凱旋門賞の長い直線。第3コーナーを回ろうかというところで隊列にも変化が訪れていた。
まず、先頭争いを繰り広げていたハリケーンレーンが後ろに下がった。これ以上無理に逃げるのを止め、最後の直線に向けて脚を溜める段階に入っている。先頭に立って逃げるのはアダイヤー。ダービーステークスとキングジョージを制した彼女が先頭に立って逃げていた。
ペースメーカーとなるウマ娘が不在だったこのレース。上り坂でブルームが果敢に前へ前へと位置を取る。そのまま逃げようとしていたが、アダイヤーがそうはさせまいとポジションを上げた。そのままアダイヤーが逃げる形となる。ブルームは3番手、2番手には外からバ群へと近づいてきたクロノジェネシスだった。
隊列は固まっている。ブルームの後ろ1バ身もない位置にアダイヤー達と先頭争いをしていたアレンカーが控え、モジョスターとトルカータータッソが続く。ハリケーンレーンは7番手に変わっていた。その内にタルナワが追走、ディープボンドがその後ろにつけている。ただ、その表情は険しい。おそらく、凱旋門賞の上り坂でかなりの消耗を強いられたのだろう。
《まもなくフォルスストレートに入ります、先頭はアダイヤー!ダービーウマ娘アダイヤーが先頭!2番手は日本のクロノジェネシスが追走!これは良い位置だクロノジェネシス!3番手はブルーム、4番手アレンカー!モジョスター、トルカータータッソと続いてハリケーンレーンはここまで下がった!内をついてはタルナワ、その後ろ9番手ディープボンド!スノーフォールらもディープボンドの後ろに続きます!固まったバ群、しかし最後方ヴァーディクトデイは4バ身程離れている!フォルスストレートで固まったバ群ですがヴァーディクトデイだけはまだ控えている!》
ヴァーディクトデイは最後方、固まったバ群から離れている。しかし、徐々にだがペースを上げ始めた。
(最後の直線に向けて、発射台を作る。最後の直線に入ったら……
ジワリと前との差を詰めるヴァーディクトデイ。フォルスストレートを駆け抜けていた。
ロンシャンレース場に集ったファンが声援を飛ばす中、レースを静かに見守るフランケル達。
「さぁて、彼女はいったい何を見せてくれるのかな?」
「……さぁな」
「頑張ってくださいまし~!ヴァーディ様~!」
愉快そうな
◇
最後の直線に向けて、ポジションを押し上げようとするディープボンド。
《さぁ最後の直線だ!最後の直線、先頭で入ってきたのはアダイヤー!アダイヤー先頭!クロノジェネシスとブルーム追走!中団からはトルカータータッソとディープボンドが位置を押し上げる!最後の戦いが幕を開ける!タルナワは内をついている!ヴァーディクトデイはようやく重い腰を上げたかというところ!最後の直線先頭はアダイヤー!アダイヤーが差を広げようとしている!》
近くを走るトルカータータッソに倣うように位置を押し上げる。しかし……思うように走れない。
「うっ……くっ!」
(まさか、スタミナ切れ!?)
このバ場で想像以上にスタミナを持っていかれたディープボンド。最後の直線に使うための脚を、無意識のうちに使ってしまっていた。
2番手で追走するクロノジェネシスも、いつものような脚が使えていない。必死に粘ってはいるが、いずれ落ちるだろうと思われていた。
ディープボンドの中に生まれたのは焦り。このままでは負ける、そう直感した。
(……嫌だ、嫌だ嫌だ!)
だが、そうはさせまいと必死に粘る。最後の抵抗とばかりに、自分の脚を動かしている。
(このまま負けちゃったら、取り返しがつかないような……そんな気がするんだ!だからこのまま負けるなんて嫌だ!)
「絶対に嫌だ……ッ!ぼくは、ぼくはッ!」
ディープボンドが今抱いている感情。それは──恐怖。
今見ているこの光景。走っているこの光景が……ディープボンドが苛まれていた夢の光景と一致しているのだ。彼女の友達であるヴァーディクトデイが変貌してしまう夢の光景と、気持ち悪いぐらいに一致している。つまりは、このまま負けると……ヴァーディクトデイは自分が見てきた夢の通りになる。ディープボンドはそう思っていた。
それだけは嫌だった。大事な友達がダメな方向に変わってしまうことは、ディープボンドにとって嫌だった。だからこそ、そうはさせまいと必死に走り続ける。
……しかし、その意思に反してディープボンドの脚は思うように動かない。重バ場となったロンシャンレース場に脚を取られて、完全にスタミナが切れかかっていた。
「嫌だ……嫌だ……ッ!」
残り300を切ろうかというところ。ディープボンドは力尽きて落ちていく。そんな中、彼女はふと外へと視線を向けた。
「……あっ」
思わず息が漏れる。あまりの光景に、目が奪われてしまった。落ちていくディープボンドが視界に捉えたのは。
《最後の直線でヴァーディクトデイが上がってきたぁ!……え?あっ、え!?ヴぁ、ヴァーディクトデイが上がって来たぁ!?大外からヴァーディクトデイ、ヴァーディクトデイだ!凄まじい速さだ!?瞬く間に1人、また1人と躱していく!バ群の一番外!外をヴァーディクトデイが信じられない速さで上がっていく!クロノジェネシスは力尽きた落ちていく!逃げるアダイヤーしかし!そのアダイヤーを捕らえんと【漆黒の撃墜王】が上がって来たぁ!》
夢とは異なる、純白の翼を広げて大外を駆け抜ける
ファンの目には信じられないものが映っていた。今回の日本勢もやはりダメだったかと、日本から応援に来たファンは諦めかけていた。そんなファンの目に映ったのは──大外から駆け上がるヴァーディクトデイの姿。
明らかに他と一線を画している。重バ場を感じさせない、鮮やかに駆け抜ける。その背中には──純白の翼が広がっているように見えた。
「きれい……っ!」
誰かが思わず口からそう漏らす。感嘆の息が漏れるほどに、今のヴァーディクトデイは凄かった。翼も相まって飛んでいるように見えるその姿に、ファンは目を奪われた。
ふと我に返ったファン達が、それぞれの推しウマ娘の応援を始める。そんな中、フランケルは──笑みを深めた。
「成程……あれが、彼女本来の走りかッ!」
楽しさを抑えきれないといった様子のフランケル。ナサニエルも目を見開いていた。
「……留学当初、潜在能力の高さに目を見張っていたが、まさかこれほどとはな」
ヴァーディクトデイの強さに驚いている。エネイブルは嬉々として応援しており、バティスタも楽しそうに笑っていた。
ナサニエルがフランケルを見ながら口を開く。
「案外、10ハロンのお前ともいい勝負をするんじゃないか?フランケル」
挑発するように言い放つナサニエル。フランケルは──さらに笑う。
「アッハハハハ!良いなぁそれは!是非とも
「……程々にしておけ」
止めろ、とは言わないあたりナサニエルも気になるのだろう。今のヴァーディクトデイは、それほどまでの強さを発揮している。
海藤もまた、驚いた表情でヴァーディクトデイを見ていた。しかし、一瞬彼女の表情が見えたことで、海藤は笑みを零す。
「──楽しそうだね、ヴァーディ」
今までずっと、彼女らしからぬ冷酷な表情で走っていた。レースマシーンとも称された無機質な表情が崩れて、今の彼女は──とても楽しそうに走っていた。
「頑張れぇぇぇぇ、ヴァーディィィィ!もう少しだぁぁぁぁ!」
「クロノも負けないでぇぇぇ!」
「頑張ってください!ディープボンドさん!」
最後の勝負。勝利の女神は誰に微笑むのか?
◇
何だろうか?今まで感じたことのない……違うな。ずっと抑えつけていたものが、解放されたような感じだ。
《先頭はアダイヤー!しかし後続に追いつかれ始めてきました!タルナワにハリケーンレーンが襲い掛かる!さらにトルカータータッソ!トルカータータッソだ!ドイツのトルカータータッソがバ群の真ん中から突き抜けてきた!しかしっ、しかし!》
なんていうんだろうな?この気持ちは。いや、考えるまでもねぇ。凄く単純なことだ。
「すっげぇ楽しいじゃねぇか……ッ!」
大外をただ1人駆け抜けるこの感覚!背中に翼が生えているみたいに身体が軽い!このままどこまでもいけそうなこの感覚……最高じゃねぇか!
おっといけねぇ、ごちゃごちゃ考えるの後だ!そして、感傷に浸るのも後だ!今やるべきことは、この場にいる全員をぶち抜くこと!
「さぁ!突っ走ろうぜぇ!」
衝動のままに駆け抜ける!
《残り200を切った!アダイヤー逃げる逃げる!しかしその差はもう僅か!タルナワとハリケーンレーン、そしてトルカータータッソ!この3人がバ群から襲い掛かってくる!しかし!その3人よりもはるかに速いスピードで!大外からヴァーディクトデイが飛んできた!まさに飛ぶような末脚!背中には純白の翼が生えている!日本の撃墜王がロンシャンを飛んでいる!そして150の地点でっ、アダイヤーを躱したぁぁぁぁ!》
このままどこまでも突っ走る!さぁ、飛んでいこうじゃねぇか!
《ヴァーディクトデイ先頭!ヴァーディクトデイ先頭!恐ろしい末脚!なんという末脚だ!?最後方からの怒涛の追い上げ!これが日本の撃墜王!世界を魅了する末脚!大外を飛んでいるヴァーディクトデイだ!アダイヤーらが必死に追走する!だがアダイヤーは力尽きた!トルカータータッソが抜け出す!トルカータータッソが抜け出すがっ!ヴァーディクトデイには追いつけない!さらに差を広げるヴァーディクトデイ!ヴァーディクトデイが日本の期待を背に!ロンシャンを飛んでいる!》
必死に駆け抜けて、気づけば俺の身体は──
《さぁしかと目に焼き付けろ!凱旋門賞を制したその姿を!曇天の空を切り裂く撃墜王の姿を!これが【漆黒の撃墜王】!ヴァーディクトデイだぁぁぁぁぁぁぁ!!!ヴァーディクトデイ先頭で駆け抜けた!日本の悲願を!叶えましたヴァーディクトデイ!驚くべき末脚だ!なんとなんと最後の直線で全員ぶち抜く驚異の末脚!圧巻の4バ身差!ロンシャンの重バ場を、まさに飛んでいました!これが【世界の撃墜王】ヴァーディクトデイだぁぁぁぁ!》
ロンシャンのゴールラインを割っていた。
◇
決着を迎えた凱旋門賞。世界最高峰の舞台を制したのは……日本のウマ娘として初めてとなるヴァーディクトデイ。最後の直線で、大外の最後方から全員抜き去って勝利を収めた。
ただ1人、次元の違う末脚で駆け抜けていた。その姿に、ロンシャンレース場に集ったファンは惜しみない賞賛を送った。
「ブラボー!最高のレースだったぞぉぉぉぉ!」
「なんて凄い末脚……!わたし痺れちゃった!」
「あんなすげぇ末脚を発揮するなんて!しかも、ロンシャンの重バ場で!」
興奮冷めやらぬファン達。誰もが笑顔で拍手を送り、日本からやってきたファンの中には泣いている者もいた。
海藤もまた涙を必死に堪えている。チームのウマ娘達は抱き合って喜んでいた。
ゴールしたディープボンド。ブービー決着だったが、彼女はヴァーディクトデイの姿を探していた。
「ヴァーディ君は、どこに……」
キョロキョロと辺りを見渡す。どこか余裕がないようにも見えた。
探し回って、ヴァーディクトデイの姿を視界に捉える。
「……」
「……あっ」
ヴァーディクトデイは、天を見上げていた。曇天の空を、ヴァーディクトデイは見上げている。
夢の中で見た光景に、ディープボンドは身体から一気に汗が噴き出るような感覚を覚える。夢のように、なにもかも諦めた表情のヴァーディクトデイが立っているんじゃないだろうか?と気が気でなかった。
声もかけられず、緊張するディープボンド。血の気が引いて、顔は顔面蒼白になっている。
ディープボンドに気づいてか、ヴァーディクトデイが視線を向ける。その表情は。
「──勝ったぜ、プボちゃん!」
屈託のない笑顔だった。その表情に、ディープボンドは一気に身体の力が抜けるのを感じて……ヴァーディクトデイを見つめる。
「おめでとう、ヴァーディくん!」
ディープボンドもまた、笑顔でヴァーディクトデイを祝福した。