その歌を聴くことができたのは、本当に偶然だった。
今から三年ほど前のこと。
トンタッタ族の姫、マンシェリーはドレスローザのセビオ教会にある小屋を訪れていた。
「こんにちは、お邪魔します」
「また来たの、お姫様」
「はい、また来ました!」
マンシェリーが笑顔で挙手すれば、小屋の管理人が溜め息を吐く。
「別にいいけど。子ども達の相手をしてくれるなら、滞在を許してあげる」
そう言って、管理人は部屋の中央を指し示した。
そこには数体の動くオモチャがいて、各々自由に過ごしている。
絵を描いているトカゲのオモチャ、小さな工具で城の模型を組み立てる木彫りのくま、ままごとに興じているらしいネズミと犬のぬいぐるみ。
マンシェリー姫の来訪に気付いた彼らは、特別に設えられた本棚の近くに移動した。
「妖精姫さま、こんにちは」
「はい、こんにちはれす」
口々に挨拶をしてくれるオモチャ達に微笑み、マンシェリーは背中に隠していた本を取り出す。
「じゃーん、これなーんだ」
「もしかして……?」
「そうれす! 新作れすよ!」
取り出したるは『怪盗“D”シリーズ』、その最新作である。ドレスローザで流行った手描きの絵本を原案とする、巷で人気の冒険活劇だ。
今やドレスローザだけでなく全世界に愛読者のいる名シリーズの、小人族用冊子である。
「今日はこれを読んであげましょうね」
「やった! ありがとう、姫さま!」
トカゲのオモチャが飛び跳ねる。歓声を上げる子ども達を見て、マンシェリーも嬉しくなった。
この小屋はオモチャの家だ。
正確に言えば、オモチャの子ども達が暮らす場所、らしい。
マンシェリーがここを訪れる理由は二つ。
一つは、小屋から地下に下った“眠りの家”、そこで花の手入れをする友人を待つため。
もう一つは、オモチャの子ども達と遊ぶためだ。
今日も地下の扉の向こうでは友人が働いている。
マンシェリーは頬に手を当て、ふるりと首を振った。彼の姿を思い浮かべると、自然と顔が熱くなってしまうのだ。
ほんのり赤く染まったマンシェリーの頬を見つめ、ネズミのぬいぐるみが笑った。
「今、レオさんのことを考えてたでしょ」
「えっ? どうして分かるのれす?」
「私も乙女だもん。それでそれで、シンテンは? “D”もいいけどコイバナもききたいな」
「もう、からかわないれほしいれす!」
おませなネズミに突かれて、マンシェリーは恥じらいのあまり身悶えする。
やや特殊な光景ながら、これもまたドレスローザの日常であった。
読み聞かせを始めようとしたマンシェリーの耳が、微かな雑音を拾う。
それは部屋の片隅、ローが子ども達のために持ち込んだという、映像電伝虫から聞こえてきた。
『──える? だれか──いて』
子ども達とマンシェリー、そして管理人。小屋にいた全ての者が顔を上げ、スクリーンへと映し出された映像に気付く。
「なに?」
「だれ?」
「どこだろう」
「女の子かな」
ピントのぼけた映像の中で、誰かが話していた。
苔の生えた石畳、遠くに海を臨む噴水の前。真昼の陽光に照らされているのに、人の気配のない不思議な町並み。
その中央に少女が立っている。
少女は胸の前で手を握りしめて俯いていた。蝶々結びのような紅白の髪はどこか頼りなく項垂れ、よく見れば足も小刻みに震えている。
彼女は一目見て分かるほどに緊張しており、ひどく怯えているようにすら見えた。
『私の──が、あなたに──』
ぼそぼそと話す声は掠れていて聞き取りにくい。だからこそ、小屋にいた者は皆、映像の少女の言葉へと耳と心を傾ける。
少女が顔を上げた。
一際強く光る紫の瞳。
輝きに吸い寄せられるように、オモチャ達が立ち上がる。
『じゃあ、歌うね』
少女の言葉を頭が理解する前に、その歌は響いていた。
それはまるで風。
木々を柔く揺り起こし、花々の香りを伝えてくれる優しさ。鳥を大空へと運び、遠く知らない国の海の青さを教える調べ。
彼女の歌を聴けば、それだけで、煌めく太陽の下で跳ね回っているような心地がした。
どこまでも行ける。
どこへだって行ける。
だけれど、自由な風も凪の中では行き先を見失い惑う。夕焼けに隠れ見えない星へと語りかける、ひとりぼっちの音もまた、そこにはあった。
寄り添い合い、共に夜を待ちたくなるような、優しく悲しい音。
無伴奏で一人歌う少女の声に、全ての者が聞き入る。
少女の歌は豊かであたたかく、そのくせさみしげな響きを伴っていた。
その声はいまだ緊張に震えて、身体など微動だにせず強張って棒立ちのまま。不安のあまりか、眦には僅かに涙が浮かぶ。
それでも彼女は歌うことをやめない。
やがて、唇は最後のフレーズを紡ぎ、ゆっくりと閉じた。
少女は深く吐息を落とし、前へと進み出る。
映像越しであるはずだというのに、その一挙手一投足から目を離せず、マンシェリーは固唾を飲んで見守った。
映像電伝虫のすぐ傍で、少女が囁く。
『最後まで聴いてくれてありがとう』
映像がふつりと途切れた。
静まり返っていた小屋でオモチャ達の声が弾ける。
「なに、今の! すごい!」
「ふわふわする……もう一度ききたいな」
口々に喋り出すオモチャ達に囲まれ、マンシェリーもまた胸の高鳴りを感じていた。
素晴らしいものをみた。
そうはっきりと確信する。
突如動き出した映像電伝虫、聴いたこともない豊かな音楽、初めて見る少女。全てが謎に包まれているというのに、危険や不安など一つも頭に浮かばない。
ただ、あの歌にまた触れたくて、胸が温かくなるのに苦しかった。
本をぎゅっと抱きしめたマンシェリーは、ふと小屋の管理人へと視線を向ける。
小屋から一歩も出ずに閉じこもり、冷たい態度ながらマンシェリーの来訪を拒まない、赤ずきんを着込んだ少女。
彼女はいつも食べているグレープを一粒取りこぼし、呆然と涙を溢していた。
悲しいわけではないのだろう。むしろ、自身が何故泣いているのかも分からないのかもしれない。
乱暴に涙を拭った彼女はマンシェリーを見返し、きつく目を眇めた。
「何よ。今の、あんたが流したの」
「え、私じゃないれすよ。てっきり、管理人さんが子ども達に見せてくれたのかと」
「違う」
かぶりを振り、管理人は映像電伝虫へと近付いた。マンシェリーやオモチャ達もつられて傍に集まる。
電伝虫は念波を飛ばすことで交信する。本来、人の改造を受けた種は番号などで相手を特定して通信するはずだが、この映像電伝虫は違うようだ。不特定の相手と交信できる野生種に近いのだろうか。
どうやら新種らしく、ドレスローザの広場などに住む映像電伝虫よりも格段に小さい。しかも、取り付けられた機器により、映像の記録まで残されているようだった。
「つまり、またさっきの歌を聴けるってこと?」
嬉しそうに飛び跳ねた木彫りのくまを制し、管理人が釘を刺す。
「今は駄目。危険がないか、若様に確認してからじゃないと」
「ええ!? やだやだ! 今聴くの!」
駄々を捏ねる犬のぬいぐるみを抱きしめ宥めてやりながら、マンシェリーは管理人の横顔を盗み見た。
眦は赤く、涙の跡が残るあどけない顔。そこには微かな期待が滲んでいるように思える。
マンシェリーは微笑んで尋ねた。
「危険がないと分かったら、また私も聴きに来ていいれすか?」
「好きにすれば。どうせ断っても来るんだから、何か言うだけ無駄でしょ」
吐き捨てる声にもいつもの鋭さはない。どうやら、先程の歌が相当に気に入ったようだ。
「さあさあ、みんな、お歌はまた今度れすよ。次はこの本を読みましょう」
騒ぐオモチャ達の注意を『怪盗“D”』で引きながら、マンシェリーは本棚の前へと移動する。
ネズミのぬいぐるみが少し俯いていることに気付き、そっと声をかけた。
「どうかしたのれすか?」
かぶりを振ったネズミは釦細工の目を揺らし、小さく呟く。
「なんでもないの。ただ……この身体は本当に涙も出ないんだなって、思っただけ」
「…………?」
「気にしないで。それより早く本を読んでほしいな。楽しみにしてたんだ!」
顔を上げたネズミが明るい声を出した。飛び跳ねて喜びを表現する彼女に他のオモチャ達が賛同する。
ネズミの様子が気にはなったものの、子ども達に急かされ、マンシェリーは持ってきた本を開くのだった。
思えば、あれが初めてだった。
今や世界の歌姫と称されるウタも、最初はただ、自身の歌を誰かへと届けたい少女だったはずだ。
羽根ひつじのオモチャへと姿を変えたマンシェリーは、薔薇ふくろうのオモチャと共に飛び跳ねる。
『────! ────!?』
「何。何が言いたいの」
『────』
「泣いてなんかないわよ」
世界中に響くウタの歌。
人々のために永遠の夜と優しい夢を願った彼女が、満身創痍の姿で最後まで歌い通した夜明けの歌。
それはここ、トラファルガーファミリーの船にも届いていた。
初めてウタの歌を聴いた日のように涙を流すシュガーを見上げ、声なきマンシェリーは懸命に訴えかける。
伝えなければ。
応えなければ。
一人歌ったあの子に。
あるいは、マンシェリーの力が必要になるかもしれない。
そう思い、シュガーに能力を解いてもらうべく、マンシェリー達は奮闘する。
◇
良かった。
心の底からそう思い、ウタは吐息を溢す。
皆の心を解放できた。
随分と迷惑をかけて怖がらせてしまったけれど、今は皆、優しい夢の中で夜明けを待っているはずだ。
倒れたまま動けないウタをベックマンが抱き上げてくれる。僅かに目を細め唇を引き結ぶ彼を見上げ、ウタは目を伏せた。
赤髪海賊団の皆を悲しませてしまう。
それが申し訳なかった。
ベックマンはウタを抱え、眠るルフィの傍まで連れて来てくれる。既にそこには懐かしい顔ぶれが集結していた。
皆、変わらないようで変わっている。髪型、身体付き、傷。十二年の歳月を表す変化は彼らの生きた証だ。
記憶や想像の彼らとは全然違い、なんだか笑えてしまった。
ルフィの傍に下されたウタは視線を落とす。
眠る幼馴染の顔を覆う麦わら帽子、シャンクスが彼に託したという宝物。
ウタワールドで引き裂いたそれに、現実では手出し一つできなかった。
「みんな、大丈夫だよね」
呟くウタの肩をシャンクスが支えてくれる。
「ああ」
「ここで、みんな、生きていける?」
「ああ、人間はそんなにヤワじゃない。それに、新時代は目の前だ」
シャンクスの眼差しはルフィへと注がれていた。
あの麦わら帽子は本当に、シャンクスからルフィへと託されていたのだ。
ならば、もういいだろうか。
ウタの夢を知る彼に全てを託しても。
もう、手放してもいいのかもしれない。
視界が暗くなる。
身体が傾ぎ、ただ座っていることすら難しい。
抱き寄せてくれるシャンクスに身を預け、ウタは空を見上げた。
夕陽の赤がじわじわと色を深める。オレンジの雲に灰色が混じり、風のない空で立ち止まっていた。
星は見えない。
まだ、一つも。
ウタの容態を確認しようとしたのか、近付いたホンゴウの眉間に皺が寄る。薬瓶を握ったままの手に力が込められた。
「ホンゴウさん、お薬、ありがとう。飲めなくてごめん」
かぶりを振ったホンゴウが深く息を落とし、ゆっくりと囁いた。
「この薬はトラファルガーに渡せばいいか?」
「いらねェよ。あと三日は保つと言ったはずだ」
ウタの耳に、ここ数時間で聴き慣れてしまった靴音が届く。
かつり、と。
わざとらしく来訪を報せるその音は、赤髪海賊団の輪の外で止まった。
「海軍は帰ったぞ」
凪の声が告げる。
シャンクス達が訝しんでいることに気付いたのか、その声はさらに続けた。
「どこぞの革命家がデカいヤマを動かしてな。死にかけの小悪党に構って四皇と小競り合いする暇も余裕もねェそうだ」
ルウとホンゴウの間を分け入って進み出たローがウタを見下ろす。
「約束だからな。最後まで付き合うし、後の面倒は見てやる」
ローが左腕を振るう。青い被膜が広がり、ウタと赤髪海賊団を覆った。
神経を張り詰めさせた四皇の一味を無視し、ローは金の瞳を瞬かせる。どこまでも見通すような目が僅かに翳り、伏せられた。
何も言わない彼を見上げ、ウタは問う。
「ローさんってお医者さまなんだっけ」
「そうだな」
「今のは診察?」
「ああ」
ウタではなくホンゴウを見上げ、彼は答えた。その顔はウタから見えないものの、赤髪海賊団の皆の表情から理解してしまう。
もっとも、自分自身でもわかっていた。
もう、薬を受け付けるだけの体力がない。今、解毒薬を飲んだところで、毒を重ねる結果にしかならないのだろう。
「そうだ。ローさんのナイフ……」
「勝手に拾った。気にするな」
「そっか、良かった」
軽く咳き込めば血が溢れた。シャンクスが指で拭ってくれる。
「帰るか」
ウタは頷いた。
懐かしい船に帰ることができると思うと、胸が苦しくなるほど幸せだった。
「腕、大丈夫? 重いでしょ」
「大丈夫だ。落とさないから安心しろ」
シャンクスに抱え上げられ、ウタは進む。
あの夜、遠ざかっていった船影。夢の中で何度も何度も思い返していた。
レッド・フォース号は今、再び目の前に現実のものとして姿を現す。
「ただいま」
ウタが呟けば、シャンクスの腕に力がこもった。
「おかえり、ウタ」
スネイクが笑う。ウタが頷けば、彼は鷲鼻を赤くしながら鼻を啜り、口の端を上げてみせた。
十二年の間に身体も随分と厳つくなったように思えたが、笑顔も癖も昔のままだ。
「邪魔するぞ」
「若様、ちょっと待って! 何してるの!?」
当然のようについてくるローの後ろから、彼を呼び止める声がした。
駆けてくるヒールの音は軽く、声は高いが男性のようだ。
シャンクスが振り向いたことで、追って来た声の主がウタにも見えた。
頭にツノのある帽子を被った背の低い少年がタラップの傍に立っている。彼は顔を真っ赤にしてローを睨みつけていた。
「まさか、ウタについていくとか言わないよね?」
「そのまさかだが」
「なんで!?」
「約束だからだ。デリンジャー、お前も来るか?」
「なんでそうなるの? 行くけど!」
地団駄を踏んで叫んだ少年は即応してレッド・フォース号へ乗り込む。
「お邪魔するよ」
行儀がいいのか悪いのか、微妙な挨拶を繰り出した少年がローの袖を掴んで捕獲した。
赤髪海賊団の面々を睨み向けて威嚇する少年の頭を軽く叩き、ローがその場に腰掛ける。
「お前らの邪魔をする気はねェ。ただ、可能な限り、苦痛は取り除かせてもらう」
「そりゃあありがたいが……何故だ?」
シャンクスの問いに、ローの眉根に僅かな皺が刻まれた。
「何故? 当然の処置だろうが」
ウタに対する態度とは明らかに違う。妙に険のある声に、ウタやシャンクスだけでなく、ロー側の少年ですら目を瞬いた。
本人も自身の変化に気付いたのか、彼は袖口で口元を覆って俯く。それきり彼は黙り込んでしまった。
能力による観測は続けるようで、ウタを中心に青い被膜が広がる。
赤髪海賊団の面々は顔を見合わせた。ウタがかぶりを振れば、彼らは肩を竦めてそれぞれの配置に着く。
刻一刻と沈んでいく太陽に見送られ、レッド・フォース号はエレジアを後にした。
遠ざかっていく島の気配。
すぐそばにある波の歌。
近付いてくる、別れの足音。
シャンクスに支えてもらい、ウタはただその温もりを享受する。
たくさん話したいことがあった気もするけれど、皆を前にすれば言葉は消えてしまった。
絡まった糸が解けるように、あるいは根雪が溶けるように、皆のそばにいるだけで全てが正しく進んでいるように思えてしまう。
幼い頃のウタはこの安心と少しの罪悪感を、幸せと呼んでいた。
だが、もうそれも終わり。
視界が眩み始め、息すら億劫で、身体を起こしていられない。
ウタの変化に気付いたシャンクスが薄く唇を開く。しかし、彼は何も言わずにウタを抱き寄せ、全身で支えてくれた。
血で汚れた口元をローが綺麗に拭ってくれる。本人は近付いてこないまま能力で布を操り、ついでに水分補給までさせてくれるのだから、いかにも彼らしい気遣いだ。
ちゃんと話せ、と。
ローはそう伝えているのだろう。
だが、何を話せばいいのか、もうわからないのだ。
空はまだ橙色に染まり、太陽が名残惜しげに輝いている。まだ眠るには早いとでもいうように、赤く、赤く。
ぼんやりと息をしながら、ウタは思い出す。
幼い頃の約束。
遠く儚い一番星。
「……星、見たかったな」
思いは何故だか口に出ていた。
自分でもよく分からない我儘を言ってしまい、苦笑する。
無理だ。
自分の身体のことは理解している。感覚はひどく遠く、そのくせ全身を裂くような痛みが続いていた。
むしろ意識があることの方が不思議なほどだ。
きっと死は星より先に訪れる。
いつの間にか、黒衣の男が傍に立っていた。
「それがお前の望みか」
死神じみた出で立ちと顔付きはそのまま、ローが低く問う。どことなく不機嫌な様子でしゃがみ込み、彼は繰り返した。
「それがお前の望みなら、手がないこともないぞ」
「何、言ってるの。無理だよ」
「無理じゃねェ。おれは医者で、延命は専門でも趣味でもねェが、技術的には可能だ」
シャンクスが顔を上げる。その横顔を一瞥し、ローはさらに言葉を重ねた。
「あくまで延命だ。治療じゃねェ。苦しみを引き伸ばすだけだ。それでもいいなら──」
「いい」
ウタは一も二もなく頷く。
だって、これが最後だ。みっともなくとも、卑しくとも、躊躇う余裕など微塵もなかった。
ウタの態度が面白かったのか、あるいは気に入ったのか。黒衣の男は微かに唇を緩める。
「いいか、小悪党。星見程度で満足してるんじゃねェぞ。海賊の娘ならもっと大胆に吹っかけろ」
「え?」
「お前達には夜明けを見せてやる」
ウタは言葉をなくし、瞬きを繰り返した。
ローは何と言ったのだろうか。
夜明けとは何だっただろう。
十二年も待ち続けたそれは、随分と遠い言葉になってしまった。
「やめてよ。そんな、今更」
ウタが編み上げたのは醒めない夢。
終わらない幻と明けない夜。
幾度朝が巡っても、太陽は消えたまま。
痛みと不安を抱き、叶わない願いに焦がれて、人は生き続けている。
過去の記憶と現実に打ちのめされるくらいなら、いっそ夜明けなど来なくていい。
暗い時の中でウタを見つけてくれたファンの皆のためにも、優しい夢の続く新時代を作ろうと思った。
だけれど、逃げ込める場所を探していたのは他の誰でもないウタで。
そんな自分が、今更掌を返して別の未来を求めていいはずがない。
「夜明けなんて、駄目に決まってる」
ウタは呟く。
人々の自由を祈った。安寧を、平穏を、誰もが幸せになれる世界を求めた。
だが、そんな場所はどこにもない。
この世界の中には。
だから、永遠の夜を創った。
辛い現実を覆い隠し、逃げ込める永い夜。
優しい夜に楽しい夢を羽織ったならば、そこはもう苦しみも寂しさもない新時代であるはず。
そう信じたかった。
だが、ウタは知っているのだ。
ウタの作る新時代にシャンクス達はいない。
彼らが求めたのは自由。
夜通し続けた馬鹿騒ぎの先、容赦なく昇る朝日に照らされ、身勝手な文句を垂らしながら笑う自由をこそ、彼らは愛している。
そうだ。
ウタが本当に望んでいたのは──
「だめだってわかってるのに……!」
ウタは顔を歪めた。いざ、自分の本当の望みを見つめてしまったら、もうどうしようもなくなってしまったのだ。
あともう少しで逃げ切れた。忘れたふりをし続けて、そのまま消えてしまえばいいと思っていた。
叶わない願いを抱える痛み。
張り裂けそうな胸の痛みから目を背け、ずっと逃げ続けてきたのに。
本当は、ウタだって望んでいた。
新時代を求める気持ちと同じくらい、強く強く望んでいた。
ただのひととき、ほんの一瞬でもいい。
あの夜の続きを。
エレジアの永い夜を越え、シャンクス達と同じ朝日を、と。
「トラファルガー」
シャンクスが小さな声でローを呼んだ。
応えはない。ただ、耳を傾けている気配だけは感じる。
「おれからも頼む。ウタの願いを叶えてやってくれ」
「────……」
「もう一度だけでいい。おれ達もウタと共に朝日を見たい」
絞り出された声はあまりにも切実で、まるで秘め続けていた願い事を告げるかのように苦しげだった。
驚きのあまり、ウタは息もできずにシャンクスを見つめる。
シャンクスもまた、ウタを見ていた。
何一つ見逃したくないとでも言うように、ただひたすらに真っ直ぐな目がウタを見ていた。
「ウタ、もう少しだけ頑張れるか?」
優しく問いかけるシャンクスに戸惑う。
遅れて頷けば、彼はくしゃりと顔を歪めた。
「さすがはおれ達の娘だ」
それは幼い頃、誇らしげに告げられた言葉。いつまでも、どこにいても変わらない愛の形。
「シャンクス、私……」
視界が滲む。
もっとよく見ていたいのに、もうお別れなのに、シャンクスの顔が見えない。
それでも分かるのだ。
彼がどんなにウタを思っていてくれたか。
今、赤髪海賊団の皆がどれほど苦しい思いでいるか。
「ごめんなさい、シャンクス」
涙が溢れてきて息が詰まる。溺れてしまうような気がしてシャンクスのシャツを掴んだ。
「ごめん。信じ切れなくてごめんなさい。ゴードンに、世界中のみんなにも、ひどいことをしてごめんなさい」
一度口にしてしまえば、驚くほど呆気なく言葉は流れ出た。
「ゴードンもシャンクス達も私を守ってくれたのに、私が全部だいなしにしちゃった」
そうだ。
赤髪海賊団はウタのために離れただけ。ウタを守るために“悪い海賊”になった、ただそれだけ。
知っている。
何も変わっていない。
海賊のことはわからない。だが、赤髪海賊団の皆のことは知っている。
お宝に冒険。自由と誇り。
友のために力を尽くすこと。
彼らの愛する全て。
期待されていると思っていた。
平和も平等もないこの世界で、誰一人取りこぼさず、等しく、人々を幸せに導く歌を歌う人間になるように。
友達を助けられる、立派な人になることを望まれているのだと、ずっと思い込んでいた。
だが、きっと違ったのだ。
シャンクスや赤髪海賊団の皆が、本当に望んでいたのは、他の誰でもないウタ自身の幸せだった。
幸せな未来を望まれていた。
自ら泥を被ってでも、遠く離れ二度と会えなくなっても、ただひたすらに。
夢の中でも、否、夢が醒めた今もそうだ。
何一つ、嘘などなかった。
ウタは愛されている。
これまでずっと、あの頃と変わらずに。
「シャンクス、みんな、助けてくれてありがとう。ずっとずっと会いたかった。会いに来てくれて……本当はすごく嬉しかったの」
瞼が重くなってきた。眠気があるわけでもないのに、目を閉じてしまいたくなる。
「迎えに来てくれて……止めてくれて、ありがとう」
うまく息もできず、もし海の中に落ちたならばこんな感じだろうかとぼんやり思う。
「こんな私のこと、愛してくれてありがとう」
ああ、よかった。やっと言えた。
ウタは微笑む。
「みんな、大好きだよ」
苦しい。
苦しいけれど、幸せだった。
手を伸ばす。
シャンクスの頬に指が触れた。
潮風で少し荒れてざらついた肌。
ずっと求めていた温もり。
あたたかい。
「シャンクス、泣かないで」
◇
トラファルガー・ローが特殊な処置を始め、数時間が経過した。
本当ならとっくに失われていたはずのウタの命は、今もまだ細く繋がっている。
ロー曰く、局所的な時間遅延。純粋な医療技術ではなく、オペオペの能力とウェザリアの技術を組み合わせた延命術らしい。
二年前の頂上戦争の際も使用し、ルフィとジンベエの命を辛くも繋いだ技だという。
繊細な能力操作を要し、激しい体力消費を伴うため、保たせても半日が限界だと、黒衣の医師は語った。
「何故、そこまで」
そう問うたベックマンに対し、トラファルガー・ローは答えた。
「世界の歌姫には恩がある。本人にも言ったが、ささやかな恩返しとでも思ってもらえばいい」
「だからといって、命を賭けるほどではないだろうに」
「馬鹿にしやがって。この程度、片手間だ」
顔面蒼白で鼻から血を流しながら吐き捨てられては、赤髪海賊団の面々も黙るしかない。
ウタの視界に入って無理を気取られないようにだろう。彼は甲板の片隅で声を大にし、傲岸に言い放つ。
「お前ら親子が揃って口下手だから時間が必要だと判断した。まったく、いい迷惑だ」
ローからは鼻で笑われ、彼の世話を焼く少年からは涙目で睨みつけられた。
根も葉もない非難とは言い難く、耳に痛い指摘だ。
かくして、赤髪親子は十二年ぶりに話し始めるに至ったのである。
シャンクス達は甲板で車座になって空を見上げていた。
既に太陽は落ち、頭上には暗闇が広がっている。
言葉少なにこれまでの話をした。
十二年の歳月を埋めることはできない。それでも、ウタがねだるからと、冒険の話をした。
見たこともない島や文化、世界中の不思議について。果ては戦いや傷、失ったものまで。
ウタはもう大人だ。子どもの頃のように危険や苦痛を奪い上げることはもうできなかった。
そうして、どれくらいの時間が過ぎただろう。
夜明け前、空は一層暗く、広い。
ウタが身じろぎし、シャンクスの手に触れた。
シャンクスはすっかり大人になった娘の細い指を握り返す。
記憶と違い、その手はひどく冷たかった。
「シャンクス、いたいよ」
「どこが痛い? さすってやるから教えてくれ」
ウタの目が潤んでいる。
喉が苦しみを飲み下すように上下し、途切れそうな息を何度か吐き出して震えていた。
「手」
「手?」
「手、いたい」
慌てて指の力を緩める。
「まだ痛いか?」
「うん……まだ、ちょっと」
「すまん」
「シャンクス、ちからつよいよ」
「すまん」
指の力をさらに抜いた。
これ以上力を弱めれば離れてしまいそうだ。
「まだ駄目か?」
「ううん、ありがとう」
「いや……」
「……どうしたの?」
「うん?」
「だって、変な顔してるから」
「これ以上力を弱めたら、お前の手がすり抜けちまいそうだ」
「なにそれ、おかしいの」
すり抜けていく。
ウタの細い指がすり抜けていく。
それが恐ろしかった。
そう、ずっと恐ろしかったのだ。
昔からそうだ。
離さないようにと掴むほどに痛みや苦しみを与えてしまうばかりで、そんな自分が堪らなく嫌だった。
争い事や血筋。そんな馬鹿げたものに己の愛した者達を巻き込むのが嫌で嫌で、だが手放すのは恐ろしくて。
それでもいつかは。
いや、まだ少し。
もう少しだけ。
繋がりを手放さないように目を光らせ、別れを先延ばしにした。
なんとも醜い執着だ。
己の血がそうさせるのか、そんなわけはないと何度言い聞かせても疑いは消えない。
だからだろう。
エレジア崩壊の夜、本当は少し、ほんの少しだけ安堵した。
宝物を手放すための理由が出来た。
できてしまったのだ、と。
否、こんな自分でも、真っ当な理由があれば大切なものを見送れるのだ、と。
心のどこかで安堵してしまった。
決断は正しかった。海賊業、ましてや元海賊王のクルーであるシャンクスの危険な日々に、ウタを巻き込み続けるわけにはいかなかった。
なにより、ウタの才能を掌の中に閉じ込めることは出来なかったのだ。
それは彼女の幸せを奪っているのと同然なのだから。
だが、たとえば。
トットムジカが目覚める前にウタを説得できていれば。いや、それよりもずっと前、もっと早くに手放せていれば。
この十二年の間、ずっと。
繰り返した失敗の日々を振り返り、帰らぬ夜を思い返しては、何度も後悔をしていた。
ウタが呟く。
「みんな、見て」
「ああ」
「ほら、あそこ。星が見える」
「ああ」
本当のところ、ウタの目に見えなかっただけで、星はずっと前から姿を現していたのだ。
シャンクス達はそれに気付いていながら黙っていた。
ウタの目がもうよく見えていないことを理解していたのだ。
一等輝く明るく大きな星。
その光を見上げ、シャンクスは微笑んだ。
「ああ、そうだな。一番星だ」
「シャンクス……宴だよ」
「うん?」
「星見酒の約束。私、守ったよ」
ウタが幼い頃に交わした、他愛もない約束。それを覚えていたのだろう。ウタは心底嬉しそうに目を細めていた。
その眦から一粒の涙が溢れる。
娘が泣いているのに涙を拭うことすらできないのだ。実に情けない。
ただ抱えていることしかできず、笑みを返すのも精一杯で、本当にどうしようもない父親だった。
「宴なら、歌わないとだね」
ウタが囁く。
記憶の中、いつも、いつまでも生き生きと煌めいていた丸い瞳。
映像電伝虫を通して知った彼女の姿、まっすぐな怒りに燃える紫の光。
それでいいと思った。怒りであれなんであれ、生きる糧の一つとできるなら構わない。そう己に言い聞かせていた。
生きて。
誰に脅かされることなく生きて。
そうして、いつか幸せになってくれたなら、それだけで全てが報われると思っていた。
この輝きを守るためならば、どんな咎でも受け入れてみせたのに。
それなのに、ウタの瞳から光が消えていく。
誰かが酒瓶の栓を抜いた。
けれど、誰も飲もうとはしない。
静かな、本当に静かな宴だった。
「この風は────」
震える唇に微かな唄が灯る。
辿々しく途切れ、波の音にかき消されそうなほど小さな歌だ。
無理に歌わなくていいとは言えなかった。
娘が約束を果たそうとしてくれている。その思いを裏切るわけにはいかない。
そして、何よりも、これはウタが望んだことなのだ。
ウタが自身の願いのために命を燃やすならば、今度こそ見届けるのが父親の役目だった。
たとえ、これが最期だとしても。
風が弱くなってきた。
潮の匂い。
遠ざかる鳥たち。
凪の気配がする。
知らず噛み締めた唇に血の味が滲んだ。
「ウタ、もうすぐだぞ」
ウタの瞼がぴくりと震える。
残り僅かな命の炎全てを焚べ、ウタは目を開こうとしていた。
彼女と、彼女の家族の願いを叶えるために。
同じ今日を迎える。
ほんのひととき、ただそれだけのために。
「──心に帆を……」
最後の別れとばかり、エレジアより一陣の風が吹いた。
陸風はじきに止み、朝凪がやってくるのだろう。
夜明けが近い。
終わりもまた。
ウタを抱える右腕に力が入る。
去りゆく彼女の温もりを引き止めるように。
それでも、命の砂は零れ落ち、指の間をすり抜けていくのだ。
「──……いつ……だって……」
声はもうほとんど出ていない。
溢れるのはか細い吐息だけ。
それでもウタの唇は歌を紡いでいた。
沈む夜の端、海と空の狭間に新たな色が灯る。
シャンクスは顔を上げ、吐息を溢した。
一人ではもう指一つも動かせないウタ。
その頼りない身体を引き寄せて抱え直し、震えそうになる口の端に笑みを乗せる。
「ウタ、見ろ。夜明けだ」
ウタが微かに笑った。
まだここにいる。
生きている。
声は届いているだろうか。
聞いていてくれるだろうか。
「ウタ、────」
しだいに冷えていく身体。
熱を失いつつあるウタを抱き寄せ、シャンクスは愛娘の名を呼ぶ。
ごうと風が吹き、続く言葉をかき消した。
タイトルはシューマンの同曲からお借りしました。