私は秦王に甚く気に入られ、その場で彼が腰に帯びていた長剣を下賜された。咸陽から帰る際には、わざわざ見送りに現れて咸陽に何時でも来れる様にと宮殿にほど近い館の鍵を贈られた。更には土産だと言われて財宝が満載された車を百両、従者を千人、腕の立つ兵士を百人ばかり譲られ、彼らに守られながら都を後にした。
私が失ったものは首一つ。樊於期の首が一つ。
驚いたことに、秦王は督亢になど興味を示さなかった。
手土産にと用意した地図を開いても、何ら興味を示さなかった。首を納めていた容れ物を開封するや、秦王は泣き喚き、手を叩いて高笑いし、胸を抑えて胃袋の中身を吐き出した。侍医に支えられて退場し、その晩の宴に顔を出すや、人の変わった様に覇気を納めた穏やかな振る舞いで重臣たちを驚かせていた。
丁重にもてなされ、大いに賞賛され、秘蔵の酒を饗され、杯を干し、詩を吟じて踊り、この上の無い贅沢を味わった。だが、私には胸に重くのしかかるものが有ってならぬ。わからぬ。何故なのか。何故、否、どうして私の匕首が無いのか。
私は丸腰であった。これは私の望んだことではない。かの虎狼の国の首魁を討ち果たす覚悟でここまでやって来たというのに。私はその目的を果たせずにいるどころか、殺すべき相手から丁重にもてなされ、剰え太子丹から与えられたものを遥かに凌ぐ恩を受けてしまった。だが恩の大小はこの際重大ではない。
問題は、何時から私の匕首が私の意志に反して手元から離れていたのか、ということだ。易水で舞った時はまだこの手にあった。燕を出てからは自分自身の眼にも触れさせていない。
ならば、私から匕首を奪えた者は、易水で車に乗り換えてから燕を出る迄の間に私に会った者だけだ。
私は誰に会った?…あぁ、そうだ釣り竿を携えた偉丈夫に会ったのだ、国境に程近い川辺で。男か女か、声を聞くまで分からなんだが、男にしても艶のある声だった。
「惚れた弱みで仕方なく。故あってここで釣りをしております。貴公も、狐の国に行かねばならぬとは災難ですな…え?虎狼の国?…いずれにせよ、貴公のお陰でその故も果たされました。では僕はこれにて…あとは貴公次第です。」
その様に言っていたが、その故が何であるか聞くまでも無く、私が現れるやそそくさと退散していった。まるで私の事を待っていたようで、どうにも不可解だったことを思い出した。
だが例えあの男が私の匕首を、何れかの術や呪いを以て奪ったとして、それは何のためであったのか私には皆目見当がつかなかった。
謎が解けないまま、私は燕に帰って来た。もはやこの国のどこにも私の帰る場所など無いが、それでも待ち人を遺してきた。彼には事情を正直に打ち明けねばなるまい。恐らくここが旅の終わりであることも。術や呪いに化かされて暗器を失い、流れに流れて丁重にもてなされて褒美まで受け取ったとあらば、如何に弁明しようとも私の助命は叶うまい。太子は殊の外に直情的な男であるから尚更だ。
一人の侠客としては不満足この上ない終わりであるが、せめて褒美に貰った遺産だけでも彼に遺してやりたい。私の首など今更煮られようとも惜しくはないが、あまりに唐突な旅の終わりに、彼がひと匙の寂寥を感じてくれればこれ以上望むべくも無かろう。
いずれどこかの富貴に文字通り玉の如く戴かれている方が、きっと彼の本来の姿に相応しいのだから。だからこの荊軻の愚を笑って欲しい。笑って、それで、また一晩共に過ごせればそれでよい。それでお別れ、それで仕舞いなのだ。
我は神に仇なす者也。
我は霊長史より英霊を奪いし者也。
我こそは天を堕とし、魂と肉体を救済する者也。