男は麦粥を煮ていた。ぐつぐつと真っ黒に煤けた鉄の鍋を、石を積んで、囲んで作った簡易の竈の上にのせ、その真下で薪を組んで火を着けた。火種は石を打ち付けてつくったものだ。小さな火花で火種を拵えるのには苦労した。煮えてきたらつい先ほど血を抜いたばかりの兎の肉を入れる。よく引き締まった肉質だが、十分に脂が染み出すはずだ。麦は女の懐から拝借したものだ。兎はさっき弓で射て獲ったものだ。泉から引き揚げた女から鎧を剥いで、剣を林の方に放ってから息を吹き込んでやった。まだ生きているが、それも怪しいくらいだ。体は冷えていて、頬など雨に打たれた石のように冷たい。手を握ってやると、僅かに握り返してくる。だが、それだけだ。風前の灯火ともいう。だが、女は死なずに済む。こんな理不尽にくれてやれるほど、彼女は安くないのだ。少なくとも、男にはそれだけの理由があった。誰に尋ねられたところで、男が答えてやれることは少ない。だがそれでも、男には女を救うに足る理由がある。唯一話せる理由を考えてみても、顔が好みだったとしか答えられない。だが、それでも十二分の理由になる。何はともあれ、男は木製の匙で鉄鍋を掻き混ぜた。好い頃合にはまだまだ。まだ煮込む必要がある。横に寝かせた女は時折額に皺を寄せた。むずがる様子は幼く見える。どこにでもいる具合だ。鍬も剣も似合わない女である。だが現に、剣を抱きしめて、鎧で身を固めていた。今は全て取り払ってしまったから、残った青い仕立ての好い服がなんとも似合っている。そのまま日がな一日を本を読み、馬を駆るのに費やす方が似つかわしい。剣を放った方に目を向けて、顔に血が集まった。腹立ちを抑えつつ、男は空を見上げた。今日は月が出ていた。だが、ツキはない。兎の皮はズタズタに裂けてしまったし、女の巾着に入っていた麦はずぶ濡れだった。だからじっくりと、焦らずに温めてやらねばならなかった。だが、少しでもマシになるように、何か良い方へと迎えるようにじっくりと煮てやろうと思い、その通りにしたのだ。夜になると、途端に雲が月に掛かってしまった。そろそろ寒くなるだろう。もう少し、女を見つけるのが遅かったら手遅れだったかもしれない。それは恐ろしいことだった。だがそれ以上に、このまま女を迎えに来る誰かの存在が恐ろしい。恐ろしい、きっと心というモノを、言うなれば個人のことなど、人間一人の命などがちっぽけになってしまうような、そんな何か大きい風なハリボテに奪われてしまっていて、考えることも億劫になってしまうような辛いメに在ってしまったのだ。そうでなければ、どうしてこんなちっぽけな人間に、人間存在一人に向けて、これだけの期待と責任を押し付けてしまえるのだろう。サッパリ理解できそうになかった。いいや、そのままが好い。なぜもなにも、きっとわかってしまうということは、何よりも大切なものを、どこかに忘れてしまったか、奪われて久しいのである。大きくて数の多い、そういう群体が蠢くたびに、その全体の意志には関係なく、最底辺の名も無き誰かが踏み潰されていく。一歩ごとに磨り潰されていく。豊かな者達は、より狡猾な者達は己の保身のための中心に集まり、その他をはじき出し外に押しやる。やがて大きな円が回るごと、一歩ごとに頭ごなしにされていく。頭の無い体を中心で一つ塊になった連中に好き勝手にされてゆく。だから、そうならない様に小さくなって。手を挙げることもなく、頭を上げて生きることもできず、呆然と回る世界に心身を犯されていく。ここに一人、横たわり眠る女がいる。この女も、或いはその内の一片なのやもしれない。随分と杜撰な秩序だ。世界の歪みに殺されていく。だから、そうならない様にと、そうしようと思う。だから男は今、こうして麦粥を煮ている。女が起きたのなら、白湯を飲ませて、それから食わせてやるためだ。この世界から女を奪い返してしまうためだ。傷つくことの無かったあの頃に、失わずに済んだあの頃に、自分でさえ自分を傷つけることのできなかったあの頃に、静かで温かいあの頃に。黒く暗い安寧の外に追い出されたのだ。今一度あの頃に還るためにこの日まで生きてきた。女は敗れて自ら身を投げた。最早死んだも同然であった。王の剣は、その価値の外に生きる者にとってよく切れる刃物以上の価値など無い。同じ歴史を共有していないものに、その価値など無意味である。その価値が剰え女を傷つけると言うのであれば、その価値に正義が見出されることは無い。寧ろ一層の憤怒を以て、彼方への放逐を選ぶことは当然である。ここには神の国など無い。ここには地獄など無い。ここには苦痛など無い。ここにあるのは安寧のみ、そしてもう一つの鼓動のみ。彼女は何れ目を覚まし、そして男の作った麦粥を食べるのだ。もう一度、改めて未来を見出すために。ただ静かで温かい影の淵に憩い、希望に殺されずに済む。自らの未来に待ってもらうことが出来る。そうでなくてはならない。今は眠ってもいい。飽きるまで眠り、何れ体を起こして粥を食べ、それからゆっくり休めばいい。剣を握るもいい。本を読むもいい。馬を駆るもいい。俺を殺していく、それもまたいいだろう。いずれにせよ、女はその眼をゆっくりと開くことができる。陽の光に焼かれることもなく。明日に怯えることもなく。ただ今を生きることが出来る。苦痛を逃れ、ただ火を掻く男に静かに見守られ、温かい麦粥を啜る。それでいい。何を考えることがあろうか、考えるべきか考えざるべきか、君に強いるものは誰も居ない。男に尋ねれば男は喜んで共に考えるだろう。考えたくなければ、雲を数え、月を愛で、男の影に抱かれ、温かい食事を時間をかけて口に運び、ただ眠りたくなれば眠ればいい。馬の嘶きも喊声も剣戟も、ここにはない。血飛沫も砂埃も胃酸と血の味も糞尿と臓物の匂いも、ここにはない。戻ることは出来る。選ぶことは出来る。選択を省くこともできる。だが、いずれにせよ君だけは死なずに済む。苦痛に喘がずに済む。逃げてもいい。隠れていてもいい。忘れてしまってもいい。もしも立ち向かいたければ、俺は君の隣に立とう。もしも危なく成れば、その時は代わりに死んで差し上げよう。もしも君の救いになるのなら、君は悲しんでもいい。もしも君の救いになるのなら、君は悲しまずともいい。兎の肉が少し硬くなるまで煮えた。色はいい具合だ。そろそろ食べごろだった。女も起きる頃だ。男はたっぷりの麦粥を女の木の器によそった。湯気がたった。塩とバジルを砕いて振れば完成だ。女の眼が開いた。火に身を投げ出す様に身体を傾けて、彼女は身を起こした。寝起きの女はぎこちなく、男から差し出された木椀と匙を受け取った。手の平から熱が伝わってくる。腹の虫が鳴いていた。まだ生きている証拠である。半信半疑で、女の視線は男と粥の間を二度三度往復を繰り返した。それから、自分の器に盛られたものと全く同じものを食べ始めた男をしばし見つめてから、麦の殻を避けつつ、時々咽つつ、ずるずるとあっという間に平らげてしまった。
女は言った。
「おかわり」
我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。