奇妙な浮遊感、腹部に締め付けを覚え、重くなった黒髪を揺らすマンハッタンカフェは、思わず下へ目をやった。
そこには、薄暗闇のベールに包まれた地面に臥したアグネスタキオンの背中と、芝についた水滴が僅かに煌めいている光景が広がっていた。
そして、視界の端で空気を蹴っているのは、自身の細い脚であった。
「ひ……っ!!!」
咄嗟に表情の色が変わり、不自然に皺がより、じわじわと湿っていく腹部の空間へ手をやったマンハッタンカフェは、そこに、生暖かい液体が張り付いた、柔らかく、しかし確かに押し返してくる
そして、強まることもなく弱まることもない、何かが腹部に巻き付いているような圧迫感。その理由を悟った彼女の頭から、悲鳴をあげる
「いやっ、はあ、やめ、て……!!」
見えない何かの隙間に五指を入れ、その瞬間、指にへばりついてくる温かな粘液の気持ち悪さに顔を歪めるでもなく、ただ、蟻地獄にはまった哀れなアリのように、マンハッタンカフェは何かの拘束を解こうと腕に力を込める。
しかし、人の数倍もの筋力を誇るウマ娘の抵抗に、それは、張り付いた制服から離れる気配すらみせない。
「っ……! うっ、あっぐ……!!」
脚をばたつかせ、殴り、つねり、叩き、引っ掻き、
「はぐ……!!! んくっ……!!!」
ついには、自身の短い犬歯を大口開け、渾身の力で突き立てるようとするも、ただでさえ腹回りを締め上げる何かが邪魔をして背中が丸まらず、顔から腹までの距離も相まって、口は空を噛み裂くだけ。
むしろ、ツンと酸性の臭気が鼻を蝕み、彼女の喉奥を痙攣させる。
「うぶっ……は、はぁ、はぁ……!!」
飛び跳ねるように口を離し、その拍子に口の中から透明な汁が飛び散る。
頬を真っ赤にして肩で息をする彼女の目尻に涙が浮かんだのは、口内の不愉快さからか、それとも、自身の短い人生に見切りをつけたからなのだろうか……。
____その瞬間であった。
「……!?」
涙に溺れ、少し血走った金色の目が見開かれる。
何故ならば、まるで、目の前の空間が歪んでいくように見えたからである。
歪んだ空間は、段々と形を得て、定まっていく。
「……っ!」
そして、崩壊寸前のマンハッタンカフェの目の前で、
それは、薄く光沢を湛えた、柔らく湿った紫色の外皮で全身を包んでいた。
それは、幾つものねじまき状の器官を生やした平べったい尻尾を、ダートコースの砂へ静かに打ち付けていた。
それは、ヤモリやカメレオンを連想する、第一関節が膨れた三つ指の手足を地につけ、腹を地面に擦り付けて自立し、一対の、先に穴が空いたり破れた跡がある皮膜を畳んだ雄々しき羽を背中に携えていた
それは、飾り気のない平な頭から鼻先にかけ生えた、一本の角の鋒を、それの
それの目玉が、眼前の恐怖に喘ぐ顔へ向けられた。
それは、今朝、マンハッタンカフェが腰を抜かした視線と同様、粘ついて、精神の隙間に根を張り、侵してくるようで、目を逸らした瞬間、自分がどうなっているかわからないという実感を湧かせる、危険な純粋さに満ちていた。
____はっ、はぁ、は…… はっ……!!
このまま気を失うことができれば、どれほど良いか。“それ”の目線に釘付けとなった哀れな少女は、顔を青くして、浅く呼吸を繰り返していた。
____にべもなく、“それ”は行動を始める。
『ぐぱぁっ……』
長い舌を出し、半開きとなっていた口が開かれる。
上顎と下顎がそれぞれ上下に動き、先ほどマンハッタンカフェがそれの舌へ突き立てようとしていたものなぞ、遠く及ばない長さの犬歯を剥き出しにする。
一度噛むだけで、おそらく心臓まで届く。
「はぁ…… はぁ……」
突如として目の前に現れた死。しかし、マンハッタンカフェは、もう暴れたり喚いたりすることは無かった。耳を項垂れさせ、浅い呼吸を繰り返しながら、彼女は来るべき未来を受け入れる準備をしておいたのである。必死に、言い聞かせるように。
すると、ほのかに脈動している舌が引き戻されていく。そして、マンハッタンカフェの青白い美貌を、開かれた口の目の前へ持っていく。
____いま、ここで“それ”が口を閉じれば、練習用コースの芝を、血と脳漿の滝が彩ることになるだろう。
「……ひゅっ」
しかし、“それ”は、一向に口を閉じようとしない。
その時、全力で身を引かせていたマンハッタンカフェの萎びた耳を、ある異音が叩き起こす。
ネズミよけが可愛く思えてくるほどうるさい超音波、そして、吐く寸前、空気が漏れる時の音____
プシュ、と何かが噴き出す音。
「へ____」
声を漏らしたのも束の間、彼女は何かにぶん殴られたような衝撃を覚え、引いていた身をさらに引かされる。
海老反りになっている彼女が見えているものは、黄色っぽい白の水蒸気。
「うぅっ……ごほっ、げほっがふっ!」
それが少しでも肺に入ると、焼けつくような痛みが胸を伝播し、隠れていた額が露わになっていた彼女の気道は身体に侵入した異物を排除しようと咳を吐き出させる。
じわじわと鼓動と共に痛む胸を押さえたマンハッタンカフェは、その瞬間、苦しみ喘いでいた表情を凍らせた。
(すっちゃ……!!!!)
咄嗟に口元を塞ごうと手を動かし____
しかし、時すでに遅し。
「か、あっ……」
刹那、全身が重だるく垂れ下がる。まるで、全身の筋繊維を一斉に握りつぶされているような激痛が、マンハッタンカフェのヒビの入った精神へ追い打ちをかける。
「おあ……が、あ……」
ガクンと首がおれ、びくびくと引くつく口から、とめどなく酸っぱい匂いを醸す唾液が流れ落ちて、それの舌に垂れて混ざっていく。
少し指を動かせば即座にこむら返り、見えるもの全てが二重に重なって見え、それの薄べったい顔面が二個にも三個にも増え、縦にも横にも斜めにも見える。
「カフェ!!」
友人の叫び声が下より響き、耳を動かそうとして、耳の筋肉が攣る。
横隔膜が内臓にへばりついているようで、本当の意味でろくに息を吸うことすらままならない。
「かはぁっ……」
そんなマンハッタンカフェを、それの巨大な目玉は興味深そうに観察しているようで、時折頭をかくんと横へやり、苦悶の表情で沈黙してしまった少女の、無駄な肉のない痩せた肢体をじっとりと眺めていた____
そんな彼の襟巻き上の器官がついた顔面のすぐそばで、霧が
『きゅりゅああッ……!!?』
甲高い悲鳴が、霧の中へくぐもり、消えていく。
奇妙な浮遊感が、マンハッタンカフェの全身を包む。腹回りの拘束感は無く、彼女の覚束ない目は、上空のぼやけたライトの光へ向いていた。
さらに、重力に引かれていくような感覚と共に、彼女の視界が下がっていく。
すると、彼女の目に映ったのは、舌を引っ込めよろける紫の巨軀であった。
「っ!」
体を縛っていた濃密な圧力が霧散し、アグネスタキオンは、脂汗と霧で光沢を湛えた顔をハッと上げる。
そこに見えたのは、空中を舞い、手足を上空へ伸ばし、力無く落下する友人の影。
それに驚くのも束の間、ズン、と腹の底に地響きが伝わり、むかついた胃が再び痙攣。アグネスタキオンは頬を膨らませて目を見開き、噴火寸前の口を押さえる。
『くるるる』
その地響きとは、“それ”が一歩、脚を前へ出した音である。長い鼻先を振り回し、周囲を窺うようにして見回す彼は、徐に舌を口から垂れ下げる。
(奴は見えて___ いや、先ずは……!!)
「むぐっ……う」
____立ち上がれる。
口から少し漏れた液体を、憚る暇もなく手で拭い飛ばし、上空のマンハッタンカフェに目を釘付けにしながら、アグネスタキオンは、震える足に鞭を打つ。
その瞬間、彼女の視界の中に、鞭のような何かが一瞬過ぎった。
『きゅいいっ』
頭上から、それの甲高く掠れた鳴き声が、アグネスタキオンの敏感な耳へ入り込む。
再び、栗毛の少女の視界に、しなった何か――それの舌が一閃。
「っ……! そこで
震えながら立ち上がったアグネスタキオンの叫びに、空気の揺らぎが震える。そこへ、それの舌が突き刺さり、霧が円形に広がる。
____その間も、マンハッタンカフェの落下は止まらない。
「……!!」
うまく抱き止められなければ即死の高さ。抱き止めたとして怪我をさせないようにするには……
しかし、そうこうしているうちにも、マンハッタンカフェの背中は目前に迫る。アグネスタキオンには、選択の余地も時間も与えられていない。
決死の覚悟で、歯を食いしばった彼女は両腕を前へ出す。
そこへ、黒髪を艶やかに靡かせ落ちてくるマンハッタンカフェの背中が、そして頭が収まり___
「く、おおお!!!」
瞬間、アグネスタキオンの細腕が、筋彫りを浮かべて膨れる。そして、速度を無理やり落として、マンハッタンカフェのぐったりした身体を芝へと着地させる。
同時に伝わる落下の力が、彼女の全身の筋肉の悲鳴となって、神経系を駆け巡って脳を掻き乱す。
「っつああっ……!!」
痛む腕、痛む腰、そしてやりきったという達成感による虚脱。
アグネスタキオンは、マンハッタンカフェの胸の上に額を落とし、アホ毛がふわりと前に飛び出た。
その瞬間、再び地鳴りが二人を揺らす____
重い。重い。身体が泥に沈んでいるように重い。
息を吸うだけで、胸の奥が痙攣するように苦しい。しかし、息を吸わなければならない。
泳ぐ視界に映るのは、紫色の化け物の周りを飛び回る、手を伸ばしてやまない後ろ姿____
「……ぁっ、っ……!」
声を上げようとするが、わずかに開いた口から漏れるのは空気の音。喉の奥の感覚は断ち消えていた。
『くるるっ!! キャウッ!!』
紫の怪物の振り回す舌は、マンハッタンカフェと鏡写しのシルエットをした存在――お友達の存在する空間を切り裂き、一瞬、濃霧の中に間隙を作り出す。
左右別々に巨大な眼球が蠢き、一見何もない空間を追い続けるそれは、まるで____
(見えているの、お友達が……)
瞬間、半ば熱暴走状態の脳に、ドクン、とノイズが走る。
(何____)
そうこうしているうちに、再び脳が悲鳴を上げる。半開きの口をもごもごと動かす彼女の脳裏に、誰かの気持ちが入り込んでくる。
アグネスタキオン? いや、違う。
では、お友達? それも違う。
(……もう、やめて。お友達、っ)
その気持ちは、蚊を鬱陶しがる人間と同じ。
対して痛くもない攻撃を受け続ける不愉快さと同じ。
(彼を、怒らせる前に……)
途端に、虚な金色の瞳が見つめていた先で、緩慢に繰り広げられていた攻防が止まる。
腹這いの四足歩行だったのを、上体を起こして立ち上がっていた紫の怪物は、シュルシュルと長く太い舌を戻し、角の鋒とつぶらな瞳を向ける。
果たして、単に慣れただけなのか。
マンハッタンカフェは、その瞳に先ほどまでの重圧を感じていなかった。
(____お願い、です。彼の思念を、私に流す手伝いをして、ください)
____アナタヲ、キズツケタ。タスケラレナカッタ。
『ワタシは何? わからない。ワタシは何? 不思議!』
『ごめんね。怖かったんだ、君』
次回、「