有北ファームの休憩室では。
「あ~あ、また色々と言われてますね」
そう嘆息するのは、1人のスタッフ。彼がスマホで見ている画面には、ここ最近ずっと注目を集めているヴァーディクトデイのジャパンカップ出走回避に対するコメントが掲示板に書かれていた。もっとも、彼が嫌な表情を浮かべていることから好意的なコメントではないのだが。
そんなスタッフを、他のスタッフ達は呆れつつも反応をする。
「いつまで見てるんだよその掲示板。それに、よくもまぁその連中も飽きないもんだ」
「もう出走回避は決まったことなのに、粘着しているその人達も凄い執念というか」
「その執念別んとこで活かせよって話だがな」
その反応は芳しくない、が。理由は別のところにある。その理由は、最近こちらに放牧で帰ってきた、今まさに話題の中心になっているヴァーディクトデイのことである。
「黒坊、ずっと元気がないですね……」
「うん……。去年はこっちに帰ってきて数日したら走り回ってたのに、今はもう最低限しか走らないって感じ」
「飼い葉食いもまた良くなってきたけど、それでも量は前と比べたら全然だ」
ヴァーディクトデイは、故郷の有北ファームに帰ってきても調子が戻らないままだった。いや、しがらきからの報告と照らし合わせるとむしろ悪化していると言っても良いだろう。本当にこのまま調子が戻ってくるのか心配になってくるレベルである。
スタッフ達が口々に考えられる原因を上げている中、壮年のスタッフが口を開く。
「……わしらにできることは、黒坊に寄り添ってあげることぐらいじゃ。しっかりと世話をしよう」
そのスタッフの言葉に、他のスタッフ達も同調する。
「……そうですね。ここで原因を解明することよりも」
「黒坊が元気になるように、俺達がしっかりしないと!」
「うっし、気合入れて頑張りますかね!」
「んじゃ、俺は子馬たちの様子を見てくる」
休憩を終えて、全員が立ち上がる。いつもと変わらない、業務の再開だ。
放牧地で、孤独に佇む。
『……何してんだろうな、俺』
ジャパンカップに出走できない。それは、もうコントレイルと戦えないということを意味しているに等しい。それが分かってからというものの、俺の心にはぽっかりと穴が空いたままだ。
(アイツと、なんで走りたいんだっけ?)
皐月賞での走りを覚えているから。すげぇ走りで、追いつけねぇって思ったのはあの時が初めてで。こんな強いヤツいんのかよとかは……あの時は別段思ってなかったな。あ~負けた負けたぐらいにしか考えてなかった気がする。
でも、そこから意識が変わっていって。アイツにリベンジすることを目標に頑張っていた。そして戦うことになった大阪杯。
(アイツ確か、不調だったんだっけ?)
あまり体調がよろしくなさそうなアイツと走って、俺の圧勝だった。ただ、この勝利にどこか納得できない自分がいて。
『次こそ本気の勝負をするぞコントレイル。お互いに全力を出して勝負をしよう。俺はこれでお前に勝ったとは思わない、だっけか?ハハ、なに様のつもりだよ』
一応1勝1敗ではある。でも、俺の気持ち的には0勝1敗のままな訳なんだけど、それはまぁいい。
俺はジャパンカップでコントレイルと走って、勝って、区切りを付けたかった。アイツに勝って、アイツを越えたんだって証明したかった。
(世界一の競走馬になっても、アイツに勝たなきゃ世界一を名乗れない。そんな気がしたから。だから俺は、アイツに勝ちたかった……)
いや、もうアイツに勝ちたかったとかそう言うんじゃないな、これは。俺はただ、アイツともう一度走りたかったんだ。
だってそうだろ?皐月賞の時の俺は不甲斐ないヤツで、大阪杯の時はアイツが万全じゃなくて。お互いが万全な状態で戦ったことなんてなかった。
(ワガママなんてのは分かってる。何言ってんだって、無茶言うんじゃねぇってのは百も承知なんだ……だけど、それでも願っちゃいけねぇのかよ……?)
有北ファームのスタッフさん達には、本当に迷惑をかける。俺が不調だって思ってるから、少しでも側に寄り添ってくれている。
「黒坊~?今日の調子はどうだ~?」
「ゆっくり休めよ?黒坊。ここはお前の生まれ故郷なんだから」
みんなが頑張って俺の疲労を取ろうと四苦八苦している。そのことが……すげぇ申し訳なく感じた。
(ごめんな……本当に、ゴメン)
凱旋門賞の疲労は、あらかた抜けている。だから後は、俺の気持ちの持ちよう次第なんだ。だけど……負のスパイラルから抜け出せないでいる。
「黒坊、今日も調子良くなさそうですね……」
(ゴメン、本当にゴメン……)
「元気出せよ。俺らが不安がってちゃ、黒坊の調子だって良くならねぇだろ?」
本当にゴメン。俺が不甲斐ないせいで、俺が……やっちまったせいで。
スタッフさん達は他の馬の世話に行った。俺はポツンと、放牧地に佇む。草を食べる気力もない。今日もまた、こうして無意味に放牧の時間を過ごすんだな。そう思っていたところに──
『──随分辛気臭い空気を出しているのね』
『……あ』
近寄ってくる馬がいて。その馬は、本当に久しぶりに会った。
忘れもしない。俺が初めてG1っていう大きなレースを勝った時の対戦相手。当時の現役最強と呼ばれていた、女王。
『アイ、先輩』
『久しぶりね、ヴァーディの坊や。何があったのか、聞かせてくれる?』
アイ先輩は、俺の隣にやってきて。静かに話を聞いてくれた。
『……そう。世界一になったはいいけど、その代償で勝ちたい相手とのレースに出走できなくなったわけね?』
『……そんなところです』
『それで、自分の中では世界一になった気はしない。それはまだいいとしても、もう一度その相手と走りたかった……だけど、その相手は次のレースが最後だからもう一緒に走ることはできない。だから、こうして不貞腐れていた……あってるかしら?』
『はい』
『あとついでに、私のことをアイ先輩と呼ぶ理由を聞いてもいいかしら?』
『……まぁ愛称?みたいなものですかね?』
『ッ!愛称……そう、愛称……フフフ』
なんか機嫌良さそうだなアイ先輩。まぁいいや。
『それにしても坊や、見ない間に随分と凄いことをやっていたのね』
『まぁ、頑張ったので』
『偉いわね』
褒められて悪い気はしない。
とりあえずアイ先輩に色々と話した。俺に起きたこと、俺がどうして不貞腐れているのかを包み隠さず。何で話したかは……俺自身気持ちを楽にしたかったから、ってのもあるかもしれない。現に、俺は少しだけ気が楽になっていた。
アイ先輩は黙り込む。俺も、言いたいことは言い終わったから黙る。沈黙の時間。それを切り裂いたのは、アイ先輩。
『そう簡単には、割り切れないわよね』
『……まぁ、そうっすね』
『ずっと思っていた相手との対戦。それが叶わないのだから……それはきっと、とても辛いことだと思うわ』
『……』
『だけど』
アイ先輩はそう前置きして、続ける。
『いつまでも停滞しているのは一番ダメよ』
……確かに、そうだけど。そんなことは分かっているけども。
『確かにその相手との対戦は叶わなくなった。だけど、自分でも薄々感じているんでしょう?このままじゃダメだって』
『……まぁ、はい』
『煮え切らない返事ね。好ましくない。単刀直入に聞きましょうか。あなたはまだ走りたい?それとも、走りたくない?』
……分から『言っておくけど、分からないなんて言ったらどつくわよ』怖っ!?え~と、え~っと……。
確かにコントレイルとの対戦は叶わなくなった。だけど、俺は走りたくなくなったか?走る意味がないって、考えているか?
(それは、違う気がする……)
走りたいっていう気持ちは消えてない。だから。
『走りたい、です』
『そう。なら──走りなさい』
走りたいという俺の返事に。アイ先輩はとても真っ直ぐに、そう返した。単純で、走りたいの?じゃあ走ればいいんじゃない?ぐらいのノリで。
『そんな軽いノリで』
『これぐらい単純な方が良いのよ。それとも、あなたはレースを走るのに理由を求めるタイプかしら?考えすぎるのも良くないわよ』
『うぐっ』
か、考えすぎるタイプ……。なんかラーシーからも似たようなこと言われたな。つか宝塚記念の時とかまさにそうだったし。
『なにか新しい目標が欲しいのだったら、私が教えてあげるわよ。あなたにぴったりの目標を』
『俺に、ピッタリの?』
『そう。あなたにしかできないこと。あなたが思っている相手のためにもなること……そして、あなたの世話をする人間達のためにもなることよ』
そ、そんなものがあるのか。
『お、教えてくれますか?』
そう返すと、アイ先輩は──答えてくれた。
『強くありなさい、ヴァーディの坊や。あなたが掴んだ世界一の座を守り続けなさい。自らの走りで──己の強さを証明し続けるのよ』
俺が進むべき、道筋を。
『確かにあなたが思っている相手との対戦は、もう叶わないわ。それは事実。だけど、仕方のないこと』
『……』
『だけど、あなたのやれることはまだあるわ』
『それが、強くあり続けること……ですか?』
『そう。あなたが自分の強さを証明するたびに、あなたが思っている相手の強さもまた際立つというもの。世界一に輝いたあなたが最も勝ちたいと思っている相手……さぞ注目されるでしょうね』
俺の強さを証明することが、コントレイルの強さを証明することにもなる。そう簡単にいくものだろうか?
『あなたは自分が勝ちたいと思っている相手が、弱くみられることを許せるかしら?』
『許せませんね。蹴り飛ばします』
『そういうことよ。あなたが不甲斐ない走りを見せれば、その分だけその相手も軽くみられる。そんなの、許せないでしょう?』
『……はいっ』
『だから、その相手が強かったということを証明するためにも──あなたは強くあり続けなさい。これからのレースで、それを証明しなさい。ヴァーディの坊や』
コントレイルと対戦することは、もう叶わない。それはもう、受け入れるしかない。
だけど、残された俺にできることはある。それは──コントレイルが強かったということを証明すること。コントレイルという馬の強さを、俺が勝ち続けることで証明する。
(幸いにも、大阪杯で俺達の勝ち負けはイーブンに持ち込まれている。皐月賞では俺がまだ未覚醒の状態、大阪杯はコントレイルが万全じゃなかった。つまりは、お互いが万全な状態で戦った時の強さは未知数……想像の世界になるけど、俺が強くなれば強くなるほど)
コントレイルの評価にもつながる可能性がある……ってわけか。
そう簡単にいくものじゃない。こき下ろされる可能性だって十分にあり得る。だけど。
『……ありがとうございます、アイ先輩』
『あら、もういいのかしら?』
『はい。なんとなく、やるべきことが見えてきました』
『そう。ならよかったわ』
少しだけ、元気が出てきた。
それにこれは、コントレイルに限った話じゃない。俺と戦ってきた相手……ジェネ先輩やアイ先輩にアレグリア先輩、ラーシーやサリオスにプボ君。俺と一緒のレースで走った相手の評価にもつながるかもしれないことだ。なら、あまりウジウジしてはいられないだろう。
『ちょっと元気出てきました。まだ、完全じゃないですけど』
『良かったわ。それじゃ『あら?
『あ、ドンナ姉さん』
気づいたらドンナ姉さんも来ていたらしい。こっちに近寄ってきた……めっちゃ耳絞ってるけど。特にアイ先輩に向かって。
『そうそうヴァーディ、ガイセンモンを勝ったらしいわね。おめでとう、ワタクシも我が事のように誇らしいわ』
『ありがとうございますドンナ姉さん!ドンナ姉さんが教えてくれた走りのおかげです!』
『……なんですって?』
『フフ、そう言われて悪い気はしないわね?』
絶対嘘でしょドンナ姉さん。というかなんでそんなアイ先輩の方を見ながら言ってるんですか。
俺はアイ先輩とドンナ姉さんに挟まれる形になる。なんだろう、とても居心地が悪いというか胃がキリキリするような感覚が襲ってきたぞ?
『ワタクシはいわば、ヴァーディの師匠。あなたとは格が違うのよ』
『……フン。大きいレースの勝ち数なら、私の方が多いわ』
『あら、レースの勝ち数でしか語れないのかしら?滑稽ね』
『……年増』
『……なんですって?』
……誰かー!助けてー!ヘルプ、へるぷみー!?
「おい、黒坊をアーモンドアイとジェンティルドンナに引き合わせたのは誰だよ?」
「あれ!?い、いつの間に!?」
「ヤバいヤバい!早いとこ引き離すぞ!というかアーモンドアイもジェンティルドンナも気が立ってる!」
それからアイ先輩とドンナ姉さんはどこかへと連れて行かれた。どっちも捨て台詞吐いていったけど……。
にしても、俺の強さを証明する……か。
(何となくの指標は、固まったな)
とりあえず、もう帰っても問題ないことを証明するために飼い葉食いを戻していこう。後は放牧地で走り回ったり。少しでも早く帰って、来年に向けての準備をしよう……来年も走れるかどうかわからんけど。とにかく頑張るしかないな。
少しだけ。それでも前を向いて。