貝殻に耳を当てたような音が静かな暗夜に染み渡っていく。宝石をばら撒いたような天井の星の海に浮かぶ三日月が冷たく輝き、夜の海に星屑を散らして煌めかせている。海から吹いてくるぬるい風には潮の香りがほのかに乗り、闇に紛れ、浮いた毛先がチラチラと月光に照る黒髪を手で抑え、長いまつ毛に光を湛えて目を閉じる少女――マンハッタンカフェの鼻を抜けてゆく。
計画実施日まで、実を言うと彼女のすることはほとんどないと言っていい。アグネスタキオンを始めとした主要メンバーが、彼女に対して負担が発生しないように立ち回っているが故の“暇”。日中は鈍らないようにトレーニングをし、夜になると、こうして合宿施設のバルコニーに一人赴き、夜の海を眺める。彼女はそうして今日まで時間を潰してきた。
目を開き、闇夜に金色の瞳をあらわにしたマンハッタンカフェは、楽しそうな影と鬼気迫る影、二つの影が疾走する砂浜を遠目に見た後、踵を返した。
そうして、いつものように部屋へ戻ろうとした。
しかし、今日ばかりは様子が違う。
「……」
何故ならば、出入り口の窓から溢れる光を背に立ちすくむ、一人のウマ娘を見たからである。
それは、曇った金色の瞳を雨に濡れた子犬のように震わせ、光をも吸収する黒髪を垂れ下げ、白い浮毛が頭頂部を彩り、色白な素肌を紫色の制服で包んでいた。
マンハッタンカフェは、そのウマ娘のことをよく知っていた。
彼女は
「……」
「まだ、いたんですね」
潮風に乗って、マンハッタンカフェの平坦な言葉が、こぢんまりとしたバルコニーに消えていく。
相変わらず、
そして、マンハッタンカフェと
「……」
沈黙が周囲を満たす。風に揺れ、黒髪が儚い表情をちらつくマンハッタンカフェは、震える金色の瞳から目を離さず、しかし、何もしないで立ち尽くすまま。
対して、
が、やはり、星空の穏やかな光を溜めた金色の瞳は、一片の揺らぎも見せずにいた。
「あなたも…… 私なら、わかっているでしょう……」
にべもない語調の言葉が投げかけられる最中、冷感が頬に押しつけられ、内側へ入り込んでいく。五指が、掌が、手の甲が、
それでも、マンハッタンカフェは瞬きひとつせず、
「今の私は、……
瞬間、彼女はまるで走り去るかのように、マンハッタンカフェの肉体をすり抜け、消えた。
視界の先にあるのは、人工の光をふらふらと灯した部屋に戻っていた。
胸に手を当てると、妙に鼓動が騒がしく、ふと、呼吸が浅いことに気づく。胸元から手を離し、脱力させたそれに目をやると、薄寒さに喘いでふるふると震えていた。
しかし、そんな手で握り拳を形成すれば、震えは簡単に止まった。血が堰き止められ、僅かに見える掌か血の気が引き、拳の中心に燃え上がる熱が薄寒さを吹き飛ばした。
「……もう、大丈夫」
虚空に目をやり、そう一言告げた彼女は、確かな足取りでバルコニーを後にした。
その日、彼女の足は、寝泊まりしていた部屋へ向かなかった。
“VRウマレーター”
VR空間に仮想世界を構築し、その内部へ意識ごとフルダイブすることにより、ありとあらゆるトレーニングやレース、果てにはファンタジーゲームですら、自分自身がそこにいるように行うことができる夢のマシン。その巨大な筐体がずらりと並べられ、冷却ファンの音が喧しいとある一室に、四人のウマ娘が集結していた。
「決行の時はきた」
焦茶色の瞳に狂気の光を灯し、淡く水色に輝く液体が注がれた試験管が備え付けられた白衣を纏ったアグネスタキオンが口火を切った。
「10000台の家庭用VRウマレーター、その輸送、配布は滞りなく、特設サーバーへの接続状態も良好、です!」
額の白いダイヤモンドを揺らし、サトノダイヤモンドはにこやかにアグネスタキオンに続いた。
「いささか
3人の視線は、金色の装飾が施された漆黒の外套を身につけたウマ娘――マンハッタンカフェの、一房の長い前髪の裏に隠れた顔へ集中する。
ふと、そんな彼女の前へ足を運ぶ者が一人。
マンハッタンカフェの眼前で、長い袖を垂れ下げ、ふてぶてしい笑顔を浮かべるのは、アグネスタキオンその人であった。
「……そういえば、あなたも走るんでしたね」
「フクキタル君からのお呼ばれだ。……それに、こう言う機会は中々ないし、走らない理由がないよ」
くつくつと笑みを絶やさないアグネスタキオンに対し、マンハッタンカフェはあくまでも毅然として相対していた。
すると、アグネスタキオンの口元から笑みが消え、焦茶色の瞳が改めて金色の瞳を捉える。
「……さて、再トライ不可、一発勝負のこのレースを、君は確実に1着でゴールしなければならない。わかっているね?」
目を伏せ、ゆっくりと開いたマンハッタンカフェは、静かに首を縦に振った。それを見届け、アグネスタキオンは一つため息。
「うん。待たせていることだし、早速始めよう。フクキタル君、しっかり頼むよ」
「当然ですっ!」
マチカネフクキタルの元気いっぱいの掛け声を背に、白衣を纏ったウマ娘と漆黒のウマ娘は、鉄の棺のような造形のVRウマレーターの側面のボタンを押す。すると、ガスが噴出するような音と共に蓋が開く。
まるで口を開いて待つ肉食獣のような様相のそこへ横たわり、その瞬間、蓋が閉じ、視界が闇に包まれる。
意識がぼやけていく。
深く、深く沈んでいく____
視界が白一色に染まり、だんだんと輪郭が視界に現れ始める。
「……ん」
眩しそうに目を擦り、金色の目を何度か開け閉めして、次第に定まっていく視界を注視していたマンハッタンカフェは、
「……!?」
次の瞬間、驚いたように青い空を見上げ、そこを
それは、ウサギをモチーフにしたようなキャラクターや可愛らしいメカ、果てには木材が無理やりキャラクターとしてデフォルメされたようなデザインのアバターたち。視界を水平にすると、やけに簡素で、稀にテクスチャーにノイズが走る観客席にも、所狭しとアバターが詰められ、目に毒な色彩を放っているのであった。
そこからアバターが飛び出して、機械的に青い空を舞ったり戻って行ったり、そんな奇想天外な状況を見て、マンハッタンカフェは目を丸くする。
(これが、観客たちの仮の姿ということですか)
一歩踏み出すと、現実世界と同じように、芝が下の方の脛やアキレス腱をくすぐってこそばゆい感覚がする。しかし、上空には病床に臥した際に見る夢のような光景が広がるという矛盾は、マンハッタンカフェの夢現な思考回路をさらにいじめる。
(酔いそ…… !)
そんな彼女の黒い耳が、ふと、前方に気配を覚えて震えた。
顔を上げると、そこにいるのは7人のウマ娘。皆各々の勝負服を身に纏い、刺々しい微笑みを浮かべ、マンハッタンカフェの儚い無表情を見定めていた。
「……」
彼女たちの前へ、黒い外套と艶やかな長髪を揺らして踊り出、立ち止まったマンハッタンカフェは、硬い口元を綻ばせた。
「……今日は、よろしくお願いします」
すると、その7人のウマ娘の中から、マンハッタンカフェへ歩み寄る者が一人。
浅葱色の瞳に光を湛え、緑と黄色のアクセントが効いた黒いタキシードを身につけ、はだけた豊満な胸元を心許ないネクタイで隠す、美男子のごとしウマ娘――フジキセキである。
「こんな新時代のエンターテイメントに参加できて心が躍って仕方ないよ。こちらこそよろしく。ポニーちゃん」
「霧が晴れるように願って、このレースに勝ちます!」
さらに、フジキセキの隣へ躍り出たのは、紫と白を基調とした可憐な勝負服を着て、紫の瞳に闘志を輝かせた、しかしどこかあどけなさを感じるウマ娘――スペシャルウィークであった。
「……」
芝に集ったウマ娘達から一歩引き、刺々しく粘着的な異様な雰囲気を発してぶつぶつと何かを呟きながら虚空を見上げる、栗毛の髪に緑色のメンコが特徴的なウマ娘――サイレンススズカ。
「マーベラァース! に勝っちにっいく〜⭐︎」
「わ、私も……!」
両腕を広げ、全身で感情を爆発させる、武骨で巨大な髪飾りで栃栗毛の長髪をツインテールにし纏めあげた、極彩色の華やかなドレスのような勝負服のウマ娘――マーベラスサンデーに、少し及び腰になりながらも、内に秘めた熱い心を溢す、軍服を思わせる緑と黄色のジャケットに、胸元にベルトで固定されたマフラーを揺らし、深緑の帽子を被ったウマ娘――ゼンノロブロイ。
(……やるからには、勝つ)
(マ、こういった環境で走るってのも、今後あるかもしんねェしな)
満点の星の海を想起させる青い勝負服に身を包み、片耳に星のマークがついたメンコを被せた両耳を少し倒し、胸元に握り拳を置き、静かに目を伏せるウマ娘――アドマイヤベガに、頭を掻きつつ出走ウマ娘の様子を冷静に注視する、青いダメージペイントが走った黄色のシャツに黒い上着とショートパンツ、腰に青いバンダナを靡かせる強面なウマ娘――エアシャカール。
十人十色に見える彼女達に共通することは一つ。
その目に灯した炎は、自分以外の全てを喰らい尽くそうと猛っていることである。
「おやおや、怖気付いたかい?」
ポンと置かれた細い指の手。そして、人をイラつかせる太々しい言葉遣いに、マンハッタンカフェは目を閉じ、
「……どの口が?」
と、手を払って不敵に微笑み、背後から隣にきたアグネスタキオンのニヒルな顔面を見て呟いた。
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