魔王
ふわふわと頼りない翼、攻撃力に欠ける嘴と鉤爪。綿入りの体はよく跳ねる。
何度も転ぶ同行者をフォローしつつの移動は大変だが、薔薇ふくろうのぬいぐるみは必死だった。
何としてでも能力を解いてもらわねばならない。そうでなければ、全てが手遅れになってしまう。
薔薇ふくろう──ドレスローザ王女、ヴィオラは焦燥に歯噛みする。いや、歯も何もオモチャの身体にそこまでのディテールはなく、冷汗一つかきはしないのだが。
併走する羽根ひつじのぬいぐるみが再び転んだ。顔面から床にダイブしたひつじを翼で抱え上げて立たせてやる。
ひつじを見れば、心なしか目が潤んでいる気がした。オモチャの身体に痛みはないが、羽根ひつじも元は人間。詳しくは確認できていないものの成人女性であろうからして、今の状況はなかなかに苦境であろう。
とはいえ、生身の身体でライブに突入しなくてよかった。そこだけはローとシュガーに感謝せねばなるまい。
ヴィオラはオモチャ化を食らった直後の状況を思い返していた。
◇
「さて、ドレスローザの姫様方。契約書によれば、お前らはおれの雇い主だ」
ウタがライブを開く数日前の海上。
トラファルガーファミリーの船の中でそう宣ったのは、相変わらず顔色が悪く表情の薄い男、トラファルガー・ローである。
訥々と契約書を読み上げるローを他所に、ヴィオラは部屋に備え付けられた大きな鏡を見つめていた。
鏡には二体のオモチャが映し出されている。動きから推測するに、薔薇をさしたフクロウがヴィオラだ。
もう一体は小さな羽根の生えたひつじで、ローの言によれば、彼女もドレスローザの王女らしい。つまりはヴィオラの姉妹、ヴィオラが王太女である以上、順当にいけば妹だ。
自身に姉のスカーレット以外の姉妹がいたとは。全く記憶にない。本当に恐ろしい能力だ。
腹の底が冷える感覚に思わず身震いする。
ヴィオラは釦細工の目を揺らし、能力者の様子を盗み見た。
ローの傍らに佇む少女、名はシュガーと言っただろうか。ホビホビの実の能力者であり、トラファルガーファミリー離反者の一人だ。
色々あり元鞘的にローの下へ戻ったそうだが、彼女ときたらなんとも恨みがましい目でヴィオラと羽根ひつじを見つめている。
元より、シュガーがドレスローザの人間を煩わしく思っているのは知っていた。
ただし、ヴィオラはオモチャに姿を変えている。オモチャとなった者に関する記憶は、シュガー自身の内からも失われているはずだ。
つまり、今回の原因は別にあるらしい。
ライブ前日の昨日、部屋に引き篭もって爆音でウタの曲を延々と流し続け、今も目を腫らしている姿から推して知るべし。
巻き込んでしまった申し訳なさもあり、ヴィオラはシュガーに謝罪した。
もっとも、心の中で、だが。
「……と、いったところだ」
一通り注意事項を読み上げ終えたらしく、ローが契約書を棒状に丸め出す。
「お忍びでライブ観覧、しかも、オモチャ化を受け入れてまでとは平和ボケも甚だしい。父王の苦労が偲ばれるな」
「これ以上若様の手を煩わせたら許さないから。せいぜいライブを楽しめばいいわ」
契約書で掌を叩くローと、涙目のシュガー。主従それぞれ別の私情を感じさせる発言だ。
「エレジアまでは部屋で過ごせ。あまり彷徨くなよ。うっかり踏み潰しでもしたら面倒だ」
一応こちらは雇い主だというのに扱いもぞんざいで、抵抗虚しくローに背中を摘まれ、フルーツ用と思しきカゴに放り込まれた。
文句の一つも言ってやりたいが、それは難しい。
オモチャ化に付随する契約のせいだ。
『──……』
「何、不満なの? ライブに行けるだけでも感謝して」
『…………』
「声出しできないのはあんた達自身のせい。ウタに申し訳なく思うなら全力で飛び跳ねなさい」
シュガーが険のある声音で凄む。今にも舌打ちが飛んできそうだ。なんなら既に歯軋りが聞こえている。
怯える羽根ひつじを撫でて宥めつつ、ヴィオラはため息を吐いた。
その吐息に音はなく、ぬいぐるみの嘴は言葉を紡がない。
オモチャ化時に加えられた契約は二つ。
一つ目はローに迷惑をかけないこと。
二つ目は喋らないこと。
契約は絶対である。
正直、誤算だった。
一つ目はいい。予測もできた。
そもそもローはあれで面倒見がよく、大抵のことでは『迷惑』と言わない。つまり、あってないような制限である。
問題は二つ目。
オモチャ化直後にローが臨時かつ未承諾で追加した『発声禁止』だ。
ライブで声援を送れないからと嘆いている──わけではない。もっと根本的な問題が生じているのだ。
ヴィオラと、おそらく羽根ひつじも。二人の目的はライブ観覧ではない。
エレジアを訪れようと考えたのは、別の理由からだった。
世界の歌姫、ウタ。
彼女の心を視てしまったから。
昨今、世界は騒がしい。
ドレスローザとて色々あった。
復興後の整備、国民からの陳情対応、守りを失った影響への対策、本気を出したリク王による後継教育の厳しさ、世界会議での出来事。
王族の責務に追われる毎日は嵐の様相で、ヴィオラは疲労の極致にあった。
日々撃沈状態の彼女は、束の間の休息にとウタの配信を聞いていたのだ。
だから、知ることができた。
ギロギロの実の能力で直接、彼女の心を覗き視たわけではない。
いかに能力を鍛えたとはいえ、配信越しでは漠然としか把握できなかった。
しかし、それで充分だったのだ。
ライブ直前のカウントダウン配信で、ウタが見せた顔。
いつもの明るい笑顔ではない、凍える瞳。
ウタの笑顔を見ながら、ヴィオラは思い出していた。
とある男が十年もの間被り続けた仮面。
心に渦巻く暗い念を隠す、春霞の笑み。
世界を変えようとする者の覚悟を、ヴィオラはよく知っている。
ライブ直前のウタは、ローとよく似ていた。
何も起こらないならば、それでいい。
だが、ウタが何かを引き起こそうとしているならば、放置するわけにはいかないのだ。
それがドレスローザ王女たるヴィオラの使命。
否、意地だ。
力の行使ではなく対話で。
互いを知り共に歩むことで世界を変える。
八百年の平和を編み上げた歩みこそドレスローザの誇り。同時に、この歩みを続けることこそが、新たな約束でもある。
そして、理由はもう一つ。
全てを一人で背負い込もうとするウタの在り方を、たださみしいと思った。
ヴィオラより若い身空で使命に燃え、誰かを想う心のまま、ローと似た道を歩もうとする彼女を、ただ止めたかったのだ。
しかしながら、物言わぬぬいぐるみの身では対話もままならない。
どうしたものかと悩む中で、ふと思う。
そういえば。
何故、ウタの配信を見始めたのだったか。
ドレスローザは町中に音楽と舞いが溢れる国だ。
わざわざ他所の歌に触れる必要はない、とまでは言わない。
ただ、多忙の隙を縫い配信を見ていたわりに、ヴィオラ自身はウタのファンではなかった。
誰かに勧められたのだろうか。
それが誰であったかを思い出せないし、思い出せないことを不思議とも思えない。
いくらなんでも不自然だ。
思考が横に逸れ始めたことに気付きながらも、ヴィオラは隣り合う同行者へと視線を向ける。
フルーツかごに馴染みすぎている、どこかおっとりとした雰囲気の羽根ひつじ。全く記憶にない妹姫。
彼女がウタのファンで、ヴィオラに配信視聴を勧めていたとすれば、ある程度は辻褄があう。
ヴィオラの視線に気付いたのか、羽根ひつじは全身を傾けた。どうやら首を傾げているらしい。
王族にしてはいまいち威厳に欠ける人物だ。
ぬいぐるみサイズの身体に戸惑った様子もない。
やたらと順応性が高く、受容的であるわりに怯えがち。反応がいちいち愛らしく、もはや御伽話のような雰囲気すら漂わせていた。
もしかすると、妹姫は国民に愛される王女だったのかもしれない。
奔放な姉姫スカーレット、今や名も分からぬおっとりした妹姫。ヴィオラ自身はじゃじゃ馬と称されてきたわけで、ドレスローザ王家はなかなかの後継者難に見舞われてきたと思える。
ローの苦言もあながち外れてはいないな、などと自戒しつつ、ヴィオラは今後の対策を練り続けてきたわけだが────
迎えたライブ当日。
恐れていたことが起きてしまってから、ヴィオラはずっと怒り通しであった。
ウタにではない。
トラファルガー・ロー、あのトンデモ革命家にである。
まず、意図的な情報封鎖。
羽根ひつじはヴィオラの妹姫などではなかった。
ライブが始まり、ローの能力で書庫と思しき場所へ隔離されてから、ヴィオラと羽根ひつじは話し合った。
発語ができないため、書物の文字を指しての迂遠なやり取りを重ね、やっと分かったのだ。
羽根ひつじの名はマンシェリー。
ドレスローザのグリーンビットに住まう、トンタッタ族の姫君である。
ローは『ドレスローザの姫様方』などと言っていた。あれは間違いなくわざとだ。
契約書以外にメモを用意していたあたり、あからさまに意図的である。ロー自身は記憶を無くしても、メモがあれば情報は残る。
ヴィオラとマンシェリーが姉妹でないことくらい、ローは理解していたはずだ。
情報を伏せた真意はわからないが、おそらくは時間稼ぎだろう。チユチユの実の能力者であるらしいマンシェリーを足止めするために、策を講じたに違いない。
妹姫と思い込んでいればヴィオラはマンシェリーの無茶を止める。
例えば、マンシェリーがシュガーを気絶させて能力を解除させようとしたならば、ヴィオラは制止しただろう。
何が起こるか分からないのだから、同じ王位継承者として、さらには姉としてマンシェリーを律するのは当然だった。
まあ、実際のところは、怒り狂うヴィオラをマンシェリーが止めていたのだが。
護衛難度を下げるためなどと嘯いて、ヴィオラ達をオモチャ化させた理由もわかった。
書庫にはネズキノコ、そして悪魔の実の能力に関する資料が数点残されていたのだ。
察するに、ウタウタの実の能力の影響下から外すために、ヴィオラとマンシェリーをオモチャに変えたらしい。
そういえば、ローはこんなことも言っていた。
「どうせなら最後まで楽しみたいだろ。おれも努力するが、もし失敗しても怒るなよ」
てっきりライブ中の護衛のことかと思っていた。今思えばあれは単に『最後まで眠らず歌を聴けるようにする』という意味だったのだろう。
あの男、最悪だ。
命をなんだと思っているのだろうか。
世界中の人々、そして救世を志した歌姫が、目の前で死に瀕している。それを止めるでもなく、あまつさえ自身も服毒するなどと。
苛立ちが募るあまり、床を蹴るフェルトの足に力が籠る。
現在、ヴィオラとマンシェリーは、トラファルガーファミリーの船に匿われていた。
大きな音がして何事かと外を覗き見れば、見たこともない巨大な怪物が暴れ回っている。
しばし呆然としていたヴィオラだったが、結局、再び走り出した。
目指すは船内別室、シュガーの下である。
何にせよ、今は人間の身体と言葉を取り戻さなければ。
何が出来るかはわからない。
だが、自身に出来る全力を尽くすために、ヴィオラとマンシェリーはオモチャの身体を走らせるのであった。
◇
沢山の音が聞こえる。
ウタ自身の中で溢れる懐かしい旋律、記憶に染みついた鍵盤の音、波が弾ける音、星の堕ちる音、人々の声。
その全てを自身の歌声が塗りつぶしていく。
「枯れ果てず湧く願いと涙 解き放つ 呪を紡ぐ言の葉」
腕を一振りすれば軍艦が弾け飛び、一歩進めば人垣もろとも包囲網が崩れる。
指を弾くたびに花やオモチャ、そしてご馳走が溢れ出して海に沈み、堕ちる星々は音符兵ごと海賊達を打ちのめした。
現実とウタワールド、そのどちらにおいても、ウタとトットムジカの敵はいない。
もうすぐだ。
もうすぐ、全てが終わる。
湧き上がる歓喜と憤怒。誰のものであったかも分からないほど古い憎悪。ウタには覚えがない嫉妬や羨望まで。全ての感情が飽和して歌の形を為していた。
喉を震わせる旋律がトットムジカへ伝わり、破壊の熱となって世界の壁を穿ち貫く。
「────! ──ウタ、聞け!」
ルフィが何か叫んでいた。大きく膨らんだ拳を唸らせてトットムジカを殴りつけ、吹き飛ばされてもまた立ち上がり、ウタの名を呼んでいる。
現実では、シャンクスが刀を振るっていた。トットムジカによって弾かれた斬撃がかまいたちとなって近くの小島を破砕する。
シャンクス達のいる現実。
ルフィ達の抗うウタワールド。
暴虐の音と破滅の嵐が吹き荒れる二つの世界は、いまやトットムジカにより繋がっていた。
「ᚾᚨᚺ ᛈᚺᚨᛋ ᛏᛖᛉᛉᛖ ᛚᚨᚺ」
ウタは絶え間なく歌を紡ぎ、争いの様を眺める。思考はまとまらず、見える景色の全てがカーテン越しの月影のようだ。
淡く、遠い。
ぼんやりと瞬き、腕を伸ばした。
トットムジカの鍵盤の腕が人々を打ち据え、海面を根こそぎ薙いでいく。
ああ、違うのに。
傷付けたいわけではない。
だけど、抵抗しなければ。壊さなければ。終わらせなければ。
歌わなければ。
拳を握りしめ、ウタは大きく息を吸った。
再び歌い出そうとしたその時だ。
ウタワールドの空中、トットムジカの上に立つウタよりもさらに高い空から、何かが降ってくる。
ウタの足下に転がったそれは何の変哲もないコップだった。
ぼんやりとした思考の中、無意識にそれを拾い上げる。僅かな抵抗を感じ、ウタは眉を顰めた。
「何?」
見れば、コップの裏から糸が垂れ下がっている。弛んだそれに触れた瞬間、糸が強く引かれてぴんと張った。
ウタワールド内でウタが怪我をすることなどない。それでも反射的に糸から指を遠ざけてしまう。
糸の伸びる先を確かめようとして、ウタは目を見張った。
音が聞こえる。
淡く、遠い、ぼやけた音が。
「ピアノ……」
トットムジカとルフィ達が繰り広げる戦闘音に紛れて鳴るその音は、ウタが手にしたコップから響いている。
例えるならば、水の中で鳴る音叉。揺らぎながらも確かに広がる音だ。
海辺で拾った貝殻へそうするように、ウタは左耳をコップへと近付けた。
基本に忠実な旋律がウタの鼓膜を震わせる。聞き慣れた調べは甘やかに膨らみ、時折優しく戯けてトリルを刻んだ。
鍵盤を叩く指の形まで思い出せるほどそばにいた大切な音色。
最後の一音が鳴った。
繋がる糸の先、ピアノが一台。
演奏者は遠くてよく見えない。
だが、見えなくても分かる。
この音を、ウタは知っている。
「ゴードン?」
知らず、唇がその名を呼んでいた。
連弾用の椅子からゆっくりと立ち上がる彼の姿を見ようと、トットムジカの上で身を乗り出す。それでも見えない。
もどかしさにウタは叫ぶ。
「ゴードン!」
ウタの意識が逸れたからか、トットムジカは沈黙していた。迎撃を止めたウタと魔王にルフィ達が困惑していることにも気付いている。
何がどうあっても新時代を創るために歌い続けるべきなのだろう。そうでなければ、ウタの歌には意味がない。
分かっている。再びエレジアを滅ぼそうとしているのだ。許されないことだと、ウタが一番知っている。
それでも。
今はただ、たった一人の無事を確かめたい。
『ウタ、聞こえるかい?』
不思議な糸電話からその声が聞こえた時、呼吸が止まるかと思った。うまく息が吸えなくなり、胸に手を押し当てる。
返事をしようと何度も口を開くのに言葉が出ず、ひしゃげた空気の音だけが溢れた。感情をやり過ごそうと震える息を吐き出すも、肺が引き攣って嗚咽が漏れてしまう。
咄嗟に口を押さえた手の甲を、温かな雫が伝った。
ああ、よかった。
いきていてくれた。
涙が堰を切ったように溢れる。
安堵のあまり膝をつき、ウタは泣き出していた。
『すまない、ウタ。追い詰められていくお前を知りながら、私は何もできなかった』
かぶりを振る。
ゴードンは何の縁もゆかりもない、危険な子どもをそばに置いて育ててくれた。自らも傷付き、失い、恐れながら、それでも隣にあろうとしてくれた。
それがどんなに難しいことか。
音楽に逃げ込み続けたウタにはよく分かっている。
突然、手にしていたコップがばらけ、全て糸となって解けた。驚き見れば、ピアノもまた姿を消している。
ゴードンを守るためか、彼のそばには数人の海賊が集っていた。
常の彼ならば気後れしているであろう状況にあって、ゴードンはただ真っ直ぐにウタを見上げている。
「ウタ、お前は訊いたね。古の魔王を見たことがあるのか、と。そうとも、私がトットムジカを見るのはこれで二度目だ」
ゴードンが声を張り、これまでひた隠しにしていたエレジア滅亡の事実を語り出した。
エレジア最後の夜、トットムジカによる破壊、赤髪海賊団との約束。それら全てを彼は打ち明ける。
ウタは沈黙したまま、ゴードンの話を聞いていた。
エレジア滅亡の真実は、映像電伝虫で見た通り。シャンクスとゴードンの誓いについてははじめて知ったが、薄々そんなことではないかと思っていた。
改めて一番の被害者の口から聞くと、なんとも酷い話である。
それなのに、ゴードンは言うのだ。
「全ては伝承を甘く見た私の罪。シャンクス達はただお前の未来を思い、何も言わずに去ったのだ」
真実に騒めくルフィ達には一切構わず、ゴードンが一歩を踏み出した。
「シャンクスが来ているのだろう?」
ウタは苦く笑う。
さすがゴードンだ。シャンクス達を心の底から信じている。それはウタにはできなかったことだった。
「少しは話せただろうか。もしまだならば、今一度、彼らの言葉を聞いてほしい。きっと、お前を心配している」
ウタとトットムジカが危険であることを、ゴードンは世界の誰よりも知っているはずだ。
しかし、彼はもう躊躇い一つみせずに歩みを進め、真摯に語りかける。
「お前が一人で背負いこむようになったのは私のせいだ。私が未熟で卑怯なばかりに、お前を孤立させてしまった」
「…………」
「今のエレジアにはシャンクスがいる。ルフィ君もここにいる。私も……もう逃げない。だから、何もかも一人でやろうとしなくていいんだ」
ゴードンから少し離れた場所にルフィが佇んでいた。その目はトットムジカではなく、その上に座すウタを射るかのように真っ直ぐだ。
ルフィもまた、赤髪海賊団を信じていたのだろう。かつて子ども騙しの嘘をついたシャンクスを嘘ごと受け入れ、疑うことなく、ずっと憧れ続けているのだ。
離れていても、同じ海を旅している。
同じ夢をみて、約束を共にしてきた。
結局のところ、ウタだけがその船から降りてしまっただけなのだろう。
いつのまにか、ライブ会場は静まり返っていた。
トットムジカを警戒し続けている者、明かされた真実に戸惑う者、焦りを堪える者。様々な思考が混ざり合い、重たい沈黙が流れている。
ウタは溜め息を吐いた。
「ねえ、ゴードン。私、全部、知ってたよ」
「……やはり、そうか」
「今まで黙っててごめん。どうしていいか、分からなかったの」
“海賊嫌い”などとあだなされるウタを、ゴードンはどんな気持ちで見ていたのだろう。
怒ったり呆れていたわけではなく、むしろ哀れに思っていたかもしれない。そして、嘘を吐き続けていることに自責の念を募らせていたのではないだろうか。
本当のところは分からない。訊くつもりもない。
だが、ウタの知るゴードンはそういう人だった。
もはやなり振りかまわず、ゴードンが駆け寄ってくる。トットムジカの上にいるウタへ、届くはずもないというのに優しい腕を伸ばしている。
「ごめんね」
ウタが指を振るえば、音符の槍兵達がゴードンの前に立ち塞がった。
傷付けるためではない。あらゆる危険から彼を守るためだ。
ゴードンには新時代が始まるまで、安全な場所で待っていてほしい。幸せになってほしいと心の底から思う。
それなのに、なぜ。
なぜ、彼の頬は濡れているのだろうか。
「ウタ、もういいんだ。お前まで嘘を吐き続けなくていい。人々のためではなく、ウタ、どうかお前自身のために──……!」
ゴードンが音符兵に阻まれて膝をつく。嗚咽混じりの訴えは感情の昂りに耐えきれず言葉をなくしていた。
居ても立っても居られず、ウタはトットムジカから離れて海面へと降り立った。
ウタの爪先とゴードンの涙、それぞれが生み出した波紋が揺らいで溶け合う。
ウタは首を下げたトットムジカを、ゴードンは固唾を飲んで見守るルフィ達を。不穏な沈黙を背にしながらも、二人は初めて本当の意味で向き合っていた。
「ウタ、もうやめてくれ……!」
大きな背中を丸めて震えるゴードンは、すっかり小さくなってしまったように思える。
萎れた花のような姿を見ていると、ウタまで悲しくなった。
衝動のまま、項垂れたゴードンに駆け寄ろうとして、すんでのところで堪える。
ウタの沈黙を糾弾と受け取ったのだろう。ゴードンは海面へと額を押し付け、呻くように続けた。
「一人で辛かったろう。すまなかった。お前に罪はないと分かっていたのに……ウタウタの力を恐れるあまり、お前をこのエレジアに閉じ込めてしまった」
ウタは唇を噛み締めた。
違う。
むしろ逆だ。
ウタが、ゴードンを閉じ込めた。
もとより、ゴードンはウタとは違い、孤独とは縁遠い人間だったはずだ。偏見もない。誰からも愛される誠実な人であったのだろう。
ゴードンは立派な国王で、音楽と国民を心から愛していた。
だからこそ、彼は無茶な約束を引き受けた。
ウタの存在がゴードンから選択肢を奪ったのだ。
ウタは長い溜め息を吐き、口の端を上げる。
「私、嬉しいんだ。ゴードンが生きててくれて安心した」
しゃがみ込み、顔を上げたゴードンと目を合わせる。かつて、彼がウタにそうしてくれたように。
「ねえ、ゴードン。もう大丈夫だよ。新時代が始まってしまえば、怖いことなんか何もないの」
瞬きもせずウタを見つめるゴードンの目。サングラス越しでさえ優しいその眼差しがじわじわと翳っていく。
これからウタが何を言わんとしているのか、彼には分かるのだろう。十二年も共に過ごしたのだ。全てお見通しに違いない。
「自分勝手でごめんね。今更気付いたんだ、あなたが大切だって」
ウタは苦く笑った。
「私、やっぱり、ゴードンには幸せになってほしい」
「私は充分幸せだった。お前のそばで成長を見守って、共に音楽を奏で、それだけで幸せだったんだよ!」
「駄目。外も、私の傍も危険だから」
縋るように言い募るゴードンを制止して目を伏せる。
「大切なものはね、宝箱に仕舞っておくんだよ」
今度こそ守るのだ。
シャンクスとゴードンがそうしてくれたように、今度はウタがゴードン達を守る。
辛い現実からも、ウタ自身からも。
誰にも傷付けさせたりしない。
ウタは立ち上がった。
「待ってて。もう嘘なんか吐かなくていい。怯える必要だってなくなるよ。怖いバケモノはあなたの目の前からいなくなるんだから」
軽く地を蹴れば身体が浮かび上がる。トットムジカの上へと戻ったウタは地上を睥睨した。
泣き崩れたゴードンを支えるルフィの仲間達。彼らとは少し離れた場所でトットムジカを見上げているルフィ。ライブ開始時に暴れた海賊達。警戒するコビーに、彼の仲間らしき人。
幸せを奪う海賊はいらない。
平和を守らない海軍はいらない。
恐怖を与えるバケモノはいらない。
彼らもウタも、全て旧時代の悪だ。
ローが言っていた。悪い人間が悪党というわけではない。悪行をした人間が悪というわけでもない。善悪を決めるのは世界だ。
ウタワールドでそれを決めるのは。
優しい人を守るのは────
足に巻きつけたベルトからナイフを取り出し、左手で握りしめる。その拳を胸に押し当て、誰にも聞こえない小さな声でウタは呟いた。
「勇気を、出さなきゃ」
脳裏を過ぎるのは黒衣の男。
彼は実際悪党で、たくさんの人を辛い目に合わせていたのだと思う。
だが、本当に悪であったかは、また別なのだろう。
今になってわかる。
あの黒は、しるしだ。
罪を自覚できるよう、そして、罪のない人々が悪を避けられるように、ローは徴をつけていた。
ウタは目を見開き、声を張り上げる。
「悪い人には悪い印を。大海賊時代の影は私と一緒に消えてもらう!」
嵐が吹き荒れ、五線譜の風がルフィ達に巻き付く。それは魔法のように彼らの衣装を黒く染め上げ、星屑となって消えた。
ウタの翼もまた黒く染まる。
綿飴色の海の上で、その色はひどく目立っていた。
ここはウタワールド。
新時代の一つ手前、優しい夜と残酷な朝が交わる最後の場所。
今ここで、地続きの現実を断ち切り、繰り返してきた歴史を終わらせる。
一片のシミですら許してはいけない。
黒は全部消して、過去も全部終わらせる。
そして、ここから始めるのだ。
真っ白な新時代を。
ウタは大きく息を吸った。
「ᚷᚨᚺ ᛉᚨᚾ ᛏᚨᚲ ᚷᚨᚺ ᛉᚨᚾ ᛏᚨᛏ ᛏᚨᛏ ᛒᚱᚨᚲ」
歌声に呼応し、魔王が首を擡げる。
虚ろな目に暗い光が灯り、噴き上がる黒の音符がその身を包んだ。
『────────!!』
咆哮が響き渡る。
空間ごと引き裂く様はまるで羽化。
黒い翼を羽ばたかせ、トットムジカが今、最後の産声を上げた。
◇
巻き起こる突風と波に誰もが身を伏せる中、ただ一人、青年が逆らい立ち上がる。
黒の外套がはためき、烙印めいた海賊帽が吹き飛ばされても、彼の身体は揺らがなかった。
青年の眼差しは魔王ではなく、破滅を歌い続ける歌姫へと注がれている。
一度は死んだと思っていた相手だ。
再会できて嬉しかった。
昔とは違う形であれ、幼馴染の彼女が同じ夢を追いかけていることに安心もした。
それなのに、彼女は────
青年は拳を握りしめる。
奪われ、引き裂かれた麦わら帽子。
それはきっと、彼女にとっても大切なものであったはずなのに。
大切なものを、彼女自身の思い出と憧れ全てを壊さなければならないならば、ここは自由ではない。
二人の目指した新時代は、こんなものではない。
「だってお前、泣いてたじゃねェか」
青年は一人、呟く。
拳一つ当てることのできない青年を見つめる時。
青年に嘘を吐いた時。
麦わら帽子を壊した時。
歌いながらも、今もずっと。
幼馴染の彼女は、子どもの頃には見せたことのない涙を流し続けていた。