史徒奪名録   作:ヤン・デ・レェ

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25「史徒奪名」元人類最後のマスター1

未だかつて、私はここまでの惨めさを感じたことは無かった。少なくともここまでの人生で味わったどんな艱難辛苦よりも、この惨めさは忍び難い。帰ってきた普通の生活。元の生活。元通りの世界。平和な生活。そして、そんな平和な世界こそが、今正に私の過去と栄光を浸蝕する現実になってしまった。私は今、記憶の破壊を受けている。過去ではなく、今も受け続けている。名誉の破壊。記憶の断罪。さながらダムナティオ・メモリアエを宣告された後の世界だった。今日まで継続してきた私の人生は、私の意志とは関係なく始まり、そして私の意志とは関係なく突如として断絶された。完全なる喪失であれば、過去を否定することができたかもしれない。初めから、全ては夢幻であったのだと、そう思えたのかもしれない。だが…私の手元には、揺るぎのない現実が握られている。あの、皆と過ごしたあの場所で、数多の世界で共に苦楽を共にした、カルデアの制服が、着慣れたソレがここにはある。ただそれだけが遺り続けている。残滓とは、こういうモノのことを言うのだろうか。左手の令呪こそないが…いいや、あったとして誰にも効力を発揮し得ない無用の長物だっただろうが…私の全身には、およそ健全な現代文明社会では体験し得ない、壮絶な負傷の痕跡が、人理救済の為にこの身を捧げた証が、確かに古傷として遺っている。だが、最早この世界には、戦友であり家族のように慕ってくれた仲間達は一名たりとも存在せず、この傷の意味を理解してくれる者は敵と言えども存在しなかった。ただ、空虚な人生の空白だけが、膨大なハンディキャップだけが私の今後の人生に山積していた。昨日までの現実は、かくも儚く断絶の憂き目を見たのだ。私には私という人間の同一性を主張するに足る、自尊心の根拠となるあらゆる過去が存在しない。私の記憶の中でだけ通用するあらゆる実績も経験も、ここでは何の意味も成さない。過去が存在しない。否、この世界から私の過去は、この世界の理から私の存在は、私の歩んできた軌跡は拒絶されたのだ。否定されたのだ。完全なる成功、その代償として。人理救済の最大最高の証明に外ならないのだから。人理が救済された、という事実は存在してはいけない。人理の破壊の事実と同等に、極めて自然な作用と言えた。結果として、私は人理を守り抜いたのだ。そのことを知れたこと、ただそれだけは確かだった。旅の終わりは、同時に夢の終わりでもあった。ただそれだけのことだった。この明るく華やかな虚飾で彩られた世界を、それでもそこに希望に満ちた未来在りと信じ、私はこれまでに幾つもの異聞帯を破壊した。異聞帯の破壊は人理救済に直結する。故に、破壊しなければならなかった。そこに相違はない。理解した上で、私は破壊を選択した。全ては人類の未来の為。そして未来とは即ち希望を抱くことのできる明日のこと。その、希望の為にこそ私は異聞帯を破壊した。異聞帯には無数の人が生きていた。希望ある未来に向かう意志を胸に抱き、彼らは彼らの正義の為に戦い、そして私はその正義に勝利した。私の正義とは、結局は人理を守り抜くこと、それこそが人類救済の最善手である、と言うものだ。必然、私はその人理死守の為の戦争に駆り出されて戦う以上、敵となった全ての存在を抹殺した。言葉を濁したところで、排除、には変わりなかった。あらゆる意志を捻じ曲げて、私は自らが選んだ正義を、私が自分で選び取った意志を押し通した。あの世界で積み重ねたなにもかも、あの世界で経験した無数の出会いと別れ、あの世界で経験した勝利と苦難…その全てが、今はただただ空っぽの杯と化して、私の目の前で転がっている。この空っぽの杯は私を助けてくれない。私はこれから元の世界で通っていた学校に通わなければならない。通い直さなければならない。だが、果たして私はただの凡人として、再び名も無き無数の中の「1」として扱われる現実に、耐えきれるのだろうか。いつか私は卒業して、就職し、或いは大学へと通うだろう。その先に何があるのだろう?この世界に、私は何も持ち帰ることが出来ない。何か、何かを持ち帰ってしまえばそこで、私は私のこれまでのあらゆる苦労を水泡に変えることになるだろう。だが、この、何とも言えない…あぁ、なんて、なんて惨めなんだろう。今の私にとって、あの世界で積み重ねた何もかもが、今を踏み越えて明日の現実へと進むための足枷になっていた。私は帰ってきた。私は戦場から帰ってきた、さながら帰還兵なんだ。戦場という特殊な理の中で、非常の中で長く生活を続け過ぎた弊害が出てしまっていた。その代償は余りにも大きかった。私が掬い上げた霊長史が、他ならぬ私の未来を阻んでいる。これまでずっと特権的に享受してきた様々な恩恵を、私は失って初めて理解できた。私には立ち還るべき場所が、居場所が、どこにも存在していないのだから。物理的にも精神的にも、そこには何もなくなってしまった。眼に見ることも、耳に聞くことも、舌で味わうことも、手に触れることもできない。私という一人の人間の、ちっぽけな、ちっぽけな絶望と引き換えに、この世界は希望に満ち溢れた未来を掴むのだろう。掴んでくれ、掴んでくれなきゃ、誰が私の今を、私の絶望を、私の喪失に唯一の価値を見出せるんだ。もしもそこに希望が無ければ、どれだけ長く続いても、それは未来とは呼べない。希望なき未来など、そんなものは未来じゃない。ただただ、時が流れるだけだ。あぁ、もしもそれが未来ではなかったのなら…私は何のために、誰の為に忘れ去られるのだろう。人理、そしてこの世界の理そのものの為だろうか。私は忘れられる。いいや、正確には初めから私は人類最後のマスターでもなんでもない、ただの「1」へと…藤丸何某へと、還元されるんだ。私はどうすればいい。私は、何を、何の大罪を犯して、この惨めさに、ただ立ち止まり涙するばかりの惨めさに打たれているの?何故だろう?何故私は、私は最早、誰にも認知されることもなく、称揚されることもなく、ただこの身に負った心と体の傷の痛みを抱いて、無数の名も無き者の一人として、今頃になって生きていかなければならないのだろう?どうして?…いいや、考えるまでも無いことだった。私だ。私が選んだことだった。私が自ら齎したことだった。私が選び取った未来だった。その未来には、私の居場所だけが無かった、というだけの話だった。そうだった。そうだった。そうだったんだ。全てを切り捨てて人類の未来を守り抜いた。けれど、その中に自分自身の、私の未来も含まれていたんだね。そっかぁ、そっか、そ、そりゃぁ、そうだよね…うん、そうだよ、おかしいもんね、私だけが未来に辿り着くなんて。皆を、異聞帯で出会った人も、誰も彼もを踏み台にして、切り捨てて、殺し尽くして、その上に私は立っている。ううん…違う、私は立ってるつもりだったんだ。あぁ、なんだ、最初から、考えてみれば理解できる話じゃん。私も、彼らと一緒だったんだね。そっか、そうだよ。そうでなくちゃ、何者でもない私が、どうして最後まで生き残っているのか、考えてみれば簡単じゃん…だから、だから今の私は、こんなにも、惨め、なんだね。う、ぐずッ…ぅうっ…ふ…ふっ…惨めだよ。凄く、惨めだよ。知らなかった。知りたくなかった。これが浄化される側の痛みなのかな。無かったことにされる側の寂しさなのかな。

 

…でも、これが、私が守り抜いた人理なんだもん。私が、全部投げ捨てて、他の人の希望も未来も踏みつけにして、そうやって守り抜いた人理なんだもん。だから、うん。もう泣くのは止めにするよ。きっと、どこかで見てくれてる。見守ってくれてる。だから、そ、そうだよ、前みたいに…もう、覚えていないけど、前みたいに、全て元通りに暮らすだけだから。平凡に平和に、そうやって暮らすだけだから。だから、何も問題ない筈。なーんだ、悩んでたのが馬鹿みたいじゃん!ふふ、ちょっとセンチメンタルだったのかも。あぁ、でも久しぶり過ぎて慣れないや。きっと、変なこと言っちゃいそう。同級生の子達と話し合わせられるかなぁ?あぁ、戻ってきたんだ。普通に生活すればいい。ぼけーっとしてれば、そのまま一日なんか終わっちゃうよ。だから、大丈夫。その内、慣れるから。あっちで冬木市に突然放り出された時だってなんとかなったじゃん!うん。だから大丈夫。イケるイケる!私はやれば出来る子だー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。
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