滑りのいい簡素な箪笥を開け、寝巻きや下着類を無造作に引っ張り出し、遠征用の大きなバッグに詰める。
「……」
その時、一房の長い前髪の下に隠れるマンハッタンカフェの目元がピクリと動いた。何故ならば、下着が一枚だけ影も形もなくなっていたことを思い出したからである。
それがあろうとなかろうと、あのアグネスタキオンと連んでいる時点で、まして、教室で
「……」
走馬灯のように目の裏を駆け巡る濃密な三日間。濃霧はいまだに外界を覆い尽くし、太陽の光を吸収して紫色に輝いている。
バッグのジッパーを引き、巨大なそれを肩に下げた彼女は、金色に煌めく瞳を揺らし、綺麗に整えられた部屋の全貌を一瞥した。
息を吸い込むと、うっすらとコーヒーの香りと、愛しい香りが鼻腔を撫で、心を落ち着かせた。
「……」
ふう、と慎ましげな口からため息を漏らした彼女は、徐に部屋から外に出、扉を閉じた。
誰もいない空虚な空間に、金属が噛み合う複雑な音が響き渡った。
____原則実家へ帰宅。家族の都合、実家があまりにも遠い、またはトレセン学園近辺に実家がある生徒は、全国に点在する夏合宿用の施設へ避難。それが、カフェテリア襲撃事件を踏まえトレセン学園が下した決断であった。
そして、ここまでしてウマ娘達をトレセン学園から遠ざけるのは、練習用コースに居座る、霞操る紫毒龍――“
「第一部隊現着、続いて第二部隊に第三部隊が____」
静寂が辺りを支配し、道路照明灯の薄明かりのみが存在を許されていた、寮のシルエットを道路と隔てる門前を、物々しいエンジン音が侵略する。
そして、霧の奥より続々と姿を現す青の車体に白いラインが走った箱型の車両が、平穏の象徴たる学舎へ続く正門を通り抜け、横柄に入り込んでいく。
その車内に乗り込むは、バイザーのついたヘルメットで顔を隠し、着膨れするほど重武装を施した者たちであった。
彼らの瞳に燃えるは義憤の炎。しかし、それが燃やし尽くすは、果たして霞龍の巨軀か、自らとトレセン学園というウマ娘達の青春か。
全ては、揺れ動く車内の中で揺れ動く、黒光りした引き金次第である____
『本日より、トレセン学園において有害鳥獣駆除のため警察が出動。周辺の一部道路等に交通規制がかけられることになります。また、駆除対象について明かされてはいないものの、銃声が付近に鳴り響く場合が想定され、周辺住民については自宅待機を徹底してほしいとのことです____』
「何度でも言いましょう!! 猟銃を弾く自己防御力を持ち、土壌へ深刻な被害を与える毒を放つ存在へのこの行動は早計にすぎる! トレセン学園を潰すおつもりか!!」
ぱん、と長机に小さな衝撃が走り、狭い会議室の厳かな空気に静かに溶け、消えた。
紫光が差し込む格式高い木彫の机に下ろされたその両手は、URA、トゥインクル・シリーズの企画・運営を行う一大組織の理事会には不釣り合いなほど小さく、幼い手であった。
青薔薇の装飾が付けられた、青紫のラインが走る白い帽子を被った頭に乗せた、小さな灰猫が毛を逆立て威嚇し、その下の、若き活力の光が湛えられた青い瞳が、枯れ木のような老人達の鈍色の眼光とぶつかる。
少女の瞳を眩しそうに見つめる彼らの口から、小さく、タバコ臭いため息がまろび出る。
「行政の決定事項だ、もはや覆らんよ」
卓を囲む老人の一人が嗄れた声で言ったのは、諦念に満ちた言葉。その瞬間、この理事会に牙を突き立てる若きリーダー――“
「彼らは
「……!!」
またも、白髭を蓄えた老人の口がもごもごと動き、吐き捨てるように言い放たれた諦めのセリフ。その一つ一つが、秋川やよいの心の炎へ燃料として投下される。
机に下ろされた両手に、曇り一つない表面を引っ掻くように力が入っていき、白い前髪が左のこめかみから垂れる彼女は、食いしばっていた口を無理やり開いた。
「それで、あなた方は諦めてしまったと!?」
しかし、この場にいる老人達は、皆
冷たい眼光が、いたいけな少女の猛獣のような表情へ集中する。
「ここで我々が警察の行動を止められたとして、かの存在が民間人に被害を出したとなれば、対応を渋った我々の風評に関わる!」
「奴を殲滅したのちの復興支援の全面的な協力は約束されている。ここは苦しいところだが……」
額に横じわが入り、頬骨が浮き出、今にも折れそうな乾燥した腕を肘付き手を組む老人が語る現実に、秋川やよいは耳が腐るような感覚を覚えた。
「君はまだ若い」
言葉を発することもできず、ただ項垂れた少女を見据える、長机の一番奥に位置する、会議室の状況を静観していた老人が、血走った瞳に力を込め、その錆びついた口をついに開く。
「____その歳でトレセン学園理事長まで登り詰めた君の手腕を我々は高く買っている。だからこそ、滅多な真似はしないでほしいな、秋川君」
「……」
____栄典、賞状、盾が華美に飾り付けられ、華やかかつ荘厳な空気に包まれた、URAというウマ娘達の夢の舞台の舵取りを担う者達が集っているはずのこの場所には、最善を模索することに疲れた者達しかいないのか。
机に突きつけた両手は、いつのまにか固く握りしめられ、血管がミミズのように浮き出ていた。
「……」
今一度、彼女は顔を上げ、老人達の顔をじっくりと目に焼き付けた。そして、目を閉じて彼女が想像したのは、青空の下、青々と茂る大地を駆け抜けるウマ娘という、トレセン学園の普通であった。
どちらが残すべきものか。もはや判断の必要があるだろうか。
「……わかりました」
若きリーダーは栗毛の長髪を優美に靡かせ、踵を返した。そして、礼もせずに出入り口の重厚で堅い扉の前へ立ち、
「善処いたします」
と言い切るや否や、扉をぞんざいに開け、ずかずかと息巻いて扉の向こうへ消えていった。
がちゃん、と閉じ切る音が木霊し、その瞬間、老人達は各々姿勢を崩しきり、大きな嘆息を同時に吐き出した。
蒼穹の空、鋭い日差しの下へ躍り出た秋川やよいは、眉間に皺を寄せ、ピクピクと震える目元を隠さず、碧眼を後方のビル――URA本部へ向けた。
その瞬間、心の奥底から噴き上がってくる激情が突沸。
「いーっっだッ!!!!!」
一発、また一発、ビルに挟まれた道路に、少女の叫び声と、アスファルトに地団駄を踏む音が響いていった。
____夏合宿用の合宿施設。海沿いの自然豊かな立地に建てられたそこは、歩けば床が軋み、床置きのクーラーがざっと10人分の共同部屋に置かれているような、ある意味趣深い施設となっている。
そして、うみねこの鳴く声と漣とが混じり合う大地を燦々と照らすは、深い青に染まった大空に浮かぶ太陽であった。
濃霧が府中市を結界のように覆って3日、そんな短い時間でも、この当たり前の空を見られないことがどれほどのストレスになるのか。ここに訪れたウマ娘達はそれを実感した。
あるウマ娘は砂浜を狂ったように駆け回り、ある芦毛のウマ娘は海の家を回っていた。彼女達だけでは無く、この合宿施設に訪れたウマ娘のほとんどが、3日間の鬱憤を晴らすかのように走って跳ねて転んだ。
そうして時間はあっという間に過ぎ、大空は濃紺に染まった。
「……」
合宿施設のとある一室。総勢10人のウマ娘が集い、ドライヤーの熱風が床置きクーラーの冷風を上回って少し暑い広々とした部屋にて、毛先の濡れた四人のウマ娘が、よれた敷布団の上に腰を下ろし、背中を丸めてスマートフォンの小さな画面に視線を集中させていた。
そこに映し出されていたのは、ウマッター、ウマスダグラム等々、主要なSNSの投稿の一覧。話題になっているのはトレセン学園の現状である。
極めて直感的な文面の下に貼られた画像には、ぼやけたトレセン学園の正門を通る、物々しい雰囲気の青い車両が映されていた。
「……これだと、トレセン学園に近づくことすら…… 骨が折れそうですね」
「……そこも、だが」
右の胸元が猫の刺繍で飾られた薄灰色の寝巻きを身につけた、漆黒の長髪に白い浮き毛が印象的なウマ娘――マンハッタンカフェの言葉に、明らかに丈があっていないシャツに短いズボンが隠れ、艶かしい雰囲気を出している栗毛の少女――アグネスタキオンが、スマートフォンを投げ出しながら後ろに倒れ、億劫そうに口を開く。
「問題は、残り6日間もの期間、どう時間を稼ぐかという点だよ」
木造の茶色い天井を虚に眺めていた焦茶色の瞳が、ギョロリと彼女の正面に座っていたウマ娘の前髪にある特徴的な白い菱形に向けられる。すると、その下の表情がムッと膨れた。
「生産ラインの職員達がプライベートを投げ打って作業しているんです、これ以上のスピードアップはむりですよ」
「運輸に関しての音頭取りはすでに完了していますが、物理的な時間を考慮しても____」
「あーわかってる」
お嬢様前とした優雅な寝巻きに身を包んだ二人のウマ娘――サトノダイヤモンドとサトノクラウンの言葉を切ったアグネスタキオンは、布団にへたったアホ毛を弄りながら、下唇を噛んで唸る。
(VRウマレーターの移設、レースに参加するウマ娘の目どころはついているのにこれかぁ…… モルモット君じゃ流石に警察の部隊相手には……)
「ぐぬぬぬぬ……」
額に手の甲をやり、苦しそうに鳴き声を上げる栗毛の少女を放っておき、ウマッターの画面をスライドしていたマンハッタンカフェは、
ふと、金色の瞳の動きを止めた。
「これ…… 理事長……?」
画像をタッチすると、それは動画となっていて、帽子を被った頭に灰猫を乗せた少女が、大量の人を引き連れ、警察を押し除けてトレセン学園の正門をくぐっていく様子が霞越しに映っていた。
「なーに見てるんだいカフェは……」
訝しげそうにしていたマンハッタンカフェの後ろ姿を見ていたアグネスタキオンは、興味を示したように上体を起こし、
____!!
「おっと……?」
その瞬間、けたたましくスマートフォンが鳴き声を立てた。
暗くなった画面に表示されたのは、“モルモット君”と書かれた電話の待機画面であった。
「我々は! 行政、URA理事会の決定にほとほと呆れ果てた次第であるっ!!」
____そうだ!!
機関銃で両手を塞ぎ、今にも練習用コースへ踏み入ろうとする警察の特殊部隊。そんな彼らの先に位置する、濃霧に沈んだ暗がりから、くぐもった、しかし強い意志のこもった叫びが上がる。
彼らの前に立ち塞がるは、トレセン学園のトレーナーであることを示す小さなバッチを胸に堂々とつける、トレセン学園に勤務するトレーナー達。
そして、その矢面に立つは、片手には、水色を基調とした扇子を、もう片手にメガホンを構える、秋川やよいトレセン学園理事長その人である。
ばん、と扇子を開くと、そこには“抗議”と達筆に文字が描かれていた。
困惑したように互いの顔を伺う部隊員に対し、碧眼に決意の光を湛え、霞の中でも一際存在感を放つ若きリーダーの言葉が木霊する。
「よって、我々はこの場にて、貴殿らの行動が撤回され、より
「一体何やってんだか……」
そんなトレセン学園の様相がライブ映像で送られてきたのだから、さしものアグネスタキオンも困惑を隠せずにいた。
公権力相手に何という無茶苦茶をやる人なのか。アグネスタキオンのスマートフォンを覗き込む四人のウマ娘の見解はそこで一致していた。
『そういうことだから、俺は君についていられないんだ』
「わかったよ。まあしっかりやってくれたまえ。一週間は持たせてほしいね」
ぶつり、ビデオ通話が切れ、LANEのトーク画面に通話の記録が飛び出た。
一斉に3人の視線が自分に向いたのを感じたアグネスタキオンは、
「まあなんだ、多分時間の問題は解決したろうさ。あの理事長が無策で座り込みなんてしないだろうからねえ」
と言いつつ、ふむ、と口元に手をやり、
「まあしかしカフェや我々の移動云々用意しておかなきゃあいかんことは色々ある。順番に片付けていこう」
そんな彼女の指示に、顔を突き出していた3人のウマ娘は頷いて返すのだった。
「今の私は、……
「こんな新時代のエンターテイメントに参加できて心が躍って仕方ないよ。こちらこそよろしく。ポニーちゃん」
「霧が晴れるように願って、このレースに勝ちます!」
「……」
「マーベラァース! に勝っちにっいく〜⭐︎」
「わ、私も……!」
(……やるからには、勝つ)
(マ、こういった環境で走るってのも、今後あるかもしんねェしな)
次回、「