ウタワールドと現実、世界の狭間。
魔王が断末魔を上げて解けゆく様を、ぼんやりと眺めていた。
消えていく。
離れていく。
聞こえなくなる。
形をなくし、繋がりも絶え、小さな音の群れとなってただ消えゆく終わりの形。散り散りになるその声を見送りながら、ウタは瞼を閉じる。
夢現の中で、ウタは思い出していた。
エレジア最後の夜。
トットムジカの楽譜がウタのもとに現れる、その少し前のことだ。
エレジアの町を一望できるテラスで、シャンクスと二人、他愛もない話をしていた。
隣に並び、遠く美しい街明かりを見下ろしながら、シャンクスが微笑む。
シャンクスと同じ景色を見たい。
そう思ったウタは少しだけ背伸びをして、星のように光瞬く街並みを眺めていた。
「なァ、ウタ。この世界に平和や平等なんて存在しない」
「ん?」
「だけど、お前の歌声だけは、世界中の全ての人達を幸せにできる」
いつもそうだ。
普段はおちゃらけているのに、時々、シャンクスは難しい話をする。
平和だとか、平等だとか、世界だとか。
そういう話をする時、決まってシャンクスはウタを見ていた。
今もまた注がれる眼差しを見返し、ウタは首を傾げる。
「……何言ってるの?」
一つ微笑み、シャンクスが囁いた。
「いいんだぞ。ここに残っても」
どういう意味だろう。
少しの間、冒険をお休みするのだろうか。
理解できずウタが見上げれば、シャンクスは微笑んだままだった。
いつも戯けてばかりいるくせに、その目は真っ直ぐにウタだけ見つめている。
シャンクスはウタと目線を合わせるようにしゃがみ込み、そして────
「世界一の歌い手になったら迎えに来てやる」
そう、静かに告げたのだ。
ウタは驚いて目を見開く。
分からない。
どうして、そんな目で見るのだろう。
眩しい光を見るような、
消えゆく夢を見送るような、
そんな優しい眼差しで。
触れられるほどそばにいるのに、確かにウタを見つめているはずなのに、シャンクスの瞳はどこか遠い場所を見ているようだ。
このままシャンクスが消えてしまいそうで、ウタは声を張り上げた。
「バカ! 私は赤髪海賊団の音楽家だよ! 歌の勉強と、シャンクス達と離れるのは!」
声が震える。
言葉にしてしまえば、それが本当になってしまうようで。
広い世界の真ん中に一人置いて行かれてしまったような、ひどく頼りない心地がした。
「離れるのは……!」
涙が滲み、視界がぼやける。
身体が強張って手を伸ばすことすらできない。
シャンクスが遠くなっていく。
置いて行かないで。
たった一言。
本当の気持ちを伝えられないまま、ウタは泣き出した。
「そうか、わかった。そうだよな。明日にはここを発とう」
そう言って、シャンクスは強く抱きしめてくれる。言葉もなく泣きじゃくり、ウタはその胸に縋りついた。
ずっと、一緒だと思っていた。
同じ船で旅をして、同じものを見て、どこまでも共に行けるのだと信じていた。
けれど、シャンクスはきっと────
何故、そんなことを考えてしまうのか分からない。分からないけれど、ウタは確信してしまった。
抱きしめてくれるこの腕も、いつかは消えてしまう。
今は確かに聞こえるこの胸の音も、いつかは聞こえなくなる。
この気持ちはなんだろう。
胸に穴があいたようで
凍えてしまいそうで
頼りなくて、悲しくて、恋しくて
そうだ。
これはきっと──……
夢と現実の狭間。
消えゆくトットムジカの声を抱きしめ、ウタは囁いた。
「なんだ。あんたもさみしかったんだね」
◇
気がつけば、岩にもたれて空を見上げていた。
トットムジカの消えた空は、もう夕焼けの赤に染まり始めている。
駆けてくるシャンクスの気配を感じ、立ち上がろうとしてへたり込む。せめて笑顔をと思い顔を上げれば、咳と共に血が溢れた。
胸元を汚す赤を見下ろしていると、力強い腕に抱き寄せられる。
潮と埃の匂い。懐かしい海の香り。
「シャンクス」
名を呼ぶ声は掠れていた。
身体は鉛のように重く、ほとんど動かない。
霞む視界の中、抱き止めてくれるシャンクスの温もりだけが確かだった。
「シャンクス、私……」
「喋らなくていい。ホンゴウ、薬を」
ホンゴウが近くに来てくれたのだろう。薬の封を切る音がして、口元へと瓶が近付けられる。
「これを飲んで眠ればまだ助かる」
抑揚の抑えられたホンゴウの声から様々なことが察せられた。
赤髪海賊団の皆は最初からウタの計画を知っていたこと。ネズキノコの解毒薬を手に入れ、エレジアへ駆けつけてくれたこと。
この薬を飲んでも、助かるかどうかは分からないこと。
「私……私、皆に──」
本当に、これが最後かもしれない。
そう感じた瞬間、ウタは何とか唇を動かそうとした。だが、喉元を迫り上がってくるのは血の塊ばかりだ。
寒い。
怖い。
何も言えないまま、死んでしまうのが怖い。
泣きそうになるのを堪え、身体を動かそうと踠く。シャンクスの腕が一瞬強張って緩み、しかしさらに力を込めて支えてくれた。
上体を起こしたウタに、ホンゴウが促す。
「無理をするんじゃない。先に薬を飲んでくれ。頼む」
シャンクスとホンゴウの向こう側、ライブ会場のある方向がざわついている。ファンの皆はまだ眠っているはずなのに、数多の人間が争う気配がした。
見えたのは、口元を隠した背の高い男。
彼は痩身白髪の女性に襲いかかられている。しかし、彼は交戦しようとはせず、三叉槍を自身の背に回して後退した。
その目は大切な人を傷つけたくないと物語る。
「魔王を倒したというのに、何故!」
焦燥に満ちた声を上げる三叉槍の男の周りでは、未だ眠る観客達がゆらゆらと蠢いていた。
うまく抵抗できない海兵達を数人がかりで押し倒し、力のこもらない拳を出鱈目に振り上げては下ろす。
まさか。
まさか、まだ、ファンの皆は。
周りを気にするウタの視界を覆うように、シャンクスが自身の顔を近付けてきた。
「あとはおれ達に任せて、今は眠るんだ」
微笑むその唇はぎこちなく、ウタは理解してしまう。
ああ、まただ。
十二年前のように、また。
シャンクス達は、ウタの罪を背負おうとしている。
何も言わず、何も知らせずに、ウタを守ろうとしているのだ。
全身に力を入れる。
無理矢理腕を持ち上げ、薬瓶をそっと押し退けた。
血反吐を溢して醜態を晒しながらも、ウタは告げる。
「ごめんなさい、ホンゴウさん。これは、ローさんにあげて。黒づくめの人。あの人もネズキノコを食べてるから」
「何を言うんだ! 早く解毒しないと、お前は!」
「分かってる。だけど今は飲めない。皆を元の世界に戻さないと」
身体が痛い。血も止まらない。上手く踏ん張れないものだから、瓦礫に肩を押し付けて無理矢理立ち上がる。
岩肌に背中を預けて息を整え、最初の一歩を踏み出した。
止めようとしたのだろう。
腕を伸ばしてくるシャンクスへ、かぶりを振る。
「これは、私にしかできないことだから」
膝が笑って真っ直ぐに歩けない。足の力だけでは進めないから腕を伸ばそうとしてよろける。
だが、進める。
一歩ずつ前へ。
正直、立っているのがやっとだ。
意識だって今にも飛んでしまいそうだった。
それでも、この身体はまだ動く。
ライブ会場全体へ声が届く場所を目指し、ウタは歩を進めた。段差を登ろうとして躓き、耐えきれずに大量の血を吐き出す。
シャンクスが駆け寄ってきた。
視線が合う。
その目はみっともなく足掻くウタを見ていた。
見ていてくれた。
それだけで、充分だった。
こんなときなのに嬉しくて、ウタは笑ってしまう。
「ねえ、シャンクス」
「うん?」
「もう一度、言って。私でも皆を幸せにできるんだって、信じさせて」
血で唇を汚しながら甘えるウタを見つめ、シャンクスが唇を緩めた。
エレジア最後の夜と同じ笑みを浮かべ、彼は告げる。
「お前の歌声は、世界中の全ての人達を幸せにできる」
その眼差しはあの夜と同じ、眩しいものをみるような、去り行く夢を見送るような儚さを滲ませていた。
しかし、それでも、彼は今のウタだけを見ていてくれる。船出を信じて、見送ってくれているのだ。
本当に幸せだった。
笑みが溢れ、奥底から力が湧き上がるような気さえする。
シャンクスが差し伸べてくれた手を取り、ウタは瓦礫をよじ登った。
小さな鳴き声が聞こえて前を見る。懐かしい尻尾を揺らすモンスターが、配信用の電伝虫を携えてそこにいた。
良かった。
世界中に、人々の心に歌を届けることができる。ウタワールドにも、取り残された現実にも、この声は届く。
夕凪前、最後の風がウタの前髪を揺らした。
これが最後になるだろう。
“世界の歌姫”でも“海賊嫌い”でもない、“世界を壊すバケモノ”にもなりきれず、“赤髪海賊団の音楽家”にも戻れないまま終わる。
新時代を目指し皆を幸せにしたいと願う、ただのウタ、最初で最後のラストライブ。
怖くはない。
不安もない。
ウタは空を見上げた。
赤い赤い、夕焼け空。
空だけでなく海までも染める赤。
エレジアで暮らすようになってから、この時間が一等好きで、かなしいほど恋しかった。
思い出すのは、皆ではしゃいだ宴の時間。
指笛の音。
シャンクスの髪の色。
全部が全部、ウタの宝物で、灯火だ。
心の中に音楽が溢れて止まらない。
これが自分の歌なのだと、心が叫んでいる。
本当の音が全身を駆け巡り、心臓が強く鼓動を打った。
歌える。
今ならば、きっと。
息を吸う。
「どうして あの日遊んだ海の匂いは──」
紡ぐのは、赤髪海賊団の皆を思って紡いだ『世界のつづき』。
終わらない夜と明けない朝、寂しい世界で、誰かに届いてほしいと願うばかりの小さな音。
ずっと忘れられなかった。
遠い海の先に、シャンクス達が行ってしまったこと。
ずっと信じられなかった。
この広い海の向こうに、誰かがいること。
ウタが最初に聞いたのは微かな叫び。
小さな星が瞬くような遠い光。
「信じられる? あの星あかりを 海の広さを」
今ならば分かる。
誰もが皆さみしさを抱えながら、生きていること。溺れそうになりながら、それぞれの灯火を抱きしめて一人一人の夜を生きていること。昇らない太陽を待ち望み、暗い夜に打ちのめされてばかりで、それでも小さな声を上げていること。
「どうして よせる波に隠れてしまうの」
この広い海をこえてウタの歌が届いたのは、ウタの才能や努力のおかげだけではない。もちろん、ウタウタの能力のせいでもない。
皆がウタを見つけてくれた。
きっと大海賊時代に対する怒りや苦しみだけではないのだ。
誰かを呼ぶ声が届かない、空いたままの胸の穴から全てが流れ出てしまいそうな、そんなさみしさが皆の心の中にあったから。
「信じてみる この路の果てで手を振る君を」
信じられる。
この海の向こうで皆が生きていること。
おなじ孤独を抱えている皆だから、ウタの声に気付いてくれた。
応えてくれた。
幸せを知って、思い出して、いつか夜明けはくるのだと信じてくれた。
そんな皆に、ウタは応えたい。
伝えたい。
この歌はあなたに届く。
あなたの声もまた、届いているのだと。
人々が眠り、静けさを取り戻したライブ会場に、金色の光が立ち昇る。
それはきっと人々の心。
幸せを願う小さな星達を集めた光の川。
惑う星々を誘い、送り出すようにウタは微笑み、空へと手を伸ばした。
大丈夫。
朝は来る。
だから、今は眠って。
優しい夢の中で、少しだけ休んで。
そして────
「夢のつづきで共に生きよう 暁の輝く今日に」
最後のフレーズを歌い切る。
もう誰も怯えていない。苦しんでいない。
ウタは微笑み、崩れ落ちた。
◇
トットムジカが消えたウタワールド。
取り残された人々が困惑し絶望する中、ルフィはただ静かに待っていた。
やがて聞こえ出した歌声は、あまりに優しく、美しい。
「ウタだ。ウタの歌声だ……」
ゴードンが流した涙を掬うように、光の粒が舞い踊る。
明けない夜を思い出させるばかりの暗闇に降り注ぐ光の雨。それはウタワールドに満ち満ち、隅々まで届いて皆の灯火となった。
トットムジカに心ごと取り込まれた人々。彼らの傍に留まる光は、まるで夜道を誘う星のように瞬く。
傍に流れてきた光がルフィの指先に灯る。
揶揄うように周り、するりと遠ざかっては振り返るその光。
懐かしい歌声。
「ウタ」
名を呼ぶルフィへ応え、光は煌めいた。
美しく気高い、ルフィの知らないウタ。
目を離した隙にどこかへ行ってしまいそうで、光を捕まえようと、ルフィは手を伸ばす。
しかし、首を振ってやめた。
閉じ込めてしまうのは嫌だった。
どんなに離れがたくとも。
もう二度と、会えなくても。
やがて光は集まりゆき、一際強い輝きを放つ。
それはまるで遠い地平線に輝く暁の光。
朝日に照らされるように、世界は白く染め上げられていく。
目を閉じたルフィの耳に届く、懐かしい声。
「ねえ、ルフィ」
目を開けると、そこは円形の白い建物の中だった。
骨組みだけ残った屋根から降り注ぐ光の中、ウタが問いかける。
「なんで殴らなかったの? 私のこと」
「おれのパンチはピストルより強いって言っただろ」
「えー? 昔はやってきたじゃん、へなちょこぐるぐるパンチ!」
「あれは本気じゃねェ」
「出た、負け惜しみ!」
ウタの言う通りなのかもしれない。
殴らなかったわけではないのだ。
ただ、殴れなかった。
ルフィにとってのウタはどこまでいってもあの日の少女のままで、同じ憧れを共有して歩み続けている最初の友達だったから。
ウタは笑っている。
全部やり終えてしまったような、清々しい顔で。
ルフィが黙り込んでしまったからか、ウタが困ったように眉尻を下げた。紅白に結い上げた髪もまた萎れている。
ルフィへと近付いてきた彼女は小さな声で囁いた。
「大きくなったね、ルフィ」
顔を上げる。
二人の差は少しだけ。ウタの方が僅かに目線が低く、だが背伸びするほどでもない。彼女は後ろ手に手を組み、戯けてみせた。
「背も高くなって、びっくりしちゃった」
「おれだってびっくりした」
「私が死んだと思ってたから?」
答えない。答えたくない。
また口を閉ざせば苦笑される。
昔のように年上ぶるウタを見つめ、ルフィは首を振った。
否定しているわけではない。ただ、認めたくなかっただけだ。
今だって、認めたくなかった。
「これからどうすんだ」
「うーん……ここで歌うよ」
「誰も来ねェんだぞ」
「そうかな。分からないよ? 迷子になって来ちゃう人とかいるかもだし」
円形に設えられたベンチへ腰掛け、ウタが戯ける。隣に掛けたものの、ウタの軽やかな様子が気に入らず、ルフィは低く唸った。
「お前はこんなとこで歌えねェ」
「はァ? 誰に向かって口聞いてるのよ。私は世界の歌姫、どこでだって最高の歌を歌えるんだから」
「知らねェ!」
ウタの言葉を遮り、ルフィは声を張り上げる。
「お前は赤髪海賊団のウタだろ? 世界のなんちゃらなんてヤツ、おれは知らねェ!」
拳を握りしめたまま首を振る。歯を食いしばって膝を殴りつければ鈍い痛みが走った。
苦しくて胸が軋む。
現実と夢の狭間、夜明け前のひととき。この場所であっても、痛みも苦しみも本物なのだ。
ずっとこんな場所に一人でいて、歌など歌えるわけがない。
自由になれるわけがない。
きつく握った拳にウタの手が添えられる。その袖口、左手の甲に描かれたウタのマークが目に入った。
「これ、おれが描いたやつだよな」
「気付いた? 何度見ても下手くそだよね」
黄色の雪だるまに赤のリボンが巻かれたような不思議な印。そこにウタの名が重ねられている。
元となっているのは、幼い頃にルフィが描いてあげた、シャンクスの麦わら帽子だ。
今見れば不恰好だが、そんなことはどうでもよくて、二人の大切な物を描いた絵だから喜んでもらえると思っていた。
柔らかく笑ったウタがマークを撫でる。
「新時代をつくるって考えた時、どうしてだかこれが頭に浮かんじゃってさ」
二人の秘密。
二人の新時代。
大切な記憶が、ウタの中にも息づいている。ウタもまだ、大切に思っている。
それなのに何故、ウタは足を止めようとしているのだろう。
限界なのだ。
分かっている。
ウタは命をかけて事を成そうとして、間違って、それでもなお悩んで、最後まで足掻ききった。
もうこれ以上は無理なのだろう。
心も身体も、使い果たしてしまったのだろう。
それでも。
だからといって、諦めていいはずがない。
諦めきれていないから、まだ歌うのではないのか。
ウタの両手の上に掌をのせる。
細い指を壊してしまわないように、それでも、逃してしまわないように。
ウタが不思議そうに首を傾げた。
「ルフィ?」
逃げたいのなら追わなかった。
消えたいのなら掴まない。
だけれど、今のウタは無理をしている。
本当の心を隠して、一人だけ大人になってしまおうとしているのだ。
「ウタ、行くぞ」
ルフィはウタの手を無理矢理掴んで立ち上がり、足早に歩き出した。
「なァ、出口どっちだ?」
「出口とかそういうことじゃなくて、私を連れてちゃ出るものも出られないんだけど」
「おれは出る!」
「いや、だから、あんた一人なら普通に出られるんだってば!」
ルフィは振り返りもせずにずかずかと歩く。
足取りの調子や身体の大きさこそ昔と違えど、フーシャ村で遊んだ時もそうだった。
自分の世界が一番だなんていいながら、時々さみしそうな目をしていたウタ。
その手を引いてまわるのはルフィの役目なのだ。
「ちょっと、離して」
「嫌だ。残りたいなら勝手に逃げればいいだろ」
「そうしたいけどさ!」
「できねェのか? お前、夢の中なら最強なんだろ?」
「何よ、このくらい……待って、あんたってば馬鹿力すぎない?」
「へーん、マケオシミ!」
ウタを引きずるように歩いていると、突然視界が開ける。どこか違う場所へ出たのかと思ったのだが違った。最初の広間と同じ空間だ。
「ほら、わかったでしょ? 私は出られないの」
手首を押さえ、宥めるようにウタが言う。
彼女はベンチへと掛け直し、自身の隣を指して続けた。
「無駄なことしてないで少し話そうよ」
「無駄じゃねェ」
「いいんだよ、ルフィ。私はここから出られないけど、大丈夫」
降り注ぐ白い光を浴び、ウタは空を仰ぐ。
「もう知ってるんだ、私の歌は世界に届くって。私が消えてもそれは変わらない」
確信に満ちた言葉だ。
そのくせ、強がりの声だった。
それが嫌で嫌で、悲しくて仕方なくて、ルフィはベンチへどかりと腰を下ろす。
ルフィは再びウタの手を取って問う。
「これからどうするんだ?」
「だから……私はここで」
「お前ならどこでだって歌えるんだろ。なら、ここじゃなくていいじゃねェか」
目を瞬いたウタが困り顔で首を振った。
「もう、わがまま言わないでよ。わかるでしょ? 私はもう……」
「そんなことは訊いてねェ。ウタ、ここじゃねェなら何がしたい?」
掌に力を込める。
閉じ込めるためではない。
聞いていると伝えるために。
ルフィはウタを見た。
ずっと、見ていた。
紫の目が瞬き、ルフィを見つめ返す。
「私、私は──」
両手を挟まれて動けないまま、ウタが口を開いた。そして、言葉に詰まり、唇を震わせる。
彼女は何度も何度も息を吸い、俯いて首を振り、それでも逃げずに言葉を探しているようだった。
長い沈黙の後、ウタが顔を上げる。
涙の滲んだ目を真っ直ぐにルフィへと向け、彼女は絞り出すように呟いた。
「……あやまりたい」
声を震わせ、ぼろぼろと涙を零しながらも、ウタは本当の言葉を吐き出し続ける。
「謝りたいよ。傷付けちゃった皆に謝りたい。怖がらせてごめん、辛い思いをさせてごめんなさいって伝えたい。でも、そんなの駄目でしょ?」
「駄目じゃねェ」
「駄目だよ。怖い私が皆と一緒にいたら気が休まらないもん。また何かされるって怯えさせちゃうし……正直、私も怖い」
「何かすんのか?」
「しないよ! こんな形で世界を変えようだなんて今は思わない」
「じゃあいいじゃねェか」
よくはない。
黙っていない奴らが多いことはルフィでも知っている。
それでも、ウタが一人で全部を背負ってここで泣くのは嫌だ。
幼い頃、自由な新時代を夢見ていたウタ。ルフィより少し先を走って憧れを追い求めていたウタ。
他でもないウタを、終わらない時代の狭間に置き去りにするなど、嫌に決まっていた。
ルフィには仲間がいる。
夢がある。
だから、ウタの手を引いてはいけないし、ここに留まり続けるわけにもいかない。
だが、現実にはシャンクス達がいる。
「帰ろう、ウタ」
「無理だよ」
「無理じゃねェ。シャンクス達も、ここにいたおっさんも何とかしようとしてるはずだ」
頬を濡らす涙を拭いもできず、ウタが俯いた。子どものようにかぶりを振り、彼女は呟く。
「どうしてそんなこと分かるのよ」
「娘が泣いてるのに、シャンクスが放っておくわけねェ」
反論はない。
ウタにも分かっているのだろう。
「お前、まだ歌いたいんだろ?」
「……うん。でも、私、怖いでしょ?」
「おれ、お前のそういうところ、嫌いだ」
「え?」
傷付くでもなく、ウタは呆然とルフィを見ている。その目を睨み返しルフィは言った。
「おれ達がどう思ってるか勝手に決めつけて、勝手におれ達を助けようとして……それで、勝手にいなくなる」
ルフィの言葉に顔を歪ませ、ウタが涙を溢す。
「ごめん」
「許さねェ」
「なんで……」
「なんでもかんでもねェ! 許さねェったら許さねェ!」
頑として譲らないルフィを見つめ、泣き疲れた顔でウタが呟いた。
「いじわる」
「勝手に言ってろ」
「ばか」
「なんだとこんにゃろう! 馬鹿っていう方が馬鹿なんだぞ!?」
肩を寄せ合い、二人は昔のように話す。
意味はなくてオチもない、ただただ未来だけが続く話。
「本当に許してくれないの?」
「本当ったら本当だ」
「本当に?」
「また歌ってくれたら、ちょっとは考えてやる」
「あんなに歌ってあげたのにまだ欲しがるんだ?」
「さっきまでのは違う! おれが聞きたいのは昔みたいな……」
船が戻ってきた時に鳴らされる指笛の音。そのメロディを聞いた途端、いつだってルフィは元気になれた。
一人で待つ退屈やさみしさを全部投げ捨てて駆け出していけば、シャンクス達とウタが港にいる。それだけで飛び上がるほど嬉しかった。
フーシャ村の夜、ずるをして勝負に負けたくせに上機嫌だったウタ。心底楽しげで、どこまでも自由で、冒険の匂いがする歌。
誰かのためだけに紡がれるのではなく、世界丸ごとを抱きしめて飛び跳ねるような、ウタの歌。
ルフィはウタの歌が大好きだった。
「おれ、お前の歌が聴きたい」
「またね」
「またっていつだ」
「またはまただよ」
最後に小さく笑ったウタが空を見上げた。
「そろそろお別れだね」
そう言って、ウタは身体を引いて立ち上がる。
ルフィの掌の中にあった彼女の手がするりと抜けた。
僅かな温もりだけが残る手を握り締め、ルフィもまた立ち上がった。
ウタが指を振るう。
魔法のように現れた麦わら帽子は、彼女が引き裂いたままの壊れた状態だった。
ほつれた裂け目をウタがなぞる。それだけで帽子は元の形を取り戻した。
「はい、これ。返す」
「……おう」
「ね、シャンクスから預かったって本当?」
「本当だ。嘘なわけねェだろ」
帽子を受け取ったルフィを眺め、ウタが微笑む。
「羨ましいな」
ウタは眩しいものを見るような目をしていた。
何故か懐かしい気がして、ルフィは言葉に詰まる。
見覚えがあるわけではない。
ただ、身に覚えがあったのだ。
小さい頃、シャンクス達と一緒に船へと登っていくウタの背中を眺める時、ルフィはずっと思っていた。
羨ましい。
いつかきっと自分も、と。
ウタはもう、自身の未来を見ていない。
その目はルフィに全てを託すように瞬き、輝きをたたえて潤んでいる。
信じているのだ。
夜明けは来ると。
たとえ、その目で未来を見れなくても。
「あのね、ルフィ。許さなくていいよ」
「…………」
「私、自分勝手だからさ。ここでずっと応援しててあげる。あんたのこと、ずっと」
花が咲き誇るように笑い、ウタは両腕を広げた。
「だから、行っておいでよ! 麦わらのルフィ!」
ルフィは俯き、帽子を目深に被る。
滲んだそれを見られないように。
魔法のように元に戻った麦わら帽子。
だけれど魔法というならば、ウタの魔法は本当はもっとすごいのだ。
ルフィは知っている。
大人げなく馬鹿をやる大人。賑やかすぎて他人の話を聞かない海賊達。酒を飲めばすぐに酔っ払って時には裸で寝てしまうようなだらしのない男共。
そんな赤髪海賊団の面々が、ウタが口遊めば一瞬で静かになって酒ではなく歌に酔いしれる。
怒ってばかりの村長も、忙しく働く店主も、ルフィも、皆が皆、ウタの歌であたたかい気持ちになっていた。
傍にいると囁く心地よい優しさ。
一人でいる時に手をそっとひかれるようなあの気持ち。
きっとあれを幸せというのに。
ルフィは静かに顔を上げた。
その目に涙はなく、決意だけが宿っている。
「なァ、ウタ。おれ、もう行くな」
「うん」
「待ってるぞ」
ウタが目を丸くした。
瞬く紫を覗き込めば、怯えと迷いが見え隠れする。
迷っているだけならば帰ってくるはず。
信じるのは勝手だ。
ルフィはウタの左手を取り、強く握った。
新時代のマーク。
変わらない、二人の憧れの形。
ウタに告げる。
「最後はウタ、お前が決めろ。ここに残るか、生きて帰ってくるか」
手を離した。
名残惜しくともそうすべきだと思った。
無理矢理手を引いていっても、意味がないのだ。
ウタの表情から戸惑いが消える。
新時代のマークをなぞる手に微かな力がこもるのを見届け、ルフィは目を閉じた。
◇
穏やかな波の音。
慣れ親しんだ芝生の感触を背中に感じ、ルフィは身を起こした。
「よく寝てたな」
酒瓶を手にしたゾロが顔を上げる。
見渡せば、ルフィ以外の全員が目を覚ましていた。それぞれの定位置につき、サニー号の上でいつものように過ごしている。
全てが夢であったかのように静かだった。
空には満天の星が広がり、波は緩やかに船を沖へと運んでいく。
「ウタは? シャンクスも──」
ルフィの問いにゾロが酒瓶を持ち上げる。
その示す先を振り返れば、宵闇に溶けるように遠ざかる船影が見えた。
甲板には懐かしい影が集っている。
胸が掴まれたように苦しくなり、それでもルフィは顔を上げた。
いつかまたきっと会える。
いや、会いにいく。
遠ざかるレッド・フォース号に背を向け、ルフィは前方に広がる海を見渡した。
「待ってるからな」
今はただ、進むのだ。
前に、前に、もっと早く。
ただ留まって待つのではない。
そんなさびしい待ち方をしていては、また勘違いをさせてしまうだろうから。
大切な帽子を被り直し、麦わらのルフィは更けゆく夜空を見上げ続けていた。
タイトルはエルガーの同曲よりお借りしました。