「影殿…。」
「影殿ー…。」
「影殿ッーーー…。」
「………。」
「か・げ・ど・の!」
「……?おられぬのですか?」
「与四郎は、寂しゅうございますよー。」
「ふぐぅ…。」
「影殿、何故…何故いまごろ、私の前から居なくなるのですか…。」
「幾星霜、共に生きた与四郎よりも、あの姫の方が可愛いのですか。与四郎の具合が悪かったのですか?飽きてしまわれたのですか?どうなのですか…ぅう、影殿、こたえてください…与四郎は、貴方が恋しゅうございます…もう、一月も帰っておりませんで。」
「人を遣るとのことでしたが、なぜ選りにもよって見知らぬ女子が訪ねて来るのです…私は、何ももてなしを嫌っておるわけではないのです…ただ、どうして与四郎を置いていくのですか…連れてってくださればよかったのに。待つだけしかできぬ我が身が恨めしい…。う、うぅ…。」
「…ッ!?」
「影殿!影殿で在られるか!」
「あ……おかえりなさいませ、駒姫様。」
「あぁ、駒姫様でしたか…いえ、なんでも。ただ、来客は誰かと…ただ、そのように思っただけにございます。利休、平常。」
「…駒姫様、なんですか?その壺は…?」
「えぇ、確かに御貸し申し上げました壺ですが、それは何かを入れておくものではなく、寧ろ何も容れずに飾っておく物なのです…それ故、何分大きいです。姫様には些か無骨すぎるとも思った次第です。」
「して…そちらを何故、そのように大事に抱えておられるのです?」
「むむ?」
「くんくん…。」
「ふむんふんふん…なぁるほど…利休、確信。」
「この匂い…忘れも致しません。影殿!」
「見つけましたぞ!まったく!太閤殿下でも困らせられぬと言わしめた、この利休を困らせるとは大したものですが…ささっ!早うおいで下さいませ。そこの、壺の中に隠れていらっしゃるのはお見通しでございます。」
「ふぅむ…少々、決まりが悪いことなどお見通しです。どうせ、御夕飯に間に合わなかっただとか、一月も帰ってこなかったとか、それが気まずくて、その壺から出て来れずにおられるのでしょう…はい、確かに心配しましたよ?この利休が、来る日も来る日も貴方の帰りを待っておったのです。昼も夜もなく、玄関で茶を点てて貴方をお待ち申し上げておりましたとも。」
「しかし…心配こそすれども、こうして帰ってきてくれた以上、最早何も言うことは無いのです。利休は、貴方様に与四郎、与四郎と呼ばれて頼られるのが一番幸せでございます。ですから、早うお顔を見せてください。照れ屋なこと、利休は存じております。恥ずかしい所も、全て隅々まで存じております。」
「うぅむ…どうやら、今日の影殿は少々、腹の虫の居所が悪いご様子。利休、心配…。」
「ふぬぬ…よいことを思いつきましたぞ。」
「人間、万病有れども健康は一つしかありません。茶も元を辿れば薬です。急ぎ支度をして参りましょう。それで、点てた茶を召し上がっていただけば…そうすれば、素朴な影殿のことです、いつも通りに「うまかったぞ、与四郎」と機嫌を直して下さるはずです。」
「あぁ…どうしよう、今日はどの器が好いか…はい、はい、なんでしょうか駒姫様?今、茶を点てますので姫様も飲まれますか?」
「は?…ですから、茶を点てる用意を…姫様、例え姫様であっても言ってはならぬことがございます。ましてや、影殿が亡くなられたなど、と……。」
「邪魔をしないでくだされ。さすがの利休でも憤慨、してしまいますぞ?」
「…泣かないでください。影殿は、女子の涙など好みませぬ。」
「………。」
「その…その壺の中に、おられるのですね?」
「そう、ですか…影殿が、貴女を…。」
「さ、どうぞ…お飲みになって下さい。折角です、壺はこちらに。こちらに、渡してください。」
「…お早く、影殿をこちらに…。」
「…ご無礼お許しください…お預かりします。」
「…ふむ、あぁ…温かい。」
「壺越しにも、貴方の温もり、しかと伝わって来ておりますよ。影殿…そうですか…それほど、お怒りになられたのですね。」
「…えぇ、存じておりますよ。与四郎と、何年貴方に呼ばれて来たと思っているのです。宗易に改めても、利休と改めても…貴方は与四郎と呼ぶのですね。貴方だけに許していることなのですよ?」
「そうですか、そうですか…また、派手にやりましたな。影殿。」
「駒姫様…ありがとうございます。しかし、ふっふっふっ…確かに、私と姫様はよく似ておりますな。」
「私はこんな形になりましたが、元は大層な大男だったのですよ。信じて、いただかなくてもよろしいですが。」
「影殿とは、今の姫様より、もっと幼い頃からご一緒させていただいております。かれこれ七十と四年になりますかな。」
「ある日、祖父の法事を開くのに金が足りなくなった時がありまして、その時から、あの方には随分と身を切らせてしまいました。あの美貌ですから引く手数多ではあったでしょう。でも何分、不器用な方ですから。あちこちに痣をつくられたりして…。いつもいつも、少なくない金子を私が困るたびに黙って預けてくれましたが…決して楽ではなかったと思います。」
「私に商いの腕があったので、もう苦労をさせることもないだろうと思っていたら…太閤殿下より腹を切れ、と…あぁ、言われたのは私でございます。」
「もう七十を数え、外見は若い頃…それこそ貴女のように、まるで女子だった頃のように美しくもありません。死ぬつもりで、ございました。えぇ、それはもう。最期にあの太閤に泡を噴かせてやろうと。そう思っておりました。」
「そしたら…いざ死ぬという時になって、影殿が私から刀を奪いましてですね。そのままザックリ…。」
「腹を切り、そのまま腸を…女子にしてよい話ではありませんね。」
「…ともかく、騙されたと思って逃げろと…言われまして。」
「影殿の亡骸を辱められるなど以ての外、と考えたのですが…うん、とここで言わねば影殿から二度と名を呼ばぬと迫られまして…それでうっかり、うんと、言ってしまった訳でございます。」
「それから…この上背ばかり大きい皺くちゃの老骨と、かの絶世の美人であられる影殿をどう取り違えたのかは知りませんが、逃げた私の死体の代わりに、影殿の首が千利休の首として梟首に処されたのでございます。ふふふ…利休、唖然。」
「そうして、聚楽第を離れ、伝手を頼り隠棲し始めた次の晩。戸を叩くものがあり、客人かと思いもてなせば…あとは御分りでしょう。影殿が立っておったのです。」
「私は何が何だか…しかし、泣いている内にどうでもよくなりましてな。いや、これも言わば幽玄の極み。そう考える様になったのです。」
「それからは今日まで、商いで荒稼ぎする傍ら、こうして街外れでひっそりと暮らしておった訳です。」
「…あの晩、何となくこんなことになる気がしました。けれど、あの晩に駒姫様が訪ねて来られた時に理解しましたよ。あぁ、これは仕方ない、と。」
「何せ、一目見ればわかる程に私と貴女は瓜二つ。今の私の姿は…影殿が戻った次の朝、こうなっておったのです。ですが、この姿は本来なら十やそこらだった頃の、紛れもない私の容姿。背も縮み、影殿の世話を焼くには色々と不便になりましたが、それでも老体よりはよほど重宝します。それに、この姿なら気兼ねなく影殿に甘えられますれば…と、話が逸れました。」
「話を戻しますと、私の事が大好きな影殿が、私にそっくりな貴女のことを捨て置ける筈が無かったのです。間違いありません。利休、明察。」
「……。」
「冗談はこれくらいにして…いえ、私達がソックリなのは真ですが、ともかく…貴女は、影殿の亡骸を搔き集めて来てくれました。その壮絶な死を見届けて尚、恐れずに影殿の想いを受け止める覚悟があり、誰に言われるでもなく実行に移してさえいる。」
「ふう、仕方ありませんね。これでは、貴女を蔑ろにはできぬではありませんか。半分こ、ということに致しましょう。」
「視た所、既に貴女も峠を越えられたご様子…影殿の血は温かいでしょう?えぇ、一目見て分かりました。見間違える訳がございません。あの方の匂いが染みついた、貴女のその着物…。」
「ご自分で、染め抜かれましたね?」
「ほう…死に装束を仕立て直されたと…それはそれは、私も一着欲しいくらいです。」
「ところで、影殿をお迎えすればあの方の亡骸も綺麗さっぱり消えてなくなるのですが…それまで、この壺を管理する役目をこの利休に…最後まで言っておりませんが…そうですか、駒姫様もご所望と…小判千枚でいかがか?…そうですか、では二千枚では?」
「…ふむ、ここは退きましょう。なぁに、試させていただきました。姑は怖いものです。今のうちに慣れておくのも損ではありますまい。」
「では、そろそろ御夕飯と致しましょう…間引くにしても、腹が減ってはなんとやら…今日はあのヒトが好きな鰈の餡かけです。あぁ、そういえば昨日作ったのもあのヒトの好物でしたね…ふふふ、駒姫様、この利休からしっかりと学ばれよ。」
「影殿への道は嶮しいものです。何せああ見えて好き嫌いが多い御人ですから。出羽の国に着くまでには、初歩を究めていただけるように私も努力いたしましょう。」
「それはそうと…今度こそあの猿を生かしておくことが出来なくなりましたね。」
「はい…?いえいえ、なんでも。なんでもございませんよ。」
「利休、独白…でございます。」
我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。