練習用コース。三つの異なるトラックからなるそこは、連日の濃霧に伴い閉鎖され、整備のための車両も出入りがない状態となっていた。警備員も校舎を中心に配置されているため、ここ3日間、練習用コースの付近を直接見た者はいないといっていい。
そんな、時が止まったように静まり返り、青く暗くなった空に、ライトの光が朧月のようになって点々と広がる光景が一望できる簡易スタンドに、あってはならない二つの足音がくぐもって響く。
「っ、はぁ、はぁ……」
「……!!!」
電灯がついたスタンドの、コースに一番近い手すりに寄りかかり、水っぽい空気を苦しそうに吸っては吐く栗毛のウマ娘――アグネスタキオンの隣で、息を荒くした黒髪のウマ娘――マンハッタンカフェは、金色の瞳に震えを生じさせる。
例によって、目の前に広がっているはずの、重層的に構成されたコースは、懐中電灯がなければ外ラチが辛うじて、後はぼんやりと浮かぶ光の玉が規則正しく連なっているのが視認できるのみ。
しかし、マンハッタンカフェの鋭敏な感性は、霞の奥にひどく怯えていたのである。
「……いますよ、……多分」
「ふぅ…… そうかも、知れないねぇ。はぁ…… そういった所は鈍感な自負のある私だが…… 何故だか背中が冷たい感じがするよ」
息が詰まりそうになるのを感じながら言葉を捻り出したマンハッタンカフェへ、息を整え自立したアグネスタキオンは、平時の余裕な笑みに翳りを見せて同調する。
立っているだけで肌が湿ってくるような霧の中で、二人は顔を見合わせる。
「さて…… 時間的に探索できるのは30分ぐらい、行きは欺けたが、帰りもなるべく警備員に見つからないようにしないと、か。全くスリリングさが増してきたねえ……」
そう言い、はっは、と笑ってみせるアグネスタキオンであったが、その笑い声に勢いが無いのは誰が見ても明白である。
そんな彼女の表情を見つめ、マンハッタンカフェは、逆に胸が暖まるように感じる。
彼女視点、何にも恐れを見せなかったアグネスタキオンが、本物の未知に遭遇した瞬間、悪寒に身を震わせている。それは、彼女自身と同じなのである。
「……怖いん、ですね」
「君に言われたくないよ」
お互いに心の底を吐露し、すると、不思議と二人の強張った肩から力が抜けていく。
焦茶色の瞳と金色の瞳。その両方にあるのは、間違いなく恐怖の翳りである。
が、それと同時に、一つの光も湛えられているのだった。
「……何が起こるか…… わかりませんよ?」
「わかり切ったことを言うんじゃないよ」
微笑み、まるで自分に問いかけるように言うマンハッタンカフェの言葉を、鼻で笑って一蹴したアグネスタキオンは、徐に手を差し出す。
「さあ、お互いの目的を果たしに行こうじゃないか」
「……」
彼女の手の上に、血の気の悪い白磁のような手が重ねられた。
「……いきましょう」
固く手を結んだ二人の影は、スタンドの出口を通り抜け、霧の奥深くへ消えていく。
さく、さく、と、芝を踏み抜く音が、やけに耳に残るように感じながら、マンハッタンカフェは周囲に注意を配り、気を張り詰めながら、慎重に足を前へ出す。
そのような様相であるが、一方、懐中電灯を持つ手とは反対の手は、人肌の柔らかな温もりを精神にわたらせているためか、彼女の呼吸は深く、落ち着いている。それは、マンハッタンカフェの体温を感じながら懐中電灯をそこかしこへ向けるアグネスタキオンも同様であった。
「何か、見えましたか……?」
「いいや何も。でも、君も感じているだろう? 一層気配が濃くなってきているのを」
手汗が染み出し、混じり合うのも構わず、二人は手を握る力を強める。痛いぐらいが丁度よかった。その方が、この霞に沈んだ世界で正気を長く保っていられるからである。
いや、自らこの世界に足を踏み入れてしまった時点で、簡易スタンドのあの場所で手を繋いだ時点で、すでに正気ではなかったのかもしれない。
しかし、彼女たちは足を進めるしか無い。それ以外の選択肢は捨ててきている。
____と、その時。
「つおっ……と」
ガクン、とアグネスタキオンの視界がぐらつく。それと同時に足から全身に伝わる衝撃。整備をしたとしても完全に消しきれない、ウマ娘の脚力によって抉られた跡。そこに足を取られてしまったのである。
「あっ」
そして、その骨に伝わる振動に驚いた手が、思わず懐中電灯を離してしまい、前方へ吹っ飛ばしてしまう。
くるくると軌道を描き、ドス、とお尻から落下したのは、内ラチを乗り越えた先。湿って少し緩くなったダートコースの上である。
「あっちゃあ、すまないカフェ」
「何、しているんですか……」
幸い光は点きっぱなしのため、落とした場所は丸わかりである。小走りで内ラチへ駆けていくアグネスタキオンに引っ張られて、マンハッタンカフェも渋々駆け出す。
____その、一瞬のことであった。
空気を切り裂く
しばらくして停止し、すぐに光が消失したのである。
くぐもって聞こえにくいが、確実に
「……光、今消しても遅い…… ですかね」
「消そうが消さまいが、そもそもこんな霧の中に身を隠す奴だ、関係ない……」
はなから、観察されていたのは私たちだったのかもしれない。そう口にしようとした途端、アグネスタキオンの耳がピンと立つ。それは、ぴったりと肩をくっつけているマンハッタンカフェの漆黒の耳も同じである。
そんな二人を憐れむかのように、または、嘲り罵り謗るように風が鳴く。
すると、奇妙にも、青みがかった濃霧が薄まり、練習用コースの全容がぼやけて視認できるほどに澄んでいく。
もはや、肩越しにお互いの心臓の音が聞こえてくるように感じられるほど、二人の鼓動は早まり、興奮し、警鐘を鳴らしていた。
___にげろ、はやく。
しかし、そんな本能に反して、彼女たちの脚は、地面に突き刺さったように動かない。
何故なら、そんな
「……!!」
さらに、二人の耳に、聞こえてほしく無い音が滑り込み、萎縮した脳みそを叩く。
それは、とす、とす、と、まるで砂の上を
発生源である前方には、薄く霞のかかった空間が広がるのみ。
____それと同時に、彼女たちを蝕み、なぶり壊す重圧も、加速度的に上昇していく。
「……っ」
ついに、マンハッタンカフェの痩せた体にしなだれかかるようにして、アグネスタキオンの脚から力が抜ける。
驚いたように一瞬眉をひくつかせたマンハッタンカフェであったが、決して責めるような言葉を口にすることも、思い浮かべることもしなかった。
とす、と、再び近づいてくる音が鳴る。
頭蓋骨の内側から全方位をハンマーで殴られているような頭痛が鎌首をもたげ始め、耳鳴りが平衡感覚を奪い、視界がぐわんと揺れ始める。
立っているのか立っていないのか、一瞬見失いそうになりそうになりながらも、肩にもたれかかる、いっそ愛しい生きている感覚。そして、寄り添ってくれている人ならざる“お友達”。その二つが、マンハッタンカフェの金色の瞳から生気を奪わないでくれている。
とす、と、再び近づいてくる音が鳴る。
____ふと、半開きになった口から涎が滴っていることに気がついたアグネスタキオンは、震えて定まらない手で口元を拭い、力なく沈黙した脚へ、再三目を覚ますように必死に促す。
しかし、いくら命じても、大腿を叩こうとも、尻尾を逆立てようとも、彼女のしなやかで細い、レースにおいては一級品の脚は返事を返さない。
(ええい、ポンコツめ……!)
そう心内で毒づく彼女の引き絞られた耳に、とす、と、さらに距離がつまった音が入り込み、びくりと肩が跳ねる。
その瞬間、顎の先から冷や汗が滴り落ち、芝の葉の先を垂れ下がらせた。
「……」
「……」
風が止んだ。
静止した闇の中で、動くものはなかった。
金色の瞳と、光を失いかけた焦茶色の瞳の瞳孔が、いよいよキュッと閉まった。
マンハッタンカフェの制服を握りしめていた少女の手がさらに握力を強め、皺が深くなった。
嚥下音が、二人のちぎれそうなほど立ち上がった耳を宥めようとしたが、失敗した。
小腸を掴まれ、鼓動のリズムで握っては緩められているような腹痛がキリキリと存在感を上げ始め、むかついた胃が痙攣して、口内に涎が溢れ始めた。
揺れる視界が遠くなり始めた。しかし、何故か楽になれなかった。
風切音が霧を突き破った。
(……えっ)
視界が横倒しになって、目の前に露に濡れた芝が林立していた。じわりと冷たさが半身を駆け巡った。
アグネスタキオンは、自分がどうなっているのか理解するのに、約10秒の時間を要した。
そして、彼女は自分が横たわっていることに気づいたのだった。
(……
ポタリ。
やけに粘性の高い雫が、彼女の見開かれた目の前に落ちた。
「うぅっ……ごほっ、げほっがふっ!」
「カフェ!!」
『くるるる』
次回、「