霞の奥の幻影   作:にわとり肉

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 ちょい短い


好奇心(コウキシン)はウマを(コロ)

 「ぶはっ!?!?」

 

 汗と唾液の匂い、柔軟剤の香りが混ざり、ツンと鼻腔に突き立てられる。水中から息継ぎをするように顔を上げたアグネスタキオンは、横筋が幾重も入った焦茶色の瞳を白黒させ、ふと、自身の太腿と片腕に重みを感じる。

 下に瞳を落とすと、そこには____

 

 「か、カフェ……!」

 「う、あい、あ……」

 

 唾液と胃液とが混じった液が乾き、その後に長い黒髪が張り付き、紫色の唇を覚束なく動かす友人の姿があった。

 いつになく焦燥に駆られ、友人――マンハッタンカフェの力ない顔の頬へ、もう一方の手をやり、生気を感じない冷たさを覚えた彼女は、

 

 ____後方から、悍ましき視線を感じた。

 

 瞬間、混乱していた彼女の頭脳が理性を取り戻す。

 湧き上がる先ほどまでの記憶。“何か”に持ち上げられ、薄黄色のガスを浴びせられたマンハッタンカフェの姿。それを見て、叫ぶことしかできなかった自分。

 

 「っ……!!」

 

 ぎっと歯軋りをし、眉間に皺を重ねたアグネスタキオンは、その激情のままに後方へ振り向いた。

 

 そして、暗き霞の中で、蜃気楼のように鎮座している、紫の怪物を見た。

 

 ____しかし、巨大な両眼をしきりに動かすそれは、アグネスタキオンを歯牙にもかけず、ただ、今にも消え入りそうな金色の瞳を見つめていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (____お願い、です。彼の思念を、私に流す手伝いをして、ください)

 

 今にも霧散してしまいそうな意識を繋ぎ止めながら、マンハッタンカフェは、自身の目の前に居る、自分自身と鏡合わせの姿をする存在へ懇願する。

 しかし、その存在の耳は引き絞られ、紫色の怪物を射殺さんとばかりに睨みつけているように感じられた。

 

 ____アナタヲ、キズツケタ。タスケラレナカッタ。

 

 耳ではなく、直接心に響く声が聞こえる。眠たげに細められている瞳を、怪物の鼻先の角の鋒へなおも向けているマンハッタンカフェへ、その存在――お友達は、まるで、親が子を諭すように囁く。

 

 ____コワガッテ、イルデショウ。アレヲ。

 

 しかし、一度決心をしたマンハッタンカフェは、決して揺らがない。

 

 (怖いのは、わからないから…… でも、一つ、わかったんです。彼は、今、私達に敵意を…… 向けていない。……興味が、あるだけ、なんです)

 

 細まった金色の瞳から、光は消えていない。

 

 (お互いを、理解できれば…… あるいは、この、状況を……)

 

 お友達の背中が丸まり、俯く。しかし、マンハッタンカフェは譲らない。

 

 (……お願い。……私の意識が、飛ぶ前に)

 

 ____……

 

 瞬間、疲労し切っていたマンハッタンカフェの肢体が、驚いたように跳ねた。

 知らない情報が流し込まれていく感覚。自分自身が流れ出ていく感覚。紫色の怪物と自分が、近づいていく感覚。

 悲痛そうに顔を歪め、耳元で叫ぶ友人の声も聞こえずに、ぐらついた彼女の精神は、首を傾げた怪物に向き合った。

 

 『……っ』

 『君たち、不思議』

 

 ファーストコンタクトを取ろうとした瞬間割り込んできたのは、幼い少年のように透き通った声。

 それは、目の前の怪物が発した精神の色を示す声。くりくりと目を左右上下に動かし続け、怪物の精神は楽しそうに言葉を紡ぐ。

 

 『人の割に強い。()()()()()()()()()()には程遠い。君たち、不思議』

 

 脳を撫でられ、ふとした拍子に握りつぶされそうな不愉快さを感じながら、霞んだ視界に怪物を収め、マンハッタンカフェの精神も口を開く。

 

 『あなたは、何者…… なのですか』

 『ワタシは何? わからない。ワタシは何? 不思議!』

 

 心が通う感覚を面白がっているのか、ねじまき状の器官が並ぶ平べったい尻尾を地面に打ちつける怪物に対し、吹けば消えてしまう蝋燭のような精神のマンハッタンカフェは、少しの焦燥を交えて言葉を吐き続ける。

 

 『あなたは…… どこから来たのです、か』

 『どこから? ここじゃないどこか。弱い奴は喰われるところ。ここ不思議。弱い奴がいっぱい。面白い』

 

 ケタケタと笑うように目を動かす怪物をよそに、マンハッタンカフェは、自分を構成しているものがふやけ、崩れていくように感じる。夢と現実との狭間を漂い、夢へ押し流されていく。

 手を伸ばす先にいたのは、怪物がせせら笑う姿。

 

 (……まだ、まだ……!!)

 

 しかし、彼女は溺れていく。深く沈み込んでいく。

 

 『っ、……!』

 『ごめんね。怖かったんだ、君』

 

 現実の肉体が、肩が、腕が、指先が攣るのも構わずに上がっていく。まるで、何かにしがみつかんとするように指が泳ぐ。

 

 『あなた、は……! 何をしたいんです……!?』

 

 怪物は、なんの感慨も抱いていないように答えた。

 

 『もっと知りたい。もっと欲しい』

 

 そして、今までおちょくる様に蠢いていたつぶらな瞳が、ぎょろりと溺れて沈んでいくマンハッタンカフェを見透かした。

 

 『まだ、帰らない』

 

 ____現実の彼女の細腕が、ぽすり、と音を立て、露で垂れ下がった芝の上に落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ____ゆらめく光が見えた。

 冷たく暗い海に沈んでいるような、甘く辛い感覚に身を委ねていると____

 

 「うぶ、ごばはっ……!」

 

 肺が押し潰れ、口から大量の気泡が吐き出され、光に向かって上がっていく。

 胸を掻きむしる苦しさが、彼女の頭を熱くしていく。手足に痺れが発し、焦燥と恐怖に駆られ、彼女はもがき始める。

 

 (息が……!!)

 

 腕を伸ばしては、水を掴んで上へ体を持っていく。しかし、空気が抜けた彼女の身体は、思うように水中を昇っていかない。

 

 (くるし……)

 

 視界が赤く染まっていく。光が遠ざかっていく。

 水圧が彼女の体を締め付け、さらに深く、深く引き込んでいく。

 

 (……)

 

 何も考えられなくなっていく。

 力なく伸ばされた腕が、黒く汚れていく視界にちらつく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、全ては黒に染まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「っはぁっ!!!! ……はぁ、はぁ」

 

 ____視界が光に染まった。

 ぴ、ぴ、と一定のリズムで刻まれる電子音が輪郭を帯び、ポタポタと垂れる点滴の奥、白いカーテンの隙間から見える外界は、紫色の霧が鬱々と広がっていた。

 シミ一つない白磁のような天井へ金色の目を戻し、じわりと背筋に冷たい感覚が広がっていくのが本物だと理解した、艶やかな黒髪を白いベッドの毛布に広げた彼女――マンハッタンカフェは、脂汗を滲ませ恐慌していた表情に安堵の色を見せた。

 

 (病院…… タキオンさんが……)

 

 軽い身体を起こし、病院の布団にも負けない白さの皮膚に包まれた、骨の透けた両手を眺めた彼女は、ふと、物置の上の吸飲みの隣に、デジタル時計があるのを見つける。

 

 「……()()、間もっ、……!!」

 

 そうつぶやきながら、みるみるうちに、マンハッタンカフェの目が見開かれ、耳がピンと張っていく。

 そして、目の前にフラッシュバックする情景。霞に姿をくらましていた紫の異形に持ち上げられ、得体の知れないガスを吹きかけられ、その瞬間、全身に耐えがたい筋肉痛のような痛みが走り____

 

 「はぁ、はぁっ!!」

 

 その時、ポン、と背中を撫でる感覚があった。振り向くと、一見、そこにあるのはただの虚空である。しかし、マンハッタンカフェには、自分に背を向け、優しく背中を撫でてくれる黒い影が見えていた。

 すると、にわかに幻の痛みが走っていたのが収まり、動悸や震えも穏やかに推移していく。

 

 ____……

 

 それは、何も言わずに、ただマンハッタンカフェの背中を摩り続ける。

 瞳孔をぎゅっと閉じていたのがゆるまり、緊張していた耳が緩慢と項垂れていく。

 顔面を隠すように覆っていた両手を離し、柔らかく滑らかな毛布の上へ落としたマンハッタンカフェは、一言、

 

 「……ありがとう」

 

 と、後ろめたそうにいうのだった。

 ぴ、ぴ、と、懸命になり続ける電子音が、静寂に包まれた病室を彩った。




 『原因不明の霧が府中市を覆って五日が経ち、気象庁は本日未明に専門家会議を開き対応を____』
 「たきおんさっ……!!」
 「私の目的は変わらない。彼からスカーレット君のティアラを取り返して、霧を晴らしてもらったのちに異世界へ丁重に送り帰す」

 次回、「(キリ)(シズ)(マチ)
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