風が流れ、水平線に光が灯る。
歌はとうの昔に途絶え、微かに続いていた鼓動も今、終わりを告げた。
ただ波の音だけが無情に揺蕩う。
夜明けだ。
ローは緩く目を伏せ、左腕を下ろした。
ウタを覆う青の被膜が消える。
静寂は長く続かず、時の流れに抗えないまま、父親達の声にならない吐息が溢れた。
もはやこの場に留まる理由はない。
長居は無用だろう。そう思い、立ち上がった。
デリンジャーが支えに入ろうとしたが、それを断り、ローは海賊達へと近付く。
赤髪は視線を上げ、水平線を見ていた。
本当のところ、その目が何を見ているのかは分からない。ここではないどこか遠く、失われた何かを懐かしむような淡い瞳。
眼差しは雄弁で、そのくせ何一つ語ることなく沈み、腕に抱いた愛娘へと向けられる。
ウタは微笑んでいた。
十二年の時を経て、やっと訪れた夜明けだ。
置いていく側と置いていかれる側が入れ替わるだけの、ほんの一瞬の交差でしかなかったとして、彼女はずっとこの朝焼けを望んでいたのだろう。
唇は薄く開いたまま。
彼女が最期まで歌を紡いでいたことを知り、ローは顔を顰めた。
「いつまで娘に歌わせてる」
俯くシャンクスの目元を赤の髪が隠していた。
やがて、渇いた唇が微かに震える。
「──おやすみ あかちゃん しずかにね」
低く、囁くような歌声だ。
海と共に生きた男の紡ぐ子守唄を背に、ローは踵を返した。その後ろをデリンジャーがついてくる。
迎えが来ていた。
レッド・フォース号の帆を揺らすのは海風ではなく、ファミリーの報せだ。
空を飛んできたバッファローが甲板に降り立った。何故だか知らないが、彼はシュガーをその背に乗せている。
眩暈を堪えながら目を眇めれば、シュガーが息せき切って駆けてきた。
赤髪達の様子から状況を理解したのだろう。彼女は一瞬だけ眉を顰める。そして、眦に滲む朱を誤魔化すように目に力を込めた。
「若様、もう能力を解いてもいい?」
シュガーが差し出したのは二体のオモチャだ。
薔薇の飾りをあしらったフクロウと、羽根とジョウロを背負ったひつじが見上げてくる。
何事かと首を傾げれば、シュガーが溜め息混じりにぼやいた。
「話せないくせに暴れ回って困る」
「なんで今? わざわざ敵船まで連れて来なくてもよくない?」
「分かってる。ごめん」
デリンジャーに指摘され、シュガーが潔く頭を下げる。
言い訳一つでないとは、相当面倒だったのかもしれない。よく見ればシュガーの髪や服は妙なくたびれ方をしていた。
「急げって聞かなくて。それに、ライブはもう……」
赤髪海賊団の背中を見つめ、シュガーが口籠る。
「若様、いい?」
「バッファローが帰りに全員乗せられるなら構わねェ」
目配せをすれば、バッファローが無言で胸を叩いた。自信があるようだ。
記憶にはないが、ドレスローザに住まう姫が巨人族ということもなし、問題あるまい。
ローの承諾を待ち、シュガーが二体のオモチャを甲板へ下ろす。
「静かにすると約束して。あんた達が騒ぐと若様の名に傷がつく」
『────!』
全身で頷いたオモチャ達を睨み、シュガーがさらに声を低くした。
「声も上げないで。お別れを、邪魔しちゃ駄目」
『…………』
「心臓が止まっても、耳はまだ聞こえているかもしれない。若様、そうでしょ?」
「ああ」
ウタのことを言っているのだろう。心停止から間もない。聴覚が機能している可能性も僅かながらある。
何を言っているかまでは分からずとも、音は聞こえているかもしれない。
「じゃあ、戻すわ」
親子の別れに水を差さぬようにと小声で告げた後、シュガーが能力を解除した。
瞬きの間に人の形を取り戻した姫達が甲板にへたり込む。
それと同時にローの記憶の中にも二人の姿が還ってきた。ヴィオラとマンシェリー、十年分の歳月の重みと情報が頭の中で溢れる。
ただでさえウタの延命に体力を使った後だ。軽い眩暈に襲われ、ローは目を閉じた。
再び目を開いた時、二人の姫は一心に赤髪海賊団とウタを見つめていた。
床に膝をついたまま、ヴィオラが親指と人差し指で円をつくる。
止める間も無く、彼女は円の中を覗き込んだ。
「────まだよ」
愛と情熱の国の姫君は声を震わせ、真実を告げる。
「彼女はまだ、生きたいと願っている!」
◇
その叫びが聞こえた時、シャンクスは思わず顔を上げた。
叫び声の主は髪に薔薇を挿した見知らぬ女性だ。素早く立ち上がった彼女は、ローの腕を掴んでこちらに駆けてくる。
「諦めては駄目、声をかけ続けて!」
何の躊躇もなく四皇の一味の輪へと飛び込んできた彼女は、自らもウタの手を掴んで声を上げ始めた。
「ウタ、聞こえる? あなた、友達を待たせているのでしょう? 諦めないで!」
「ちゃんと聞こえてましたよ、共に生きようって。ウタちゃん、あんなに歌っていたじゃないれすか」
聞き覚えのない女性の声が二つ。よく見れば、薔薇の髪飾りの女性の肩の上には妖精がおり、身を乗り出して涙を溢している。
涙の雫がウタの頬に溢れて伝い落ちた。
その様を見つめていたローが左腕を振るう。
能力場を形成した彼は、金の目を伏せ、ゆるくかぶりを振った。
しかし、その袖を掴み、薔薇の髪飾りの女性が強く言う。
「ロー、私が信じられないの?」
死神のような黒衣の男を見上げ、彼女は自身の眼を指し示した。
「あなたのせいで鍛えられた目よ。素直な女の子の声くらい、瞼を閉じていても見抜ける」
薔薇の女性は瞬きすらしない。
強く輝くその光に引き込まれるように、ローが目を伏せる。そして、彼はウタの傍で能力を振るい始めた。
何を処置しているのかは分からない。ただ、青褪めた顔と額に髪が張り付くほどの冷や汗から、尋常でない能力操作を行なっていることだけは理解できる。
「ウタ、あなたの願いが視えるわ。あなたはまだ生きている、生きているのよ」
「大丈夫れす! きっと助けますから、一緒にお話ししましょう!」
懸命に呼びかける見ず知らずの女性二人につられてだろうか。ロックスターまでもがおずおずと声掛けを始めた。
「お嬢、聞こえますか? あんたが逝っちまったらお頭達が腑抜けちまう」
ウタを知らない新入りが声を上げ始めてしまえば、止める者など誰もいない。口々に名を呼ぶ赤髪海賊団の声がウタの身体へと降り注ぐ。
「ウタ、待ってくれ」
「駄目だ、ウタ! ウタ!」
シャンクスもまた、ウタを抱える腕に力を込めた。
だが、言葉が出てこない。
もう殆ど熱を失ってしまったウタ。その身体の冷たさに、舌先まで凍りついてしまったような心地がした。
シャンクスの肩をベックマンが支える。
視線が交差した。
「ウタ、聞こえるか。苦しい思いをさせてすまない。願うばかりで心底情けないが、今はお前の望む力に賭けるしかねェ。生きてくれ、ウタ」
声一つ上げられないシャンクスの代わりに、ベックマンがウタへと呼びかける。
「もし、お前が望んでくれるなら、いつかまた一緒に旅をしよう。すぐには無理でも、必ず同じ海を見る。約束だ」
低く語りかける副船長の横顔を見つめ、シャンクスは唇を引き結んだ。
ウタを抱えたまま、右手を伸ばす。強張り動きを止めそうな指に力を込め、娘の手を握った。
ぞっとするほど冷たく、細い指だ。
このまま壊れてしまうのではないかと思い、指が情けなく縮こまる。
「大丈夫だ」
シャンクスの拳ごと、ベックマンがウタの手を握りしめる。
己の体温を分け与えるかのように、強く、強く。
「ウタなら出来る。お前は強い。なんたって、赤髪海賊団の娘だ。どこにいても、お前は一生おれ達の娘なんだ。そうだろう、野郎共!」
「ベックの言う通りだ! ウタ、死ぬな!」
赤髪海賊団が声を合わせた。
シャンクスもまた、声を出せないまま、手に力を込める。
叫ぶ男達に紛れ、輪から離れた妖精がローの肩に飛び乗った。耳から血を流すローを心配そうに見つめながら、妖精が囁く。
「ジョウロを使いますか? 私の涙や献ポポで力になれないれすか?」
「駄目だな。反応がない。今も無理矢理心肺を動かして血を回してるだけだ。治癒力じゃどうにもならねェ」
「他ならどうれす?」
「もっと駄目だ。亡骸ってのはモノだぞ。復元であんたの寿命を削るわけにはいかねェだろ」
妖精の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。
「じゃあ、どうすれば……!」
黙り込んだローが深い溜め息を吐く。
そして、僅かな逡巡の後、彼は自身の仲間へと声を掛けた。
「デリンジャー、お前、どうしておれについてきた」
名を呼ばれたのはツノ帽子の少年だ。
デリンジャーは不満げに口を尖らせて答える。
「どうしてって、そりゃあ若様のために決まってるでしょ」
「違うな。トレーボルから何か言付かっただろ」
「何の話?」
「しらばっくれても無駄だ。あいつが手放しでおれを自由にさせるわけがねェ。解毒剤を持たされたな」
黙り込むデリンジャーを呼び寄せ、ローが囁いた。
「隙を見て薬を飲ませろとでも命じられたか。一応教えてやるが、おれが準備したものは注射用だ。口に放り込むつもりなら勘弁してくれ」
「……トレーボルはそんなこと、一言も」
「あいつ、医術はからっきしなんだ。知識を蓄える気が一切ねェ。雑だし、処置室じゃでかくて邪魔になるし、下手すりゃ燃えやがるから助手としても使えねェしな」
軽い調子で嘯くローをデリンジャーが睨みつける。
「確かに薬は持ってるよ。だけど、これは若様の分。ウタに使うつもりなら絶対に渡さない」
「おれは赤髪達から薬を貰う」
「どうしてわざわざ他所の薬なんか飲むのさ」
「単純だ。おれにはまだ余裕がある。経口で充分だ」
ローが指を振るえば、ホンゴウが傍に退けていた薬瓶が宙に浮く。自身の手の中に落とされた薬瓶を見つめ、デリンジャーが眉間に皺を寄せた。
「これは飲み薬? 効果は確かなの?」
「四皇が娘のために用意したものだぞ」
「四皇とかどうでもいい」
「組成も確認済みだ。問題ねェよ」
「……だったら、これをウタに使えばいいのに」
「駄目だ。間に合わねェし、おれの負担が増えてリスクが上がる」
ローが淡々とデリンジャーの反論を封じる。押し黙った少年に代わり、赤ずきんの少女が割り込んできた。
「止めても無駄よ。せめて若様が無理をしない方法を選んでもらわなきゃ」
「そう、だよね。分かった。薬を渡すよ」
デリンジャーが渋々といった様子でポケットから小瓶を取り出す。
彼の頭を撫でるローが口の端を緩めた。
「いい子だ」
「子どもじゃないし。やめてよね」
口を尖らせたデリンジャーから視線を切り、ローが妖精へと語りかける。
「今からウタと他の奴らの心臓を入れ替える。そうすれば、ウタの身体は一時的に死体の状態を脱し、チユチユの能力が効くはずだ」
「そんなこと、可能なのれすか?」
「ほぼペテンだがおそらくな」
頷いたローは妖精を掌に乗せ、ウタの傍に移動してきた。そして、妖精とウタを交互に指し、作戦を告げる。
「おれが合図をしたら、あんたのチユチユでウタに超回復をかけてくれ」
「だけど、チユポポの効果は一度きりれす。数分しか保たないし、すぐに元に戻ってしまうれすよ」
「分かってる。効果時間はおれの能力で引き伸ばす。その間に解毒だけできれば充分だ。あとはおれの治療とあんたの献ポポを並行させれば何とかできる」
そこまで言いきったローの鼻から一筋の血が垂れた。赤を拭った黒のグローブを脱ぎ捨て、彼は赤髪海賊団の面々を眺める。
否、金の瞳は男達を素通りし、輪の奥でウタへと呼びかけ続ける薔薇飾りの女性へと向かっていた。
「姫様、まだ視えるんだな?」
「ええ」
返答を耳にしたローが深く息を落とす。
「さて、赤髪」
一段深くなった声で名を呼ばれ、シャンクスは顔を上げた。
金の瞳が瞬き、シャンクスを射る。
「愛娘のために、少しばかり死ぬ覚悟はあるか?」
「当たり前だ」
凍えるばかりだった喉が言葉を吐く。声が出たことに驚き、それ以上に、思考を追い抜いて結論を出した自身に驚いた。
だが、この判断に間違いはない。あるわけがない。
「いい返事だ」
黒衣の男が口の端を吊り上げた。
「──“メス”」
刺青の目立つ左腕が踊る。
奇妙な感覚がシャンクスの胸を貫き、次の瞬間には心臓が四角くくり抜かれていた。
シャンクスだけではない。ホンゴウを除く赤髪海賊団全員分の心臓が甲板に転がる。
狼狽える間も無く、ローが指示を飛ばした。
「今からお前らの心臓をウタに仮置きする。一瞬死にかけると思うが、諸々はそっちの船医に任せた」
「待て、何をどうしろと!?」
突然補佐に指名された上に指示が雑にすぎる。ホンゴウが泡を食って説明を求めれば、ローは淡々と応えた。
「今、お前らの心臓から持ち主の情報を削った。正しい位置に入れさえすれば、誰の心臓でも機能する。お前らとウタの心臓を取り替え続けろ。ペースは数秒に一度。同じ奴が続けて担当しないように気をつけろよ」
つまり、今から始まるのは心臓のリレー。ウタの死んだ心臓機能を赤髪海賊団全員で分割担保するのだ。
荒唐無稽な蘇生計画にホンゴウが唖然と呟く。
「これが、“死の外科医”の治療か……」
「こんなインチキが医療なわけねェだろ。詐欺じゃなけりゃせいぜい御伽話が関の山だ」
吐き捨てたローが能力を行使、ウタの心臓をくり抜いて手に取る。
左手に心臓、右の掌には涙を流した妖精が腰掛けており、どうにも理解し難い絵面だ。
シャンクスがまじまじと見つめていたせいか、彼はひどく不愉快そうに顔を顰めた。
「作法がなってねェな、赤髪。こういう時はどんな無法者でも神に祈るもんだぞ」
医者というよりは神父、むしろ死神のような出立ちの男が言うことではない。
シャンクスもまた顔を歪め、呟く。
「死者の蘇生は悪魔の領域だ」
「だとすれば、おれ達の力を借りていいのか? 仮にも
「…………」
「冗談だ。四皇も案外肝っ玉が小さい。うちの甥っ子の爪の垢でも煎じてやりたいくらいだ」
そう嘯いて肩を竦めるローを、シャンクスは真っ直ぐに見返した。
先程の問いには含みがあった。
この男、どこまで知っているのだろうか。
トラファルガー・ロー。
ウタに接触していた得体の知れない黒衣の男。世界転覆を狙う狂人。
どんな意図を抱いているのか、疲労にくすんだ顔の中で金の瞳だけが爛々と輝いている。
なぜだろう。今はその輝きが希望に映るのだ。
それはまるで光。最も暗い時にこそ一際輝くもの。夜明けそのものになれずとも、朝を連れて昇る明けの明星。
「さあ、準備はいいな。始めるぞ」
悠然と笑み、ローが告げた。
「──気を楽にしろ」
次回、最終話となります。
よろしければ最後までお付き合いください。