史徒奪名録   作:ヤン・デ・レェ

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05「月下自刎」匕首按ずる刺客1

月下、川面に二人の影が映る。青白い輪郭に支えられて揺蕩う、その相貌は赤く火照る。濁った酒は彼女の表情を映さない。ああ、好い夜だ。月が運ぶ風は冷涼だ。凛としていて柔らかい。愛しき月日は静かに沈んでいく。水底で照り輝く、もはや手が届かぬと知りながら。否。であるが故に。背中合わせの男に微笑みかけてから、媚びる自分に赤面する酔漢。少し眠いと胡坐を解いた。竹で編んだ長椅子に腰かけ足を流しつ、俯きつ、隣り合う男の肩にしな垂れる。いつだって、彼の温もりが彼女の酔いを醒ますのだ。

 

 

 

 

「貴公、酒は呑める口か?そうか、呑める、とな。ククっ…そのように嘘など吐かずとも、私が貴公を邪険に扱うことはない。ふむ、だがその様子だと無理に呑んだな…ん?どうしてわかったのか、だと?ハッハッハッ!見ればわかる。顔が真っ赤だぞ?そら、丁度ここいらの淀みが好い感じに澄んでいて水鏡になっている。御覧ぜよう。うむ。わかればよろしい…無理はしてくれるなよ?まったく、その恐れ知らずは玉に瑕だ。」

 

「あぁ、だが好い夜だ。貴公とこうして酒を交わす様になり、もうしばらくになる。その、なんだ…ふと疑問に思ったのだが、何時までこうしていられるのだろうな、と思ったのでな。…酔い醒ましに話に付き合って欲しい。」

 

「貴公…貴方が私の旅の供となり、気がつけば幾星霜…大袈裟な言い方ではない。と、私は思っている。少なくとも私は、な。」

 

「貴方は何時から私の傍にいたのか、遅くとも私が故国である衛を出ようと決意した時には、既に貴方が隣に居た。そう、記憶している。もうずいぶん長いこと、苦楽を共にしたとも思っている。だが…なぜ、私なのだ?なぜ、私を選んでくれたのだ?そうだ、そう、そのことがずっと喉に刺さった魚の小骨のように、ずっと引っかかっていたのだ。」

 

「私から見ても、貴方は大した偉丈夫だ。気立ても良く、教養もあり、何より…その、あぁ、もどかしいッ!」

 

「貴方は、美しいのだ…。私には、勿体ないほどに。いや、勿体ないのだ。私は、いつもいつも、貴方に心乱されておるのだ。一角の人間として、この身を立てようなどと分不相応の欲を抱くほどに、私は貴方に惑わされているのだ。」

 

「…いや、悪かった。貴方のことが嫌いなわけではない。断じてない。ただ、そうだな、私は貴方に相応しいのかと、常々懊悩しているのだ。全ては私の未熟さゆえだが、だがそれでも、悩まずにはいられない。」

 

「…先日の件ではっきりと、無力感だろうか?…そう、無力感とも惨めさとも言うべき、何かを覚えたのだ。」

 

「貴方が、方々で求愛を受けることなど今に始まったことではない。ただ先日、貴方はかの虎狼の国の王からも求愛の文が山と届けられたと聞いた。伝え聞いた、というのが正しいか…いずれにせよ貴方は、望めば何時だって私の如き、根無し草の酔っぱらいを捨てて行けるのだ。それは、間違いようの無い事実であろう?」

 

「…情弱な、ことを言うぞ。正直、私は貴方が居なければ耐えられそうもない。恐れるは未熟な自分。不相応な大望を成し遂げるには、私の心は満たされすぎている。貴方のお陰だ。だが、一度失われれば二度と満たされることのない器なのだ。」

 

「だからッ!!…いかないでっ…。」

 

「いかないで、くれ。私の隣で、これからも。」

 

「貴方が何故、幼い私の元に現れたのか、あの日からずっと翳ることの無かった美しさは何故なのか、何故今もまだこうして何成し遂げることもなき日々に耽溺する私と共に居てくれるのか…そんなことは、このまま知らなくていい。貴方が何者であってもいい。知れずとも好い。例え、この一時が我が生涯を貫く儚き夢の一葉であっても後悔はない。死ぬこと以上に、この酔いから醒めることの方がよほど恐ろしい。いい。貴方が何者でもイイ。それが好い。いいのだ。そのような、事実は。」

 

「今は、貴方に、貴方の腕の中でこのまま眠っていたいのだ。そればかりなのだ、私というモノは。そればかりが、今が、このまま過行く今が、何よりも捨てがたく、甘く恋しいのだ。」

 

「…直、乱世も終わろう。…此の世の理が変わる、その瞬間をこの目で視るやもしれない。その時も、まだ貴方が私の隣に居てくれたら…その時は、私が貴方に報いよう。この身の全てを懸けて。」

 

「…フフッ…そうは言っても、精々が根無し草が変わるくらいだろうが。山にこもるか?土いじりには私も貴方も向いていまい。」

 

「それでもいいのか?…そうか、ならお互い養生せねばな。私も、少し酒を控える様に心掛けておく。この不肖の身の上では、子が出来るのかも判らぬが…ん?あぁ、なぁに…酔いが回ったのだ。聞き流してくれ。耳が赤い?ククク…目聡いやつめ。」

 

「今日は少し呑み過ぎた。貴方の隣は酒がすすんでならんな。」

 

 

 

千鳥足の女は男の肩を借りて、歌を吟じながら宿への帰路に就いた。

 

燕王喜の子である太子丹が彼女の元を訪ねたのは翌日のことである。

 

 

 

 

 




我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。
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