普通ってなんだろう
「おかーさん……おそいなぁ」
その日、姫宮依桜は家で母親の帰りを待っていた。愛知県の郊外にある田舎とも都会とも言えないような中途半端な町で依桜は産まれた。だが両親は依桜が1歳にも満たない時期に離婚、母親が彼の面倒を見ていた。
だが母親は依桜にろくに関心も示さず、ボロアパートの部屋に放置し男と遊び歩く毎日を過ごしていた。一応食事は置いて行ってくれるので完全に見捨てられている訳では無いが、それが愛情ではなくただ死なれると面倒くさいからという理由なのは幼い依桜でも想像に難しくない。
今はちょうど新年があけた1月3日。子供たちは家族と共に新年にしかできない遊びや食事を楽しんでいるのだろう。だが依桜は部屋の隅っこで布団に包まり寒さを凌いでいた。暖房もないこの部屋は特に冬場はかなり寒いし、夏だって灼熱地獄だ。だがここ以外に依桜に居場所はない。外にもほとんど出たことがなく、依桜にとってはここが世界の全てだ。
「つまんない……おもちゃであそぼうかな」
部屋にあるのは真ん中に置かれた小さいテーブル、そして依桜が包まっている布団と後は部屋の片隅に放置されたおもちゃ箱だけだった。父親がいなくなる前に買っていた物らしいが、依桜が赤ん坊の頃なので覚えていない。
中身は戦隊ヒーローのロボ、変身ベルトやプラレールのような男児向けの物の他にもぬいぐるみだったりおままごとセットといった女児向けの物も入っていた。無駄に種類が多く、そして豪華である。少なくとも離婚する以前の父親は依桜のことをそれなりに大切に思っていたようだ。
「……さむい」
布団から出て、寒さに身を震わせながらおもちゃ箱を持ってきてそそくさと布団の中に戻る。薄暗い布団の中で縮こまって、1人寂しくおもちゃ遊びに興じる。それが姫宮依桜3歳の世界だった。
そしてこの日以来、母親が帰ってくることはついぞなかった。
♦♦♦♦♦
母親の帰りを待ち続けていた依桜は、当然食べ物もないので次第に衰弱していき命の危機にまで瀕していたところを隣人によって発見された。彼女は40代の主婦だったのが、滅多に見ない隣の部屋の小さな子供を気にかけてはいたが今のご時世深入りするのもリスクがあると見て見ぬふりをしていた。しかしいつまで経っても母親が帰ってくる気配がないので心配になり、大家に頼み鍵を開けて確認してもらったのだ。依桜にとっては正しく命の恩人だろう。
そうして警察に保護された依桜は児童養護施設で暮らすことになった。そこは今までいたボロアパートに比べれば天国のような環境だ。冬の寒さで凍えることも、夏の暑さで死にかけることもない。優しい職員が世話をしてくれて、お風呂も入れるし食事の心配もない。人間として現代に生まれれば大半の人間が最初から持っているであろう幸福を、依桜は初めて手に入れたのだ。
「わぁ……」
施設に入って2年と少し、依桜にとって転機となる出会いがあった。職員の人に連れられて出かけたデパート、そこに入っているブランドの服に心を奪われた。フリフリのスカートに胸元に縫い付けられたリボン。見た瞬間に心を奪われ、そして自分もあんな服を着てみたいと心の底から思った。
「えっと……0が4こで……なんえんかな?」
教えてもらったばかりの数の数え方で値段を見てみるが、0が多くてわからない。でも子供ながらにとても高価な服だというのはわかった。少なくとも今貰っているお小遣いでは到底足りないだろう。
(おとなになっておしごとしたら……このふくもかえるよね)
初めて依桜にやりたいことができた日だった。引っ込み思案故友達もできず、施設での日々は退屈だったがそれを思えば依桜はヘッチャラだった。そうだ髪ものばして可愛くしよう。服は高くて買えなくても、それならお金がなくても関係ない。それに依桜はもうすぐ小学生、可愛いピンク色のランドセルを背負って登校する生徒を前に見たことがある。そんな風に考えてるとなんだか楽しくなってきた。
「はい、これ依桜くんのランドセル! かっこいいでしょ!」
「……え?」
小学校入学前に職員の先生が渡してきたランドセル、それは当然のように黒であった。てっきり色を選ばせてくれるものと思っていた依桜は、それを見て固まってしまった。
「依桜くん……? どうしたの?」
「あ、……えっと……ボク……ピンクのランドセルがいい」
「え? ……う〜ん、でもピンクは女の子の色よ。それにほら、黒もかっこいいでしょ?」
屈託のない笑顔でランドセルを渡してくるのがなんだか怖くて、それ以上何も言い返せなかった。それ以来何度かランドセルを変えたいと言ってみたものの、返ってくる答えは同じだった。
結局黒のランドセルを背負って小学校に行った依桜はそこで初めて自覚することになる。おかしかったのは自分で、職員の先生が言っていたことはなんの間違いでもなかったことを。
(なに……これ)
教室に入ってみて依桜は驚いた。依桜のクラスは男女それぞれ15人程度、男女は名簿順で席分けをされ男女隣合った席に座っていた。男の子は左、女の子は右、それを表すかのように左には黒、もしくは紺色のランドセル。そして右は赤かピンクのランドセルが机の取っ手にかけられている。
「ね、ねえ……」
「なーに?」
「あの……なんでランドセルの色、黒なの? その……ピンクとかじゃなくて」
「え? だって男がピンクなんて変じゃん。女みたいだし、普通は黒にするでしょ」
勇気を出して前に座っている男の子に声をかけてみた。返ってきた答えは聞き覚えのある言葉、男の子がピンクなんて変。ピンクは女の子の色だと。それを聞いていた周りの生徒も首を傾げている。まだ幼い依桜でも何となく理解出来た。周りの反応が一般的で、自分が異端なんだと。
クラスにスカートを履いている男の子はいないし、髪が長い男の子もいない。みんな示し合わせたかのように短髪で、服も男児向けの物を着ている。それについて疑問に思っているようにも見えない。
(……ボクって……変なのかな?)
何となくわかった事実。それは日を追う事に確信に変わっていった。だけどその残酷な事実を受け入れるには依桜はまだ幼すぎた。だから一度、勇気を出して自分の本音を言ってみることにした。
小学校の行事の学芸会、そこで依桜のクラスはシンデレラの劇をやることになった。配役は立候補で決まり、被ったらジャンケンという形だ。もちろん初めは主人公であるシンデレラ役、担任が希望者がいないか聞いたので依桜は勇気を持って手を上げた。
「え……?」
「姫宮くん……? どうしたの?」
「もしかしてシンデレラやりたいの? 男の子なのに」
「へんなのー。男は普通シンデレラなんてやらないでしょ」
盛り上がっていた教室の空気が一気に冷めた。いっその事笑い飛ばしてもらった方がまだ良かったのかもしれない。だが現実は依桜を奇怪な物を見たような目で見るクラスメイト、コソコソと何やら言い合っている者もいる。担任の先生でさえ、言葉を詰まらせてフォローの1つもしてくれない。
(普通ってなに……? ボクはただ……やりたいことをやろうとしてるだけなのに)
心の中ではそう思っても、口に出して反論することが出来ない。周りの人間全てが宇宙人だと思えるような、そんな感覚だ。いや、他の人から見ればきっと依桜の方が宇宙人に見えるのだろう。とにかく、自分は異端なんだと痛いほど思い知らされた瞬間だった。
それから学校生活を送っていくうちに色々なことがわかった。依桜はあらゆることがらで周りとは違ったのだ。ほとんどの子供には父親と母親がいて、毎日両親の待つ家に帰って暖かい食卓を囲む。児童養護施設で育っている依桜はまずその時点で極小数派なのだ。授業参観には両親のどちらか、あるいは両方が来る子ばかり。依桜には当然誰もいない。
「ねぇ、姫宮くんってお父さんとお母さんいないんだって」
「えー!? なんでー!?」
(……)
堂々と正面から言われることは無いが、コソコソと影で依桜の話をしているのは聞こえてくる。元々内向的な正確であり、加えてシンデレラの件で変な奴認定された依桜にクラスで居場所はなかった。
──キモチワルイ
普通とは何なのか? 考えても依桜には周りに流され、自分の意見を持たない人間の思考停止にしか見えなかった。だけど学校や社会で生きるためには普通にならなければならない。じゃないと排除されるだけ、小学校1年生にして依桜はそんな結論にたどり着いてしまった。
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