワールドだ。ナイフはレプリカでしかない。それでも、預かり物は預かり物であり、ローの意図がどうあれ、ウタはナイフを大事に扱いたかった。

 

 そっとナイフを仕舞い込むウタを見つめ、ルフィが口を開く。

 

「お前、ずっとここにいたのか」

 

 “ここ”。そう言われてウタは苦笑した。

 十二年、エレジアにいたこと。寂しさを紛らわせるために夢の世界で過ごしていたこと。どちらを指すのか分からなかったのだ。

 

 フーシャ村でルフィと出会った頃からウタは変わっていない。赤髪海賊団において、幼い非戦闘員であったウタは船番として一人で船に籠る時間も長かった。

 孤独や不安を紛らわせるために、ウタが自身の心に潜り込んで過ごしていたことを、ルフィは覚えていたのだろう。

 

 誰にも見つからない安全な場所。外には強くて格好いい赤髪海賊団の皆がいて、あの頃のウタは安心して歌の世界に浸ることができていた。

 

 それは今も変わらない。

 エレジアも歌の世界も、静かで穏やかだ。

 海賊達と王様に守られた宝箱。

 けれど、十二年のうちに、宝は綻び、腐食してしまった。ただそれだけの話だった。

 

 答えないウタに焦れた様子で、ルフィが一歩を踏み出す。

 

「シャンクス達が言ってんだ。お前が世界一の歌手になるんだって。だから、別れたんだって」

「ああ、それ嘘。びっくりした? あんたもシャンクスに騙されてたんだよ」

 

 ルフィを傷付けたいのか、守りたいのか。ウタにはもう分からなくなっていた。

 そんな自分が嫌で嫌でたまらなくなり、ウタは無理矢理口の端を引き上げる。

 

「シャンクスは私の能力を利用してたんだって。私は家族だと思ってたけど、あいつらは違った。私は道具でしかなかったんだ」

「…………」

「赤髪海賊団は私を置いていった。このエレジアを滅ぼして、私を置き去りにしたんだよ」

 

 誰にどんな嘘をつけば何を守れるのだろうか。一体いつまで騙されているふりをしていればいいのか。

 この嘘がウタのためだとして、それならば何故、ウタの胸は締め付けられ、痛み続けているのだろうか。

 ウタは乾いた笑いを零し、ルフィを見つめる。

 

「ねえ、ルフィ。私が嘘をついてるように見える?」

「見えねェよ。お前、昔から嘘なんか一つも吐かなかった」

「散々騙されておいてよく言うね」

 

 ルフィのあまりの愚直さに呆れてしまった。ウタは少し屈んでルフィの顔を覗き込む。目が合った。視線を逸らそうとしないルフィが面白いような、痛々しいような、妙な気持ちになる。

 不思議な心地のまま、ウタは数歩下がり苦笑した。

 

「じゃあ、シャンクス達に騙されてたこと、ルフィも認めるんだ?」

「違う。嘘とかじゃねェ。だけど、シャンクスは、赤髪海賊団の皆は何か隠してた。だからおれは、てっきりお前が……」

 

 顔を歪め、ルフィが口籠った。

 

 らしくないな。

 そう思ってからウタはかぶりを振る。

 ウタは今のルフィを知らない。知ったような気になってはいけないのだ。

 

「私が、どうかしたの?」

 

 ウタは優しく問いかける。困っている幼馴染を慰めたい気持ちと、見知らぬ青年を傷付けてしまいたい破壊衝動がぶつかり合って、ウタの心に細波を呼んでいた。

 ウタが一歩近付けば、ルフィは細く息を吐き出して顔を上げる。

 

「ウタ、帰ろう。ここは違う。お前、ここにいたら駄目になっちまう」

 

 ああ、まただ。

 また知らない顔。

 

 ふいに視界が滲んだ。

 自分が泣きそうになっていることにすら気付けず、ウタは唇を強く噛み締めた。

 

「ルフィ、あんたには仲間がいるんだよね。海賊王を目指してて、強くなったんだって聞いたよ」

「ああ」

「あんたには色んな世界が見えてる。広い海のそのまた向こう、まだ見えない場所にだってきっと行ける」

 

 エレジアで過ごす中、時折ルフィのことを思い返していた。

 

 フーシャ村の港で待っていてくれていた、憎らしくもかわいい幼馴染。

 ルフィはずっと、ウタのことも待ってくれているのではないだろうか。急に会えなくなって寂しい思いをさせてしまったかもしれない。

 そう考えては落ち込んでいた。

 

 だって、ルフィは泣き虫だから。

 生意気で、素直で、ヤンチャで、バカで向こう見ず。それなのにどこか憎めなくて。

 ウタよりもずっと幼い少年が泣いているのではないかと、ずっと気にしていた。

 

 だが、現実は違ったのだ。

 泣きべそなんてかいていない。

 ルフィはもう自分の船を持っている。

 かつての小さな泣き虫は待つことをやめ、違う景色を見るために自分の力で海へ漕ぎ出していた。

 

 自分とは大違いだ。

 そう思ってウタは笑う。

 

「ねえ、ルフィ。私達にはここしかないんだよ」

 

 どこにも行けないから、ウタは歌った。怒りも悲しみも苦しみも喜びも、全てをのせて歌にした。

 

 歌はウタにとっての船で、風だった。

 歌はやがて人々に届き、反響し始める。幸せを知った人々の声を耳にし、はじめてウタは孤独を忘れることができた。

 

 また旅立てると、そう思えていた。

 すべてがうそだと知るまでは。

 

 ウタはルフィを見つめる。

 

「私はここから出られない。出たくない。皆のためにも、私のためにも、ここが新時代になる時を待つよ」

「新時代? ここがか?」

「そう。あともう少しだから、待ってて」

 

 ルフィが眉間に皺を寄せた。

 批判や非難とはまた違う、不可解なものを見るような顔で彼は言う。

 

「ウタ、お前にはこれが新時代に見えるのか?」

「そうだよ。素敵でしょ? みんな一緒、みんな幸せ。怖いことも嫌なこともない。楽しいことだけの世界」

 

 舞を踊るようにその場で回るウタを見返し、ルフィが口を引き結んだ。

 彼の握りしめた拳から鈍い音が鳴る。

 人間の皮膚が擦れる、痛々しい音。

 

「楽しいなら笑えよ」

「え?」

「本当に楽しいなら笑えるだろ。お前、さっきから全然笑えてねェ!」

 

 だん、と強く海面を踏み鳴らし、ルフィが叫んだ。彼の存在そのものが力強く響き、ウタワールドを揺らす。

 生み出された波紋は波に似て外へと広がるが、閉じたウタワールドの中からはどこへも伝わらない。

 

 それでもルフィは声を張り上げて、ウタの世界を変えようとしていた。

 

「ウタ、俯いてんならお前にも見えてるだろ! 自分の顔が!」

 

 息を呑み、ウタは自身の足下を見つめる。

 

 揺らぐ海面に映し出されたウタの顔は歪んでいた。作り物のように固く、壊れかけの機械にも似て安定していない。正常を装って笑む唇と涙を滲ませ見開かれた瞳が相反し、頬は引き攣ったまま不器用に震えている。

 

 慌てて両手で口元を覆い、ウタは数歩後退った。

 

「違う。違うの。これは……」

 

 海面に映し出された真実を見るのが嫌で、ウタは反射的に指を振るう。制御を失ったウタの心が生むのは無数の槍兵達だ。

 

 鏡を破るかのように水面を叩く槍兵達は、そのままの勢いでルフィへと向かっていく。

 ゴムの拳がそれらを悉く撃ち落とし、乱打で弾けた音符達が星屑となって降り注いだ。

 

 音符の兵達を砕き、一歩また一歩と進んでくるルフィから逃げるため、ウタは踵を返す。

 

 だが、もうウタワールドにすら、ウタの逃げ込める場所はない。

 海の中、オモチャや花に姿を変えられた人々がウタを見ている。声もなく望みも伝えることができない姿で、バケモノになってしまったウタを見ているのだ。

 

「違う……!」

 

 守るための力だった。ファンの皆が苦しみや悲しみの波に削られないように、楽しいことだけ考えていられるように幸せの海に沈めた。

 新時代が始まれば皆で考えていけるはずだと、そう思い込もうとしていたのに。

 

「来ないで!」

 

 ルフィを制止しようとウタは声を張り上げる。

 

 ウタの悲鳴に呼応した槍兵達が集結し、煌めく五線譜と共に巨大な砦を作り上げた。

 星を散りばめ光る小さな城砦へと逃げ込み、閉ざされた薄暗い闇の中で蹲る。

 

「もう放っておいてよ」

 

 祈るように呟けど、ルフィは許してくれない。

 

 世界が揺れ、呆気なく城砦が崩れた。

 ルフィの空高く掲げた足が斧となり、ウタの砦を砕いてしまったのだ。

 

「ウタ、お前が待ってるのは新時代じゃねェ」

 

 知らぬ間に大人になっていた彼は、ウタを見つめ、静かに問うた。

 

「お前が待ってるのはシャンクスなんだろ」

 

 違う。

 そう言おうとして、しかし言葉にできず、ウタは呻きを飲み込んだ。

 

 嘘は、嫌いだった。

 

 ウタは乱れる息を整えて、声を絞り出す。

 

「あいつは来ない」

「来る。娘のお前が待ってるんだ。シャンクスは絶対に来る」

「もし、来なかったら?」

「そしたら、こっちから迎えに行ってやればいい。お前は赤髪海賊団の音楽家なんだから」

 

 糸が切れたように、ウタの身体から力が抜けた。結い上げられた紅白の髪が項垂れる。

 

「……十二年。十二年待ったんだよ」

「ああ」

「シャンクスは来なかった。だから、私の話はこれでおしまいなんだ」

 

 涙を飲み込もうと何度も裏返る声でウタは告げた。

 嘘ではない。実際、シャンクスは来なかった。ゴードンとて本当に無事かは分からない。

 もう、限界だった。

 

「シャンクスのことはいい。私のことも、もういい」

 

 もう何も考えたくない。

 ゆるゆると頭を振り、ウタは立ち上がる。

 よろけかけた身体を支えようとゴムの腕が伸ばされた。やんわりとその手を押し除け、ウタは顔を上げる。

 

「でもさ、置いてけぼりは嫌だよ」

 

 口をついて溢れたそれは、きっとウタの本心だった。幼い頃からずっと胸に秘めていた本音で、誰にも言えないまま時に埋もれてしまっていた叫びだった。

 

 ウタはルフィを見つめる。

 こうしてみると、本当に大きくなったと思う。

 

 海賊王を目指し、強者となり名を轟かせる一方で、兄を喪って嘆いていたという青年。その歩みも喪失も、それらがルフィにもたらした変化さえ、ウタは何一つ知らないのだ。

 

「ルフィだって嫌でしょ? 置いていくのも、置いていかれるのも……二度と会えない人が増えていくのは嫌だよね」

 

 答えはない。ルフィはただ僅かに眉を顰め、しかし毅然と顔を上げていた。それはきっと、喪失を乗り越え、今を歩み続けてきた強さ。ルフィ自身の足でここまで走り続けてきたからこその立ち姿なのだ。

 

 だが、どこまで折れずに行けるだろうか。

 泣き虫で寂しがり屋だった彼をウタは覚えている。

 

 変わらない彼が眩しくて、変わってしまった彼が恨めしくて、ウタは唇を歪めた。

 

「それとも、また失くさないと分からない?」

 

 ウタはヘッドホンに手を添えて力を振るう。

 ルフィから奪って仕舞い込んでいたシャンクスの麦わら帽子が現れた。

 

 思わずといった様子で手を伸ばすルフィを制し、ウタは帽子のつばを掴む。そのまま引き裂こうと力を込めた途端、ルフィが叫んだ。

 

「やめろ! お前にとっても大事な帽子だったじゃねェか!」

「だからだよ」

 

 ウタは表情を消してさらに力を込めた。

 

「だから壊すの。こんなものを大事にしてるから、私もあんたも自由になれない」

 

 ざらついた音を立てて帽子が裂けていく。何故か自分の心まで裂いているような気がして、吐き気と眩暈に襲われた。

 ウタは固く目を瞑ってやり過ごし、壊れた帽子を宙へ放り投げる。

 

 思い出の麦わら帽子は砂糖菓子のように崩れていった。

 降り注ぐ残骸は雨にも似て眩い。

 金色の光が海面に触れて波紋を描き、二人の足下を照らし出す。

 

「わかってるよ。全部が全部海賊のせいってわけじゃない」

 

 あれほど声を荒げていたルフィは、急に黙り込んで一言も声を上げないまま。

 今は衣擦れの音すら聞こえない。

 ルフィがどんな顔をしているのか、ウタは見ることができなかった。

 怖かったのだ。

 

 ウタは未だ震える拳を握り締めた。

 

「それでも今のままじゃ駄目。皆が沢山のものをなくして、誰かがずっと泣いてるのは嫌」

 

 指が痛む。まるで藁の棘が刺さったように、痺れと鋭い痛みがウタを貫いていた。

 

 大切なものは指の隙間をすり抜けていく。

 ふいに消えてしまった誰か、もう会えない人。彼らを思う痛みは深く長く、流れる時間も心を癒す薬になってはくれない。

 ならばいっそと自ら思いを捨て去ろうとすれば、我が身ごと引き裂くような苦痛に苛まれるのだ。

 今、この時のように。

 

「ひどいことをしてごめん。悲しい気持ちにさせてごめん。これで最後にするから」

 

 ウタは譫言のように呟く。

 

 ウタワールドですら既に喪われた者を編み上げることはできない。たとえば、ルフィの亡き兄をウタワールドへ呼ぶことは不可能だ。ウタはその人を知らないし、兄弟がどう過ごしていたかも分からないのだから。

 

 だからこそ、ウタワールドは何も奪わない。

 奪わせたりしない。

 

 これ以上、誰かを失い、傷付く前に。

 世界が欠けて壊れる前に。

 人々が望む通り、奪い奪われる時代を終わらせるのだ。

 

 ウタは一つ吐息を落とし、ルフィに向き直った。

 

「ルフィ、大海賊時代はもう終わりにしよう。奪ったり、奪われたり、こんな世界は間違ってる」

 

 浮ついた声が喉を滑り落ちる。言葉は海面を揺らすことなく、溶けて消えていく。

 それでも、ウタは手を差し伸べた。

 

 泣くな。

 笑え。

 信じさせるのだ。

 

 ただ一度でいいからと、ウタは顔を上げて唇を引き結ぶ。そして、目と頬にゆっくりと力を入れ、微笑みの形を作った。

 

「私が止めてあげる。全部それから。全部終わらせて、皆で一緒に幸せになろうよ」

 

 ウタは祈る。

 

 どうかこの手を取って。拒まないで。

 これ以上、揺らさないで。

 

 お喋りで生意気だったはずの幼馴染は、長い間、黙りこくってウタの言葉を聞いていた。

 いつだって楽しそうに駆け回っていた足は今、確かに地につき、大樹のようにしっかりと彼自身を支えている。

 

 ウタを見る目は凪いでいて、そのくせ熱く燃えていた。

 

「お前は?」

 

 ルフィが問う。

 

「ウタ、お前はどこに行くんだ?」

「私はここにいるよ。どこにも行かない。皆とずっと一緒。ここで幸せに暮らすんだ」

「──嘘だ!」

 

 突然声を荒げたルフィに驚き、ウタは目を見開いた。差し伸べた手は縮こまり、縋るように彷徨って腿のナイフへと下りる。

 ルフィはそんなことすら気にした様子もなく、震える声で子どものように叫び始めた。

 

「お前、死ぬんだろうが! 他の奴らから聞いたんだ、ウタが死んじまうって!」

「……やだな、もう。こっちの私は死なないってば。身体は消えても心で生き続けるんだよ」

「違う! 心とか身体とか、おれには分かんねェけど、ここにいたらお前は笑えなくなっちまう!」

 

 言葉だけでは表せない衝動を吐き出すかのごとく、ルフィが海面を殴りつけた。あまりの力に撓んだ世界が鐘のような音を響かせて揺らぐ。

 

 ルフィは肩で息をして、苦しげに顔を歪ませていた。

 怒りと悲しみがないまぜになった子どもの顔だ。

 頬は真っ赤に染まり、今にも泣き出しそうな目がウタを見つめている。

 

「ルフィ……」

「ウタ、お前、またいなくなっちまうんだろ」

 

 すっかり大きくなった武骨さの目立つ手で自身の顔を覆い隠し、彼は小さな声で呟く。

 

「そんなのは嫌だ」

 

 掌で隠れたルフィの顔、引き結ばれた唇が見えた。力の入った顎は皺になっていて、喉仏がかすかに震えている。

 泣き虫だった少年がまだ、ルフィの中にもいるのだ。

 

 ああ、失敗した。

 そうウタは思う。

 派手な喧嘩でもして別れていれば、嫌ってくれたかもしれない。ウタの存在が彼の心を苛むこともなかっただろうに。

 

 あるいは、もっと完璧に笑ってみせるべきだった。

 ルフィが安心できるように、信じさせてあげたかったのに。

 少しの間信じさせることすらできないならば、ウタはもうどうしていいのか分からない。

 証明する他、ないのだろう。

 

「大丈夫だよ、ルフィ」

 

 ウタは目を伏せて囁く。

 

「待ってて。すぐに終わらせるから」

 

 

   ◇

 

 

 雨が降っていた。

 現実は曇天のまま。燃え燻るエレジア城から流れてくる黒煙が少し煙たい。

 

 ウタワールドでは激情を堪えていたルフィも、現実では安らかに寝息を立てている。まるで、こちらの世界の方が幸せであるかのような寝顔だ。

 ウタは一人苦笑した。

 

 傍らにはローのナイフ。一度はルフィの胸に突き立てようとしたものの、結局振り下ろすことはできなかった。

 

 言葉でルフィの心をさんざん傷付けたというのに、現実の彼には何一つ手を出せない。

 ウタは結局無力なまま。しかし、力を持てば今度はバケモノのように相手を壊そうとしてしまう。

 

 どうすればよかったのだろう。

 分からない。

 疲れてしまった。

 もう、何も考えたくない。

 

 導かれるようにナイフへと手を伸ばす。

 逆手に持ち替え、目を閉じた。

 

 一瞬、ローの背中が眼裏に浮かんだ。彼の縁者でありナイフの本当の持ち主を知る少年の姿も。

 彼らは怒るだろうか。

 呆れるかもしれない。

 

 それでも。

 

 終わらせるのではなく、始めるのだ。

 死ぬためではなく、誰にも邪魔されないところへ行くために。

 

 ウタはゆっくりとナイフを掲げる。

 自身の心臓の上、高く。

 

 

 ゴードン。

 シャンクス、赤髪海賊団のみんな。

 ウタの中では思い出の彼らが叫んでいた。

 

 懐かしい声が溢れ、やがて飽和して無音になる。

 

 

 張り詰めた静寂の中、ウタは自身の胸へとナイフを突き立てた。

 

 

「────どうして」

 

 ウタは目を見開く。

 

 手から滑り落ちたナイフがからりと音を立てた。

 一点の曇りなく冴えた銀の刃が、ウタの顔を映し出している。

 

「なんで?」

 

 痛みがない。

 苦しくもない。

 血の一滴すら流れていない。

 

 ウタは震える手でナイフを掴んだ。刃の先端に手のひらを添え、柄を握りしめる。

 躊躇わず一思いに突き刺せば、銀の刃は微かな音を立てて柄の中へと消えた。

 

「どうしてこんな、いまさら!」

 

 何度も何度も繰り返し掌を刺す。

 刃はウタを傷付けることなく柄の中に沈み、呆気なく戻ってきてはまた沈んだ。

 

 ローがウタに預けたお守り。

 それは大道芸用に設えられた、オモチャのナイフだった。

 

「あは」

 

 再びナイフを取り落とし、ウタは空を見上げる。

 

「あははははは!」

 

 人間の喉から出たとは思えない、血を吐くような哄笑。

 けたけたと一人で笑い、ウタは頭を抱えた。

 

 視界は滲み、何も見えない。

 

 眠る幼馴染のそばで蹲り、歌姫は泣きながら笑い続けていた。

 





 タイトルはラヴェルの『鏡』第二曲よりお借りしました。
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