“怪盗”ドンキホーテ・ドフラミンゴ   作:ladybug

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悲しみの如何なるかを知らず

 

 

 頭上に広がるのは太陽輝く晴天、そして煌めく星月夜。

 現実感を失いつつあるウタワールドにおいて、二つの空は並び合い、調和している。

 

 競い合うように照らす太陽と星に見下ろされながら、エレジアを走り抜ける者達がいた。

 うち二人は海賊船の船長と、その部下。合計賞金額は三十億とんで千と五百ベリーだ。

 もう一人は革命家の部下。さらにいうと元海賊であり元海兵でもあるらしい。

 残るところの一人、エレジア国王ゴードンはといえば、他の三人の手を借り、車椅子でライブ会場へと向かっているところだ。

 

 旧城下街の荒れた路面は走行に適しておらず、糸で編まれた車輪が大きく揺れた。

 角を曲がった勢いで危うく振り落とされかける。ゴードンは悲鳴を飲み込み、肘置きを掴んでなんとか耐えた。

 妙に手触りがいいのは気遣いか、あるいは作り手のこだわりか。

 併走するドフラミンゴを見上げれば、彼は口の端を上げて指を振るう。紡がれた糸がゴードンの腰元でベルトを形成。衝撃は逃すがバランスは取るという絶妙な設計だ。

 

「ありがとう」

「サービスだ。年寄りに優しくするといいことがある。寝床を貸してもらえたり、船を貰ったりな」

「アイアイ!」

 

 船長が嘯けば、シロクマの航海士が朗らかに賛同する。

 ぬいぐるみのようなサイズとなったベポは今、ゴードンの膝の上に乗せられていた。

 ミンク族であるからか、彼は聴覚や嗅覚に優れているそうで、現在はソナー的な役割を果たしている。

 

「アチョー!」

「ヴェルゴ君、左だ」

 

 ベポが指し示した方向は入り組んだ路地。音符兵達の警備が手薄ということだろう。ゴードンが口頭で伝えれば、車椅子を押すヴェルゴが無言で応えた。

 

 車椅子ごと身体が宙へ持ち上がり、左手の道へと着地する。一見乱暴だが、下手にカーブを曲がるよりもゴードンや車椅子に優しい操舵ぶりだ。

 

 旧城下街に続き、宿場や商店の集まっていた区画を駆け抜ける。

 

 このあたりはあの夜のままだ。

 エレジアに暮らすのはウタとゴードンの二人だけ。いくら援助があったとて、人が消え荒れ果てた市街地を補修する余裕などあるはずもない。

 煉瓦造りの街路は今や見る影もなく苔や蔦に覆われ、端々には当時のままに瓦礫が放置されていた。

 

 高速で後ろへ流れていくエレジアの景色を見つめ、ゴードンは拳を握りしめる。

 

 ウタワールドはウタがイメージする世界だ。

 世界中の人々を呼び込み華やかなライブを演出する一方で、イメージの中でさえ、エレジアは崩壊後のまま。

 十二年をこの国で過ごしたウタにとっては、崩れ寂れた姿こそがエレジアなのかもしれない。否、それならばまだいいのだ。

 

 もしかすると、彼女はもう、全てを知ってしまったのかもしれない。

 

 違和感はあった。

 

 一年ほど前のことだろうか。

 人々に認められ名実共に世界の歌姫となったウタ。自由に羽ばたく彼女の目が、再び暗い夜を映し始めたのは。

 

 何かから逃げるように音楽へ没頭する姿。あるいは途方もない惑いに背を向けて、自身の内的世界に没入し続ける有り様。

 そんなウタに、ゴードンは既視感を覚えていた。

 

 家族に利用されて捨てられた────そう教えられ、激変する生活の中で必死で順応しようとしていた幼い少女。

 受け入れ難い現実の中でも気丈に励み、一人になると窓辺で泣いていた彼女。

 今のウタは、あの頃と同じ目をしている。

 

 十二年。

 十二年も共にいたのだ。

 気付けないはずがない。

 ゴードンもウタも、互いに隠し事をし、そして互いに察してしまった。

 それだけの話なのだろう。

 

 後悔と自責の念に胸が重く沈む。

 それでも、膝にしがみつくベポが心配そうに見上げてくるものだから、ゴードンは何とか俯かずに済んでいた。

 

 一人でなくてよかった。そう思う。

 もし、一人で悩み続けていたならば、結局何の行動も起こさないままだったに違いない。

 

 麦わらのルフィがウタの幼馴染と知り、藁にも縋る思いで声をかけた。シャンクスとウタの繋がりを知る、数少ない人物。彼を一目見た時から、根拠のない予感が大声で叫び続けている。

 

 理屈ではない。

 彼ならば、ウタへと言葉を届けてくれる。

 ウタの思いを聴いてくれる。

 そう感じたのだ。

 

 実際、ルフィは事情の殆どを聞かないまま、ウタの下へと飛んでいった。今もまた、ライブ会場へ先行し、他の皆が彼の背を追う形で事態が動いている。

 

 どうか。

 どうか、あの子らに未来を。

 

 世界そのものがかかったこの有事の最中で願うことではないのかもしれない。それでも、ゴードンは彼らの未来が続くよう祈っていた。

 そして、そのためにできることをすべきなのだと、今、強く思う。

 

 ライブ会場が見えてきた。

 青々と澄み渡る晴天のエレジア市街地とは違い、そこには暗く深い夜空が広がっている。どこまでも続く海は今や綿飴色に染まり、空の色を全く映していない上、靄に包まれて全容が見えない。

 現実ではあり得ないコントラストは、ウタの心を表すようで、ゴードンは静かに息を呑んだ。

 

 島とライブ会場を結ぶ水道橋へと到達したところ、ドフラミンゴが身振りで制止を促す。ヴェルゴが従い、車椅子が止まった。

 

「どうかしたのかい?」

「様子がおかしい」

 

 溢れた呟きは無機質で、彼が状況把握に集中していることが分かった。どうやら能力と覇気とやらを応用し、靄の向こうで繰り広げられる戦いを見通しているようだ。

 邪魔にならないよう黙るべきだろう。そう思い口を閉じれば、膝上のベポがゴードンの手元まで移動し指を握ってくれた。

 安心させようとしているらしい。気遣いがありがたく、ゴードンは笑みを浮かべる。

 

 ライブ会場では既に戦闘が始まっているようで、派手な水柱がいくつも上がるのが見えた。

 荒事とは無縁のウタも、ウタワールド内においては無敵だ。戦闘そのものは事態の解決に寄与しない。しかし、説得の言葉を届けるにあたって、一度は彼女の能力を無効化する必要があった。

 

 ウタの能力の根源は歌声。

 すなわち音である。

 

 バルトロメオという海賊は、結界を用いて音を封じることができるらしい。攻撃に紛れてウタのそばへと彼を運び、彼の能力域内にウタを閉じ込めること。それが作戦の第一段階だと聞いていた。

  

 うまく事が運んでいないのだろうか。

 眉間に皺を寄せたドフラミンゴを見上げ、ゴードンは唇を噛んだ。

 

 焦燥に胸を焼かれても、今、ゴードンにできることはない。

 自身の足でウタの下に行くことすら困難なのだ。

 ルフィ達に任せる他なく、不甲斐なさで頭が重くなってくる。

 

「どうなっている」

 

 抑えた低音が背後から響いた。

 ヴェルゴだ。

 その声には焦燥も苛立ちも感じられない。ただ事態を確認しようという意図だけが伝わってくる。

 

「作戦は? 歌姫は封じたのか?」

「いや、まだだな。むしろやや劣勢だ。あの女、湯水のように力を使いやがる」

 

 ドフラミンゴが溜息を吐いた。

 

「麦わら達も暴れすぎだ。会話が聞き取りにくいといったらねェ」

 

 糸電話の応用でライブ会場の音声傍受をしているらしく、青年海賊の顔は苦痛に歪んでいる。

 

「歌姫は……気もそぞろだな。会話になっちゃいねェ。いや、これは現実側の誰かが干渉してる、のか?」

「シャンクスが来ているのかね」

「恐らくは」

 

 問えば、短い返答があった。

 

 シャンクス達が来ているならば、きっとウタを助けてくれる。ウタとて彼らと話せば考え方を変えてくれるかもしれない。

 

 ならば、ゴードンのすべきことは一つだ。

 

 一つ息を落とし、顔を上げた。

 遠く、一際高い水柱が上がる。ウタが抵抗しているのだろう。打ち上げられた海賊達の悲鳴がここまで届くほどだ。

 戦闘の余波は水道橋まで及び、流れ弾よろしく星が落ちてきた。流星の欠片を拳の一撃で粉砕し、ヴェルゴが首を鳴らす。

 

「加勢するか?」

「今はいい。人食いの野郎が成功するのを待つ。乱戦に飛び込む意味はねェ」

 

 そう言ってドフラミンゴが指を振るった。紡がれた糸がレールの形を成し、ライブ会場への架け橋を生み出す。もはや糸とは関係ないように思える生成力だ。

 

 しかし、またあのレール走行に耐えねばならないのだろうか。老身には堪えるというか、相応の覚悟がいるのだが。

 そんな場合でないとは思えど、ゴードンは苦笑いを溢した。

 

「ドフラミンゴ君、ひとついいかね」

「なんだ」

「ウタに真実を明かそうと思う」

 

 束の間の沈黙が落ちる。

 ドフラミンゴがエレジア滅亡の真実を隠そうとしていることには気付いていた。それがゴードンへの気遣いであることも分かっている。

 

 ドフラミンゴがゴードンを見た。

 心の中を探るような目だ。

 物言いたげに引き結ばれていた唇が薄く開く。

 

「……いいのか?」

「ああ」

 

 恐れはいつまでたっても消えなかった。

 自責の念はいまでもゴードンを苛む。

 だからといって諦めるわけにはいかない。

 

 車椅子の肘掛けを握る手に力が入った。

 エレジア滅亡の真実について、ウタがどこまで知っているのかは分からない。もし何も知らないのであればかえって酷ということもあり得る。

 

 だが、それでも今こそ真実を伝えるべきだ。

 彼らが向き合い、ただ親子として話すために、できることをしたかった。

 

「エレジアにウタを閉じ込め、寄り添うことすらしてやれなかった。私が嘘を吐き続けたばかりに、彼女は自由を奪われてしまったんだ」

「歌姫を思ってのことだろう。あんたばかりに罪があるわけじゃねェさ」

「ドフラミンゴ君……」

「守るってのはそういうことだ。まァ、理解はできる。自由も真実も、ガキ一人に背負わせるには重すぎるからな」

 

 青年は胸の辺りで拳を握りしめ、苦く笑った。

 もしかすると、彼もまた、守られた側の人間なのかも知れない。

 守る側、守られる側、それぞれに痛みがある。心の重荷を適切に分け合うことはひどく難しく、独善にも思い切りが必要だ。

 

 真実を明かし、ウタを自由にすること。

 全てを隠し通し、ウタを守り抜くこと。

 対話と独善。ゴードンはそのどちらも選べずに延々と惑い続けていた。

 

 シャンクス達の残した優しい嘘。宝箱のような嘘の中、置き去りにされた少女が泣いている。

 知っていながら、ゴードンは手を伸ばせなかった。箱の外から歌を教え、孤独を慰めることしかできなかったのだ。

 

「ウタを、解放しなければ」

 

 真実は重い。

 彼女自身に罪はなくとも、多くの命が奪われたのは事実だ。耐えきれぬ痛みと苦しみがウタを苛むだろう。

 

 だが、今、このエレジアならば。

 シャンクスがいる。

 ルフィがいる。

 ウタを受け止めてくれる人々がいる。

 

 ゴードンにはできなかったことを、彼らならばやり遂げてくれるはずだ。

 

 覚悟を決めて顔を上げれば、ドフラミンゴの囁きが聞こえた。

 

「あんたが決めたなら、好きにするといい」

 

 言葉そのものは素っ気ない。しかし、声音は柔らかく、口の端には淡い笑みが浮かんでいる。

 

「タイミングも悪くねェ。人食いの奴が上手くやったようだ」

 

 青年の指さす先、ライブ会場の喧騒は収まりつつあった。

 当初の作戦通り、ウタがバルトロメオの能力圏内に入ったのだろう。空を飛び交っていた音符の槍兵達も姿を消し、星を落とす空も今は沈黙している。

 

「あんたはしばらく口を閉じていろ。真実を打ち明ける前に舌を噛んだじゃ話にならねェ」

 

 ヴェルゴに代わり、ドフラミンゴが車椅子を押した。糸製のレールに乗った車輪が火花を上げ、加速する車体が激しく軋む。

 対話の覚悟は決めても、超加速に耐えられるかは別だ。青褪めたゴードンは片手でベポを掴んで固定し、さらにもう片方の腕で肘掛けへと縋り付く。

 

 バウンドする車椅子。

 コースアウトし宙に浮く四人。

 

 宙に浮けばどうなるか。

 当然、落下するしかない。

 

「ベポー!?」

 

 ベポの甲高い悲鳴が響き渡った。

 ドフラミンゴが紡ぎ直した別のレールに着地。激しい振動に口から魂が抜けそうになる。しかし、口を抑えては手摺が掴めない。ベポを離すわけにもいかず、ゴードンは歯噛みした。

 

 腕が。腕が三本あれば。

 

 車椅子ごと脱線する思考を読んだかのように、横手から腕が伸びてくる。レール上を走ることを諦め、空を駆けるヴェルゴだ。

 

「これは私が預かろう」

「おい待て、これとはなんだ! うちのクルーを無下に扱うんじゃねェ!」

「振り落とされるよりはましだろうに。感謝してほしいものだな」

 

 平坦に応えるヴェルゴは、何もないはずの空中を蹴っていた。

 意味が分からない。

 そういえば、トットムジカとの戦闘時、シャンクス達も空を飛んでいた気がする。

 恐らくは特殊な走行法なのだろう。しかし、どうにも信じがたい光景だ。

 

 悠々と空を行くヴェルゴが振り返る。サングラスのせいではっきりとは分からないが、どうやらゴードンを見ているようだった。

 

「私の主はなかなか強情でな。真実も責務も一人で全て背負い歩き、如何なる辛苦も我が物顔で独占している」

 

 後ろ手に腕を組み走るヴェルゴ、その視線は既に前方へと戻っていた。

 紡がれる言葉は己が主への思いだ。ほぼ独り言のようで、相手の反応を気にした様子もない。

 

「自身の目的だけでも手一杯だろうに、視界に入った者を片端から拾い上げ、そのくせ、手にした重荷は一欠片たりとも他人へ明け渡さない。生来欲張りなんだろう。困ったものだ」

 

 言葉に反し、困窮とは程遠い惑いのない声でヴェルゴが続ける。

 

「だから、私は奪う。拒まれようが彼の背負うものを奪い上げて、手前勝手に担うことにした。もっと早く、ずっと遠く、彼が望む先へ行けるように」

 

 それは深く静かな覚悟だった。

 

 ヴェルゴとゴードンはある意味似ているのだろう。

 ゴードンは嘘を吐き、真実を背負った。それはウタのためでありながら、ウタ自身の意志と自由を犠牲にする選択だ。

 

 だが、ゴードンは迷ってしまった。

 シャンクス達との約束と嘘。音楽を愛する者としての矜持と恐れ。ウタへの愛情、エレジアを想う心。その全てを一人で背負い込んだまま動けなくなっていた。

 

 ただ背負うだけでなく、共に歩む覚悟をすべきだったのだろうに。

 

 後悔の念に沈むゴードンに何を思ったか、ヴェルゴが軽い調子で続ける。

 

「ともかく、こんな場所で油を売っている暇はない。彼ときたら、少し目を離した隙にすぐどこかへ行ってしまう」

「それでまたぞろどこぞの捨て猫でも拾ってくると? 迷子のガキでもあるまいに、手でも繋いでいてやったらどうだ」

 

 ドフラミンゴが呆れたように吐き捨てた。

 いまいち二人の関係性が分からない。とはいえ、幾度となく皮肉の応酬を繰り返す場面を目撃しているため、相応の因縁があることだけは理解できる。

 

 ゴードンは口を挟まず二人のやりとりを見守ることにした。

 否、何か言おうにも舌を噛んだら大惨事になりそうで口を開くことすらできないのだが。

 

 ドフラミンゴとヴェルゴが舌戦を繰り広げるうちに、レールの道も終わりへと近付く。

 

 ヴェルゴが竹竿を振るった。

 前方を覆う靄が晴れる。

 視界が開け、ライブ会場が見えてきた。

 

 星空に見下ろされたそこには様々な人間が集う。海賊、海兵、賞金稼ぎ、そしてオモチャや花に姿を変えられて海に沈む民衆。人々の想いが細波となり、綿飴色の海を揺らしていた。

 

 小さな波が打ち寄せる先は中央、球状の結界に閉じ込められたウタの下。

 彼女は膝をついたまま微動だにせず、途方に暮れたように水面を眺めている。

 

「ウタ……」

 

 肘掛けを握る手に力が入った。

 

「どうか待っていてくれ。決してキミを一人で悩ませたりしない」

 

 ゴードンは静かに呟き、今一度覚悟を決める。

 

 

   ◇

 

 

「何から話せばいいのかな」

 

 海軍の干渉が止み静まり返るライブ会場では、赤髪海賊団とウタが対峙していた。

 眠るルフィの胸の上へとナイフを預け、ウタが目を細める。

 

「もう少しだから、待っててね」

 

 ひどく優しい声だ。

 ルフィの額を撫でた後、ウタは立ち上がった。そして、服の裾を払いながら、世間話と同じ気軽さで話し始める。

 

「みんなはどこまで知ってる? 二年前、私が配信を始めたこととか、“海賊嫌い”って呼ばれるようになったことは……知ってたか」

 

 ぽつりぽつりと、魚が泡を吐くような緩慢さで語られるのはここ二年の動向だった。

 

「ファンのみんなに見つけてもらって、私は世界のことを知ったよ。全部分かったわけじゃないけど、知らなかったことにはできない。大海賊時代は色んな人を苦しめてる。終わりにしなきゃ」

 

 手を組んで囁く姿は、寂しそうに爪先立ちをしていた子ども時代からは想像もできないほどに大人びていた。

 しかし、一方で危うさは増している。

 

 寄るべなき小舟。

 糸の切れた凧。

 あるいは帰ることを諦めた旅人。

 研ぎ澄まされ完結してしまったウタの姿は、対峙するシャンクスの胸を重くするばかりだ。

 

「私ね、歌でみんなを助けたかった」

 

 会場を見回すウタの目に優しさと労りが浮かぶ。眼差しも言葉も真実で、嘘など何一つとしてない。彼女は本気で世界を憂い、皆を救いたがっていた。

 

「シャンクス、昔、言ってたよね。この世界に平和や平等なんてないって。それでも、私の歌なら世界中のみんなを幸せにできるんだって」

 

 ウタはそう言って両腕を広げた。そして、相変わらず泣き続ける空を見上げて、深く息を吸い込む。

 

「本当ならよかったのにな!」

 

 大きく見開いた眦に涙を浮かべ、彼女は叫んだ。

 

 嘘ではない。嘘なはずがない。

 シャンクスは信じていた。

 ウタは世界を幸せにできる。

 ちゃんと、幸せになれる。

 

 そうでなければ、何故、ウタを手放すことなど考えようか。

 

 無意識に一歩を踏み出そうとしてしまい、シャンクスは拳を握りしめる。

 赤髪海賊団の面々もまた沈黙を保っていた。押し黙るかつての仲間達を一人ずつ眺め、ウタが柔らかく微笑む。

 

「私ね、全部知ってるんだ」

 

 紫水晶の瞳が瞬く。

 涙が一粒、溢れ落ちた。

 

「ぜんぶしってる」

 

 掲げていた両手を下ろし、ウタが頬を拭う。

 雨に涙、張り付けた笑顔と滲む苦痛。心ごとそれら全てを消し去るように強く、何度も、何度も。

 

「エレジアがこうなったのは私のせい。シャンクス達を悪い海賊にして、ゴードンから幸せを奪ったのも私。あの夜、私が置いていかれたのだってきっと」

 

 違う。そう言いかけたシャンクスを制したのは、他でもないウタだった。

 

「大嘘吐きは私。私が全部悪いの」

 

 世界の歌姫。人々の救世主。

 “海賊嫌い”のウタ。

 彼女が世界に出るために身につけた仮面は、粉々に崩れもはや形もない。

 

「私の歌は世界を滅ぼす。みんなを幸せになんてできない」

 

 今、彼女は両手で顔を覆い隠している。

 そうするしかなかったとでもいうように俯き、弱々しい声を漏らしながら。

 

「期待してくれたのに応えられなかった。だから──……だから、叱ってもくれないの?」

 

 震える呟きを耳にし、シャンクスの視界は暗く歪んだ。

 

 違う。

 それは違う。

 

 やるせなさ、情けなさ、怒り、焦燥。渦巻く感情の全てを腹の底へと追いやり、シャンクスは顔を上げる。

 

「違う。ウタ、お前は悪くない」

 

 月並みなことを言っている自覚はある。

 だが、紛れもない真実だ。

 

 確かにトットムジカの発動にはウタが関わった。トットムジカのせいでエレジアは滅んでしまった。

 だが、それでも、ウタの才能に罪はない。ウタが望んだわけでもない。ウタは優しく、思いやりのある子どもだ。

 

 ウタの歌はいつだって皆を幸せへ導いてきた。

 そんなことは、赤髪海賊団が一番に知っている。

 

「お前の歌に罪はないんだ」

 

 シャンクスはウタへと手を差し伸べる。

 涙を拭ってやりたい。いつからか彼女にのしかかっていた真実の重荷を少しでも背負ってやりたい。俯いたまま震える肩を抱きしめてやりたかった。

 

「ウタ、薬を飲んでくれ。少し休んで、それからゆっくり話そう」

 

 シャンクスの動きに合わせ、ホンゴウが告げる。抑えた声音の裏には緊張が滲んでいた。それでも彼は船医として、そして父親として一歩を踏み出す。

 

 ウタは動かなかった。

 顔を伏せ、両手で覆ったまま、立ち尽くすばかりだ。

 

「ねえ、みんな」

 

 彼女は乾いた声で問う。

 

「本当に、私は悪くないと思ってるの?」

「ああ」

 

 ライムジュースが即応した。他の仲間達も皆、言葉にせずとも頷く。衣擦れ、武器やベルトのぶつかる音に紛れ、ウタが小さく呟く。

 

「今、この状況でもそう思える?」

 

 シャンクスや赤髪海賊団だけではなく、その場で意識を残していた者は皆、沈黙を選んだ。

 答えることができなかったのだ。

 

 返答がない。

 その意味をウタがどう受け止めるかなど、分かりきった話だった。

 

「そっか。ありがとう。嘘を吐かないでくれて嬉しいよ」

 

 吐息を溢し、ウタがゆるりと首をもたげる。

 紫水晶の右瞳は澄み渡り、真実を見つめていた。

 

 眠る民衆、取り囲む海兵達、佇むだけの赤髪海賊団。エレジア城は燃え落ちて、十二年前のあの夜と同じように空を赤く染めている。

 世界中が混沌に飲まれ、人々は夢の世界に閉じ込められたままだ。

 

 救いを与えることに罪はない。

 人々を慰めることとて善行だ。

 ネズキノコの毒性が彼女の思考を破綻させているという背景とてあった。

 ウタの思いそのものは悪ではない。

 

 だが、その果てに世界が滅びるというならば、彼女の行為は悪となる。

 確実に止めなければならない。

 

 ウタもまた、それを理解している。

 だからこそだろう。

 

 彼女は寂しげに微笑んだ。

 

「ごめんね、みんなの思う私になれなくて」

 

 それはきっと、シャンクス達だけに向けた言葉ではなかった。

 救いを求めた世界中の人々、愛してくれた世界の皆への、裏切りの告白。

 

 アームカバーに覆われた左腕を強く握り、自身をかき抱くようにして、ウタは告げる。

 

「苦しんでいたのにわかってあげられなかった。嘘を吐いて騙して、期待させるだけさせて、怖がらせただけだった。辛かったよね。本当にごめんなさい」

 

 唇が贖罪に震えていた。

 紅白に結い上げた髪は項垂れ、濡れた瞳もまた暗く翳りを帯びている。

 

「私には何も出来ない。私の歌だけじゃ誰一人助けられない。私自身のことですら、どうにもできなかったんだ」

 

 無力感に打ちひしがれた声だ。

 追い詰められ、後悔に溺れ沈んだ者の言葉だ。

 

 シャンクスは今更愕然とする。

 幸せに暮らしていると思っていた。世界中に愛され立派に羽ばたいていたはずの娘。彼女の変わり果てた姿に惑い、何をどうすべきかわからなくなっていた。

 

「だけど、一つだけ。私にできることがあるの。私の歌は世界を壊せる。だから、歌うよ。歌って、寂しい世界を終わらせる」

 

 動けない父親達を見つめ、ウタが微笑む。

 

「ウタワールドなら私はなんだってできる。平和や平等……自由や幸せだって、一から全部、まとめて作り出してみせる」

 

 決意に満ちたその笑みを見て、シャンクスは確信してしまった。

 

 ああ、駄目だ。

 ウタはもう、全てを決めている。

 

 遅きに失したのだ。

 言葉を探す。見つからない。

 道徳的で正しい、父親としての言葉。誤った道に迷い込んだ家族を導くための言葉。大切な娘の心を引き戻すための、絶対的な言葉。

 

 わからない。

 心を決めてしまった者を引き留める術など、シャンクスは知らなかった。

 

 ただ、失いたくない。

 そんなエゴだけが無為な音となり、唇が彼女の名を紡ぐ。

 

「ウタ──」

 

 伸ばした左腕はついぞ届かなかった。

 

「シャンクス、そこで見ててね」

 

 ことり、と。

 小さな音が鳴る。

 ウタのトレードマークであったヘッドホンが地面に転がっていた。

 

 シャンクスが言葉を失う中、ウタが胸の前で左拳を握りしめる。

 それは誓いのようでありながら、その実、世界を打ち砕く合図でもあった。

 

 幼い頃から変わらず左目を覆い隠していた白の髪。そのヴェールをかき上げ、世界の歌姫が名乗りを上げる。

 

「私は新時代を作る女、ウタ」

 

 柔らかな笑みの消えた後。

 輝く紫水晶の瞳が世界を射た。

 

「──なってみせるよ、新時代のバケモノに!」

 

 次の瞬間、ウタの足元から暗い霧が噴き出す。霧は爆発的な勢いで辺りを覆い尽くし、渦を巻いて天へと闇を吐き出した。

 

ᚷᚨᚺ ᛉᚨᚾ ᛏᚨᚲ ᚷᚨᚺ ᛉᚨᚾ ᛏᚨᛏ ᛏᚨᛏ ᛒᚱᚨᚲ

 

 禍々しくも美しい旋律。

 破滅の歌が紡がれ始める。

 天鵞絨の歌声に編み込まれたるは彼女自身。身体と心の全て、彼女の魂ごと明け渡して綴られる終末の音色。

 

 “Tot Musica”

 魔王の降臨を言祝ぎ、世の終わりを告げる──それは正しく絶望と再生の歌だった。

 

ᚷᚨᚺ ᛉᚨᚾ ᛏᚨᚲ ᚷᚨᚺ ᛉᚨᚾ ᛏᚨᛏ ᛏᚨᛏ ᛒᚱᚨᚲ

 

 歌声に呼応し、赤黒い霧が急速に形を成し始めた。

 ウタを包み球状に膨らむそれは、まるで災禍の蕾。

 大輪の花が開くように裂けた霧から、強大な異形が顔を覗かせる。

 

 現れたのは、破壊の化身。

 十二年前、このエレジアを滅ぼした魔王だった。

 

「トットムジカ……!」

 

 息を呑んだパンチがその名を呼ぶ。

 

 ライブ会場を覆う海王類の骨を突き破り、生まれ落ちる様は悪夢そのものだ。

 

 トットムジカの首元には燃える髑髏が並び、その異貌を照らし上げる。虚ろに笑う顔は苦痛と憤怒の赤に染まっていた。

 巨大な身体から滴る憎悪の涙が無数の兵士に変じて列をなし、迸る覇気が空気を焼き切って異臭を放ち始める。

 

 トットムジカは指揮者のごとく両腕を振り上げた。腕は鍵盤を模しており、その一振りで軍艦を薙いで破壊。爆風が波を生み、溢れた海水が近くの小島を飲み込む。

 

 魔王が齎すのは単純な破壊だけではない。眠れる観客達がゆらゆらと身体を起こし、抗う者を拘束しようと動き始めていた。

 

 シャンクスは眉を顰め、空を振り仰ぐ。

 

 災禍の中心、悍ましい魔王の頭上。

 まるで己こそが罪の冠だというように、ウタは歌い続けている。

 

「お頭、ウタを!」

 

 ヤソップが叫んだ。シャンクスは頷き地を蹴った。銃を構えるヤソップの傍を駆け抜け、トットムジカへと一気に肉薄する。

 

 無秩序に荒れ狂う破壊の嵐を掻い潜れば、側面から叩きつけられる鍵盤の腕。グリフォンの一振りで攻撃をいなし、鍵盤を駆け上がって空中へと身を踊らせた。

 無防備に空を舞うその背中を、無数の音符兵達が襲う。シャンクスはそれら攻撃の一切を無視。背後は仲間に任せているのだ。問題はない。

 ヤソップの放った銃弾が音符兵の悉くを撃ち抜いた。

 

 音符兵の弾け飛ぶ爆風をも利用し、トットムジカへと斬撃を加える。手応えがない。冷静に追撃を重ねるも、やはり攻撃が通る気配はなかった。

 

 トットムジカの肩へと飛び乗る。

 シャンクスは口を引き結んで刀を握り直した。

 

 何とかウタを引き剥がさなければ。

 そう思い、彼女のいる魔王の頭上を睨みつける。

 

 破滅の歌を紡ぐウタ。

 彼女と、目が合った。

 

 失意と寂寞に霞み、激昂と鬱屈に歪む紫の瞳。そこへふいに意志の光が宿る。

 その時、確かに、ウタはシャンクスを見ていた。

 

 

「……ちゃんとやり遂げるから」

 

 詩と旋律の狭間、音の途切れるその刹那、ウタの唇が言葉を紡ぐ。

 

「今度はきっと叱ってね」

 

 

 浮かんだのは寂しげな微笑み。

 トットムジカから噴き出す赤黒い霧がウタを包み込む。

 

 シャンクスは息を呑み、腕を伸ばした。

 

「ウタ!」

 

 叫びは届かない。

 そうして、次の瞬間には、笑みも涙も彼女の姿さえも、何もかもが見えなくなっていた。

 





 タイトルは前回と同じくバッハのカンタータからお借りしました。
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