薄暗い部屋の中には二人分の影があった。二人は男と女であった。宦官と貴妃であった。宦官である男は、その顔を隠す様に被っていた仮面を剥いだ。銀製の仮面の奥から現れたのは、何人にも穢し得ない清らかな美貌だった。誰が見ても一目で分かる程に、傾国と謳われた女をも遥かに凌ぐ美貌が現れたのだ。
銀の器を置いてから、やおら男は衣を脱ぎ始めた。
肌着を除いて裸になった男は女の縄を解くと、脱いでおいた衣を女に押し付け、自分はさっさと外方を向いたのだ。
男の背中を須臾見詰めてから、女はさめざめと泣きだした。泣きながら、そのまま男から押し付けられた衣に袖を通した。
すとすと、舞い落ちる天女の羽衣の様な見事な装束を、男は何の感慨もなくさっさと身に着けた。女の温もりが衣から離れる前に、男と女の装いは綺麗さっぱり挿げ変わっていたのだ。
「どうだ?これ、着付けってあってるのか?…そうか、ユゥユゥいっつも着せてもらってたもんな…まぁ、ならいっか。思ったよりも似合ってよかった。これなら高力士にもバレることは無いだろう。」
「いや…念のためだ。ユゥユゥ、俺が死んだら顔に布を被せておけ。もしも誰かが確認しようとしたら、その時はこう言うんだ。「目は見開いて充血し、泡を噴き、舌は突き出て固まり、顔面が赤く腫れあがっております。醜い御姿を晒すことは許されません」ってな。」
「バレるとしたら顔くらいだが、もしもバレたらその時はそん時だ。高力士が錯乱したとか言って玄宗を頼れ。あの男のことだ、オマエを殺さずに済んだと知れば、きっと話を合わせてくれるだろう。」
「それから…そうだな、俺の死体を埋めるため、とか言って早い所ここから離れるんだぞ?少しでも遠くに行くように。その後は、一度一緒に行ったことがある場所、覚えているか?」
「ヤケに目つきと身の熟しの鋭い女とか、常に釣り竿を担いでた偉丈夫に…他にも濃いメンツが揃っていただろう、あの村。そう、あそこ。」
「そう言えば、俺とユゥユゥが初めて逢った場所でもあるな。冗談冗談、忘れてないよ。それで…そこに向かう様に。あそこに着けば後は何とかなる…いいか?絶対に後は追うな。まだ終わってない。何が終わってないとか、わかんなくてもいい。いいな?わかったな?…よし、ならイイ。」
「あぁ、ほら泣くんじゃない。いや、この際それは酷か…でも、でもなぁ…なにもユゥユゥは痛くないんだぞ。苦しい思いもしなくていいんだ。ほら、鼻もチーンってしろ。ほら、あっ…オマエの服の袖で拭っちゃった。これって絹だよな?…まぁ、死にたくなくて俺が泣いたってことにしとけ。それなら別にほら、問題はないだろう?」
「…あぁ、な、なんか腹が減ったかも。喉も乾いたかも…あー、誰か俺にライチ食わせてくれる優しい女の子はいないかな~?」
「ぐふっ…ゆ、ユゥユゥさんじゃァないか。え?食べさせてくれるのか?これはこれは、天下の傾国に「あ~ん」して貰えるなんて、俺はなんて幸せ者なんだろうなー…指、震えてんぞ。愛い奴め。」
「ちひぇ、ちべたいちべたい、氷が、宴会芸じゃないんだから…氷は要らないってば、ライチだけ、実だけにしてくれよ。…っひぇ、ひょんどは…ぺっ!こ、今度は皮ごと口に突っ込む奴があるかっ…ほれほれ、剥いてくれよ。俺は可愛いユゥユゥに食べさせて欲しいんだよ。」
「……うん。ありがとさん。」
「ほら、もう一回。ぅあ~…っん……う?…う……美味く、はないですな。うぅむ…人間中々好き嫌いはかわんないもんだな。やっぱり俺、果物とか得意じゃないや。って、なんだその膨れっ面!ハハハハハッ!?栗鼠みてぇだな可愛いだけだぞそんな顔!って、あれれ怒りましたかユゥユゥさん?な、なんだ…その手をワキワキしてるのは!?」
「あっ…ひゃッ!?ぶふッー!こ、こらっ!そ、そんなに怒るなよっ…な?残りは全部俺が食わせてやるからさ?な?擽ったいのはこーさんっ!降参しますから!」
「ほら、口開けて…よろしい。」
「うまいか?そうか、それはなにより。なら、ほら、もう一個。」
「………」
「…うん。お粗末さまでした、うーん、なんか不思議な気分だ。本当にユゥユゥはライチが大好きなんだなって、今更ながらに思ったよ。俺は味とか得意じゃないからさ。でも…これで好いんだと思えたね。今の俺は。」
「俺がライチ好きじゃない分、俺の分もユゥユゥが食べてくれるんだから。俺は苦手なブツを食べなくて済む。オマエは好きな物を俺の分もいっぱい食べれる。こいつぁ、一石二鳥の関係性と言う奴だな。そういうことにしておこう。」
「……なぁ、えっと…。」
「なぁ……水、あるか?ん、ライチを盛ってた皿ぁ貸してくれ。うん、それ。」
「…嫌なの?なんでさ?」
「…末期の水て…ちょ、そんなこと言うなよ!ちょっとだけじゃんか!ユゥユゥばっかり喉潤してズルいぞ!と……まぁ、確かにそうだけどさ。オマエの言う通りだけど。」
「いいかユゥユゥ、よぉっく聞いてくれよ?お前は何にも悪いことはしてないんだ。確かに贅沢三昧の生活だったさ。でも、玄宗のおっさんから貰ったモノ全部、ユゥユゥが独り占めしてたわけじゃないだろ?宮中の仕来りっていうか、暗黙の掟みたいなもんかもしれないけどさ、自分に本当に必要ないもの以外は貰った端から宮女とか家臣にあげたりしてただろ?」
「それに、嫉妬とか色々大変そうだったし。強いて悪いことと言えば…オマエが可愛すぎたのがいけなかったな。うん。可愛すぎた。」
「可愛いは罪っていうくらいだし…うん。でもそれだけ。それだけなんだよ。じゃなけりゃ、俺がオマエの前に現れたりしなかったはずだ。」
「政治に関わったわけでもないし。アレが欲しいコレが欲しいって、ワガママ三昧してたわけじゃないし。向こうが勝手に贈りつけて来たんだし。」
「…オマエは、ユゥユゥはユゥユゥなりに、あぁいう世界で一生懸命生きてたんじゃないかな。誠実だったと思うぜ、別に誰かを殺した訳でもないし。もっとおっかない女の子は世の中に沢山いるってコト、俺はよぉーく…誰よりも知ってるつもりだぜ。」
「ユゥユゥの前に付き合ってた娘なんか…いや、今はいいや。気になったら、今度会わせてやるよ。思ってたよりちっちゃこくてびっくりするかもな。」
「ふふ、どした?嫉妬かい?嫉妬なのかい?…涙目になるなよ。俺も、泣きたくなっちゃうだろ?」
「…ごめんて。」
「これでも、一生懸命なんだぜ?」
「…だから………。」
「そろそろいくよ。手、はなしてユゥユゥ。」
「うん。いい子だ。それでいい。安心しろ、これが終わりじゃない。俺を信じて待っててほしい。案外、ひょんなことからオマエの前に現れるかもしれないぜ?」
「あぁ。だから一旦、ここでお別れだ。」
「少し長く話をし過ぎた。高力士が来る。じゃあ、後は頼んだぞ。」
「あ…そっぽ、向いてといてくれ。すぐ終わるから。」
我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。