9月も末頃。新馬の受け入れだったりも含めていつも以上に忙しい日々も終わろうかという時期だ。そろそろ秋のG1戦線も始まろうとしている。クロノジェネシスとヴァーディは秋の天皇賞、ラウダシオンはマイルチャンピオンシップを控えている。勝てるように気合を入れよう。
そんな今だが。実は雑誌の記者が来ているのだ。目的はクロノジェネシス、秋の天皇賞でも優勝候補の一角に数えられているクロノジェネシスに取材の依頼が舞い込んできていた。
「いや~いいですねぇクロノジェネシス。調教も順調じゃないですか?」
「はい。相手があのアーモンドアイでも勝てると、自信をもって送り出せます」
「宝塚記念から4ヶ月ぶりの実戦ですが、前哨戦は使わない予定で?」
「そうですね。このまま秋の天皇賞に直行する予定です」
受け答えしている記者は大手のとこに勤めている人。名前は新橋(にいばし)さん。彼の質問に逐一答えながら調教を見る。
「しかし、今年は牝馬が強いですよねぇ。アーモンドアイを筆頭に安田記念のグランアレグリア、大阪杯のラッキーライラックに宝塚記念でクロノジェネシスも台頭してきたわけですから!」
「アハハ、そうですね。でも牡馬も天皇賞馬のフィエールマンがいますし、統計で見るとあんまりって感じもしますが」
「ま、確かに。ただ大レースを制しているのがことごとく牝馬ですから。世間的にはそういう目も増えてきているわけですよ」
一概に牝馬が強い年と言えるかと言われたら微妙な線だけど。ただ、アーモンドアイに代表されるような強い牝馬が今年は多いというのは事実である。
「それに今年のクラシックも凄いですからね!史上初の!同世代に2頭の3冠馬が誕生するかもしれないんですから!」
「そうですね。コントレイルにデアリングタクト……どちらも凄い馬だと思います。彼らを育て上げた厩舎の方々を本当に尊敬します」
「いや~、凄い時代に生まれたもんだ!世間はウイルスで大変ですから、少しでも明るい話題が増えるといいですね」
他愛もない雑談をしながら調教を続けていると、ヴァーディの番がやってくる。今日はウッドチップコースでの調教だ。新橋さんの反応は……微妙な反応だな。
「今度はヴァーディクトデイですか。あの子も惜しいですよね~」
「惜しい、とは?」
「いやいや。ヴァーディクトデイも強さを感じるんですけど、いかんせん生まれた時代が悪かったというか。コントレイルやサリオスと同じ時代じゃなけりゃ、クラシックの1つや2つは固かっただろうな~と思いまして」
……落ち着け。落ち着け俺。悔しいけど結果が全てだ。ヴァーディはクラシックを勝ってないし、しかもクラシック戦線から離脱した。だからこそ、これは正当な評価として受け入れろ。
「でも宝塚記念の最後の直線は凄かったですね。1頭だけ伸びが違ったというか。道中通常のペースであそこまで追い込めたってのは純粋に凄いですけど……それでもクロノジェネシスがいたのがまた」
「確かに、そうですね。だけど結果が全てです。あの時はクロノジェネシスが強かった、それだけですよ」
「手厳しいですね」
「ヴァーディには期待していますから。それよりも……しっかりと見ておいた方が良いですよ?」
頭に疑問符を浮かべている新橋さんに思わず笑いそうになるも、ヴァーディを見据えて。
「あの宝塚記念を経てヴァーディは精神的にも肉体的にも大きく成長しました。この秋のヴァーディは……一味違います」
「はぁ……前々から感づいてたけど、海藤さんって本当にヴァーディクトデイを気に入ってるんだな」
小声で何か言われたが気にしない。ヴァーディが走ろうとしている。新橋さんもヴァーディに注目しているようだ。ヴァーディの調教が始まった、瞬間。
「ッ!?」
新橋さんは身を乗り出してヴァーディの走りを見始めた。ヴァーディの走りを、一瞬たりとも見逃さないように。釘付けになっている。うんうん、驚いてもらえたようで何よりだ。
ヴァーディは走る。あの時と同じ、宝塚記念を経て見出した
「タイムは?」
「6ハロン81秒、ラスト3ハロンは34.3ですね」
「うん、良い感じだね……どうですか?」
新橋さんは口をパクパクさせていた。そこまで驚いてもらえたようで何よりだ。やがて、ようやく現実に引き戻された新橋さんは。
「な、な、な……!なんですか今の走りは!?」
興奮気味に詰め寄ってきた。うん、凄いって感情が良く伝わってくる。ただ、昨今の事情もあるからあまり詰め寄られるのは勘弁なんだけどな……。
「前に進む推進力も凄いですし、身体もすごい柔らかい!なんて言えばいいのかな?脚が鞭のようにしなっているって言えばいいんでしょうか?しかも、パワーも相当なものですよね!?蹴り上げのパワーがこっちにも伝わってくるようでした!それに息もすぐ整っているようにも見えるしあぁもうなんて言えばいいんだろう……!とにかく凄い!」
「あ、あの。興奮しているのは分かったのでちょっと離れてもらえると……昨今はあれですし」
「あ!す、すいません!興奮しすぎてつい……!」
新橋さんは謝りながら下がってくれた。さて、お気に召したようで何よりだ。やっぱり嬉しいね、自分が育てている馬が評価してもらえるのは。
「ヴ、ヴァーディは本当に菊花賞に出走しないんですか!?これならコントレイルとも良い勝負……いや!もしかしたら勝てるかも!?」
「NHKマイルの後宣言した通り、ヴァーディはこのまま中距離路線を進ませます。出るとしても……有馬記念が限界ですね。なので菊花賞に出走はしないです」
「そうですか~!くぅ~残念だな~!絶対に良い勝負になるのに!それに」
新橋さんはなおも興奮気味に、語った。
「
「あくまでような、ですけどね。ところどころディープとは違いますし」
「まぁ、それはそうですね。ただ、傍目から見ても分かりますよ!あの馬は凄いって!」
新橋さんはさっきからずっと興奮しっぱなしだ。余程お気に召したらしい。
「ヴァーディクトデイは毎日王冠からの秋の天皇賞でしたよね?」
「そうですね。そのローテで考えています」
「あ~……ということは、今度はアーモンドアイとクロノジェネシスを相手取ることになるのか……」
不安げな表情。まぁ分かる。それだけアーモンドアイは強いということだし、クロノジェネシスにヴァーディは一度負けている。旗色が悪いというのは重々承知の上だ。
「……うん!ありがとうございました!帰ったらさっそく記事にしますね、海藤さん!」
「はい。よろしくお願いします新橋さん」
期待してて下さ~い!と手を振りながら去っていく新橋さん。最後までテンション高かったな。良い記事が見れそうだ。
新橋は急ぎ足で本社に戻ってきた。息が切れてもお構いなしに走り、席に座って仕事をしていた上司のもとへと一直線に向かう。
驚いたような表情を浮かべている上司を無視して、新橋は机を叩きながら興奮気味に語り出した。
「先輩!すっごい馬がいましたよ!」
「お、おう。それは良かったな」
「いや、もう……!とにかくすごいんです!あぁくそ!動画とかに残しとくんだったな……!マジで録ってなかったのが悔やまれるッ!」
「お前が興奮しているのは分かった。とりあえず外から帰ってきたんだからアルコール消毒してこい」
「あ!す、すいません!すぐに!」
新橋は慌てた様子でアルコール消毒を済ませる。慌ただしい奴だと思いながらも先輩は新橋に詳細を聞くことにした。
「それで?お前がそんな汗だくになりながら報せようとする馬だ。どんな馬なんだ?」
「はい!ヴァーディクトデイって馬です!」
新橋が口にした名前に、先輩は訝し気──というよりは、内心ガッカリする。
先輩とてヴァーディクトデイという馬を知らないわけではない。コントレイル世代の牡馬であり、今年の宝塚記念で2着に滑り込んで評価が見直されつつある競走馬。それがヴァーディクトデイだ。確かに宝塚記念の走りは目を見張るものがあった。だが、
いくら凄い走りをしようとも、その一発だけになってしまう競走馬はごまんといる。それに、元からそれなりに評価はされていた。世間の評価も所詮あの宝塚の一発屋……そんな評価に落ち着いている。だからこそ、先輩には新橋がここまで興奮する理由が分からなかったのである。
適当にいなそうか。そう考えていた先輩に、新橋は信じがたい情報を口にした。
「ヴァーディクトデイの走り!
「……なんだと?」
この情報にはさすがに目の色を変える。ディープインパクト──今の競馬に携わる人間として、その名を知らない者はいない。
驚き半分、信じられない気持ち半分になりながら先輩は追及する。
「本当に、
「はい!
「……」
しばし考え。先輩の出した結論は。
「冗談も程々にしておけ」
嘘だと判断することだった。
「いやいやいや!?嘘じゃないですよ!」
「はいはい。良いからさっさと仕事に戻れ」
納得してないながらも新橋は自分の机に着く。先輩は一息ついて天井を見上げた。
(ディープインパクトに似た走り……か)
もしそれが本当ならば、凄まじい期待がかけられることだろう。ディープインパクトに似た走り……それだけで話題性はバッチリなのだから。
だが、いかんせん時代が悪かった。
(同世代にディープインパクトの最高傑作であるコントレイルとデアリングタクト、マイルにはサリオス。上を見ればクロノジェネシスにグランアレグリア……しかもアーモンドアイがいる。可哀想なもんだな、ヴァーディクトデイって馬も)
G1レースを見れば分かる。ヴァーディクトデイは勝ちきれない馬だ。良くも悪くも、他の馬のような必死さが見られない。なまじ賢すぎるがゆえの弊害だろう。加えて、同世代も上も強い馬ばかりだ。この環境でなければG1の1つや2つもとれたかもしれないが……所詮たらればの話である。
「時代がなぁ……」
「どうしたんですか?先輩」
「何でもねぇよ。さっさと記事を作れ」
「はいはい……確かに信じられないだろうけどさぁ」
新橋が記事を作るのを横目に、先輩も自分の仕事を終わらせることにした。
次回辺りに毎日王冠です。