今日、兄さんから手紙が届いた。仕事を終えて家に帰る直前に郵便夫から手渡されたのだ。分厚い封筒だった。兄さんからの手紙というと、どうしても身構えてしまう僕が居た。恐らく絵の制作中に認められたものなのだと思う。黒や青、そしてお気に入りの陽だまりの様な黄色い絵の具がべったりと付着していた。乾ききる前に郵便に持って行ったに違いない。半乾きの絵の具に埃や砂が張り付いていた。触るとぽろぽろ崩れた。余程熱中できる画題を見つけられたのかな。封筒を開けてさえいないと言うのに、僕は少し安堵した。汚れているようにも見えるけれど、速達で遣すくらいだから大事な話なんだと思う。封筒の分厚さから言って新しい絵のスケッチが折りたたまれて入っているのかな?兄さんはずぼらというか、いや寧ろ嫌というほど絵にはこだわる人だから。一度始めてしまえば、例え終末のラッパの音が鳴り響いたところで筆をおかないだろう。さてさて、今度は何を描いているのかな…兄さんの心を癒してくれる何かがあればいいのだが…また、失望してしまわないだろうか。これ以上、兄さんを支えることが出来るのか、僕自身にもわからないから…。
家族と温かい夕飯を囲み、まだ生まれたばかりの子供の寝顔を眺めてから書斎に入ったテオドルスは、ペーパーナイフで封を切り兄からの手紙を広げた。中から出て来たのは二つに折られた紙幣の束と、絵の具塗れの封筒とは真逆の印象を与える小綺麗な手紙だった。驚きつつも大金と呼べる程度の紙幣の束を脇に置き、深呼吸して一拍を置いて、それから小綺麗な手紙の方に目を向けた。
「ねぇテオ、聞いてよ。僕ね、やっと見つけたんだ。ずっとずっと探してた居場所。僕の居場所を。これまで、ずっと辛いことが沢山あったけれど、どれもこれも全てこの時のためにあったんだって、そう思えるくらいに素敵な場所。僕の、僕だけの為の楽園を見つけたんだ。テオ、この手紙は多分最後になるかもしれない。いいや、最後になるんだ。これまで君には本当に苦労を掛けたね。だから、という訳ではないけれど、これは僕から君への恩返しさ。恩返しでもいいし、罪滅ぼしでもいいよ。君の好きに使って欲しい。甥っ子の成長を見届けられないのは残念だけど。でも、それでも仕方が無いんだ。これは、もう仕方がない。どんなに酷いことだって、もうこれからは起こりようがないんだ。だから、僕はもう何にも問題はないんだ。これまでのことをこんな、紙切れで清算することも、報いることもできるとは思ってないけれど。でも、仕方がない。だって、もう僕はダメじゃないんだから。僕はダメな子じゃないんだから。そう、彼が言ってくれたから。彼が言うのだから、つまりはそういうコトなんだ。疑ったりなんかしないさ、僕は疑わない。彼が僕を疑わない様に。ねぇ、テオ…僕ね、生まれて初めてヒトに好きになって貰ったんだ。あのヒトが、あのヒト、パリで見たヒト。ゴメン、テオにはきっと教えてない。だってあの時は僕自身も忘れてたんだから。君に話してたらおかしいもんね。でも、そうさ、彼が来てくれた。本当の本当に、僕は今までバカだった。そんな気持ちになるくらい、彼が目の前に現れた瞬間から僕の世界は色付いたんだ。そうさ、鮮やかになってしまった。これまで満足できていた何もかもに満足できなくなってしまった。これまで我慢できていた何もかもに我慢が効かなくなってしまった。すべてさ。僕は、もうテオや、僕の可愛い甥っ子に会うことは無いだろう。きっと、君にも遠からず僕が誰なのかわからなくなる日が来ることだろう。でも、安心して。お金はまた送るよ。絵も、これまでのものは全部テオに譲るよ。お金になるかは分からない。でも、もう僕には色褪せすぎた代物だから。僕はこれから、またあの黄色い家に向かうよ。そして、今度こそあの場所で夢を叶える…ううん、ちがう。ちがうよ、きみ、それは違う、ちがうと言うのに…仕方がない方ですよね、でも、ご安心を!僕に掛かればこんな僕でも僕のことを愛することが出来るように成るのですよ!もう、自分を嫌わずに済む。もう、二度と人に嫌われずに済む。もう、誰かにこの胸に燃える愛を否定されずに済む。もう誰にも、僕の絵を笑われずに済む。すべてすべてすべてすべて、えぇ、ぇ…ぼ、ぼくの、ぼくの。ぼくの。のくのら。のくのらよ。ぼくのだお。僕の、あの人は僕のだ。じゃましないでよ!どうして今、でてくるんだよ!ダメじゃないか!今は弟の、僕の弟に宛てた手紙を書いてるんだよ?ねぇ、そんなのダメ!僕がダメって言ったらダメ!…まぁ、でも、そうだね…君の言うことも確かだよ。そうだ、間違いじゃない。でも、そうは言っても僕にだって最後くらいは兄としての威厳を持たせたいと言うか、ねねねねね?ねッ、ねッ、ねーーねー、ねーーね…長いです。長すぎです。です、よね?ですよねー…へへ…えへ…で、でも、そうだよね、僕も少しふざけ過ぎたよ、だからごめんなさい。でも、早くしないときっと、あのヒトのこと、黙っていられなくなっちゃう。僕ってさ、芸術家だけど、そういうのが大好きだけど、実は自分が大好きだから、でもそのことが硬派じゃないっていうか、なんだか歪んで見えるから、自覚してるから尚更嫌いでしょ?でも、あのヒトがあんなに甘やかしてくるもんですから、もう我慢できないよう…あぅ、ぅ、あ…あぁ、テオ、僕ね、好きな人が出来て、それでね、あのヒトも、僕の事が、すき、なんだって…へへっ…ふふふへ、ふへ…へ…それで、一緒に暮らそ?って、言われて、それで、うんって…言っちゃったんだぁ~…あ、でね、あのヒトがね、僕の、絵を、僕の絵を買ってくれたんだ!何枚も。なんまいでも、だよ!テオ!お兄ちゃんやったよ!テオ!だから、そのお金は僕がちゃんと稼いだものなんだ。やっと心残りも無くなった!あぁ、今日はなんって好い日なんだ!あぁ、溶けちゃいますぅぅ…あの、そろそろ終わりますね?えっと、そ、そうだね。そうですねぇ…じやぁ、ね?黄色い家にいってきます。気が向いたら帰ります。あのヒトと、ずっと一緒に幸せに暮らすから。君も、テオ君も、お幸せに、くれぐれも幸せに、暮らしてくださいね?ぼくも、すこーしのんびりしようかなって、向日葵を植えてみようかな、それで、花が枯れたら種を取って、それを炒って食べるんです!きっと、おいしい、ね。あぁ、あのヒトを描かなくちゃ。描きたくなってきちゃいました…クフ、クフクフクフ王…キヒヒヒッ!そんなに面白いかなぁ?…面白いですか?………………………僕ね、あのヒトから貰ったんだ。おねだりを、してしまいまして、それで、でもあのヒトはクれたんです。こんな僕に、僕のために、目の前で切って…あ、あんなに血がッ!血が出てました。あお、あお、そ、そりゃぁ、当たり前じゃないですか!でも、欲しかった。だから、欲しいって。ダメって言われるかなって、思ったんですよ?でも、あのヒト、僕のこと、を膝にのせてくれて。それから剃刀で、耳を。耳って、切れるって知ってましたか?僕と、あのヒトは、知ってますよ?ぐふ、ふっふへ、えへへ、お揃いだねって。耳たぶをちょっとだけ残してくれたんです。わざわざ。でも、僕と完全に同じだと、あのヒトが可愛そうだって、僕、言っちゃって。言うつもりなんて無かったのに。で、でもぉ、言っちゃってマしたぁ…なんで、もう、でもねでもね?それでも、イイよって!だから僕は!齧っちゃった。ハァハァ…ぅ、あ、はぅッ!?…え?…おいしくいただきました。絵のグよりも、百万倍美味しかったですよぅ…だから、他の人には、ダメですよ?アげませんよ?分けてアげません!ダメ!ダーメ!ダメダメダメ!僕のなの!僕、だけの…イヒヒヒッ!でも、大丈夫ですよ?僕も、あの後で僕も、耳を綺麗に剃ったんです。剃りなおしたから、もう醜い剃り残しなんて綺麗さっぱりありません!僕の血をあげるなんて、そんなの滅相もないです!そんなの、あのヒトが汚れちゃいますよぅ…だから、絵を描くことにしたんです。僕の全てを使って。僕の全てを磨り潰して。あの、美しい、あの、僕だけの、僕のもの、僕の為に、僕の。あのヒトを描くんです。これから、何度でも。あのヒトと朝も夜も一緒に居るんです。僕が寂しい時は傍に居て欲しくって、僕が一人になりたいときは見守ってほしくって。でも、イイよって言ってくれたあのヒト。あのヒトの為だけに、僕もあのヒトがしたように、してくれた様にするんです。じゃなくちゃ、そうでなくちゃ意味がない。僕が殺し…してあい…してい。してない。ぼくじゃない!僕は撃ってない!ぼくじゃない。あの、あのッ!あの悪ガキどもに!許さない!絶対に、黄色い家に行く前に見つけ出してやる!殺してやる!耳を切り落とさなきゃ!僕のものを、血も、僕のものだ!勝手に流させてイイ訳ないだろう!ダメ!ダメだよ!そんなことしたら、今度という今度こそは、流石の僕でも許せませんよぅ!あ…?…ん?なんだったんでしょう?ふふ、変なの。えっと、そうだった、僕はあのヒトの絵を描くんです。あのヒトの為だけに描いて、それであのヒトに褒めて貰うんです。一緒に、あの、僕ね、あのヒトに僕のコーヒーを飲んで欲しくて。一緒に、こーひー飲んでくれるかなぁ?飲んでくれますよね。ふひゅ…へへ、あは…あ、あぁ、でも、ちがうんです。そうじゃない。誤解しないで。違う、勘違いしないで、変な答えに歪めないで、僕が言いたいのは、そういうコトじゃ、あぁ、やだぁ!そ、そんなコトが言いたいわけじゃないッ!僕はあのヒトと暮らす前に、きっと奴らを見つけ出して、それから、でもそれだとあのヒトと一緒に居れる時間が短くなるヤダヤダヤダッぁぁぁあアアッ!違うッ!ソレじゃない!にゅああああッ!?そっちじゃないのにぃぃぃ!横ですよぉぉ!いじぅるな!いじくらないでよ!そこはその整理で好いんだよぉ!なんで、いうこと効いてくれないのさ!僕なんて嫌いだ!…嫌だ!嫌いじゃない!僕はッ!ただ貴方のコトがッ!いやだぁ!あのヒトに、なりたいわけじゃないんです。でもあのヒトを描きたくて。あのヒトの色に染まりたくて。あのヒトの影に沈みたくて。あのヒトに、あのヒトに還りたくて。あ、そっか、コレだ。コレ、なんだね。そうなんですね。そうです、そうなんです、僕は還りたいんだ。まだ傷一つついてなかったあの頃に、ただの誰も僕を傷つけなかったあの頃に、僕でさえも、僕を傷つけることが無かったあの頃に僕は還りたいんです。ちがう。ちがいます。還りたいんじゃなくて、還るんですでもなくて、僕は、還っているんです。ゆっくりだけど。やっと、見つけたから。還る、場所。待っててくれる場所。かっえっりっまーっすッ!あはは、イイですね、これぇ…えへへ、へへ、え?え?え?……僕は何を言いたかったのかな…。でも、もう怖くないよ。うん。すっごく静かなところだよ。そばに、こ、こ、ここ、恋人!?こいびとッ!?も一緒なんです。だから、もう何も怖くないんです。あの世界に僕を置いておく場所がなかったというだけのこと。だから、もうどうでもよくなったんです。ニヒリズムとも違うかな。僕ね、すごく温かいんだ。ここはね。貴方の隣こそ僕の居場所。貴方がいれば、僕はそこで息が出来る。あぁ、幸せ…すごく静かだ。温かくて、この影。影の中で浮かんでいる僕は、綺麗だよ。あのヒトも、笑ってくれた。綺麗だって言ってくれた。僕ね、わかったんだ。あれは違うんだって。描けなかったんだ。スケッチ、書きたかったけど書かなかった訳じゃなかったんです。描けなかったんです。あの時の、つい昨日までの僕じゃ、欠けなかったんです。あまりにも、世界に毒されすぎていて。でも、あぁ、いまだからわあります。わかりますとも。あぁ、やっと欠けられた。欠くことができたんだ。欠けたままの僕を、こんなにも愛してくれるヒトが居たんだ。知らなかった。知れ、なかったなぁ。もっと早く、でも、今くらいがちょうどいいのかも…長かった。ずっと、知りませんでした。でも、やっと知ることが出来たんです。あぁ、テオ、ここはあったかいねぇ…僕、ねむたくなってきちゃいましたようぅ…くふひ、へへへ、えへ…あぁ、いいなぁ、コレ…気持ちイイです、すっごく。ここは黒くて暗くて温かい海の底。貴方の腕の中。深い深き淵の園。或いは神に見捨てられし者が憩いし救済と螺旋のテーゼ。僕はまた、貴方の腕の中で眠ります。静かで温かい貴方の腕の中で。そっと囁いて下さい。大好きだよと、愛していると、安くても醜くても重苦しくても、貴方に言われたい。腐るのなら、貴方の腕の中が好い。あぁ、主よ、もはや貴様は遠い彼方に。神よ、もはや僕はその御許に。太陽を呑む影の君。流転の外へ、悲しみと苦痛の外へ、救いの手よ来たれ。過ちにのたうつ僕を救い、或いはこの世界を搔きまわして下さい。貴方のその美しさで、僕の不安定で滑り狂う醜悪を醜悪の園を、灼ける慕情を、壮絶な奉仕の欲望を、怯懦する真心に救いを!純粋なまま死んでいく僕を救い出して!あぁ、今や僕には明日がある!見えなかった明日が!未来が見える!あぁ、長かった!あぁ、遅かった!でも、来てくれた。貴方こそ僕の救い!僕を太陽から奪った唯一人の貴方!あぁ、温かい。どこも痛くない。でも、心だけが痛い。止まない痛み。心地良い痛み。痛みは病み、止んで尚僕を狂わせる。日の当たる道はもういらない。全ては貴方の影の中に。貴方に抱かれる僕の中に。太陽を呑んだ貴方の傍に。」
最後の一文字に至るまで、一文字として揺ぎ無く。整然とした美しい筆跡だった。淡々と綴られた手紙は便箋十数枚に及んだ。手紙は三日とせずに消えた。行き先は分からない。金だけが遺り、数十万フランに及んだそれらは、テオドルスの家計に大いに役立てられた。ただ、どんな経緯で手に入れた金銭なのかを誰一人として知らず、また自身の金庫から出てきたというのに所有者のテオドルス当人ですら首を傾げる始末であった。金がなくなると、いよいよ何も遺らない。作者不明の絵画作品が、後に世紀の大傑作として画家当人の与り知らぬところで高値で取引されようとも、誰一人として知る者は居ない。残るものは何もない。ただただ、鮮やかな向日葵が咲くばかり。ただ、名もなき向日葵が鮮烈な色を遺すばかりなのだ。
我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。